名を継ぐもの
「そこまでだ!」
重厚な声が轟いた瞬間、庭園の空気が凍りついた。噴水の落ち口の音が細り、わずかなざわめきさえ吸い込まれていく。
人々の視線が声の方へ引き寄せられた。
特別観覧席の列から、紋章入りの豪奢なマントを纏った壮年の男がゆっくり立ち上がる。灯の揺れが金糸を鈍く光らせ、肩口の線をいっそう硬く見せた。
表情は冷ややかに静まり、怒気の色はない。だが額の皺と鋭い双眸が、これ以上は許さぬという断固たる意志を示していた。
少女も、膝をつく男も、無意識にそちらへ顔を向ける。従うというより、身体が先に引かれてしまう重みだった。
壮年の男の眼差しはまず、敗れた男へ。言葉を交わさずとも失望の色が濃い。次いで少女へ。厳しさは同じはずだった。だがそこに、ほんのわずか――叱責とは異なる何かが混じっていたことに、気づいた者はいない。
「双方、剣を収めよ。国王ロイドフェリク陛下の御前である。これ以上の無意味な剣の交錯は許されぬ。此度の儀式を監督する、この私が命じる」
低く響く声が石肌に反響し、空気を縫い止めた。
特別席の奥で、国王は腰を浮かせることもなく、ゆるやかに顎を引いた。口元がわずかに緩んでいるようにも見えたが、距離があって判然としない。ただ、止める気配がないことだけが確かだった。
まず、膝をついていた男が握った柄から力を抜く。白銀の光がわずかに沈んだ。立ち上がらないまま両手で聖剣を支え、台座へゆっくりと差し出す。金属と石が触れ合う硬い音がひとつ鳴り、柄が定位置に収まった。男はそのまま額をわずかに下げ、後方へ静かに引き下がる。鎧の継ぎ目が一度だけ鳴って止んだ。
少女はそれを見届けてから、遅れて剣を下ろした。光の粒子がふわりと揺れ、白い刃が鞘の口に触れて静かに滑り込む。収まった瞬間、噴水の音が元の高さへ戻り、庭園はようやく呼吸を取り戻した。
「そこな少女よ」
男の声がさらに低く鋭さを増した。
「その剣と共に示した力……それはいかなる信念に基づいて行使されたものか。この場で聞かせる覚悟はあるか?」
少女の表情は微動だにしない。翡翠色の瞳がまっすぐに男を射抜いている。
「この場に参上いたしましたことは、単に力の誇示だけではございません」
声は大きくはない。それでも庭園を満たした。
壮年の男の眉がわずかに動く。
「では、問おう――」
重低音が石肌に響いた。
「――今そなたが見せた剣技、見覚えがある」
少女は一瞬だけ伏し目になり、長い睫毛が頬に影を落とした。わずかに首を傾げて静かに応じる。
「左様でございますか……」
男は短く息を吐き、さらに続けた。
「その剣筋は閃光と呼ばれるほどに鮮烈。一見舞踏のようでありながら、美の奥に宿る冷徹な鋭さは唯一無二。あれを目にしたのは――遠い昔のこと。だが今、私はそなたに、その者の影を見ている」
声の底に、懐かしさを滲ませた微かな感慨があった。群衆の中で、名を告げずとも察した者の息が短く漏れる。
少女はしばし伏し目のまま、沈黙を受ける。
「その者とは、もしや……」
言いかけた声を遮るように、男の重い声が庭園を満たした。
「……『閃光のユベル・グロンダイル』。かつて中央大陸を席巻した、剣舞の魔術師と謳われた男だ」
名が響いた刹那、空気が変わった。敬意と畏怖を同時に呼ぶ名が、今、目の前で甦っている。
少女の瞳にかすかな光が差し、伏せられたまつ毛の影に、憧憬と哀しみが交じった。
「グロンダイル――その名はわたしにとって誇りであり、同時に重荷でもあります……」
さざめきが消え、静寂が満ちる。
「では、申し上げます。わたしの名は、ミツル・グロンダイル――」
翡翠色の瞳が真っ直ぐに前を向いた。
「――ユベル・グロンダイルは……わたしの実の父です」
庭園が揺れた。人々の目が見開かれ、驚愕の息があちこちで重なる。
壮年の男は深く息を吸い、目を閉じた。再び開いた目は、厳しい顔のまま――ほんのわずかに、眦がゆるんでいた。
「……ならば道理がいく。そなたの見せた剣技――あの独特の回転体術……それでこそ合点がいくというもの」
ミツルは静かにそれを受け止めた。唇の端がほどけ、感謝を含んだ微笑みに変わる。
「お言葉は光栄なれど、わたしは父の技のすべてを受け継いではおりません。授かったのはその技のひとかけらと、背負いし魂の重み――ただそれだけです」
壮年の男は頷いた。遠い記憶を思わせる目を一瞬漂わせたのち、視線を引き締める。問いの調子が変わった。個人の感慨を畳み、監督官の声に戻している。
「ならば、問おう。この場でそなたが振るった剣。――その力は何のために使うものか?」
ミツルは剣を握る指に力を込め、静かに顔を上げた。
「この剣は――誰かを守るためにあります。かつて父が『民衆の為に』と誓いを立てたように――」
澄んだ声が庭園を渡った。
「そのため以外に振るうことは、決してございません」
余韻がひとつ落ちた。だが、すぐに波紋のようなざわめきが広がり始める。
「おい。グロンダイルって……たしか二十年前、メイレア王女を拐ったっていう……」
「国が懸賞金を掛けた大罪人だろう?」
「あの娘がその血を引いているってことかよ……」
「ミツルちゃんが? そんなばかな……」
「じゃあ、母親は誰だってんだい?」
