小さな光の積み重ね
「ちょっと、どうしてあなたがここにいるの? そもそも、どうやって王宮に潜入したの? 警備だって厳重なはずでしょう?」
声を出した瞬間、自分でもわかるほど硬かった。
問いの形をしているのに、どこか詰問に近い響きへ寄ってしまう。鏡台の縁に添えた指先が、朝の冷えを吸ったみたいにこわばっていく。
扉にもたれていたカテリーナは、丸眼鏡の奥で目尻だけを上げた。わざとらしく肩をそびやかし、得意げに唇の端を持ち上げる。
「そこはまぁ、蛇の道は蛇ってやつだぁね。やりようなんていくらでもあるもんさ」
言い方の軽さが、余計に腹立たしい。
けれど、その軽さの奥には、ここまで来られるだけの道筋を本当に持っている者の自信が透けている。胃の底が、ひやりと沈んだ。
カテリーナは一拍置き、わたしの背後へ目だけを滑らせた。わざと視線を泳がせるような仕草に、悪戯めいた余裕が混じる。
「それに――」
彼女の顎が、すっと鏡の奥を示した。
髪を梳いてくれていた、あの若い侍女へ。
「この侍女ちゃんがあたしを導き入れてくれたのさ。だから堂々とここまで来たってわけ」
「えーっ……!?」
思わず息が漏れる。
肺の奥がきゅっと縮み、遅れて背筋が固まった。鏡面が、かすかに光を跳ね返す。自分の瞳の揺れだけが、やけに大きく見えた。
鏡越しに侍女を見る。
彼女は気まずさなど微塵も見せず、穏やかな笑みのまま静かにうなずいた。その落ち着きが、逆に怖い。
侍女帽の縁から、金の糸のような髪がひと筋だけ覗いている。光を受けても派手には光らない。ただ、細く、静かにそこにあった。隠そうとしているものほど、かえって目に残ることがある。
動揺をごまかすように、わたしはカテリーナへ視線を戻した。苛立ちと戸惑いが混ざって、口調がつい尖る。
「どういうことなのかさっぱりわからないけど、よくこんな怪しい人を疑いもせず通したわね。だって、日頃のカテリーナを見てたら、どう考えても侍女なんて雰囲気じゃないもの」
カテリーナは胸を張って、わざとらしく鼻を鳴らした。
「おうおう、言ってくれるじゃないか!」
彼女の瞳がぎらりと光る。
怒りというより、意地っ張りの火花だった。わたしの口元がひくりと動いて、笑いが喉へせり上がるのを飲み下す。
「これでも昔はね、非公式『リーディス王国軍美少女選手権』で三年連続一位だったんだよ! 未だにあたしのことを忘れられないやつらが、軍にはごまんといるんだからね!」
「……昔って、いったいいつの話よ?」
口にした途端、しまったと思った。
挑発を受けたら返してしまう。わたしの悪い癖だ。
「ぐっ……!」
その瞬間、彼女の頬にかすかな動揺が走る。口元の笑いが一度だけ引っかかり、次に出る言葉が遅れた。
わたしはそれを見て、やっぱり笑いそうになる。
侍女が、柔らかく息を含ませるように言った。声が布の上を撫でるみたいに、場を丸める。
「ふふっ、お二人とも、仲がおよろしいんですね」
「……誰が、こんなガキと!」
「そっちこそ、誰が!」
反射的に言い合ってから、途端に気恥ずかしくなる。
互いに視線をそらし、言葉の行き場を失った。わたしたちの間に、侍女の小さな笑い声だけが心地よく響く。
◇◇◇
控えていた二名の侍女が、最後の髪飾りと襟元を整え、礼儀正しく一歩下がった。
所作は揃いすぎているほど綺麗で、逆に目が離せない。壁際へ戻ると、ふたりは声もなく控える。控えめなのに、張りがある。空気を少しだけ引き締める、そういう張りだ。
カテリーナは相変わらず堂々と、扉の近くで腕を組んでいる。ここが王宮の奥だという緊張を、わざと無視しているみたいに。
若い侍女は微笑みを崩さず、こちらを見た。
見上げさせる視線ではないのに、わたしの姿勢がつい整ってしまう。
「実は、わたくし、以前からカテリーナさんとはお付き合いがございまして。今回の件も、彼女からのたってのご希望で……」
柔らかな声なのに、言葉の芯が揺れない。
口元の笑みは自然で、その奥に誇りの気配が淡く揺れた。けれど、その誇りは自分を飾るためのものではなく、どこか別の重さを支えるためにあるように見える。
「じゃあ、二人は……もともと知り合いだったというわけ?」
侍女が答えるより先に、カテリーナが軽く肩を揺らした。
「そういうことさ。彼女は王都の各街区の、地区清掃ボランティアの取りまとめをしていてね。取材がてら何度も話をしたことがある、顔なじみなのさ。そんなわけで、あんたが置かれている状況も、閉じ込められてる場所も、自然と流れてきたってわけ」
――なんだろう。この違和感は。
説明は筋が通っているのに、通りすぎて、足元が滑る感じがする。わたしは眉を寄せたまま、黙ってしまう。
カテリーナがこちらを睨むように見た。
「なによ、その目は? あんた、疑ってんの?」
