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西部戦線後

 静かな間が落ちた。


 暖炉の火がひとつはぜ、乾いた音だけが部屋に残る。薪の芯から滲んだ樹脂の匂いが、焦げた甘さをまとって低く流れた。


「そうだ。それは真実などではない。少なくとも、すべてではない」


 言葉が置かれた瞬間、部屋の温度が一段落ちたように感じた。


 机上の陰りが濃くなる。父と母に触れる何かが、その奥で息をひそめた気がした。口を開こうとして、舌がうまく動かない。わたしは黙ったまま、ローベルトの語る過去を追い続けた。


 彼の声音は低く、磨かれた金属のような重みを帯びていた。


「ユベルを突き動かしてきたものは、理不尽への怒りだ」


 語尾が落ちると、火の粉のような余韻が空気に貼りついた。


 わたしは瞬きを一つだけして、呼吸を薄くしたまま待つ。壁際の古い時計が針を進め、重たい金属の残響が部屋の隅に遅れて沈んだ。


「上層部との軋轢も、王宮での直談判も、西部戦線での選択も――根はひとつだ。国家を守り、人民を守る。それはメイレア王女の願いにも通じる。違うか?」


 頷きは短かった。


 暖炉の熱が頬をかすめる。けれど乾いた皮膚の上だけを通り過ぎて、胸の奥までは届かない。


「……はい。わたしもそう思います」


 肯定の一音が、火の揺らぎに溶けていく。


 ローベルトは息を置かず、淡々と続けた。


「そうだ。王女は誰よりも国家の安寧を望んでいた。しかし、上層部は国益を優先するあまり彼女の警告を無視し、結果として厄災に対する対応を遅らせ、多くの人命を犠牲にしたのだ」


 煙の匂いが少しだけ強まった。


 煤を含んだ薄い膜が天井から降りてきて、言葉の重さだけが肩に積もっていく。母が訴えた声が届かなかった、その空白が――いまも、ここに残っている。


 わたしは怒りの形を借りて、わざと粗い言葉を投げた。


 唇の端が乾いている。感情より先に声が整ってしまうことのほうが、なぜか怖かった。


「では……父と母は、そんな『くだらない国』を見限ったと……そう仰るのですか?」


 言葉が落ちると同時に、ローベルトの眼差しがわずかに跳ねた。


 驚きは一瞬で沈む。暖炉の爆ぜる音の下へ、彼はそれを押し込めたように見えた。


「そんなわけがなかろう……」


 机上の影が長く伸び、彼の横顔の皺へ沈んでいく。


 声は穏やかだった。けれど、その穏やかさの奥に、刃のような芯があった。


 彼は目を逸らさず、慎重に言葉を選ぶ。


「少なくとも、二人に共通するのは一点の曇りもない瞳だ。決して諦めない、強固な意志がそこにある。そんな者たちが、現実から逃避するような軽挙を犯すわけがない。二人の娘である君なら、それはよく理解しているはずだ」