「まさかとは思うけど……王女ってこと? ミツルちゃんは王族なの?」
視線が一斉に少女へと注がれた。驚きと動揺、不信、そして露骨な敵意すら混じり始めている。先ほどまで剣技に魅せられていた者たちも、血筋が明らかになるや声を潜めて囁き合った。
ミツルは動じない。全ての視線を真正面から受け止め、立ち続けている。頬を撫でた風が冷たく、首筋に薄い汗が引いていくのだけが、この場の重さを刻んでいた。
特別席では、国王が頬杖をわずかに崩し、隣の近侍に何か短く囁いた。近侍が頷き、控えの間へ下がっていく。その動きは庭園の喧噪に紛れ、気に留める者はほとんどいなかった。
「静まれい!」
重厚な声が大庭園全体を圧し、ざわめきが退いていく。
壮年の男の視線が再び少女に注がれた。
ミツルは静かに息を吸い込み、口を開く。
「わたしの父が、ユベル・グロンダイルであることは紛れもない事実です。そして、国から追われる身であったことも――決して否定はいたしません」
飾り気のない声が、澄んだまま響いた。
「……ですが、わたしは父のすべてを知るわけではありません」
視線をそっと落とし、短い間を置いた。
「わたしが知るのは、父がわたしと母を守るために戦い、命を懸けてきたということ――そして、それがすべてを超えて、わたしの誇りであるということです」
庭園にざわめきが戻る。しかし先ほどの敵意ではなく、困惑に思案を交えた柔らかな響きに変わっていた。
「わたしは父の名を背負います。そして、その罪もまた、静かに背負う覚悟があります。しかしながら――その罪とされるものの真実を、わたしは知りません」
握る剣の柄がわずかに震えた。
「わたしは真実を突き止めたい。そして、父から託されたこの剣と、王家の聖剣との関連を確かめたい。それがここへ来た目的であり、この場に立っている理由です」
一度、深く息を吐く。
「重ねて申し上げます。わたしの剣は――父から託された思いと、わたし自身の意志で振るうものでございます。誰かを傷つけるためではなく――誰かを守るため。決して王家に仇なすためではございません。それだけはご理解ください」
言葉が庭園に広がり、空気を震わせた。
「ユベル・グロンダイルの娘であるわたしを――どう扱うかは、皆様方に委ねます。わたしはただ、ここで剣を振るった理由を胸に刻み、すべてを受け入れる覚悟があります」
声の余韻が沈んだ。壮年の男がゆるやかに口を開く。
「そなたの覚悟は確かに見届けた。されど、この場にいるすべての者が、その信念を理解し、受け入れるとは限らぬ」
声が一段落ちた。個人としての重みが、わずかに滲む。
「――すべては、これからのそなたの選択と行動次第であろう」
「と、いいますと?」
ミツルは動じることなく問い返した。声は落ち着いている。だがその瞬間、呼吸がほんの半拍だけ深くなっていた。備えるように。あるいは、待っていたかのように。
男はさらに続けた。
「第一に、そなたは選定の儀式を乱した。これは紛れもない事実。そして――罪人であるユベル・グロンダイルの血を引く者であることも、もはや疑いようがない……」
一瞬、言葉の調子に揺らぎが混ざった。罪人、と口にしたとき、唇の端がかすかに歪んだ。その名を罪に結ぶことへの、飲み込みきれない何かが覗いている。
「……よって、そなたの身柄は我々が預かる。沙汰については、事情を詳しく聴取した上で下す。よいな?」
その言葉が石肌に反響し、庭園を支配した。
ミツルは深く息を吸い込み、剣を下ろした。足裏の冷えが靴底を透いている。小柄な体は震えず、表情にも崩れはない。むしろ、微笑みの底がわずかに据わったように見えた。
「……承知いたしました。それがこの場を治めるために必要なことであるのなら、わたしもまた従うのみです。ただし――この剣を振るう意志だけは、決して失われません」
壮年の男はじっと彼女を見据えている。視線の角度が、ほんのわずか変わった。測る目から、確かめる目へ。その変化は群衆からは見えない位置で起きていた。
「良い心構えだ。もはや無用な混乱を招くこともあるまい」
ひと呼吸置き、瞳が細められた。
「だが、これだけは忘れるな。そなたが何を守り、何を誇りとしていようとも――この国において、ユベル・グロンダイルの名が持つ意味は、決して軽いものではない」
その声は警告の形をしていた。だが声の底に流れる温度が、言葉の刃を鈍らせている。
「そなたは我らの管理下に置かれる。――自由の重みを軽んじることは、この国では決して許されぬことを、よく心得ておけ」
「はい……」
深く頭を下げた。所作は凛としており、抵抗の色はない。伏せた睫毛の下で、瞳だけが一瞬、庭園の奥――王宮へ続く回廊の方角を捉えていた。
壮年の男は観衆の方へ一歩進み、庭園全体に視線を走らせた。
「皆の者。此度の儀式は不測の事態により、遺憾ながら一時中断とする。余計な噂を広めることは、秩序を乱す行為と見なす。慎め」
噂を封じる宣言だった。だがその封は、少女の名を守る壁にもなる。それを意図したかどうかは、壮年の男の顔からは読めなかった。
人々は次々と頷き、名残惜しげに少女へ視線を投げながら退いていく。
残された庭園に、冷たい静けさが降りた。噴水の音だけが元に戻り、花壇の縁石に溜まった水滴が、ひとつ、遅れて落ちた。




