もっと強くなりたい
視界の縁が薄くなる。息が喉で折れ、掌がじっとり濡れた。二十一歳の理性が鳴らす警鐘を、十二歳の涙があっけなく踏み越えてくる。止めなければと思うほど、頬を伝う熱は次々に落ちていった。
重い足音が近づいた。顔を上げると、ヴィルは頭を掻きながら、困ったように眉を寄せていた。仕草は無骨なままなのに、目元に残っていた戦いの硬さだけがほどけている。それを見た途端、張りつめていた肩が落ちかけた。
「おい……そんなに泣くことか?」
石床の冷えが、遅れて膝へ戻ってくる。彼は視線を外さず、静かに一歩ずつ近づいてきた。
「やれやれ……」
やがて、わたしの前で足を止めた。
「勝負は俺の負けだ。――安心しろ。お前は紛うことなき、ユベル・グロンダイルの娘だ」
その言葉が耳に届いた瞬間、父の名を掲げ、誰かが足を止めるのを待ち続けた夜が、胸の奥へいっせいに押し寄せた。声にならない息が漏れ、止まりかけていた涙がまた頬を伝った。
「ほ、本当……? ――じゃあ、わたしのことを認めてくれるの?」
かすれた声がこぼれる。ヴィルは一瞬だけ目を見開き、それから不器用に口元を緩め、深く頷いた。
次の瞬間、彼は無言のまま手を伸ばした。ためらいがちに伸びた指が、頬ではなく肩へ触れる。ざらりとした感触が布越しに移り、そのぬくもりに父の面影が不意に重なった。寄りかかりたいのに、身体が勝手に背筋を伸ばしてしまう。
口角を上げようとして、うまくいかない。言葉の端が喉へ引っかかり、息だけが細く漏れた。ヴィルはわたしの顔をのぞきこむようにして、静かに息を吐いた。
「もちろんだとも。お前は凄いことをやってのけたんだ。自信を持て」
その声の落とし方が、どこか父に似ていた。肩へ置かれた掌の重みを受けたまま、息が少しだけ長くなる。
「そう、なの……?」
まだ信じきれず、もう一度ヴィルを見上げた。
ヴィルがその視線を正面から受け止めると、目元から笑みが少し消えた。
「ああ。まったく、こんな化け物じみた動きをするやつなんざ、なかなかお目にかかれん」
化け物、という音に、口の中が乾いた。さきほど背にひらいた黒い翼を見られたのかもしれない。
「な、なによそれ……化け物って。あなたの方こそ、とても人間技とは思えなかったわよ」
反射的に強く返してしまう。けれど、ヴィルの声に嫌悪はなかった。からかいの奥に、まだ何かを確かめようとする硬さが残っていた。
ヴィルは肩へ置いた手を離さないまま、少し声を落とした。
「ああ。俺が驚いたのはそこだけじゃない」
肩に置かれた手の重みが、まだ布越しに伝わっていた。
「俺は四十年以上も剣を振るい続けてきた。だが、それに比べてお前はどうだ? 剣を握ってまだ間もないくせに、ユベルの動きのほんの一部分かもしれんが、まるで生き写しのように再現してみせたんだ。そりゃあ、驚くに決まっている」
「……本当?」
「生き写し」の四文字が、息の奥へ落ちた。似ていたのか。父から受け取ったものが、本当にこの身体に残っていたのか。
「ああ。お前の中で、あいつの命が確かに繋がれている……そう思ったら、嬉しくなっちまったよ」
ヴィルの瞳の奥に、失った友を見つめる光が揺れた。その喜びが父へ向けられたものだとわかっても、まだ自分の耳で確かめたかった。
「あなたの目には、そう映ったの?」
ヴィルは、先ほどの一撃を辿るように目を細めた。
「さっきのお前の動きは、まさにユベルそのものだった。流儀としては真逆だが――誰よりも近くで、あいつの戦いぶりを見続けてきたこの俺が言うんだ。間違いないさ」
流儀は真逆なのに、父を誰より近くで見てきた人の目には、確かに父と同じ命の動きが映った。胸の内で、父の名に近づけた安堵と、まだ届かない悔しさが静かに重なった。
「そう言ってもらえると、本当に嬉しい……。――でも、わたしにはまだまだ足りないことがたくさんあると思うの」
視線を落としてそう告げると、ヴィルは肩から手を離した。
「そうだな。人は常に成長し続けるものだ。俺だってそうだ。お前はまだ若い。だからこそ、もっと強くなれるはずだ。もしかしたら、俺やユベルすら超える境地に辿り着けるかもしれんぞ?」
父を超える、という言葉は胸へうまく収まらなかった。けれど、まだ強くなれるという一節だけが、泣き疲れた身体の奥へ残った。
「……そっか。ヴィル――わたし、もっと前へ行くわ。たとえ辿り着けないとしても。それでも……」
