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演じる者の鏡

 次の朝。


 白銀の塔の最上階には、王都のざわめきが薄い布越しにしか届かなかった。鎧戸の隙間から、晩秋の名残を含んだ光が斜めに差し、窓硝子には朝の冷えが淡く残っている。吐息がうっすら白むころ、侍女たちが控えめな気配で部屋へ入ってきた。


 わたしは鏡台の前に腰を落とし、背後の手つきへ身を委ねた。櫛が髪を梳くたび、しゃらりと乾いた音が鏡面へ触れる。香油のほの甘い匂いが、澄んだ空気にやわらかく混じっていく。


 まだ、この髪を外す時ではない。


 そう自分に言い聞かせると、胸の奥に小さな硬さが残った。昨夜、ローベルトの前で晒した黒髪の感触は、首筋にまだ薄く残っている。けれど、玉座の間へ向かうその時までは、この若緑の髪が、わたしの顔であり、盾であり、役でもある。


 鏡の中には、わたしの肩越しに――御髪を整える若い侍女がひとり。


 初めて見る顔だった。


 そのさらに後ろに、二名が控えている。壁際に寄り、目立たぬよう立っているのに、衣擦れの小さな音まで鏡のこちら側へ届きそうな距離だった。


 若い侍女の手は、静かだった。慣れている。けれど、ただ侍女仕事に長けているというより、幼いころから身体へ礼法を染み込ませてきた人の静けさに見えた。指先の動きには迷いがなく、髪を扱うたび、布地が擦れるほどの音さえきちんと沈んでいく。


「お嬢様の御髪は、本当にお美しいですね」


 言葉はそっと触れては離れ、表面だけを撫でていった。


 人形師ミースの手になるウィッグ。魂を込めて編まれたそれは、触れてもなお地毛のようにしっとりと馴染み、取り付けも見事だった。鏡越しに三人を見る。疑いの影はどこにもない。


 その当然さが、かえって心を複雑に揺らした。


 これがなければ、わたしはここで、わたしを保てなかった。感謝している。けれどこの完璧は、わたしの本当を隠し通すための美しさでもある。


 鏡の中の自分――作られた髪、整えられた外見。その像が自然に受け入れられていく事実が、薄い膜のような違和感となって肌にまとわりついた。


 ずっと黙ってきたわたしが、どうしてだろう、この朝だけは声を出してみようと思った。


「あなたたちは、わたしについて何も聞かされていないのですか?」


 櫛の動きがふっと止まる。


 鏡の奥で、背後の二名がほんのわずか気配を揃えた。御髪を整えていた侍女が顔を上げる。返事は過不足なく整っていて、その整い方が、かえって印象に残った。


「伝え聞きで恐れ入りますが……選定の儀にお一人で現れ、異議をお唱えになったと伺っております」


 肩の奥が小さくざわめき、わたしは鏡の視線を外さずに息を整えた。


「大っぴらには申せませんが、いま街ではお嬢様の噂でもちきりでございます……」


「そうなんですか……」


 朝の光が、鏡の縁で白く滲んだ。知らない場所で、知らない声が、わたしの名前ではなく、わたしの形を語っている。そのことを思うと、口の中が少し乾いた。


「聖剣の資格者を自称する男と大立ち回りを演じたとか。一度も剣を振るうことなく完膚なきまでに退けられたとか。伝説のメービス王女の再来だとおっしゃる方もいれば、逆に大罪人の娘だと囁く向きもございます」


 みぞおちの奥で、ぴん、と糸が張る。


 奥歯をそっと噛み締めてからでないと、声が出なかった。


「……わたしは、その大罪人とされている人物、ユベル・グロンダイルの娘です。それだけは間違いのないことです。……ですが、その罪自体が真実であるかどうかは、どうにも疑わしいのですけれど」


 侍女たちは目を見交わし、短く頷いた。


 若い侍女の手が、ふたたびわたしの髪へ戻る。櫛の歯が一度だけ、毛先で止まった。


「そうかもしれません……実は、街ではこんな噂も耳にいたします。王都を騒がせていた緑の髪の少女とは、実はメイレア様のご息女だったのではないか、と」


 室内の静けさが、薄い膜になって貼りついた。


 メイレア。


 名前の響きが、痛みと温もりを同時に連れてくる。封じていた記憶の層が、薄く軋んだ。父の名と母の名。その二つが並ぶだけで、わたしの輪郭は勝手に塗り替えられてしまう。


 祝福ではない。証でもない。


 王家から見れば、わたしは――不義という都合のいい言葉で片づけられる存在かもしれない。まだ誰も口にしていないのに、その響きだけが舌の裏で冷えていた。


「罪とされるものの真相については、間もなく明らかになるでしょう。そして、わたしはそれを証明しなければなりません。わたしが誰で何のためにここへ来たのか、何を求めるのか。そのすべてを」


