偽りの儀式、真実の名
それから数日は、何事もなく過ぎていった。
眼下に広がる町並みは、いつもと同じ顔をしていた。朝は薄い霞が屋根の稜線を撫で、昼には石畳の照り返しが白く滲む。夕刻になると影が長く伸び、王都の灯は何事もなかったかのように一つずつ点っていく。
儀式の混乱は、少なくとも表向きには、どこにも尾を引いていないようだった。
わたしの扱いは、罪人というより客人に近い。ただ、行動の自由だけがない。朝になると侍女が訪れ、食事から身の回りの世話まで、驚くほど丁寧に整えてくれる。銀の盆に並ぶ器はどれも過不足なく美しく、匙を取るたび、ここが牢ではないことだけを思い知らされた。
それでも、扉の向こうに立つ気配は消えない。
会話はない。足音もない。ただ、いる。人の気配だけが、磨かれた銀器の冷たさみたいに、部屋の外で静かに光っていた。
前世の言葉で言うなら、まるでホテルに缶詰めにされたようなものだ。
そして、ついにその人はやってきた。
古びた扉が、低くきしんで開く。部屋に張っていた音の薄膜が破れ、外気がひとつ、石の匂いを連れて入り込んだ。振り返ると、儀式の場で声を掛けてきた壮年の男が、そこに立っていた。
豪奢な刺繍のマントはあの時と同じだった。けれど、纏う空気が違う。庭園では、群衆と国王のあいだに立つ監督官の顔をしていた。今はその仮面が少しだけ剥がれ、別の輪郭が覗いている。
短く整えた銀髪が、窓から差す陽を硬く弾いた。瞳はわたしをまっすぐ捉えていたが、庭園で浴びせられたような圧はない。むしろ、入口で一度だけ足が止まる。
その半拍の沈黙。
それから彼は、ゆっくりと踏み出した。軍靴の音にしては、妙に静かだった。
「ようやく、直に顔を合わせることができたな、ミツル・グロンダイルよ」
低く抑えた声が、石の空気に沈んだ。
「私の名は、セバスティアン・ローベルトという。一応は騎士の端くれだ」
わたしは思わず背筋を伸ばした。
「騎士の端くれ」は、おそらく謙遜だ。仕立てのよい紺色の制服。指先から視線の置き方に至るまで、無駄がひとつもない。騎士団か、軍の要職。そう思った瞬間、喉の奥がわずかに乾いた。
「わたしの方こそ、あなたとお会いできることを心待ちにしておりました」
慎重さを滲ませ、一礼とともに告げる。声の端がかすかに引きつれたのを悟られまいと、ゆっくり顔を上げた。
彼の口元が、わずかに弧を描く。
「君がどんな人物なのか……どうしても直接会って、確かめたくてな。こうして赴いた次第だ」
確かめたくて。
その言い回しが、耳の奥に残った。探りたくて、ではない。疑って、でもない。すでに何かを知っている人間が、最後の手触りを確かめに来たような言葉だった。
塔に繋がれた少女を、将に近い立場の男が「確かめ」に来る。
その理由がまだ見えず、背の内側に薄い冷えが残った。
ローベルトは一度言葉を切り、ゆっくり室内へ目をやった。簡素な家具。閉ざされた窓。ここ数日、わたしが過ごした小さな世界を検分するような視線だった。丁寧だが、荒らす気配はない。
「まずは、君はこの状況をどう受け止めている?」
「率直に申し上げれば、戸惑いが大きいです」
喉の乾きを押して答える。平静を装っても、みぞおちのざわめきまでは隠しきれなかった。
「戸惑い、か」
彼はわたしの答えを繰り返した。
問い詰める調子ではない。言葉を受け取り、その重さを手の内で量り、次の引き出しを選んでいる。そういう間の取り方だった。
「ミツル・グロンダイル……君はその名に相応しい行動を取る責務があることを理解しているのか?」
「それは、重々承知しております」
実際には、まだ理解しきれていない。
けれど「分からない」と言えば、この人の前では致命的な隙になる。そう肌で感じた。背筋に触れる石の冷えが、何も言わずにそれを教えてくる。
小さく息を吐き、わたしは自分から問いを投げた。