父に近づきたいのか、父を超えたいのか、それとも、もう二度と置いていかれたくないだけなのか。そのどれもが少しずつ本当で、だからひとつに選べなかった。
ヴィルは目を細め、拳で自らの胸を軽く叩いた。
「その意気だ」
頬の濡れが遅れてひりついた。呼吸を整えると、足裏へ石床の硬さが戻ってくる。
そこでヴィルは、手合わせを振り返るように目を細め、わたしへ問いを向けた。
「ところで、一つ確かめたいんだが……」
「何か?」
「さっきお前、すごい数の術を同時に使っていなかったか? 宙に小さな球が浮かんで、そこから風が吹き出しているように見えたんだが?」
安堵しかけた喉がまた狭くなり、指先へ冷えが戻った。
「あら? あなたには見えていたの?」
ヴィルは、見落としたものを確かめる眼差しで首を傾げた。
「俺の目は節穴じゃない。一体あれはなんなんだ?」
問いかけに、わたしは少し迷う。言葉を増やすほど危うくなる。けれど、すべてを隠せる相手でもない。
「あれは――ただ『こう在りたい』と願っただけで応えてくれる、わたしだけの“残像”といったらいいかしら……」
ヴィルはすぐには答えず、ひとつ息をついた。
「そうか。それにしても、あんなに複雑な魔術を同時に制御するなんて、一体どういう頭をしてるんだ、お前は」
「そんなこと言われても……うまくは説明できないわ」
それは嘘ではなかった。仕組みを言葉にしようとすると、すぐ輪郭が崩れる。考えて組んだというより、身体が先に知ってしまったものだった。白い領域の感触も、黒鶴の翼も、父の動きも、まだ一つの理屈には収まらない。
「それと、一瞬だが、背中に黒い……翼のようなものが見えた気がするんだが……」
心臓が一度、沈んだ。予想していなかった。ヴィルはただ強いだけじゃない。ほんの一瞬の像を捨てずに持ち帰り、隠した境目へ指をかけてくる。
「わたしに翼なんてないわ。きっと目の錯覚よ」
「そういうものか? うーん……」
納得しかねるように眉根を寄せ、ヴィルは短く唸る。追及をかわそうと、わたしは言葉を継いだ。
「わたしは、ただ無我夢中で……とにかく避けなきゃって……。それでほら、本能とか――いや、反射というか、さっきあなたが言った“染み付いたやつ”が勝手に出た。そんな感じで」
ヴィルは、ほとんど呆れるようにかぶりを振る。
「おいおい……」
あまりに素直な反応が可笑しくて、思わずくすりと笑ってしまった。頬に残っていた火照りが、そこでようやく引いていく。
「それから、苦し紛れに宙へ跳んで、下を取られかけた時、急に父さまの戦い方が頭に浮かんできて……体と“魔術”が繋がって、勝手に動いてくれたの」
ありのままを話すと、ヴィルは深い息とともに、低く笑いをこぼした。その声が石壁に反響する。
「ははっ。願いは力と言うが、そう簡単にどうにかなるってもんじゃないぞ。まったく、お前って奴は末恐ろしい……いや、面白い」
「面白い、って……?」
「面白い」という言葉に、口元がわずかに緩んだ。いま出来たことではなく、これから何ができるようになるのかを見ている。そのことが、少しだけ嬉しかった。息の奥に、小さな熱が灯る。
「ああ、ますます気に入った。お前がこれからどんなふうに成長していくか、楽しみで仕方ない。ま、俺は師匠って柄じゃないが、お前に教えてやれることならある」
教えられることがある。その申し出が、師を持たなかった空白へ静かに触れた。胸の内の心細さがわずかに薄れ、柄を握る手もようやく緩む。けれど、黒い翼を問うたときのヴィルの眼差しは、まだ胸の奥に残っていた。完全に信じたわけではない。見逃してくれたのだと、たぶん思う。
「師匠ね……わたしにはそういう人はいないから、そう言ってもらえると、なんだか心強いわ」
その呼び名はまだ馴染まなかった。それでも、拒む気にはなれなかった。
「それじゃ、これからもよろしくね……ヴィル」
「もちろんだ」
そう言って、ヴィルは手を差し出した。節くれ立った大きな掌には、戦いの年月が刻まれていた。触れる直前、父の手を思い出して指が止まりかける。それでも、その掌へそっと指を重ねた。硬い皮膚の奥からぬくもりが伝わり、鼓動が小さく鳴った。
けれど、父の代わりではない。
掌の溝が指へ刻まれ、無言の契約だけが脈で確かめられた。わたしは息を吸い、そっと握り返す。
「うん」
その声は、石壁に柔らかく吸い込まれていった。