 言い切ったはずの声が、耳に戻ると少し掠れていた。


 鏡の中の侍女は、目を伏せない。わたしの言葉を、丁寧に受け止めていた。


「そうでしたか……わたくしどものような下々の者には、王家の複雑なご事情は計りかねます。ただ、たとえグロンダイルの名を受け継いでおられようとも、お嬢様が王家と深いご縁のある方だという思いは、誰しも同じかと存じます。お嬢様に悪い感情を抱く者は、ほとんどおりませんよ」


 丁寧だが芯のある声だった。慰めではなく、事実を差し出すような口調。わたしは鏡越しに彼女の目をもう一度見た。澄んでいて、揺れがない。そこにある静けさは、誰かに教え込まれた従順とは違っていた。


「そうでしょうか? わたしは王家に歯向かい、儀式を無茶苦茶にしたのですよ? 非難を受けて当然かと」


 自分の声の揺れに、我ながら驚く。


 若い侍女は一拍だけ黙った。櫛を置く音が、やけに澄んで響いた。香油の甘さの奥から、洗い立ての布の匂いが立つ。


「いいえ」


 短い否定だった。


 けれどその一音に、侍女の声とは思えない確かさが宿っていた。わたしの背筋が、かすかに伸びる。


「お側で拝見していて感じますが、お嬢様には、ふつうにはない高貴さと高潔さがございます。お生まれつきのものなのかもしれません」


「ありえません。これはその場その場に適応するための演技のようなものです。『昔から』、演じることに関しては染み付いておりますので」


 鏡の中の自分は、わずかに視線を落としていた。


 舞台。白い衣。緑の髪。メイヴィスという役名。拍手の熱。唇に残った、あの一瞬の感触。


 思い出したくないわけではない。ただ、思い出すたびに、今のわたしがどこまで役で、どこから本当なのか、境目が少し滲んでしまう。


「そうでしょうか……ただ、わたくしはこう思うのです。だれもが『自分の望みとは別に、何かの役割を演じながら生きている』のだと」


 不意に、空気の質が変わった。


 言葉遣いは崩れていないのに、纏う温度だけが一段深くなっていた。背後の二名も動かない。けれど、部屋そのものが彼女の声を聞いているようだった。


「生まれは決して選べるものではございません。けれど大切なのは、どう生きるか――そこなのではないでしょうか」


 軽やかな声の奥に、深い水脈がひそんでいた。


 ――この人、何者なのだろう……。


 問いが胸を掠めて消える。ただの王宮侍女にしては、言葉の選び方が違いすぎる。けれど今のわたしには、それを確かめる余裕がなかった。


 ただ、この人の目に映るわたしが、鏡に映る像よりも少しだけ確かに見えたことだけが、不思議と残った。


「あなたの言葉は、とても深いですね」


 思わず漏れた本音に、心の底で何かが柔らかくほどける。


「今のわたしの心には、いろいろな思いがあります。それを今口にするわけにはいきませんが……わたしがここに来たのは、自分の存在する意味を証明することと、これから先の『自分の生き方』を勝ち取るためです」


 若い侍女は目を伏せ、また穏やかに微笑んだ。その微笑みの形にも、どこか見覚えがあるような気がして、わたしは一瞬だけ瞬きを止めた。


「そうでしたか……お嬢様は、やはりお強い方です」


「強い?」


 問いが零れる。


 喉の手前で引っかかったのは、その言葉への疑いではなく、自分の脆さへの自覚だった。


「そうありたいとは思いますけれど……父と母が味わった辛さを思えば、わたしの覚悟などまだほど遠いとしか思えません」


 彼女は一拍の沈黙を置いた。


 櫛へ戻しかけた指先が止まり、鏡の奥で視線だけが静かに重なる。


「お嬢様なら、きっと大丈夫ですよ」


 短い言葉が、温かな重みを残して沈む。


 わたしは小さく頷いた。


「そうですね……そうであらねば……」


 鏡を見上げる。先ほどより輪郭のはっきりした顔が、窓からの冬の光を受けて凛と映っていた。


 忘れない。


 その言葉を胸に刻んだ、その時だった。


「あー、お嬢様。支度中に悪いが、ちょっといいかい……?」


 聞き覚えのある力の抜けた声が、扉のほうから転がってきた。


「ええっ!?」


 振り返ると、背の高い侍女が扉にもたれて立っていた。


 丸眼鏡。気の抜けた笑み。侍女らしさは欠片ほどもない。むしろ馴染みの無法さが、そのまま滲み出ている。


「カテリーナ……あ、あなた、どうしてこんなところにいるの?」


 問いかけると、彼女は片手をひらりと上げた。


「よお、ミツル。元気にしてたかい?」


 相変わらずの調子だった。


 肩の力が少し抜けた自分に気づき、同時に呆れが腹の底から泡立つ。


 けれど、翻弄されているはずなのに、今ここに彼女がいることが、確かな安堵を運んでくる。白銀の塔の冷えた朝に、見慣れた無法者の声がひとつ混じっただけで、空気がほんの少しだけ人の住む場所へ戻った気がした。


 わたしの中で、彼女はいつの間にかそういう場所を占めていた。

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