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西部戦線前夜

 暖炉の樹脂が爆ぜ、甘い焦げ香が部屋の低いところへ流れた。


 ローベルトの声は、その重い空気をほんの少しだけ震わせてから、静かに沈んでいく。


「では話そうか……少し長くなるが、よいか?」


 わたしは迷いなく頷いた。


「もちろんです」


 背筋を正すと、椅子の木がかすかに軋んだ。膝の上で指先を揃える。暖炉の熱は頬を撫でているのに、掌だけは薄く冷えていた。


 ローベルトの視線は窓外の闇へ滑る。夜の硝子に映った横顔は、いまここにいる壮年の男ではなく、もっと遠い時代の青年へ戻っていくようだった。


「二十数年前、私はこの国の『銀翼』と呼ばれる騎士団で、左翼の翼長を務めていた。一方、ユベルは右翼の翼長として、まさに就任したばかりだった」


 語り始めた声は、古びた毛布のような温度を帯びていた。柔らかいのに、奥には取り返しのつかない重みがある。


「ユベルはまだ若さの残る男だった。だが、実力とカリスマ性を背景にした統率力は、年齢を補って余りあるほどだったよ。計画立案や作戦指揮を得意とする私とは真逆で、彼は徹底した現場主義でね。まさに『閃光』の如く各地の魔獣討伐で多大な戦果を上げた。八面六臂の活躍ぶりに、嫉妬を通り越して憧憬の念すら抱いたものだ」


 ローベルトは目尻をわずかに和らげた。


 そこには確執の影はなかった。競い合った者だけが持つ、眩しさと苦笑と、遠い親しみが残っている。


「左翼と右翼。私たちは考え方もまったく正反対だったが、不思議なもので妙にウマが合った。お互い多忙な身だったが、月に数度は意見交換と称して酒を酌み交わし、夜通し語り合ったものだ」


「ローベルト様は、父さま……いえ、父をよくご存知だったのですね……」


 言い直した瞬間、喉の奥が少し乾いた。


 この人の前で「父さま」と呼ぶことが、幼さを晒すようで恥ずかしかったのかもしれない。けれど、言葉を改めても、胸の内側に浮かぶのは、やはりわたしの父だった。


 ローベルトは静かに頷いた。その眼差しに、かつての盟友への敬意が宿る。


「そんなところだ。彼との交流はとても刺激になったし、互いに高め合えたんだ。彼から学ばせてもらったことも多かったよ」


 父への敬意が、彼の声に滲んでいた。


 わたしは微かに頬を緩める。知らない父の輪郭が、誰かの記憶の中で少しずつ形を得ていく。そのありがたさに、胸の奥がほのかに熱くなった。


「それは、とても素敵なことですね」


 わたしがそう答えると、ローベルトは頷き、視線を再び遠くへ滑らせた。


 暖炉の火が、ぱち、と小さくはぜる。記憶の扉が、音もなく開いていく。


「それから数年後のある晩のことだ。私とユベルは、機嫌よく夜更けまで飲み明かしていた。酔いで足取りもおぼつかない中、夜の街を歩いていると、どこからか助けを呼ぶ少女の甲高い声が聞こえてきた」


 少女の声。


 その言葉だけで、胸郭の内側がひとつ痙攣した。見てもいない夜の路地が、暖炉の火の奥に滲む。


「その声を聞いたときには、さすがに酔いも吹き飛んだ。私たちは声のする方へと駆けつけた。そして見つけたのは……酔っ払いどもに絡まれている少女だった。震えながらも抵抗していたが、相手は大の大人だ」


 湿った石壁。乱暴な笑い声。逃げ場のない暗がり。


 ローベルトの言葉は淡々としているのに、そこにあった空気の荒さまで、皮膚の上へ蘇る気がした。


「ユベルは一瞬で状況を読み取った。あの時ばかりは、まるで酒など一滴も飲んでいなかったかのような素早さだった」


 ローベルトは軽く目を伏せた。


 記憶を手繰り寄せる指先のように、言葉がゆっくり続いていく。


「私も慌てて後を追ったが、正直、あの瞬間の彼には敵わないと思った。威圧感というのか……彼の背中から放たれる雰囲気があまりに異質で、この私ですら喉が詰まるほどだった」


