白銀の塔にて
冷たい石に背を預ける。
薄く硬い冷えが衣の繊維を抜け、皮膚の奥へ、音もなく沁みていった。ここで動いているものは、耳の内側に残るわたしの呼吸だけだった。
扉の向こうには、人の気配があるはずだった。けれど足音も、鎧の擦れる音も、わざと消されている。鍵が回ったあとの沈黙だけが、この場所の規則みたいに濃く沈んでいた。
ここは白銀の塔、その最上階。
壁は銀白の石で組まれている。湿りを含んだ面が月を受け、淡く返す。その光は美しいのに、少しも温かくない。誰かを迎えるための部屋ではなく、誰かを置いておくための場所。鍵穴から忍び込む細い風だけが、この部屋の息づかいだった。
さっき聞いた「預かる」という言葉が、石の冷えに似たかたちで、まだ耳の奥にひっかかっている。
おとぎ話なら、囚われの姫がため息を落とす場所なのだろう。けれど、わたしはお姫様じゃない。母は、そうだったのかもしれない。けれど、この役はわたしの肩に少しもなじまない。口に出すときは「母さま」と呼ぶくせに、胸の奥ではいつも、もっと短い音にしかできなかった。
室内は、思っていたより広かった。
中央の厚手の敷物は、掌で押せば底から冷えが返ってくる。壁際には天蓋の寝台。薄い幕が垂れ、控えめな細工だけが、かつて高貴な誰かがここで夜を重ねたことを告げていた。いまは灯りの落ちた舞台装置みたいに、ただ静かに形を残している。
隣の小ぶりな鏡台には、丸い鏡の擦り傷が白く残っていた。引き出しの木口には古い蝋の匂いがかすかに沁み、縁の彫刻はところどころ角を削がれている。引き出しは空だった。人の温度は消え、過ごされた時間だけが薄く滲んでいる。
窓辺に腰を落とす。
眼下の夜の王都は遠景でまたたき、灯の群れだけが遠い温度の気配をこちらへ寄越していた。賑わいの息づかいは、ここまでは届かない。見つめるほど、遠さは鎖のようになって、今のわたしをこの場所へ縫い止めていく。
剣を抱き寄せる。
金属の冷えが骨へ触れ、乱れていた呼吸を浅く揃えた。そのとき、茉凛の声が、水面に落ちる月の反射みたいに心へ触れた。
《《どうしたの? さっきからため息ついてばっかり》》
「どうしたもこうしたもないよ……」
短い吐息が柄へ落ちる。掌に沈む重さは、この塔で唯一の寄る辺だった。
「グレイさんが教えてくれた場所に、こうしているってのがね。わたしなんか、お姫様でもなければ、巫女でもないのに」
沈黙がひと呼吸ぶん、長くなる。
指先が柄の革をなぞった。乾いた擦れが、小さく鳴る。
「……母さまのことを思い出すと、胸が細かく裂けるみたいで」
《《そうかな? だってメイレアさんはこの国のお姫様だったんでしょ? ということは、ミツルもその血筋を引いてるわけだから、やっぱりお姫様ってことになるんじゃない?》》
「理屈の上では、でしょ。……お姫様ってのはね、ただ血筋だけでなれるものじゃないの。育ちも、教養も、礼儀作法も、そして何より王族としての覚悟。ぜんぶ……わたしにはない。それに……欲しくもないよ、そんな堅苦しい肩書きなんて」
鏡台の縁へ指腹を置く。ひやりとした木肌が、触れたところだけ正直に熱を奪っていった。
《《うーん、そういうものなのか》》
「そういうものなの。それに、精霊の巫女っていうのも……自分とはどこか違う気がするのよね」
《《どこが違うの? 剣から声が聞こえるっていうのも神秘的だし、巫女っぽいんじゃない?》》
「わたしたちのこと言ってるの? 違うでしょ。神秘というよりは、なんとなくシステム的なものにも感じるし」
《《根源……デルワーズが言ってたこと、気にしてるの?》》
「『戦うためだけに作られた兵器だった』なんて聞かされれば、当然でしょ。彼女が生まれたこの世界は、一見ファンタジーのように見えて、背景はまるで違うような気がしてる」
《《だよねー。期待してたのにさ、エルフもドワーフも出てこないんだもん。バルグは別として》》
「こらこら、バルグは人間だよ。失礼なこと言わないの。たしかにまぁ……いろいろと規格外ではあるけど」
一瞬、精霊族との関連が過った。
けれど、彼はあくまでヒトの範疇だ。そう言い分けてしまうのは、相手を測っているからではない。言葉の箱を間違えた瞬間、わたしのほうが崩れてしまいそうだったからだ。
――この世界って、案外……わたしたちの前世の世界と近しかったり……。
そんな気もしている。
断定はできない。けれど、この世界には、いわゆる物語的な魔力、マナ、聖なる力、闇の力。そういった都合の良いものは存在しないように思える。あるのは前世の深淵の血族が定義するところの『精霊子』と、異界と繋がるとされる『虚無』の裂け目から湧き出す魔素のみ……。