 返すべき言葉は、胸の外側で先に形になっていた。


 わたしは礼節を拾い上げ、声を落とす。


「……無論です。先ほどは、言葉が過ぎました。お詫びいたします」


 ローベルトは小さく頷き、そこでいったん息を置いた。


 火の音が、その隙間を埋める。わたしの指先は膝の上で動かない。ただ、布の織り目だけがやけに細かく感じられた。


「ここから先は私の推測だ。願望も混じる。……それでも、私はこう考えている。二人は『何かを探し求めて』国を後にしたのではないだろうか」


 語尾は、薄い紙をめくるように軽かった。


 その軽さが、かえって怖かった。


「探していた……?」


 ローベルトは首を傾けない。


 ただ、深いところを覗くように目を落とした。暖炉の光が瞳の底に沈み、小さな赤を灯す。


「国家と人民、その両方を救うため……いや、もしかしたら、この世界の歪みそのものを正すために。何か必要なものを探し求めていた。そうは思えないかね?」


 暖炉の熱があるのに、剣の金具だけが冷えて見えた。


 白い輪郭が机の暗さから浮き上がり、明かりの縁がきゅっと締まる。革の巻きに染みた匂いが、なぜか今だけ強かった。


「もしかして……」


 言葉は小さくほどけるだけで、続かない。


 けれど答えは、もう手の中にある気がした。


「それはこの剣を指すのではないでしょうか?」


 ローベルトの目が微かに見開かれ、すぐに沈む。


 その沈み方が、肯定の形に見えた。


「うむ、私はその可能性に期待して、君をここに招いたのだ」


 彼の声が落ちると、室内の空気がさらに重くなった。


 鍵穴の奥で、見えない歯車が回り始めたような気配がする。いままで散らばっていた出来事が、一本の細い糸へ縒られていく。


 ローベルトは淡く問いを置いた。


「これで、私の意図を理解してもらえただろうか?」


 返事は頷きだけで足りた。


 けれど、それだけでは逃げたことになる気がして、わたしは息を整えた。


「あなたのお考えは、よくわかりました」


 深く吸い込んだ空気は、煙の匂いを含んでいた。


 窓の明かりが机の端を白く撫で、すぐに揺れる。


「では、わたしからもあなたに明かさねばならないことがあります」


 覚悟を口へ運ぶと、舌の裏にわずかな苦みが残った。


「父と母は、この剣を『マウザーグレイル』と呼んでいました。王家が所有する聖剣と、まったく同じ名です。しかも大きさも形状も一致する。この奇妙な一致について、あなたの見解を伺いたいのです」


 ローベルトは眉を僅かに動かし、目を伏せた。


 考える沈黙が、火の音より重い。彼の指が椅子の肘掛けに触れたまま止まり、布の擦れる音ひとつしなかった。


「なるほど……」


 短い一語が、静寂に吸い込まれていく。


 彼は言葉の手綱を握り直すように、顎をほんの少し引いた。


「私なりの考えを述べよう」


 椅子の布がかすかに擦れた。


 乾いた摩擦音は、暖炉の熱に溶けて消える。


「お聞かせください」


 暖気が頬をかすめたあと、すぐ遠のく。


 ローベルトは淡々と核心へ触れた。


「メイレア王女にとって――王家の聖剣は、真の『聖剣』ではなかった。そう考えれば、多くの辻褄が合うのではないか?」


 言葉は予想の範囲にあった。


 それでも、喉が一度だけ固くなる。視界の隅で、剣の柄が異様に重く見えた。


「……それは、正しいことなのかもしれません。そうでなければ……」


 声を抑えるほど、迷いだけがはっきりした。


 わたしは息を整え、母の輪郭を思い出す。居間の壁に飾られていた白い剣。母がそれを見上げるときの、祈るようで、懐かしむような横顔。


「母にとってこの剣は、単なる武器ではなかったはずです。――父の死後、わたしに引き継がれてからも、それは変わりません」


 あの夜の感触が、手の内にだけ蘇る。


 剣を握った瞬間、ひとすじ別の思念が流れ込んだ。茉凛ではない、誰か。遠く、深く、それでいて確かにわたしへ触れてくるもの。


「この剣を受け継いでからというもの、わたしは『力』に目覚めると同時に、この剣の中に宿る存在と――魂を通わせられるようになりました」


 ローベルトは目を細めた。


 興味と警戒の境目で、こちらを測っている。けれど、その視線に侮りはない。むしろ、聞き逃すまいとする厳しさがあった。


 柄の革の縫い目が、目に刺さるほど鮮明だった。


 金具の冷たさだけが、異様に際立っている。


「そして……母がマウザーグレイルと呼んでいたのは、この剣であるということ。王家の聖剣ではありません」


 ローベルトは一呼吸、深く沈めた。


 その沈黙が、かえって言葉の刃を研ぐ。


「もし、それが真実であるとするならば……」


「王家が伝説の象徴として所蔵している聖剣は、紛い物である可能性が高くなる。だが、君の説明からして、真贋を見極めるには実際に触れて確かめるほかないのではないか。それができるのは王女の娘である君だけ、ということになるが」