「恐縮ではございますが、あなたにお訊ねしたいことがあります」
「何かな?」
返答は短い。だが、構えた気配はなかった。むしろ、待っていたような静けさがある。
「王様はわたしを捕らえよとおっしゃいました。そして、あの聖剣とされるものの正当な資格者と名乗る男は、剣と心を通わせることのできない、まったくの偽物でした。なぜそのような者を用意していたのか。そもそも、あの選定の儀式を執り行った理由とは何なのですか?」
言葉を重ねるうち、自分の声が硬くなるのが分かった。
ローベルトの瞳がわずかに細まる。驚きではない。予想していた問いが、予想していた順番で来た。そんな表情だった。
「ふむ、君は思った以上に聡明な人物のようだ。やはりユベルの娘であると窺える」
低く抑えた声に、淡い感慨が混じった。どこか面白がるような響きもある。けれど、それは侮りではなかった。
「君の指摘した通りだ。あの男は儀式の体裁を保つための保険だった。資格を有する者が現れなかった場合の幕引きとして用意された、単なる駒に過ぎない」
彼は視線をわずかに窓へ逸らした。光が制服の肩線を薄くなぞり、すぐに消える。
「さりとて、彼は騎士団でも剣技において卓越した実力の持ち主であることは間違いない。そんな男を、君は歯牙にもかけなかった。興味深い結果ではあったな」
「いいえ。わたしは相手を見て、ただ回避することに専念していただけです。それだけですから」
「ふむ……」
ローベルトは一瞬、口角を引き上げた。けれど、すぐに真顔へ戻る。
「選定の儀式……それは国威発揚であることに疑いはない。しかし、最大の目的は別にあった」
彼はすぐには続けなかった。
卓上の水差しに映った光だけが、細く震えている。沈黙の間に、水面の揺らぎが胸の内側まで届くようだった。
「その目的とは……『黒髪のグロンダイル』と呼ばれる人物をおびき寄せることだ」
その言葉が、部屋に落ちた。
胸の芯が、すうっと冷えていく。
「……黒髪のグロンダイル……」
気づけば、わたしはその名を繰り返していた。
「やはりというべきか。このわたしを、おびき寄せるためでしたか……」
問いかけた声に、自分の呼吸が浅くなるのが分かった。
「そうだ。我々は君が現れるのを待っていた」
ローベルトの声は淡々としていた。けれど、その淡々さは冷酷ではない。自分の言葉ではないものを、正確に運ぶ指揮官の声だった。
彼自身がそれをどう思っているのかは、まだ読めない。
「二十年余り前、ユベル・グロンダイルは第三王女メイレア姫をさらい、国外へ逃亡したとされている」
「それは、全くの嘘偽りです……」
わずかに息を整え、静かに言葉を紡ぐ。
「どうしてそう言えるのか?」
「このわたしが、ユベル・グロンダイルとメイレア王女の間に生まれた子であるからです」
言葉がこぼれた瞬間、胸の奥にじんわり熱が広がった。
父と母の名を、自分の名とつなげて口にする。それは、刃を握るよりも怖く、けれど逃げてはいけない行為だった。
「……なるほど。確かに君はメイレア王女の面差しを受け継いでいる。いや、瓜二つと言っていいくらいだ」
ローベルトの声が、一瞬だけ変わった。
それまでの軍人の声ではない。もっと個人的で、記憶の底から引き上げられたような音だった。視線がわたしの顔の輪郭をたどり、どこか遠いところへ焦点をずらす。
だが、すぐに戻った。
すぐに――いや、ほんの半拍だけ、戻るのが遅れた。その半拍に、この人の何かが詰まっている気がした。
「母は父をたいそう愛しておりました。それはもう、子供であるわたしから見て恥ずかしくなるほどに。互いが互いを大切に思い合う関係だったことに、疑いの余地はありません」
「それは真か?」
「あなたは、何が仰りたいのですか?」
わたしの声が、少しだけ鋭くなる。自分でも、止められなかった。