 その声には、驚嘆と敬意がほのかに滲んでいた。


 穏やかな父。食卓で静かに笑っていた父。剣の手入れをするときだけ少し遠い目をしていた父。わたしの知る姿と、ローベルトが語る姿が重なって、背筋に細い震えが走る。


「酔っ払いどもは、ユベルの怒声を耳にした瞬間、動きを止め、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。その時の彼の声と眼差しには、弁解を許さぬ烈しさがあった。普段の彼を知る私でさえ、少し寒気を覚えたほどだ」


 守るべきものの前で、父は牙を剥いたのだ。


 その姿を想像すると、怖さより先に、胸の奥へ静かな誇らしさが灯った。けれど、その灯りはすぐに、別の予感に縁を翳らせる。


 ローベルトの口元がかすかに緩む。その変化に気づいて、わたしはつい口を開いた。


「やっぱり……いかにも父らしいです」


 わたしの言葉に、彼は軽く頷いた。


「ああ、まさしく。普段は温厚で、静かな力を湛えた男だ。だが一度怒らせると、本当に恐ろしかった。だからこそ、誰もが惹きつけられ、従いたくなるのだろう」


 彼の声には、確かな信頼が宿っている。


 父への誇りが、掌の中でふわりと熱を持った。冷えていた指先が、その熱を逃がさないように、膝の布をそっと掴む。


「少女は無事だった。それ自体は何よりだったが、驚いたことに彼女はその場で礼を言うと、何事もなかったかのようにフードを深く被り直し、立ち去ろうとしたのだ。普通なら、怯えや涙のひとつも見せるだろう。ところが彼女には一切なかった。むしろ堂々としていて……毅然とした態度さえ感じさせた」


 ローベルトは言葉を切り、短く息をついた。


 その指先が、盃の縁を無意識になぞる。音はしない。ただ、火の明滅が彼の爪先に細く映った。


「私もユベルも、その態度に違和感を覚えた。単なる強がりか、それとも特別な何かを背負っているのか。どちらにせよ、放ってはおけなかった。だから、立ち去ろうとする彼女を呼び止めたんだ」


 抑えた声の奥から、かつての焦燥が滲んでくる。


 わたしは息を吸い、黙って続きを促した。喉の奥には、もう予感のざらつきがあった。


「もちろん、こちらに下心などなかった。怯えた様子も見せず、孤独を抱えて歩き去るその背中が、どうにも気にかかってな。訳ありなのは明らかだったし、何より、助けを求めた声と態度が噛み合わない。見過ごせるほど、私たちは冷たい人間ではなかったのだ」


 ローベルトの視線がわずかに伏せられる。


 彼は、いまもその背中を見ているのだろう。夜道へ消えようとする、細い少女の背を。


「私たちは身分と姓名を明かし、最初は衛兵の詰め所に連れて行こうとした。だが、ひどく嫌がられてしまった。結局、ユベルが根城にしている宿に連れて行くことにしたんだ。そこならば誰の目にも触れず、話を聞けるとな。少女は一瞬迷ったようだったが、私たちの言葉に反論せず、ついてきてくれた。夜道を歩く彼女の背中は、どこか決意を秘めているようだった」


 物語の核心に迫る感覚に、背筋が薄く冷えた。


 暖炉の火はすぐそばにある。けれど、身体の内側には別の夜が広がっていく。石畳の湿り、外套の裾、深く被られたフード。そのすべてが、まだ名を伏せたままわたしへ近づいてくる。


「部屋に着き、暖炉の灯りの中で彼女が外套を外した瞬間、火がひと筋だけ低く揺れ、私たちは息を呑んだ。彼女はあまりにも美しかった。歳は十五、いや十六ほどだったろうか。整った目鼻立ち、そして何よりも――」