指先に残った蝋の匂いが、遅れて鼻へ戻った。甘いのに冷たくて、喉の奥がわずかに乾く。
――わからないことだらけ、ということね。
窓の外で、風が高いところを撫でていく。灯の粒がほんの少し揺れ、その遠さが、冗談の余熱をすぐに薄めた。
「思うに巫女って、もっと何か大きな存在と繋がってるものじゃない? わたしたちがマウザーグレイルを通して繋がってるのは確かだけど、それは……個人的というか、わたしたち二人の間だけのことだし」
窓外へ視線を滑らせる。
瞬きをするたび、遠景の輪郭がわずかに揺れた。
「そもそも、わたしの前世っていうのは、デルワーズに因子を植え付けられた――深淵の血族だったわけで。だから黒鶴が使えた。そして、同じように力を使えてしまう『ミツル』もまた、精霊の巫女たちとは違う別の何かの介入を受けているのかもしれない。デルワーズは兵器として作られたと言った。それって、自然発生した存在とは違うってことだよね?」
《《……たしかに。精霊族って自然と調和してた種族なんでしょ? 兵器を作るとは思えないし。リーディスは、その精霊族の末裔だし》》
「でしょう? 結局、わたしの力は戦うためのものなのよ。一般魔道具みたいな生活レベルの低出力じゃない。つまり……人を傷つけ殺す兵器と何ら変わらない。なんだか、自分が嫌になるわ」
剣を抱く腕に力が入る。
刃の冷えがみぞおちへ移り、脈は浅く整った。
《《美鶴、それは考えすぎだよ》》
「……でも、わたしには啓示を受けて人を導くなんてこと、できやしない。どこからか声がするとか、そんな気配いままでこれっぽっちもないんだから」
《《それでも、美鶴は美鶴だよ。力をどう使うかは、結局自分次第なんじゃない? 戦うための力だって、人を救うための力にもなる。そりゃ、巫女ってものとは違うかもしれないけど、誰かを導くことだってできると思うよ》》
「……そんなの、無理。自分のことだけで精一杯なんだから」
《《それはどうかな? 美鶴って、自分のことなんて放り出して、すぐ突っ走っちゃう人だから》》
「うっ……」
喉奥で言葉が止まる。
図星は、背筋の奥をきゅっと縮めた。嫌いじゃない指摘なのが、また癪だった。
《《わたし、思うんだ。あなたはお姫様や巫女なんかより、もっと大きな存在になれるんじゃないかなって》》
「わたしが? そんな馬鹿なことあるわけないでしょ」
《《だーめ、夢はおっきくないと。『自分はここまでだ』なんて言ってたら、ぜんぜん楽しくないよ》》
「夢ね……」
窓枠の石に頬を寄せる。冷たさが皮膚へ移ると、言葉の棘が少しだけ丸くなった。
《《無理しなくていいよ。答えなんて、あとから考えればいい》》
「……それもそうだね。今は、分からないことだらけだし」
《《そうそう。一つずつ解決していこう? 考えすぎても疲れるだけだよ。あとね、『なせばなるは、なるようにしかならないとも申す』》》
「なにそれ? 意味がわからない」
素っ気なく跳ね返した声が、自分の耳にも硬く響いた。
《《がんばらなきゃ何も始まらない。でも、どれだけ頑張っても結果は『なるようにしかならない』。だからさ――力を尽くしたら、あとは自分を責めすぎなくてもいいんだってこと。これはわたしの人生訓みたいなものかな》》
「……ただの屁理屈じゃないの」
《《屁理屈でもいいじゃない。ちょっと肩の力が抜けるならね。真面目に考えすぎると、石みたいに固まっちゃうでしょ? それに結局、美鶴は『頑張るな』って言っても頑張っちゃう人だから》》
横目に剣を見る。
刃の輪郭が闇にやわらかく浮いている。……なるようにしかならない。口の中でそっと繰り返すと、固まっていたところが少しほどけた。
「……人事を尽くして天命を待つ、ってやつ? それはそうかもしれないね。ありがとう、茉凛」
腕から力を抜く。
体温と鋼の境界がやわらぎ、息がひと段深く落ちた。孤独は消えない。けれど、声の温度が空気をすこしだけやわらげていく。
薄い耳鳴りとともに、どこかで古い蝶番が低く軋んだ。
「さて、狙い通り王宮に入り込むことには成功したけど、これからどうしたものか」
《《とりあえず、相手の出方を見守るしかないよね。それにしてもだけど、あのいかにも偉そうでゴツい男の人、喋り方が、ちょっと気になったんだよね》》
「……だよね」
遠い灯が瞬き、近くの静けさをいっそう濃くする。
「……彼が止めてくれなかったら、助け舟を出してくれなかったら、今頃どうなっていたことか……」
想像した途端、胃の奥がきゅっと縮んだ。
カテリーナとの事前の打ち合わせ――紙片の上でだけ共有した計画では、偽勇者の登場までは予測していた。けれど、そこから先は完全な即興劇みたいなものだった。紙の端に残る墨の匂いと、指で押さえた皺の感触だけが、今になって鮮やかに戻ってくる。
