西部戦線
暖炉の火が揺れ、壁に伸びた影がゆっくり濃くなっていった。薪の節がぱち、と小さく弾け、樹脂の甘い匂いが部屋の低いところを這う。
ローベルトが紡ぐ過去は、わたしにとって重すぎた。胸の奥に、まだ名のつかない石が沈んでいる。息をするたび、その石が少しずつ位置を変え、舌の裏に乾いた痛みを残した。
それでも、知りたいという思いだけは退かなかった。
母が何を背負っていたのか。あの人が誰に信じられ、誰に拒まれ、何を隠し、何を見ようとしたのか。そのすべてに触れるのが怖い。けれど、怖さの向こうにしか、父と母の本当の姿はないのだと思った。
指先が膝の布をつかむ。細かな織り目が爪の下にかすかに引っかかった。
「それから……どうなったのですか?」
声の端に焦りが滲んだ。窓の隙間風が、卓上に残る蝋の匂いをかすかに揺らしている。
ローベルトはふと腕を組み、息を深く吐いた。胸の底から引き上げられたその一息に、古い苦悶が混じっている。部屋の音が、そこだけ少し吸い込まれたようだった。
「約束の通り、私たちは軍の上層部に掛け合うことにした」
声は低く、遠い。
過去を語っているのに、彼の眼差しはまだその扉の前に立っているように見えた。
「だが……取り付く島もなかった。予想できたことではあったがな」
短い苦笑が落ちる。
笑いというには硬く、諦めというにはまだ熱が残っていた。彼は窓の外へ視線を投げる。傾きかけた陽が空気中の埃を照らし、細かな粒が金粉のように漂った。
「新たな巣窟の発生――それが民衆に被害をもたらすのは間違いない。だが上は、国益がそれを上回ると考える」
背筋に、冷たいものが走った。
それは驚きではなかった。すでに知っているはずのことが、別の人の声で、別の時代の重さをまとって戻ってきただけだ。それでも、身体は正直に反応した。
「……はい。それは存じています」
息と一緒に声がこぼれる。
ローベルトはその言葉を受け、静かに頷いた。瞳の奥に、燃え尽きた戦場の灰のような色が宿る。
「ならば話が早い。上の者にとって巣窟は『収穫』だ。魔素が極限まで濃縮された地は資源を生む。巣から湧く魔獣の中核にある魔石は、経済と軍備の基盤を支えている」
平静な声だった。
けれど、その平静さがかえって痛かった。声の奥に押し殺された怒りがあり、怒りの下には、どうにもならなかった年月が沈んでいる。
「だが、それと引き換えにどれほど多くの血が流されるのか。……それもまた、この世界の真実だ」
暖炉の火が低くうねる。
赤い光がローベルトの頬を撫で、皺の影を深くした。わたしは喉の奥に絡んだ乾きを飲み込もうとして、うまくいかなかった。
「それでは……母の警告は――」
自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。
ローベルトは視線を伏せる。睫毛の影が、目元に短く落ちた。
「……一笑に付されるだけだったよ」
言葉は静かだった。だからこそ、ひどく重かった。
「いや、むしろ『誰がそんな馬鹿げた話を持ち込んだのか』と詮索される始末だった。メイレア王女からの言葉だったとは、とても明かせなかった。それがどれほどの波紋を呼ぶか、想像するだに恐ろしい」
わたしは言葉を失った。
母が声を上げたこと。その声が届かなかったこと。届かなかっただけでなく、誰がそれを発したのかさえ危険になったこと。想像すると、呼吸は浅くなり、胸の内側が薄い紙のように擦れた。
ローベルトの語りには、底に沈んだ痛みがあった。過去の出来事をただ説明しているのではない。彼自身が何度もその場面へ戻り、何度も同じ無力を噛みしめてきたのだとわかる。
「ユベルは……怒りを抑えられずにいた」
その短い言葉に宿った熱に、わたしは思わず背筋を正した。