「何よりも?」


 問い返す声が、かすかに上ずった。


 自分の声なのに、どこか遠くから聞こえる。


「彼女の瞳だ」


 睫毛の根が震え、呼気が途切れた。


「泉のように透き通った薄い翡翠の色で、その奥に深い憂いと誇りが宿っていた」


「わたしと同じ色……」


 言葉は、止める前に唇から溢れていた。


 ローベルトは静かに頷き、話を続ける。その頷きが、ただの相槌ではなく、わたしの顔に誰かの面影を見ているものだと分かった。


「私もユベルも、その瞳に見入ってしまったよ。それだけでも異彩を放つ少女だったが……さらに驚くべきは、その髪だった」


「髪……ですか?」


 わたしの問いに、彼は小さく頷いた。


 表情には、今も鮮烈な記憶の影があった。時が過ぎても褪せない色。忘れようとしても、忘れられなかった色。


「彼女の髪は鮮やかな緑色だった。ただの緑ではない。月光を反射するように輝き、部屋の中で静かな光を纏っていた。それを見たとき、ただ事ではないと直感したよ。ユベルでさえも、一瞬言葉を失っていたほどだ」


「緑色の髪……」


 その言葉を反芻する。


 伝説の王女と同じ色。いま、わたしが身につけている偽りの色。母とわたしを繋ぎ、同時に隔てる色。


「だが、それだけでは終わらない」


 ローベルトの声に重みが増した。


 心臓が少しずつ速くなる。暖炉の匂いが急に濃くなり、舌の奥へ甘く焦げた味が残った。


「ユベルが静かに名前を尋ねると、彼女は少しだけためらいながらも、こう名乗った――『メイレア』と」


「メイレア……」


 母の名が落ちた瞬間、舌の裏に鉄の味がした。


 わたしの運命の源。見つけたいと願いながら、知ることを恐れていた名前。


「ただ、当時の私たちにとっては『メイレア』という名も、ただの偽名だと思えた。だが……」


 ローベルトは言葉を切り、わたしに視線を合わせた。


 その瞳の奥に、真実の前触れがあった。触れれば冷たいと分かっているのに、目を逸らせない。


「彼女は突然、自分の髪に手を伸ばしたのだ。そして、それをゆっくりとずらすと――」


「ずらす? それはつまり……」


 喉に沈む声が、わたしの問いへ答えを返す。


「現れたのは……漆黒の長い髪だった。緑の髪は、変装のために被っていたかつらだったのだ」


 暖炉の火が、ほんの一瞬だけ音を失った気がした。


 部屋の空気がひやりと後ずさる。胸の奥へ、湿った冷えが滑り込んだ。わたしは、無意識に呼吸を止めていた。


 ローベルトの声は、記憶の深い底から言葉を拾い上げている。一音ごとに吟味され、乱れはない。けれど、その整い方がかえって痛々しかった。


「……あの瞬間の光景は、今でも忘れられない。暖炉の音さえ途絶えた」


 彼は視線を細くする。


 その瞳に宿るのは、ただの追憶ではなかった。言葉を待つあいだ、わたしの耳には、自分の脈ばかりが近く聞こえた。


「私たちは言葉を失った。黒は油膜のように光って、目が離せなくなる。緑の髪が鮮烈だったからこそ、その対比が一層際立ち、私たちの胸に刻まれたのだ」


 黒髪。


 その言葉が、わたしの皮膚の上をゆっくり撫でていく。逃げても隠しても、どこかで必ず戻ってくる色。母の色。わたしの色。


「一瞬で悟ったよ。彼女はただの少女ではないと。その髪、その瞳、その態度。全てが、彼女が大きな秘密を抱えていることを物語っていた。そして、その名だ。決して公の場に姿を見せない第三王女は、黒髪の持ち主だと密かに伝え聞いていたのでな」


「メイレア……それは間違いなく母の名前です」


 ローベルトは静かに頷いた。


 その瞳に、ひと呼吸分の揺らぎが宿る。わたしを見るのではなく、わたしの向こうに、かつての少女を見ている目だった。


「そして、彼女は名を偽る者ではなかった。少なくとも、その瞳に宿る誇りは、名を背負う覚悟を語っていた。当時の私もユベルも、最初は信じることができなかった。なぜ王女ともあろう身で、あのような夜更けに、あのような場所に――」