 わたしは頷いた。


 頷きの回数だけ、覚悟が硬くなる。火の明かりが剣の白を撫で、目の奥に淡い残像を置いた。


「ええ、その通りです」


 けれど現実は、すぐそこに立っている。


 火の熱と床の冷えの境目が、足元でずれたままだった。


「……されど、その機会を得ることは容易ではないでしょう。王家が認めるはずもありません」


 ローベルトの口元がわずかに緩む。


 笑みの形を借りただけで、温度は上がらない。


「その通りだ。彼らは伝承を軽んじるくせに、政治の道具として利用することにだけは熱心だ。まったくもって厄介な連中だ」


 火がぱちりと鳴り、崩れた灰が黒い筋を描いて沈んだ。


 その沈み方が、胸の奥の苛立ちとよく似ていた。


「仮にわたしが持つ力――『精霊器接続式魔術』を示したとしても、ただの『まやかし』として片付けられるだけでしょう。それが権力者の常套手段です。見え透いていますよ」


 言い終えたあと、口内が乾く。


 革の巻きが手の内で軋み、刃の白さだけがやけに目立った。


「だとしても、君は挑まねばならないのだろう」


 ローベルトの声音は冷静で、慰めに寄らない。


 その硬さが、逆に頼りになった。甘い言葉で背を撫でられるより、この人の乾いた現実感のほうが、足場になる。


「現国王ロイドフェリク二世が即位してからというもの、宰相をはじめとする側近が幅を利かせ、体制はますます硬直化する一方だ。しかし、その歪みはもっと以前から始まっていたように思う。メイレア王女が姿を消し、先代の王が生気を失い玉座にお見えになることも稀になったあの時期から……何かが狂い始めたのかもしれん――」