「長期間にわたる監禁生活。その中で犯人が時折優しさを見せる。そして孤立無縁という状況……それらが重なれば、人は生存本能として加害者に心を寄せることだってある。知られた話だ」
その言葉は、刃ではなく、手続きみたいに滑った。
正確で、容赦がない。だがその正確さに、妙な違和感があった。王家が問うならば、当然出てくる仮説だ。軍人としての立場で、この問いを省くわけにはいかない。
それでも、彼自身がこの仮説を信じているかと言えば――声の置き方が、どこか義務的だった。
「母が……父によって洗脳されていたとでも仰るのですか? そんなこと、ぜったいにありえません」
声が荒くなった。抑えきれなかった。
石の部屋の空気が、わずかに張りつめる。けれどローベルトは、目を逸らさない。
「そう言い切れるのか?」
「はい」
短く、けれど力強く答える。
「なぜならば、二人には確かな絆の証があったのです。この剣がそのすべてを物語っています」
両手をそっとマウザーグレイルの柄に添えた。
掌に伝わる金属の冷たさが、乱れた呼吸を落ち着かせていく。ここにある。この剣はここにある。父と母のあいだにあったものが、わたしの手の中へ続いている。
ローベルトは何も言わず、わたしと剣を見つめていた。
その目に、庭園で一瞬だけ見えたものと同じ色が差している。厳格さの奥にある、名前のつかない感情。
「私はこの剣についてどうしても君に訊ねたくて、強引に『聖剣を模した玩具』だと押し通したが……これが二人に何か関係があるというのか?」
その問いの運び方に、指先が反応した。
押し通した。
庭園での方便を、彼自身が方便だと認めている。胸の奥で、何か細い糸がかすかに震えた。
「はい。この剣は、わたしが物心つく前から、居間の壁に飾られていました。両親はこれをとても大切に扱い、慈しんでいましたし、母などは時折この剣を抱きしめて、心を通わせるように語り掛けていたのです。ですが、その母も原因不明の転移現象により、行方知れずに……」
ローベルトの眉が、ほんの少し動いた。
驚きの形ではなかった。何かを確認した、という動きだった。
「それは本当か?」
声の底に、思いがけない重みがあった。
「……はい。その後父とわたしは、母を探し求めるため、この剣を携えて旅に出たのです。ですが、その父も一年半以上前、魔獣の大群からわたしを守るために……命を落としました……」
最後の言葉を口にするたび、喉が締め付けられる。
言葉は整っているのに、熱がついてこない。泣くはずの場所が、からっぽのまま残っている。乾いた器の底に、爪だけが触れるような感覚だった。
ローベルトの瞳が、ほんのわずかに曇る。
驚きではない。どこかで聞いた話を、目の前の声で確かめ直すような曇り方だった。けれど、その曇りが消えないまま、口元だけが固くなる。
「……あのユベルがか? 到底信じがたい。だが、そういうことか……」
わたしは再び、静かに頷いた。
「はい……これは紛れもない事実です」
彼は短く息を吐き、視線を伏せた。
「……その後、君はたった一人で?」
「はい。一年ほど前にエレダンに辿り着いたわたしは、魔獣狩りのハンターとして生計を立てていました。そして、父と母に関する情報を得るため、あえてグロンダイルの名を明かして、活動していたのです」
「……そういうことだったか……」
わたしの言葉を、彼は遮らなかった。急かしもしない。ひとつずつ受け取っていた。
それは尋問する者の聴き方ではなく、報告を受ける指揮官の聴き方に近い。すでに輪郭を知っていて、細部を埋めている。そういう間合いだった。
ただ、父の名を口にするたび、彼の肩甲骨のあたりが微かに強張るのが見えた。制服の布地が、ほんの一瞬だけ張りを変える。
「私から伝えられることがある。ただし、これは君にとって残酷な現実を突きつけられることになるやもしれん。それでも構わんか?」
「はい。覚悟はしております。わたしにとってそれは向き合うべきもの――逃れられない宿命だとわかっています。そうでなければ、ここに来た意味がありません」
