茉凜の消失
ヴィルとの手合わせが終わったあと、肩の張りがふっとほどけた。
汗の塩が指に残り、吐く息だけがまだ熱い。膝は笑いそうなのに、身体の奥には、勝ったという実感よりも、まだ刃の残響が小さく鳴っている。
「ありがとう、茉凜。あなたのおかげで勝てたよ」
返事がない。
白い柄の冷たさだけが掌へ戻り、修練場のざわめきが薄布一枚ぶん遠のく。鼓動がひと拍、深く沈んだ。
「……茉凜、聞こえてる?」
何も返らない。
柄を握り直すと、革の匂いが立ち、汗ばんだ指先がじっとり張りついた。いつもなら、その向こうで小さな気配が跳ねる。呆れた声でも、得意げな笑いでも、何かしら返ってくるはずだった。
「ねえ、茉凜どうして黙ってるの? お願い、答えて」
なおも沈黙。
息のふちが細かく震え、喉の出口が狭くなる。
背後で靴底が石を擦った。
「どうした? 何かあったのか?」
はっとして顔を上げる。口の奥は乾いていた。できるだけ平静を装って、唇だけを結ぶ。
「な、なんでもないわ。さすがにちょっと疲れちゃったみたい……。今日はもう宿に戻って休むわ」
「そうか、無理はするな。ちゃんと休むんだぞ」
「うん……ありがとう、ヴィル。また明日ね」
「ああ、また明日」
その気づかいの温度だけが、皮膚に残る。
けれど、足を止めてはいられなかった。マウザーグレイルを抱きしめるようにして修練場を出ると、昼下がりのエレダンは人いきれに揺れていた。油と香草の匂い、重なり合う呼び声、陽を返す石畳。
早足がそのまま駆け足へ変わる。
白い鞘が腕の中で揺れるたび、金具が小さく鳴った。その音にさえ、返事を探してしまう。
◇◇◇
宿へ戻るなり扉を閉める。
深い息がひとつ、喉を擦って落ちた。
白い剣を膝へ置き、乾いた麻の匂いのなかでもう一度、静かに呼ぶ。
「茉凜……」
返らない。
部屋の空気は、やけに広かった。窓の外では荷車の軋む音が遠く流れ、隣室の笑い声が壁の向こうで淡く崩れる。なのに膝の上の剣だけが、切り取られたみたいに静かだった。
沈黙が胃のあたりを締め、瞼の裏がじわりと熱を帯びる。喉の奥がつんと痺れた。
「なぜ……どうして返事してくれないの? 茉凜……」
茉凜が黙ってわたしを困らせるはずがない。
そう思えば思うほど、息が浅くなる。あの子はふざける。からかう。怒る。呆れる。けれど、こちらが本当に呼んでいるときに、黙ったままでいる子ではない。
「茉凜、教えてよ……いったいあなたに何があったの?」
その問いだけを残して、全身の疲れが一気に押し寄せた。
身を倒すと、シーツの冷えが頬を鎮める。剣を離せなくて、片手だけは柄に触れたままだった。返事がないとわかっているのに、指先は何度も同じ場所を確かめる。
抵抗する術もなく、瞼の裏が薄く濡れたまま、意識は深く沈んでいった。
どれほど眠ったのか。
日が落ちるころ、囁くような声が耳の縁へ触れた。白い剣の奥がかすかに温み、意識の縁で光粒が跳ねる。
《《……美鶴、起きてるかな?》》
飛び起きた拍子に、床板の固さが足裏へ鋭く戻った。
「茉凜! いったいどうしたの? なぜずっと返事してくれなかったの!?」
喉の奥が狭くなり、声が裏返りかける。剣を抱える腕に力が入りすぎて、肘の内側が痛んだ。
茉凜は短く間を置いてから、そっと応えた。
《《ごめんね、美鶴。怖がらせたよね》》
それだけで、胸の奥がきしんだ。
《《ちょっとマウザーグレイルに深く入り込みすぎて、眠ったみたいになってたの》》
「眠ってた? なぜ?」
息が荒いまま問い返す。掌の汗で柄がわずかに滑った。
茉凜は一度だけ息をついたように沈黙し、それから言った。
《《ごめんね。わたし、考えたの。予知の視界と動き出しの間のラグは、接続のクッションが多すぎたことが原因じゃないかって。それで、わたしをマウザーグレイルの深いところに落とし込んで一体化させれば、解消できるんじゃないかと思ったんだ》》
言葉を聞きながら、戦いの最中の感覚が遅れて蘇る。
鼓動と動きが、あのときだけ同じ拍で流れていた。予知の像と身体の反応が、ほとんどずれずに重なった。いま思えば、あれは自然にできたことではなかったのだ。
茉凜が、深く潜っていた。
わたしの届かない場所まで。
納得なんてできなかった。
《《まぁ、なんとかうまくいったみたいでよかったーっ!》》
明るい声が耳に触れるほど、口の奥に鉄の味が広がる。
「何が“うまくいった”よ!? あなた、それがどれだけ危険なことかわかってるの? この剣のことなんて、まだ何もわかってないのに。二度と戻れないかもしれないって考えなかったの? どうして勝手にそんなことしたの? わたし、本当に怒ってるんだから!」
声が終わったあとも、息だけがまだ速く乱れていた。