「できすぎた話だな、と思って」
「へん、元情報部を舐めるんじゃないよ」
「ま、カテリーナだからね。そういうことにしておくわ……」
肩のこわばりが少しほどける。
けれど、ほどけた分だけ、今度は別の疑問が残った。わたしは息を吸い、喉の奥で言葉を整える。
「で……わざわざ潜り込んできたってことは、何か用があったんでしょう? まさか顔見せだけじゃないわよね」
カテリーナは軽く指を立てるようにして笑う。
「ま、半分は顔見せだけどね。こっちもいろいろ動いてるから、あんたが無事にやれてるかどうか確認しておきたかったのさ」
その口調はいつも通り軽い。
けれど「確認」という一語だけ、声の底がほんの少し沈んだ。冗談で覆えない種類の心配が、そこにだけ残る。
「で、どうなんだい。成果の方は上がったか? ヴィルの仕込みも、少しは効いたろ?」
「……うん。ローベルトという人に会えたよ。父さまのことも、母さまのことも聞けた。ヴィルが陰で動いてくれていたことも、全部ね……」
言葉にすると、あの夜の暖炉の灯が、まぶたの裏にちらりと蘇る。
灰の匂い。火のはぜる音。ローベルトの声の重さ。それらが一緒に戻ってきて、息が一瞬だけ浅くなった。
カテリーナの眉がほんの少し上がった。意外なのか、感心なのか、どちらとも取れない顔で腕を組む。
「へえ……あの頑固親父が口を開いたか。そいつは大したもんだ」
わたしは頷き、そこで終わらせるつもりだった。
けれど、止まれなかった。喉の手前に引っかかっていたものが、そのまま声になる。
「カテリーナが頑張ってくれたおかげでもあるし。ありがとう」
感謝を込めたつもりだった。でも、その直後に、胸の底から別の声が押し上がる。
「でも……どうして二人とも、何も言ってくれなかったの? 前もって教えてくれたら、もっと気が楽だったのに」
カテリーナは目を丸くしてから、あっけらかんと笑った。
「はあ? それじゃ面白くないじゃんか」
「なによそれ……」
呆れがこぼれた瞬間、茉凛の明るい声が頭の内側でぱちんと火花を散らす。
《《そうだそうだ!》》
侍女が何か言いかけたところへ、カテリーナがひょいと割って入った。
「あのね、あたしたちがやったことなんて、所詮保険みたいなものだよ。あんたが自分で考えて自分で選ぶ邪魔をしたくなかったのさ。筋書き通りに動かされるだけじゃ意味ないだろ?」
冗談めいた口ぶりの奥に、芯の通った熱がある。
その響きが耳の奥に落ちて、しばらく消えなかった。
《《……そっか、それならわかる気がするな。美鶴のこと、ちゃんと考えてくれたんだね》》
「うん……そうだね」
自然に出た答えは、茉凛にも、そしてカテリーナにも向けられていた。
けれど、心の隅にはどうしても消えない気がかりがある。
目の前の侍女――この場を冷静に仕切りながら微笑を絶やさない彼女の立場だ。カテリーナを手引きしたということは、王宮内で密かに規律を破ったことになる。
わたしは鏡越しではなく、直接彼女を見た。視線がぶれない。笑みもぶれない。だから余計に、不安だけがわたしの側に残る。
「でも……侍女であるあなたが、こんなことをして本当に大丈夫なの? もし露見したら、あなたの立場が……」
問いに、彼女は少しも迷わず微笑んだ。
声が静かで、逃げがない。
「どうぞご心配なさらないでください。カテリーナさんにはいつもお世話になっておりますし、それにわたくし自身、こうしてお嬢様とじっくりお話をしてみたいと思っておりました」
丁寧だが、譲らない。
自分の意志でここに立っている。それだけは、はっきり伝わってくる。
「……ずいぶん肝が据わっているのね」
「お嬢様に言われると、少し恐縮いたします」
微笑みは冗談にも本音にも見える。測りかねるのに、目だけは澄んでいる。
壁にもたれていたカテリーナが、腕を組んだまま喉の奥で笑った。
「あんた、この子のこと侮らない方がいいよ。見かけによらず度胸はあるんだから」
「カテリーナさん、それは褒めていらっしゃるのですか?」
「さあね。事実を言ってるだけさ。街の荒くれ者だって、あんたの口達者の前じゃ小さな犬みたいにしゅんとなる」
「あら、わたくしそんなことをしましたっけ?」
「ほら、自覚ないだろ? そこがヤバいんだよ」
二人の間には、わたしの知らない呼吸があった。
軽く言い合っているのに、踏み込みすぎない。互いの弱いところを知っていて、そこへ刃を入れない。そういう距離の取り方が、さりげなく積まれている。
それが少しだけ羨ましくて、少しだけ怖い。
わたしは息を整え、もう一度問いを置いた。今度は、逃げないように。
「でも、どうしてそこまでしてくれるの? カテリーナの知り合いだからって、危険を冒す理由にはならないでしょう?」
侍女はしばし黙った。