父の名が、炎の中から立ち上がるようだった。
ローベルトは視線を落とし、言葉を選ぶように間を置く。
「彼は元々、上層部と反りが合う男ではなかった。これまでも衝突は幾度もあった。それでも王家の誇りたる『銀翼』の片翼を担う者としての矜持で、なんとか堪えていたのだ」
声が少し低くなる。
そこには、かつての仲間を語る懐かしさと、その仲間がたどった道を思い返す苦さが混ざっていた。
「父の怒りはもっともです……」
言葉にした瞬間、膝の上で重ねた手がかすかに震えた。
父の怒り。母の願い。民の命。それらを、机上の利益で切り捨てられる現実。その不条理の形が、わたしの胸の中でも少しずつ輪郭を持ちはじめていた。
ローベルトは頷き、拳を握りしめる。膝の上で、その拳が静かに震えていた。
「彼にとって、『民を救いたい』というメイレアの願いを無碍にする行為は、理不尽な現実そのものだった。いや……そんな言葉では足りん。彼の目には、それが『歪み』、あるいは『愚かさ』そのものに映ったはずだ」
抑えられた声に、父が抱えた怒りの輪郭が刻まれていく。
怒りは、ただ烈しいだけではない。何かを守ろうとする人が、その守るべきものを踏みにじられたときに生まれる、逃げ場のない熱なのだと思った。
「そして、彼は王宮へ向かい、直談判に出た。この私に、たった一言も相談無しにだ……」
ローベルトはそこで言葉を切った。
沈黙が落ちる。暖炉の火が、部屋の奥で小さく身じろぎした。わたしはその沈黙に促されるように、ゆっくり声を重ねる。
「父は、そこでなんと言ったのですか?」
ローベルトは目を閉じた。
その瞼の裏に、若い日の父の姿があるのだろう。苦々しさを飲み下すように息を置き、やがて低い声で語り始める。
「『迫りくる未曾有の脅威を放置するというなら、自分一人でも行く。上がどう判断しようと、自分は伝説の巫女の言葉を信じる。正しいと分かっていながら背を向けるなど、騎士として最も恥ずべきことだ』――そんな調子だったそうだ」
胸の内側が熱くなった。
その場にいたわけではない。父の声を聞いたわけでもない。それでも、言葉の芯にあるものが、わたしの知っている父の背中と重なった。静かで、頑固で、曲がらない。守ると決めたものの前では、一歩も退かない人。
ローベルトは顔を少し伏せ、続けた。
「だが、当然のことながら、官僚たちは彼の訴えを聞き届けるどころか、冷たくあしらった。『巫女の言葉など、ただの伝説や迷信に過ぎない。そもそも巫女とは一体何者を指すのだ?』と、笑い飛ばす者さえいた。ユベルは……その場で拳を机に叩きつけ、立ち上がったと聞く」
机を叩く音が、聞こえた気がした。
硬い木。乾いた衝撃。押し殺していた怒りが、ついに形を持ってしまう瞬間。わたしの指先にも、遅れて痛みが走った。
「……父の何が間違っているというのです……?」
声は小さかった。けれど、胸の奥の熱を隠しきれなかった。
「何も間違ってなどいない。彼は常に冷静沈着で、感情を制御することに長けた男だった。だが、その怒りを抑えることができなかったのだからな。それほどまでに、彼は彼女の言葉を――いや、彼女という人間を信じていたのだろう」
彼女という人間。
その言い直しが、胸に深く沈んだ。
父は予言を信じたのではない。母を信じたのだ。言霊でも、伝承でも、王家の血筋でもなく、あの夜、黒髪を晒して震えもせずに語った一人の少女を。
そう思うと、父と母の距離が、ようやく手触りを持った。
ローベルトは俯き、握った拳へさらに力を込める。その仕草に、彼自身の無力さへの悔恨が滲んでいた。
「私は自分の無力さを噛みしめるしかなかった。そして――」
声が小さく途切れる。
その先を聞くのが怖かった。けれど、逃げられない。わたしは息を詰め、短い沈黙のあと、恐る恐る問いかけた。