剣の表面に落ちた光が、揺れている。わたしの手が震えているからだと気づくまでに、少し時間がかかった。
しばらくして、細く揺れる声が返る。
《《ごめん、美鶴……勝手なことをしてごめんなさい。でも、そうしなければ、ヴィルには勝てなかったでしょ?》》
「それは、そうかもしれないけど……だからって……」
そこで言葉が細る。
あの場で相談されていたら、わたしはきっと止めていた。止めて、それでも勝てなかったかもしれない。そう思うほど、指先の震えが止まらない。
「……それでも、勝手に決めるのはいやだよ」
吐き出した声は、自分でも驚くほど幼かった。
茉凜は、今度は少しだけ強い声で続けた。
《《それに、これから先もっと強い敵が現れるかもしれない。だから、わたしたちはもっと強くならなきゃいけないんだ。なのに、あなたばかりに負担をかけて、わたしが何もしないなんてできないよ》》
「そんな……あなたが無理することなんてない……」
瞼の裏がまた熱くなる。瞬きで押し戻しても、肋の内側だけが、ゆっくり軋んだ。
《《だめ。わたしたち、昔約束したでしょ? “辛いことも悲しいことも、二人ではんぶんこにしよう”って》》
前世の断片が鮮やかに浮かぶ。
掌に残る片翼のキーホルダーの硬さ。指先へ移った小さなぬくもり。言葉だけではなく、手触りごと残っている約束。
《《わたしたちは、どちらか片方が欠けてもだめなの。それが『ふたつでひとつのツバサ』ってことなんだから》》
「それはわかってる。でも、あなたがいなくなったら、わたしはどうすればいいの? そんな未来、想像したくもない……」
脈が耳の裏に打ち、息が短くなる。
怒っていたはずなのに、残ったのは恐れだけだった。失いたくない。その一言だけが、喉の奥で何度も形を変える。
その恐れの縁を、茉凜の声がふっと持ち上げる。
《《……もう》》
小さく笑う気配。
《《わたしがいなくなるはずないじゃない。あなたって危なっかしくて放っておけないし、とんでもない泣き虫だし、そんなあなたを置いてどこへ行くっていうの? それと、わたしのゴキブリ並みの生命力を侮らないでよね》》
乱暴な言い方なのに、喉の奥で笑いがほどけた。
泣き顔のままなのに、口元だけが先に緩む。情けなくて、少し腹立たしくて、それでもその声が戻ってきたことが、どうしようもなく嬉しかった。
茉凜も、それを聞き取ったみたいに柔らかく続ける。
《《美鶴は本当に強い人だよ。だけど、時には自分を信じられなくなることもある。それは誰だって同じ。だからこそ、わたしがいるの。一緒なら、わたしたちはもっと強くなれる。だから、これからも頑張ろうよ?》》
こわばっていた息が、少しずつほどけていく。
肩の力が落ち、白い剣が腕の中でようやく馴染んだ。けれど安心しきるには、まだ怖さが残っている。わたしは柄に指を添え、そこに気配があるかを、もう一度だけ確かめた。
小さなぬくもりが返る。
「うん……でも、もうあんな無茶はしないで。わたしを一人にしないでね」
これはお願いというより、ほとんど懇願だった。
《《わかってるって。今回は急ぎすぎたの。これからはゆっくり、この剣のことを見ていく》》
戻ってきたから、そう言えるだけだ。そう思いかけて、声にはしなかった。
「そうだね。そうしてくれると嬉しい……」
ようやく呼吸が整う。
室内の空気はまだひんやりしているのに、柄に添えた指先だけがゆっくり温んでいた。窓の外では、夜へ傾いた街の音が少しずつ低くなっていく。
そのとき、不意にお腹が「ぐうーっ」と鳴った。
思わず押さえた手の下で、頬がかっと熱を持つ。
《《美鶴ぅ、お腹空いてるでしょ? 誤魔化そうとしたって、わたしにはわかるんだからね》》
「う、うるさいんだから……!」
今度はちゃんと笑ってしまう。耳の先まで熱かった。
《《あははは、元気な証拠だね。何か食べに行こうよ。お昼も食べてないんでしょ?》》
「うん……。なんでもいいからお腹に入れたい。それと、ちょっとだけでいいから、お酒も飲みたいかも……」
《《それ、賛成!》》
「今日の勝利は茉凜のおかげだもの。祝杯をあげましょうか」
《《おーっ! じゃあ三杯くらいお願いね》》
「こらっ、調子に乗るなってば。まったくもう、これだから呑んだくれは!」
くすりと笑って、外套を羽織る。
けれど扉へ向かう前に、一度だけ足を止めた。白い鞘へ指を滑らせ、柄の近くをそっと叩く。返事を確かめるみたいな、小さな動きだった。
すぐに内側から、くすぐるような気配が返ってくる。
それでようやく、息が長く吐けた。
襟元に夜気の冷たさが触れる。宿を出れば、魔道街灯がやわらかく街並みに落ち、屋台の湯気が上がっていた。香草と焼きたての粉の匂いが混じる。
背で白い鞘の金具が小さく触れ合う。
茉凜が歩幅を合わせる合図だ。