 彼は短く息をつき、言葉を継いだ。


「私たちは彼女に問いただした。彼女は明確な答えを避け、静かに目を伏せるだけだった。その沈黙が、何よりも彼女の背負う何かを物語っていた。ユベルも私も、それ以上追及することはできなかった」


 ローベルトの話は、そこで一度、静かに幕を閉じた。


 残された余韻が、胸の内で渦を巻く。少女だった母。王宮から抜け出し、黒髪を隠し、助けを求めながらも涙を見せなかった母。


 知りたいと思うほど、その奥にある深淵が怖くなる。


「教えてください。その先に何があったのか――」


 言葉は、唇から漏れていた。


 ローベルトはひと呼吸置いて手を挙げる。わたしの声を制したその仕草は穏やかで、けれど確固たる意志を持っていた。


 わたしは次の言葉を飲み込むしかなかった。


「ここから先は、推測も多分に含まれる。そして、それは国が抱える闇、その最深部に触れる話でもある。君に、それを受け止める覚悟はあるか?」


 低く響く声には、わたしを試す色が滲んでいた。


 彼の眼差しは、わたしの中に揺るぎない意志を探している。逃げるならいまのうちだ、と言われている気もした。


「無論です」


 静かに、けれど迷いなく答えた。


 不安と決意は、胸の中で奇妙に重なり合っていた。怖い。けれど、退く場所はない。


「そのために、わたしはここまで来たのですから」


 わたしの返答を聞き、ローベルトはわずかに視線を伏せた。


 表情に、思案の影が差す。やがて再びわたしを捉えた瞳には、一層の厳しさが宿っていた。


「よろしい。では、続きを話そう。ただし――」


 言葉の切れ間に、重い間が挟まる。


 その沈黙が、わたしの息を薄くした。暖炉の火は揺れているのに、部屋の中心だけが動きを止めたようだった。


「――君の心が、この先も折れることなく、進み続けられると信じられる限りだ」


 ローベルトの言葉は、刃のように鋭く胸へ届いた。


 けれど、その刃には温もりがあった。追い詰めるためではなく、前へ押し出すための言葉だった。


 その重みを噛みしめる。震えそうになる指先を握りしめ、彼の瞳を正面から見据えた。自分の内側へ刻み込むように、ひとつ息を吸う。


 ローベルトは、静かに話を続けた。


「メイレアは、最初ほんの少し躊躇いを見せていた。しかし、彼女は自らの中に眠る何かを掘り起こすように、静かに語り始めた」


 彼の声は、先ほどよりも抑えられていた。


 懐かしむ響きがある。けれど、そこに混じる痛みは深い。やわらかい音ほど、傷の輪郭をはっきりさせることがあるのだと知る。


「彼女は言ったよ――『間もなく、リーディスの西の端一帯が、巨大な黒紫の闇の渦に飲まれる』とな……」


 その不吉な予言に、喉の奥が凍りついた。


「黒紫の闇の渦……まさか……」


 言葉が喉の奥で途切れる。


 ローベルトの瞳が、わたしの動揺を静かに受け止めた。やがて、重々しく顎を引く。


「そうだ。その渦こそ――魔獣の巣窟……いや、おそらくはその元凶たる『虚無のゆりかご』と呼ばれる領域を指していたのだろう」


 窓の桟が、風に押されて短く鳴った。