「……そして?」
ローベルトはしばらく顔を上げなかった。
やがて、苦渋に満ちた表情でこちらを見る。瞳の奥には、過去の光景がありありと映っているようだった。
「それから数カ月後のことだ……」
低く、音を立てずに放たれた声が、部屋の空気を一瞬で冷やした。
「王女の言葉は、現実のものとなった――」
背筋が凍った。
暖炉の火は燃えている。すぐそばに熱がある。それなのに、足元から冷えが這い上がり、膝の裏をかすめていく。
「それが……」
声が震えそうになるのを、必死で抑えた。
「……後に、『西部戦線』と呼ばれる魔獣の大発生だったのですね?」
ローベルトは短く頷いた。
その仕草には、ただ事実を肯定する以上の重さがあった。長い年月を越えてなお消えない疼きが、沈黙の中に残っている。
「ああ……」
その一言は、厚い余韻を残して部屋に沈んだ。
「リーディス西部国境線は、天を覆う黒紫の闇に沈んだ。その場にいた者は皆、魔術の才など関係なく、肌を刺す魔素を感じた。空気が捻れ、現実が壊れていく――地獄だった。……言葉が追いつかん」
彼の声が掠れた。
黒紫の闇。肌を刺す魔素。現実が壊れていく場所。言葉は理路を保っているのに、その奥で、いまも風が唸り、誰かが叫んでいる気がした。
わたしは唇を湿らせ、そっと問いかける。
「その戦いに……あなたも、父も赴いたのですね?」
ローベルトの視線がわずかに下がった。
見ているのは、この部屋ではなかった。遠い戦線。土と血と魔素の匂いが渦を巻く、戻れない場所。
「ああ……」
静かに吐き出された一言には、どれほどのものが込められていたのだろう。
彼は一瞬目を伏せ、それから続けた。
「当時の実情については、多くは語りたくないが……」
声が掠れた。
無理に掘り起こしてはいけない傷なのだと、すぐにわかった。語ることさえ、まだ刃に触れるようなものなのだろう。
「ええ、それはよく理解しているつもりです」
わたしの短い言葉に、ローベルトは小さく頷いた。
その頷きで空気が少しだけ緩む。けれど、部屋に落ちた沈黙はまだ重かった。
胸の中で、別の問いが燻っていた。
聞くべきか。いまここで、名を出していいのか。ローベルトの語りの流れを断ち切ることになるかもしれない。それでも、この機会を逃せば、二度と確かめられない気がした。
息をひとつ吸う。
喉の奥が乾いている。けれど、言葉はもう形になっていた。
「お尋ねします、ローベルト様……あなたはヴィル・ブルフォードという方をご存じでしょうか?」
ローベルトの表情が、かすかに揺れた。
ほんの一瞬。けれど、その驚きは隠しきれていなかった。彼の瞳に、過去とは別の光が浮かぶ。
「……もちろんだ。知っているとも。我が軍において、雷光のブルフォードを知らぬ者はおらん」
低く響く声には、感情を抑えた敬意があった。
雷光。
その二つ名が、いつも隣にいる不器用な人の背へ、違う時代の光を重ねた。
「彼はユベルの副官であり、『閃光』と並び立つ唯一人の使い手だ。ふたりは昵懇で、盟友と呼べる関係だった。戦場では、ヴィルは常にユベルと並び立ち、その決断を支え続けた。彼の忠節ぶりは、つとに有名だ」
声には確かな敬意が込められていた。
わたしは自然と背筋を伸ばす。ヴィルが父と並び立った。父を支えた。そう聞くだけで、胸の奥に小さな灯がともる。けれど、その灯はすぐに別の痛みを照らし出した。
「……わたしは北方ケリンのエルダンで、彼と出会ったのです――」
ローベルトの眉がわずかに寄る。
わたしは続けた。声が揺れないよう、膝の上で指先を強く重ねる。
「そして、彼から聞かされました。戦場の狂気と民衆を守るために父が取った行動。そして……その結末についても」
ローベルトは短く息をつき、視線を伏せた。