 言葉が過去の底をさらう。


 窓の外は静かなはずなのに、遠くで風が鳴った気がして、体の芯がわずかに強張った。


「……先代の王様と母の間に、一体何があったのでしょうか……?」


 ローベルトは目を伏せ、短い沈黙を挟んだ。


 火の色が睫毛に揺れて、そこで止まる。彼の頬には、戦場を語ったときとは違う影が差していた。


「私には断言はできない。だが一つだけ言えるのは、先王陛下がメイレア王女を失ったことでお心を痛め、今も深い後悔を抱いておられる――その一点だ」


 憐憫が混じるほど、遠い痛みが近づいてくる。


 わたしは視線を落とし、声を薄くした。


「そうですか……」


 確かめたい。


 けれど、確かめるほど傷が増える予感もある。母の名を追うことは、いつもそうだった。近づくほど、知らなかった痛みが顔を上げる。


 それでも、わたしは口にした。


「可能であればですが、先王陛下にお会いしてみたいです。今はどちらにおられるのですか?」


 ローベルトは一瞬だけ沈み、言葉の前に余白を置く。


 机の端の影が、さらに伸びた。


「現在は離宮におられる。だが……不在がちでな」


 窓の明かりが揺れ、彼の横顔の輪郭だけをぼかした。


「私としても、いずれは引き合わせたいと思っている。だが今は……時期ではない」


 その言い淀みが、答えより多くを残す。


 わたしは納得の形を取るしかなかった。今の自分は塔に預けられた身であり、王宮の思惑のただ中にいる。


「……そうですね。今のわたしの置かれた状況を考えれば……」


 ローベルトは短い吐息を漏らした。


 慰めとも叱咤ともつかない余韻が、火の音に混ざる。


「まずは玉座の間で、王の検分があろう。そしてこれが君にとって最初の試練になるだろう」


 わたしは頷く。


 逃げる理由を探すより、立つ場所を決めるほうが早い。そう思わなければ、足元から崩れてしまいそうだった。


「……承知いたしました。逃げる道理はありません。こちらから王に問うべきこともあります。試練であるならば……むしろ好機と捉えるべきでしょう」


 言い切った途端、肺の奥が遅れて痛んだ。


 息の量だけが、まだ子どものままだ。声の硬さに身体が追いつかない。その齟齬が、わたし自身を少しだけ可笑しく、少しだけ惨めにする。


 ローベルトの眼差しが僅かに色を変えた。


 期待と警戒が、同じ皿の上で光っている。


「よく言った。君は私が考える以上に聡明な人物のようだ。だがくれぐれも、冷静でいることを心がけてもらいたい」


 褒め言葉というより、手綱を渡す前の確認に近かった。


 火の揺れが、その声の硬さを際立たせる。


「……よいか。万が一危険を感じたら何を置いても逃げ延びるのだ。それが可能なだけの力が、君にはあるのだろう?」


 わたしは一瞬だけ息を詰め、すぐにほどく。


 笑みを作るというより、角を落とす。自分の力をどう語ればいいのか、まだわからない。誇れば怖い。否定すれば嘘になる。


「……そんなふうに見えますか?」


 ローベルトは迷わず頷いた。


 暖炉の火が、その頷きの輪郭を照らす。


「もちろんだとも」


 彼は言葉を続ける。


 名を呼ぶ代わりに、剣の系譜を呼び起こすように。


「君は閃光の剣技を受け継ぐ娘だ。噂に名高き魔術師『黒髪のグロンダイル』でもある。その名に恥じぬ実力があるはずだ。違うか?」


 わたしは苦笑し、頭を少し下げた。


 布が擦れる音が小さく響き、そこで消える。


「それは過分な評価というものです――」


 言葉の続きは、いつもの防壁になる。


 声は丁寧に、けれど温度を落とす。そうしなければ、過剰な評価の熱で、自分の内側まで焦げてしまいそうだった。


「――わたしなど、大したものではございません」


 ローベルトは姿勢を正し、眼差しを外さない。


 部屋の匂いが、ほんの少しだけ変わった気がした。焦げた樹脂の甘さの下に、古い革の匂いが立つ。


「そうか。だが、ひとつだけ言わせてほしい」


 命令ではない重みがある。


 わたしは言葉を待った。


「ユベルとメイレア王女は、君に――その剣とともに、すべてを託したのではないかと、私は思うのだ」


 その一言の落ち方は深かった。


 暖炉の音も、時計の針も、遠くなった。わたしは思わず、声を細くする。


「……わたしに……?」


 ローベルトは頷き、短い肯定だけを置く。


「そうだ」


 暖炉の赤が彼の目に映り、爆ぜる音が一拍遅れて消えた。


「希望的観測など、私の性には合わないが、それでもそう信じたいのだ。二人が君という未来に託した思いを――」


 暖炉の火がふっと揺れ、暗がりが一瞬だけ薄くなる。


 灰の匂いの奥で、名のない熱が点いた。


 ――使命。


 それだけが残り、余計な言葉は喉の手前で止まった。


「わかりました……」


 声の揺れを確かめる暇はない。


 窓明かりが剣の白さをいっそう際立たせ、逃げ道のない輪郭を作る。


「その時が訪れれば、わたしもこの偽りの姿を捨てましょう」


 ローベルトは一瞬眉を上げ、すぐ理解の色を目元へ沈めた。


 言葉は足さない。ただ待つ沈黙を、こちらへ差し出す。


 わたしは頭に両手を沿えた。


 若緑の髪は柔らかく、触れたところだけ温度が残る。作り物の美しさ。守るために被った色。母の物語に近づくための、わたしではない輪郭。


 こめかみのあたりを探ると、留め具の金属が冷たく皮膚へ移り、汗の塩気がざらりと残った。


 ひとつ外れ、またひとつ外れる。


 外すたびに、火の音、時計の刻み、布の擦れがはっきりしていく。まるで耳を塞いでいたものが、少しずつ剥がれていくようだった。


 最後の留め具に触れたところで、息を置く。


 偽りを剥がせば戻れない。椅子の木肌の冷えが裾の内側へ滲み、足元だけが現実に引き戻された。


 目を閉じ、留め具を外した。


 若緑の長い髪が肩を滑り、腿の上へ落ち着く。


 残った温もりは薄い嘘のようにすぐ冷め、重みだけが居場所を失ったままそこにある。


 うなじを空気が撫でた。


 暖炉の熱が遠のき、ひやりとしたものだけが首筋を走る。


 ローベルトの眼差しが揺れ、すぐに据わった。その切り替わりが、彼の軍人らしさだった。


 窓の明かりの中に現れたのは――漆黒の髪。


 夜闇の水面を思わせる光沢が、わずかに揺れる。若緑の鮮烈さとは正反対の色が、わたしの輪郭を取り戻していく。


「……やはりな」


 低く絞り出すような声が落ち、火の音がそれを受け止めて沈めた。


「これが、君の真の姿か……」


 わたしは落ちた緑を見ない。


 声に確信を混ぜ、逃げないまま答える。


「はい、これがわたしです」


 ローベルトの眼差しの揺れが、ゆっくりほどけていく。


 沈黙が一拍、そこで止まった。


「黒髪のグロンダイル――まさに君にこそふさわしい名だ」


 胸の奥で、何かが静かに噛み合う。


 わたしは目を閉じ、短く頷いた。抱えた若緑の重みが、過去の皮だけのように思える。


 黒髪が空気を吸い、わたしの名を思い出す。


 これから歩むべき道は、もう迷いとして揺れない。


 体の芯で、灯り続けている。


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