 室内の空気が紙のように薄くなる。彼の語る言葉は、意味よりも先に重圧となって肌へ沈んだ。不可視の澱みが足元から這い上がり、背筋を冷たく撫でる。


「彼女の言葉が意味するものを、私たちはその時、完全には理解できていなかった。だが、ユベルだけは違った。彼はその言葉の裏にある真実に、直感で触れていたようだ」


 ローベルトの声が、一段低く沈む。


 暖炉の爆ぜる音が、やけに鋭く鼓膜を刺した。


「そして、ユベルはこう答えた――『その渦を止めるのが、俺たちの役目だろう』とな」


 膝の上で握りしめた指先が震え、布に深い皺を刻んだ。


 長い時を越え、父の言葉が胸郭の内側へ届く。熱い。痛い。そこに居合わせたことなどないのに、父の覚悟が、肋骨の隙間へ沁み込んでいく。


「君の父、ユベルは……過去にその真実の欠片に触れてしまったことで、自らの運命を定めてしまったのかもしれない」


 その響きに、息の芯が引き攣った。


――ハムロ渓谷……。


 公の資料から消された座標。


 百年前の傷が、いまも口を開けている場所。見ないふりをして暮らすために、沈黙で覆われた穴。


 ローベルトは視線を伏せ、揺れる炎の影を見つめた。網膜の裏で、二十年前の夜を再生しているかのように。


「だが……彼女がどうしてそれを知っているのか、という疑問が残った。巣窟の発生には、予兆というものが一切存在しない。発生した後も、正確な場所は国家の最高機密とされてきた。なぜ彼女は場所だけではなく、『もう間もなく』などと、時期まで予測して言い切れたのか。ユベルでさえ半信半疑だったのは事実だ」


 落ち着いた声の端々に宿る揺らぎが、当時の困惑を蘇らせる。


 わたしは彼の言葉を咀嚼し、乾いた唇を一度湿らせた。胸の奥で燻っていた推測が、少しずつ形を持ち、喉元までせり上がってくる。


「確かに……急にそんなことを言われても、信じるのは難しいかもしれません。でも……」


 自分の声を確かめるように、椅子の肘掛けを指の腹でなぞる。


 硬い木の感触が、思考の輪郭を正した。


「その身体的な特徴からして――母が王家に語り継がれる、精霊の泉の巫女としての力を顕現させた存在であった、と考えることはできないのでしょうか? その発言についても、何らかの啓示を受けたものであるとすれば、辻褄は合いませんか? 例えば、あのメービス王女のように」


 ローベルトはゆっくりと瞬きをした。


 記憶の澱をかき混ぜるように、視線が宙を彷徨う。その横顔には、解けぬ謎への畏怖が滲んでいた。


「君の推測には一理あるかもしれんし、そう突飛な話ではないだろう。だが、当時の私にはそこまで深く考える余裕などなかった。今思えば、その時の彼女の瞳……あれは、言葉以上の真実を語っていたのかもしれない」


 彼は短く息を吐き、窓の外の闇へ目をやった。


 硝子に映る銀髪が、室内の灯りを受けて淡く鈍く光る。


「ユベルは……彼女を信じた。その瞳に一点の曇りもなかったからな。彼女が語る言葉に、偽りの響きは微塵もなかった。むしろ、自らの運命を悟った者が、その全てを受け入れるかのような静かな決意すら感じられた」