火の音が一度だけ大きく弾ける。彼の横顔に、納得と痛みが同時に差した。
「……なるほど。やはり、君はブルフォードと会っていたのだな」
しばらく思案するような間があった。
その間に、わたしはヴィルの顔を思い浮かべた。父のことを語るときの目。言葉を選ぶ沈黙。自分の痛みを冗談で薄めようとする不器用さ。あの人もまた、知らないまま抱え続けてきたのだ。
ローベルトは低い声で続ける。
「だが、彼はメイレアについて何も知らぬはずだ。あの一件は、私とユベルの間だけに秘められたものだからな」
「はい。確かに彼は、父と母の関係について何も知りませんでした。それだけは、はっきりしています」
わたしの言葉に、ローベルトは深く頷いた。
そこには安堵が見えた。けれど、同時に重さもあった。秘密を守った者の安堵と、守ったがゆえに誰かを孤独にしたかもしれないという悔い。
「万が一の事態に備え、副官であるブルフォードを巻き込むべきではない。そうユベルと決めたからだ……。それが正しい選択だったのか、今でも自信はないが」
その言葉は鈍く響いた。
父が抱えた使命。ローベルトが抱えた秘密。ヴィルだけが知らされなかった理由。そのどれもが、いまさらわたしの胸にも影を落とす。
「ユベルは、純粋過ぎるほどの正しさの持ち主だった。彼が民衆を守るために取った行動は正しかったが、予てより彼を疎ましく思う連中にとっては、それが絶好の口実となった。命令違反と戦線放棄――その罪で翼長の地位を剥奪され、本国送りとなった」
声には、微かな苦悩が透けていた。
正しさが、罰の理由になる。守るための行動が、裏切りとして記録される。その理不尽さは、頭で理解するより先に、腹の底を冷やした。
「言い訳にしかならないが、左翼を率いる私は戦線の維持で手一杯で……ユベルを庇えなかった。ただ、彼が処罰を受けるのを黙って見ているしかなかったのだ。今でも、それが悔やまれてならん」
ローベルトの指が、膝の上でわずかに動いた。
何かを掴みそこねた手のようだった。二十年以上前のその瞬間を、まだ何度も掴み直そうとしているのかもしれない。
「……父は、どれほど無念だったことでしょう」
言葉が唇を離れたあと、喉の奥が痛んだ。
父は何を思って王都へ戻ったのだろう。母の言葉を信じ、民を守り、それでも罪人として扱われる道へ押し戻されたとき。どれほど怒り、どれほど悔しがり、それでも何を守ろうとしたのか。
ローベルトは短く頷き、語りの調子をさらに落とした。
「その後も戦況は一進一退だった。だが巣窟の活性度は次第に下がり、戦線はようやく小康に入った。三年にわたる戦いは終息へ向かった……誰もが、そう思い始めた頃だ。戦後処理を終えた帰路で、あの報せが届いた」
その声の落ち方で、次に来るものがわかった。
胸の奥の空気が薄くなる。暖炉の音も、遠くへ退いていく。
「……例の布告ですね?」
問いに、ローベルトの表情が険しくなった。
深く息をつき、静かに続ける。
「……そうだ。その布告の中身は――ユベル・グロンダイルが、メイレア王女を攫い、国外へ逃亡したというものだった」
こめかみの奥を、冷たいものが締めつけた。
わかっていた。知っていた。けれど、こうして過去の流れの中でその布告を聞くと、まるで父と母の上に、濡れた布を無理やり被せられるようだった。
「それは違う……違うんです……」
声にならない震えを押し殺し、かすれた声で呟いた。
気づけば拳が固く握られている。爪が掌に食い込み、痛みだけが現実を繋いだ。混乱する思考の中で、わたしの視線はローベルトの表情を捉えていた。
彼の瞳には、奥行きのある何かが宿っていた。
ただ過去を悔いているだけではない。心の奥底に秘めてきた真実を、いまようやくもう一度手のひらへ乗せようとしているような色だった。




