ヴィルとの狩り 場裏展開
翌日。冷えた朝気が肋の内側へしみ、背すじがすっと伸びた。今日はヴィルと二人で狩りへ出る。いつもは一人で湧き場を巡るのが習慣だったが、今日は違う。彼に自分の実力を示したい。同時に、彼が魔獣相手にどう戦うのか、この目で確かめたかった。
乾いた土の匂いに、かすかな金属めいた魔素の気配が混じってくる。遠くの草丈が揺れ、薄紫の薄膜が地表を這った。霧が滞り、魔素が淀む。湧き場特有の気配だった。
砂の細かな粒が外套の裾に触れ、歩幅のたびに微かな擦れを残す。
ヴィルの愛馬・スレイドに乗せてもらったわたしは、膝の内側がこわばるのを堪えながら、彼の背の縫い目を指でつまんでいた。革鞍の匂いと馬体の温い蒸気が、指先へ静かに移る。
スレイドはヴィルの相棒だ。黒いたてがみ、逞しい脚。驚くほどおとなしく、初対面のわたしにも優しい。振り向いたつぶらな瞳に見返され、頬がゆるんだ。
「ヴィル、もう少しで着くんじゃない?」
背中越しの声が風に溶け、わたしは手綱の革の温度を指に確かめた。
「ああ、お前がくれたギルドの地図通りならば、あともう少しだ」
吐く息が白くほどけるころ、予定の湧き場が見えてくる。わたしはおそるおそるスレイドから降り、膝に残る微かな痺れを踏みしめて周囲をうかがった。ヴィルも馬を降り、肩が触れる距離で並び立つ。彼の視線は冷たく澄み、風の向きと地形を一息で測っていた。
砂粒が靴底でこすれ、遠くで枯れ枝が乾いた音を立てた。
「何か気配を感じるか?」
問いに応えるため、わたしは静かに目を閉じた。
まぶたの裏に薄紫のざわめきが触れ、皮膚が細かく粟立つ。
「……うん、感じる」
唇に乗せた言葉は小さく、でも確かだった。頷いたヴィルの気配がわずかに緩む。
「魔獣から滲み出る魔素を探知するのは、魔術師の得意分野だからな。頼むぞ」
風と砂のざわめきが、思考の輪郭を整えていく。
「……いる」
目を開けると、遠景の底で黒紫の渦が巻いている。わたしは白きマウザーグレイルへ手を伸ばし、鞘口の冷たさを掌に受け止めた。
「……やるよ、茉凜」
《《おう、ヴィルをびっくりさせちゃえ!》》
心に弾む声が落ち、口元が思わずほどける。刃の白が微かに息を返した。
「あれだな。いくぞ」
「うん」
握ったままの鞘口の冷たさが、返事を細く支えた。
ヴィルは軽やかにスレイドへ跳び乗り、後ろ手にわたしへ掌を差し出す。わたしはその大きな手を掴み、腕の力でぐいと馬上へ引き上げられた。革手袋の摩擦が頼もしい。
「おりゃあっ!!」
気合とともに手綱が鳴り、スレイドの躯が矢のように伸びる。風が頬を叩き、目尻が熱で潤む。わたしはヴィルの背へ体重を預け、拍動と馬のリズムを合わせた。
斜めの陽が刃の白をかすめ、風の線が視界を細く切った。
霧の中から幾つもの影が浮かび上がる。黒紫の靄を割って現れたのは、紛れもなく魔獣。こちらへ気づくや、咆哮が肺の奥を震わせ、連なる影が次々に輪郭を鋭く際立たせる。
吐く息が濃くなり、内側の冷えと熱がせめぎ合った。
「行くよ、ヴィル!」
わたしたちはスレイドから軽やかに地へ降り、砂塵の匂いを吸い込んで正面を見据える。
六つ。ダイアーウルフが六頭。数え終えたとたん、口の中がからりと乾く。
だが、その後方で、一際大きな影が空気を押し重ねた。二本の角、鋭い牙、赤い瞳。黒紫の毛並みが風で梳かれ、視線だけで皮膚の温度が下がった。
「あれは……!」
声にかぶせるように、ヴィルの判断が落ちる。迷いはない。
「シャドウファングだ。ダイアーウルフの上位種でな、ただ大きいだけじゃない。濃厚な魔素を操り、霧に紛れての奇襲が得意な厄介な相手だ」
「わかった。気を抜かないようにする」
シャドウファングが咆え、号令みたいに群れがほどけて疾る。砂が爪で撥ね、足音が低く地を叩いた。
剣の柄が掌に馴染み、心臓の拍と同じテンポで重みが返る。革が指へ吸い付き、脈の拍がそこへ移った。
「ヴィル、雑魚は任せるわ。わたしはあいつをやる!」
「いいだろう。ミツルよ、お前の力、存分に振るってみせろ!」
短い応酬ののち、ヴィルは一歩で前へ。風切りの音とともに剣圧が走り、ダイアーウルフの突進を易々と弾き返す。背へ当たる風が一段やわらぎ、肩の力がひとつ落ちた。
刃の白を正面に据える。喉の渇きが一段引き、指先だけが次の手順を覚えていく。
「来いっ、黒鶴っ! 場裏展開!!」
《《場裏展開!!》》
声が重なった瞬間、熱が背の芯を駆け上がる。耳の奥で金属の「キイ」という軋み、鼻腔にうっすら鉄錆の匂い。身体の縁が一段大きくなる錯覚に、皮膚の裏がざわついた。
背に黒翼が無音で咲いた。地の陰影がわずかに濃くなり、狼の呼気が一瞬だけ途切れる。影が地面を薄く滑り、人ならざる気配に、狼たちが前脚を止めた。空気が薄く、冷える。
息の芯が小さく震え、その震えが力へ姿を変えていく。
視界に淡い靄の球が点る。ひとつひとつが〈場裏〉の小さな領域だ。混ぜない。重ねない。ただ並べて走らせる。息より先に脈が走り、散らした小領域がそれに応えた。
強大すぎる力は、ともすれば制御が甘くなる。背の内側がひやりと鳴る。その縁を押し留めてくれるのが、茉凜の声だった。
「いつもありがとうね、茉凜」
《《どういたしまして。さあ、やろうか、美鶴!》》
心の底のざわめきがほどけて落ちる。わたしは息を深く吐き、黒翼の影を前方へ流した。
掌の汗が冷え、指の白みだけが消えない。
黒翼の影が、前へ落ちた。