ローベルトの視線が、一瞬だけ動いた。
まばたきより短い揺れ。けれどそれは、わたしの言葉を量っているのではなく、何かを決めたときの動きに見えた。
「では伝えよう。まず、ユベル・グロンダイルの罪状についてだ」
「はい……」
「王家の立場としては、一度公表した以上、それを翻すことはないだろうということだ。決してな……」
その言葉が、部屋の空気をひとつ重くした。
水差しの光が、もう揺れていない。
「その裏に何らかの理由、或いは真実が隠されているとしても、ですか?」
「そうだ。もしそれが知れれば王家の権威を傷つけることになる。現在の王は、殊更に面子に拘る方だ。決してお認めにならないだろう」
ローベルトの言葉に抑揚はない。
だが「現在の王は」と口にしたとき、顎がわずかに引かれた。仕えてはいるが、仰いではいない。そういう顎の角度だった。
「そんな……」
小さな声が口をついて出た。
歯を噛みしめる。そうしなければ、何か別のものまでこぼれてしまいそうだった。
「そして、黒髪のグロンダイルをおびき寄せようと画策したのは、宰相をはじめとする一部の側近たちの進言によるものだ。彼らは北方ケリンから流れ着いた噂を耳にして、不世出とされる魔術師の力量に興味を抱き、価値あるものであれば取り込む腹づもりでいた」
「実に狡猾ですね。それにしても、わたしは道具扱いですか。人の意思など関係ないと」
口の端がかすかに引きつれる。
自分の名が、血筋が、力が、紙の上の駒みたいに扱われていく。その冷たさが、指先へ遅れて届いた。
「もし、そのような強力な魔術師が他国の手に渡るようなことになれば、脅威となる可能性は高い。それを未然に防ぐため、動いたまでのことだ」
その説明は、国の論理としては筋が通っている。
通っているからこそ、腹の底が冷えた。だが同時に、彼の声はこの話を語るときだけ、妙に平らだった。自分の意見を述べているのではなく、誰かの立場を代弁している。そんな温度。
「それが正しい政の姿、というわけですね。そして今のわたしは、王家に利用されるためだけに生かされていると」
「そう捉えるのは自由だ――」
ローベルトの瞳が、わたしに注がれる。
声は硬い。だが「拒むこともできる」と言ったとき、膝の上の指が一本だけ、わずかに動いた。
拒むな、と言っているようにも見えた。
あるいは、それはわたしの読みすぎかもしれない。
「――拒むこともできるだろう。だが、その結果は自分で背負う覚悟が必要だ」
「覚悟なら、とうにできています」
わたしは彼を見据え、一歩前へ踏み出した。
床の石が冷たい。けれど、その冷たさが足裏へ返ってくることで、自分がまだここに立っているのだと分かった。
「わたしは父と母の名誉を守るためにここに来ました。真実を知り、それを手にすることこそが、わたし自身の生きる道だと信じております」
その言葉が、静かに部屋へ落ちた。
ローベルトの目が、一瞬だけ細まる。
「その覚悟が本物かどうか、いずれ証明する時が来るだろう」
彼はそう言いながら立ち上がった。
けれど、すぐには続けなかった。窓の方へ半歩だけ体を向け、外の光を受けた顔の半分が陰になる。何かを量っている。将軍として言うべきことと、個人として言いたいこと。その境目に立っているような間だった。
「その前に、一つだけ昔話をしておこう。君にとってそれが、手がかりになるかどうかはわからないが」
「昔話、ですか……?」
心臓の鼓動が、ひとつ強く跳ねた。
指先が、無意識に柄を握り直していた。金属の冷えが掌へ移り、そこから細い緊張が腕の内側を上っていく。
この人の言葉は、どこまでも硬い。
軍人として隙がない。なのに、その硬さの隙間から、名前のつかない何かがずっと漏れている。
それが何なのか、わたしにはまだわからなかった。