 低く穏やかな声の奥に潜む熱が、わたしの鼓動を静かに早めた。


 父は、母を信じた。


 その事実が、暖炉の火よりも確かな温度を持って、胸の内側に触れる。


「それほど深刻な問題だと分かっていたのなら、どうして父君――先の国王陛下に相談しなかったのか。その疑問が当然浮かぶだろう。ユベルもそう考えていた。だがな……」


 薪が崩れ、火の粉が舞い上がる。


 その明滅が、彼の瞳に寂寥の影を落とした。


「メイレアは、王女は――」


 ローベルトの語り口が、不意に途切れた。


 喉仏が一度上下する。苦いものがこみ上げるのを耐えるような間が落ち、部屋の空気が深く沈んだ。


「静かに目を伏せて、こう言ったのだ。『父上は……私の言葉を受け止めてはくださらなかった』と」


 部屋の温度が、一度下がった気がした。


 その一言が空間を支配し、沈黙の層を厚くする。言葉に含まれた母の孤独と絶望を想像した瞬間、指先が冷たく凍えていった。


「どうして……?」


 こぼれ落ちた声は、自分でも驚くほど掠れていた。


 そこには、問いというより、痛みが混じっていた。なぜ届かなかったのか。なぜ、たった一人で歩かせたのか。


「理由は分からない。先代の国王陛下は聡明かつ博識な方だった。歴史や伝承に通じ、精霊の泉の巫女の『言霊』が持つ意味を理解できないはずがない。……にもかかわらずだ」


 声は平坦だった。


 けれど、語尾の余韻がわずかに震える。その震えが、何十年経っても消えない疑問の深さを物語っていた。


「何故なんですか……?」


「……私にも、答えは出せない。ただ、陛下の選択がその後の運命を変えてしまったことは確かだ。そして、あの時のメイレア王女は――」


 彼は一瞬言葉を切り、視線を暖炉の深淵へ沈めた。


 そこに込められたものは、後悔か。あるいは、理解を超えた運命への嘆きか。


「危機を伝えるために、王宮を抜け出した。そういうことになる」


「……そうでしたか」


 わたしの声は、夜の静寂に吸われて消えそうだった。


 母が一人で背負った決断の重みが、喉の奥に鋭い棘となって刺さる。息をするたび、その棘が少しずつ深くなる。


「だが――」


 ローベルトは目を細めた。


 煙の向こうに、過去の幻影を見ているようだった。


「それ以上に、彼女は何か別の目的を隠しているようにも見えた。その瞳の奥には、誰にも触れさせぬ秘密を抱えているかのような深い影があった。それが何であるのか、私には測りかねた。一つだけ確かだったのは――彼女が、誰の助けも借りず、自らの意思で全てを決めていたということだ。周囲に流されることなく、たとえその道が孤立を伴うものだとしても、彼女は自分の信念を貫こうとした」


 彼の声は、遠い記憶の砂を掬い上げるように静かで、ざらりとした感触を残した。


 その言葉が、わたしの胸に熱い塊を落とす。


 母がどれほど強い人だったのか。どれだけの覚悟を秘めて、あの夜を歩いたのか。今まで知らなかった輪郭が、痛みとともに鮮明になっていく。


「私たちは彼女の訴えを受け止めるしかなかった。そして、事情を上層部に掛け合うことを約束した」


 そう語る声には、古い鉄のような苦味が混じっていた。


 ローベルトは目を閉じ、重い呼気を足元へ落とす。


「その代わり、私たちは彼女に王宮に戻るよう求めた。『安全を確保するためだ』と伝えてな。彼女の心を傷つけるかもしれないと、分かっていながら……」


「母は、王女は……王宮に戻られたのですか?」


 問いが、止められず唇を割って溢れた。


 心臓が早鐘を打つ。母がそのとき何を選んだのか、確かめずにはいられなかった。


 ローベルトは一瞬だけ瞳を伏せた。


 言葉を選ぶように短い間を置き、再び瞼を持ち上げる。その瞳の奥には、いまも鮮烈な悔恨が焼きついているようだった。


「ああ……戻ったよ。だが、その姿は、今でも目に焼き付いて離れない」


 彼は低く、祈るように言葉を継いだ。


「去り際の彼女の背には、悲しみが滲んでいた……」


 遠い記憶の中で、扉の取っ手が戻る乾いた金属音だけが、いつまでも残っているようだった。


「肩越しに振り返ったその表情は、伝えたい気持ちを必死に堪えているようだった。今でも思い返すたび、胸の奥が軋む」


 彼の声は、冬枯れの枝のように掠れていた。


 一言一言が、あの日の記憶を掘り起こし、彼自身を責め続けている。ローベルトは、二十年以上前の扉の前から、まだ完全には帰ってきていないのかもしれなかった。


 わたしはそっと視線を落とした。


 膝の上で布端をつまむ指に、痛いほど力が入る。身体の内側に広がる冷たい感情を、ゆっくり噛みしめる。


 母はその時、どんな思いで王宮への道を戻ったのだろう。


 誰にも言えない何かを抱え、伝えたかった言葉を胸の奥へ押し戻したまま。想像するだけで、呼吸すらままならなくなる。


 それでも、わたしはその選択の意味を知らなければならない。


 それが、娘であるわたしの背負うべき贖いなのだから。

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