信頼のツバサが導くもの
わたしはそっと目を閉じた。
視界を遮ると、暖炉の爆ぜる音が急に近くなる。部屋の空気が、ひたりと肌へ寄り添うような密度を帯び、胸の奥に残っていたざわめきを静かに押し包んでいった。
長い旅路の中で幾度も揺らぎ、迷い続けてきたかつての自分が、引き潮のように遠ざかっていく。息の奥に溜まっていた熱い澱を、細く長く吐き出した。空っぽになった内側へ広がったのは、不思議なほど澄んだ静けさだった。
嵐が過ぎたあとの、冷たく冴えた夜明けの空に似ている。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。影が払われた先で、ローベルトがじっとわたしを見つめていた。月明かりを宿した湖のように静かな眼差し。けれど、その底には決して揺らがない意志がある。
わたしは逃げずに受け止めた。乾いた唇を開く。
「これから進む道は――わたし自らの手で切り拓きます。父と母がわたしに託した願いの本質が、『誰かに敷かれたレールではなく、自らの足で歩むこと』であるならば」
声は思いのほか低く、落ち着いていた。言葉を紡ぐたび、肋骨の内側で小さな火種が熾り、その熱が静かに広がっていく。高揚ではない。もっと重く、確かな温度だった。
ローベルトはしばし目を伏せた。
やがて、ゆっくりと頷く。刻まれた皺のひとつひとつに、安堵が淡く滲んだ。
「よく言った……。ところで君は、歳は今いくつだね?」
「十二歳です。来年の春には十三になりますが……」
「驚いたな……」
薪が小さく爆ぜた。火の粉がひとつ宙へ舞い、すぐ闇へ溶ける。
「え……?」
「先程聡明と言ったが、話をしていてよく理解できた。君は既にかつてのユベルにも匹敵する叡智と覚悟を備えているのだ、とね。だからだよ」
思いがけない言葉に、喉の奥が引き攣った。
息を呑み、無意識に布を握りしめる。織り目が指へ食い込み、そこで初めて、自分が震えているのだと気づいた。
「あの……出過ぎた物言いをいたしましたことは、謝罪いたします」
「よしたまえ。君は少しへりくだりがすぎる。そこだけはユベルとは似ていないな」
「……かもしれません」
「ふふ。これでようやく、私も長年背負っていた重荷を下ろせるような気がする。君には感謝する」
「感謝だなんて、とんでもない。むしろわたしの方こそお礼を言わせてください。ローベルト様とお話しすることができて、本当に救われました。ずっと手がかりもなく、何も見えない霧の中を、ただ手探りで彷徨っているような心地でしたから……」
自然と声の語尾が震えた。暖炉の熱が頬を撫でているのに、内側だけが冷えたままほどけていく。
これまで胸の奥で冷たく渦巻いていた不安や孤独。誰にも言えずに飲み込んできた、砂のような感情。それらが、一言ずつ唇から零れ出していった。
「本当に……ありがとうございます」
わたしは深く頭を下げた。
視界が滲み、床の木目がかすかに揺れる。器では掬いきれない感謝を、せめてその姿勢で届けたかった。
頭上で、ローベルトが短く息を吐く気配がした。
顔を上げると、彼は口元に自嘲めいた、けれど温かな微笑を浮かべていた。
「礼など不要だ。私はただ、ユベルとの約束を果たしたかっただけだ」
彼は目を炎へ向ける。揺らめく朱色が、銀髪を淡く染めていた。
「長い間、それだけが心残りでな……。軍に残り、内側から体制を変えようと泥をすするように足掻いてきたが、結局、そんな力は持てなかった。将軍になどなったところで、与えられる権限など限られている。守りたいものひとつ、満足に守れぬのが実情だ」
「将軍……!?」
驚きが声を弾いた。血の音が、耳の奥で早鐘のように鳴る。
「あなたは、そんなに地位の高い方だったのですか……?」
「どうでもよいことだ」
ローベルトは億劫そうに軽く手を振り、言葉を遮った。革手袋が擦れる乾いた音が、静かな部屋に落ちる。
彼はふと向き直り、わたしをじっと見据えた。眼差しの奥で、火の色が揺れている。
「しかし……見れば見るほど、君は本当にメイレア王女に瓜二つだな。まるであの夜見た彼女が、時を超えて目の前に座っているように錯覚する」