鎧戸の隙間から差し込む、冬に入りかけた光が、彼女の横顔に薄い影を落としている。やがて、言葉を選ぶように唇が開いた。
「……わたくしは、機会があるたび王宮の外にも足を運ぶことがございます。街区の清掃や、花壇の手入れなど……ささやかな活動ですけれど」
「ボランティアはね、この子が仕切ってるんだよ」
カテリーナが補足するように顎で示した。
侍女は小さく頷いて続ける。
「そんな大それたことではありません。でも、街に出ると見えるものもございます。王宮の中にいるだけでは決してわからないことが」
声の調子が変わった。
侍女としての丁寧さはそのままに、言葉の根がひとつ深くなる。
「人々が何に困り、何を諦め、何をまだ信じているのか。それは書物や報告書には載りません。自分の手で触れて、自分の目で見なければ」
わたしは黙って聞いていた。
彼女の言葉は理念ではなく、実感から立ち上がっている。足裏で石畳の温度を確かめてきた者の声だった。
彼女はそれから、先王陛下が遠く離宮へ退き、いまの王が実際の采配を握るようになってからの王都のことを、ほんの少しだけ話した。
体裁を整えることばかりが重んじられるようになったこと。誰も大声では言わないのに、息苦しさだけが街の角々へ残るようになったこと。門の検めや巡察が増え、けれど本当に困っている人の声は、紙の上へ上がるまでに何度も薄まっていくこと。
言葉は多くない。
けれど、その少なさがかえって重かった。きっと彼女は、その一つ一つを、誰かの顔と一緒に覚えている。
「申し上げましたように、この国はとても息苦しくなりました。先ほどお話しした通りです。でも、街の人々は黙って耐えているだけではありません。小さな力を重ねて、自分たちの暮らしを守ろうとしている方もいらっしゃる」
「……それが、あなたのいうボランティア?」
「はい。たかが清掃と思われるかもしれません。でも、自分の手で街を整えることは、自分の足元を取り戻すことでもあります。誰かに与えられるのを待つのではなく、自分から動くということです」
カテリーナが黙ったまま、壁にもたれた姿勢を崩さずに聞いている。
その沈黙が、侍女の言葉を茶化さずに受け止めている証のように見えた。
「なるほど……」
わたしは呟いた。
清掃という行為の向こうに、彼女が見ているものの輪郭が、うっすらと浮かんでくる。
「でも、それだけで本当に何かが変わるの? この国の空気は、そんなに簡単には……」
「ええ、簡単には変わりません」
侍女は否定しなかった。
むしろ、わたしの疑問をまっすぐ受け止めて頷いた。
「でも、変わり始めてはいるのです。最初はわたくし一人でしたが、今は少しずつ、同じ思いの方が集まってきてくださっています。声を上げなくても、手を動かすことで伝わるものがある。そう実感しております」
専制の空気に馴染んだこの国で、個の意志を重ねて何かを動かすという考え方。
理想論と切り捨てることはたやすい。けれど侍女の瞳には、日々の手の温度で確かめてきた者だけが持つ、揺れのない光があった。
――この人って、ほんとうに何者なのだろう。
あの朝の問いが、もう一度かすめる。
ただの侍女にしては、見ているものが違いすぎる。言葉の奥行きも、視線の据わり方も。
わたしは、やっと口にした。
逃げずに、確かめるために。
「あの、あなたのお名前を聞いてもいいかしら?」
侍女は目を細めて微笑んだ。
暖かな気品が、部屋の冷えをそっと撫でる。
「はい。わたくしはシンシアと申します。お嬢様、どうぞ今後ともよろしくお願いいたします」
「シンシアさん……」
その名をそっと反芻する。
控えめな装いの奥に、芯の通った信念を持つ人。指先の所作、言葉の選び方、あの微笑みの形――どこかに見覚えがあるような気がして、わたしは一瞬だけ瞬きを止めた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
差し出した声は、思ったよりもやわらかく響いた。
背筋がすっと伸びるような、静かな敬意が体の芯に通っていくのを感じた。
「はっ、なんだい、あたしは蚊帳の外かい」
カテリーナが大げさに肩をすくめた。
けれどその目尻には、隠しきれない笑みの皺が刻まれている。部屋に満ちていた冷えが、ほんの少しだけ人の体温を取り戻した。
大きなものは、まだ何も変わっていない。
王宮の石壁も、玉座の影も、わたしを待つ試練も、少しも遠ざかってはいない。
それでも、ここには確かに手を動かす人がいる。裏道を探す人がいる。小さな花壇を整え、汚れた石畳を洗い、閉じ込められた少女の部屋へ、無茶な笑みを連れてくる人がいる。
その小さな光の積み重ねが、いつか何かを変えるのかもしれない。
そう思えたことが、今のわたしには、少しだけ眩しかった。