《《あはは、黒鶴でどーん! とかなってたかも?》》
笑い声が消えたあと、鍵穴の金属がかすかに鳴った。
風が触れただけの、ひどく小さな音だった。
「笑い事じゃないって。こっちは内心ひやひやしてたんだから」
《《でも、美鶴は堂々としてたよ。あの偽物勇者の顔ったらおかしくて、笑いをこらえるの大変だったんだから》》
「あなたね、こっちは演技するのに必死だったのよ。そんな余裕なんてなかったわ」
頬をふくらませると、夜気が唇に薄く張りついた。茉凛の声が、その張りつきを剥がすみたいに明るくなる。
《《でもね、舞台の上の美鶴は本当に映える。観客の視線が一点にぎゅーって集まるのが分かったよ。やっぱりヒロインの役は美鶴しかいないなって!》》
「……そ、そういうの嬉しくない。それに、わたしにとって演じるっていうのは、いろいろ複雑だったりするのよ」
《《どういう意味?》》
「割り切れないといったらいいか、役そのものになりきったつもりでいても、それがふっと切れる時があってね。まるで谷底に落とされるみたいで、すごく怖いの」
《《メイヴィスを演じた時も、そうだった?》》
メイヴィス。
前世の舞台で与えられた役名だ。似ているようで、メービスとは綴りも発音も違う。口にすると、息の抜け方まで変わる。
「うん。とってもしあわせで高揚した気分だったのが、急に我に返ってしまって……。現実の自分と役の落差に愕然として、いったい何をやってるんだろうって気づくの。偽勇者の人に対した時もそうだった。彼の尊厳を貶めるような酷いことをしてしまった……」
《《そうかな?》》
「そうよ。あの人言ってたじゃない。『剣一筋に生きてきた』って……。そのプライドをわたしは根底から壊してしまったのよ。なんて意地の悪いことをしてしまったんだろうって……」
《《ほんっと優しすぎるんだよね、美鶴は》》
「やめてよ。ただ、そういうの気分良くないってだけの話」
《《そうやって気付けるから、いいんじゃない? 学園祭の舞台で『やっちゃった』時のことも、わたしわかってる。だから泣いちゃったんだってことも》》
「だから、蒸し返さないでよ。恥ずかしいんだから……」
記憶の温度が、塔の夜気を一歩だけ退かせる。
学園祭の木の匂い、幕裏の粉、足裏のきしみ。細い断片が、息と一緒に甦った。
「……でもね、父さまの剣技をなぞっている時、本当に茉凛と手を繋いで踊っているみたいだったのよ。学園祭の舞台で、メイヴィスとウォルターとしてダンスをした、あの時みたいに……」
《《懐かしいね。わたしもそんなふうに感じてた》》
「そっか……それなら、ちょっと嬉しい」
掌の奥に、小さな灯がともる。
石は冷たいままでも、その灯だけは消えなかった。
肺の隅々まで夜気を入れ替えると、雑音が澄み、思考は静かな面になった。喉の奥はからりと乾き、鼓動が一つだけ強く跳ねる。
「この閉ざされた塔の中で、わたしにできることは何だろう?」
柄へ視線を落とす。
呼気が薄い曇りを描いた。この剣がある限り、わたしは茉凛と繋がっていられる。その確かさだけが、いまの重さを均している。
「それが、ミツルとしての役を、いいえ、これからを生きていくための鍵になるような気がする」
《《話は変わるけどさ、あの人わたしを取り上げようとしなかったんだよね。まじたすかったー、と思った》》
その軽さが、石の冷えに吸われていく。
わたしの耳に残ったのは、言葉より先に戻ってきた沈黙だった。
あの人は、剣を取り上げなかった。
王宮の中枢に近い立場なら、まず疑うはずなのに。伝説と同じ形というだけで、十分に異質だというのに。
耳の奥で声が反芻される。
捕縛の後、わたしの訴えに返ってきた言葉――
『この剣に、人を裂く刃は備わっていない。証言の通り、聖剣を模しただけの――ただの玩具に過ぎん。父親が御守り代わりに授けた、と見るのが妥当だ。心配は無用。いかに卓越した魔術師であろうと、白銀の塔の最上階から逃れ出る術はない』
理に従う声は冷静で、それでもわずかな温度が混じっていた。
あの瞬間、心拍は乱れて、肋が軋むほどだった。
方便だったのか。あるいは彼自身のどこかが、わずかに引っかかったのか。
壁の石の匂いをひとつ深く吸い、マウザーグレイルを抱き寄せる。
考える時間はある。
彼の意図をたぐり、自分の進路を描き直す。風が高みで細く鳴り、遠い未来のさざめきみたいな音が、呼吸の芯へ小さな決意を置いていく。
「いつか、すべての謎が解かれる時が来る。でも、その時わたしはどうなってしまうのだろう……」
静かな呟きが、夜の空気に溶けて消えていった。