唐突に落とされた一言に、内側がざわりと粟立った。
脳裏に、母の声が蘇る。記憶の中の響きは、今も耳元で囁かれたかのように鮮明で、甘く、切ない。
『あなたはわたしの鏡写しね』
わたしはぎゅっと拳を握りしめ、わずかに口角を持ち上げた。血の繋がりという逃れられないものが、鎖ではなく、温かな絆として肌に馴染んでいく。
「そうですか……」
声には、静かな誇りが乗った。
「お言葉、大変嬉しく思います。わたしと母は確かに繋がっている。その証を認めていただけたことが」
自分でも驚くほど、確信のこもった声だった。
ローベルトは微かに目を細め、頷いた。
「そうだとも。君は間違いなく、彼女の気高き意志を受け継いでいる。そして、君自身の手で、その絆はさらに強く編み直されるだろう。その上、ユベルの高潔な魂までも受け継いでいるのだから」
その声は、雨上がりの土に水が染み込むように、胸へしっとりと沁み渡った。冬の陽だまりに似た温度が、芯のところをそっと温めていく。
わたしは、彼の言葉を心臓の拍に合わせて刻むように、小さく頷いた。
一瞬の沈黙が降りる。薪が爆ぜ、火の粉が舞う音だけが、静けさの輪郭を濃くした。
するとローベルトが、姿勢を崩さぬまま、どこか含みを持たせた調子で口を開いた。
「あと、これは『絶対に誰にも言うな』と、襟首を掴まんばかりに念を押されたことなのだが……やはり伝えておこう」
彼の声色がわずかに変わった。
空気が微かにきしむ。わたしは身構えた。
「実はだな、選定の儀式の数日前、私はブルフォードと会っていたのだ」
意外な名に、思考が一瞬止まった。
まばたきすら忘れ、彼を見つめる。
「本当ですか? ヴィルが……あなたに?」
言葉が途中で詰まり、息だけが漏れた。
信じられないという驚きよりも、どこか欠けていたパズルの一片が、音を立てて嵌まるような感覚があった。彼が王都に来てからの間、ふらりと姿を消していた空白。その理由が、ゆっくりと氷解していく。
「本当だとも。あやつめ、何週間にもわたって私の動向を執拗に付け回しておった……」
「彼がそんなことを……?」
思えば、王都に入ってからのヴィルは、カテリーナの指示で情報収集に当たっていた。詳細については固く口を閉ざし、わたしには『気にせず遊んでいろ』と返すばかりだった。
「ああ、それも極めて巧妙にな。影のように気配を消し、私の自宅にまで侵入する寸前だった。まったく、呆れるほどに執念深い。どうにも煩わしいので、こちらから近づいて問いただしてやったのだよ」
ローベルトが薄く笑い、呆れたように肩をすくめる。
その仕草から、彼とヴィルの間に流れた独特の緊張感と、奇妙な共鳴が透けて見えるようだった。無愛想で、言葉足らずで、けれど目的のためなら泥を被ることを躊躇わない人。その姿がありありと脳裏に浮かび、胸の奥へ知らず熱が広がった。
「……それで、彼は何を話したんですか?」
わたしは上体をわずかに前へ傾けた。次の言葉を逃すまいと、神経が細く張りつめる。
「他ならぬ君のことだよ」
「わたし、ですか? なぜ……」
「奴は、君がどれほど父親譲りの強さと誇りを持っているかを熱く語った。そして、選定の儀式でどのような事態が起こり得るのか、詳細に警告までしてきた。まったく、私が上に報せる可能性もあるというのに」
ローベルトの声には、ほんのわずかに純粋な敬意が滲んでいた。それが思いがけなくて、わたしは小さく息を呑む。
「そこで状況の推移を見守りつつ、機を見て介入させてもらった……というわけだ。奴の事前情報がなければ、私も心構えは持てなかっただろう」
「そうだったのですか……」
その一言を絞り出すのが精一杯だった。
ヴィルが裏で、わたしの知らないところで、これほどまでに道を作ってくれていた。それなのに、わたしはどこかで彼の沈黙を疑い、置いていかれたような寂しさを抱えてしまっていた。
自分の浅はかさが恥ずかしくなり、頬の内側が熱くなる。
「奴のユベルに対する忠義には頭が下がる。そして、君に対する、鋼のような信頼もだ」
その言葉に、わたしは弾かれたように顔を上げた。
「わたしのことを、信じて……?」
小さく問い返すと、ローベルトは穏やかに頷いた。その眼差しには、飾り気のない真実だけがあった。
「彼はこう言っていたよ。『ミツルはまだ若いが芯は強い。まさにユベル・グロンダイルの血を受け継ぐ者。俺たちが大好きだった男の遺した娘だ』――そう、迷いのない目ではっきりと言い切った」
どくん、と心臓が大きく跳ねた。
喉の奥に熱い塊が詰まり、呼吸がうまく続かない。視界が一気に歪み、堪えていた涙が溢れそうになる。
――ヴィル……あなたって人は。
言葉はいつも少なくて、ぶっきらぼうで。けれど誰よりも深く、静かに、わたしを支えてくれていた。嵐の夜も、凍える朝も、わたしの背中を見守り続けてくれた人。身体の奥を、激しい感謝が駆け巡る。
ローベルトが、諭すように言葉を続けた。
「君は、誰に恥じることもないユベルの娘だ。そして、あのブルフォードが信ずるに値する存在でもある。それを忘れるな」
その一言が、楔のように胸の奥へ打ち込まれた。
鼻の奥がつんと痛む。わたしは決壊しそうな感情を、奥歯を噛みしめて必死に抑え込んだ。今はまだ、泣く時ではない。
大きくひとつ息を吸い、もう一度だけ頷く。
「……わたし、ヴィルに会ったらお礼を言います。ちゃんと言葉で、伝えたいです」
涙を袖でそっと拭い、わたしは微笑んだ。震える唇で紡いだその声が、今のわたしにできる精一杯の誓いだった。
ローベルトは短く頷くと、その表情をわずかに引き締めた。
場の空気が、ふっと変わる。彼はどこか試すような、鋭く静かな声で言葉を重ねた。
「そうだな。だが、その前にやるべきことがあるだろう?」
問いかけは穏やかだった。けれど、腹の底へ届く重みを宿している。
わたしははっとして、自然と背筋を伸ばした。
気づかぬうちに強張っていた拳を、そっと開く。汗ばんだ掌に、部屋の空気が冷たく触れた。まっすぐにローベルトを見据える。
迷いは、もうなかった。
小さく頷いてから、覚悟を込めた声で応える。
「はい……わかっています」
胸の奥で燃え上がる決意が、力強い鼓動となって全身を支えている。その声には、もう霧のような曖昧さも、子どもじみた恐れもなかった。ただ、自分が進むべき道を直視する、澄んだ意志だけが宿っていた。
その姿をじっと見つめていたローベルトの表情が、ほんのわずかに和らいだ。
眉間の皺が、雪解けのようにゆっくりとほどけていく。
「その意気だ」
彼は頷くと、どこか父親のような響きで続けた。
「ここから先、私にできることは少ないかもしれん。だが、君が試練を乗り越えるためなら、できる限りの助力を惜しまないつもりだ」
その声には温かな真心と、武人としての矜持が込められていた。わたしの肋の内へ、じんわりと染みていく。
「ありがとうございます、ローベルト様」
わたしはゆっくりと、時間をかけて頭を下げた。
その動作には、自分でも驚くほど自然に、敬意と感謝の念が宿っていた。
「そのお言葉だけでも、わたしにとっては十分心強いです。勇気を、いただきました」
頭を上げた時、ローベルトは穏やかな微笑を浮かべていた。
ふと、若緑色のウィッグに目を落とす。指先でそっと触れた。滑らかな人毛の感触。これまで外界の視線からわたしを守り続けてくれた、殻であり、象徴だったもの。
けれど今は、はっきりと気づいている。
もう、これは必要ない。
わたしはウィッグから手を離した。名残惜しさはなかった。あるのは、清々しいほどの決別だけだった。
ローベルトが口を開く。その声は、先ほどよりもさらに重厚さを帯びていた。
「君がここまで自分の力で切り拓いてきた道を、私は誇りに思う」
続く声は、凍えた指先を包み込むような優しさを帯びていた。
「君はユベルとメイレアの娘だ。二人が見守ってくれていると信じて、前へ進め」
その瞬間、視界が澄んだ。
暖炉の灯が、ほんのわずか明るくなったように見えた。
「……はい。必ず」
力強く頷き、肺の底まで空気を吸い込む。冷たく澄んだ酸素が、全身へ巡っていった。
椅子から立ち上がろうとする足裏に、確かな床の感触がある。
ヴィル、ローベルト、そして父と母。
そのすべての想いを背負い、きっとわたしは進んでいける。




