覚悟の灯、剣に託して
カテリーナとヴィルの言葉は、静かな風のように部屋へ溶け、空気の温度をわずかに変えた。卓上の地図はまだ開かれたまま、蝋燭の火だけが細く呼吸している。
わたしは膝の上で組んだ手を見つめる。指先がかすかに震え、みぞおちの奥で細い波が寄せては返す。
覚悟――一語で括るには重すぎる。目に見えない鎖みたいに肩へ落ちる重みが、いまのわたしには必要なのだと、どこかで分かっていた。
天井を仰ぐ。カーテンの隙間から差し込む月光が薄く揺れ、銀の筋が壁をなぞる。
選定の儀式。表向きは、聖剣と未来を担う者を選ぶ神聖な行事。けれど、その裏で糸を引くものは、必ず別にある。耳の奥に、カテリーナの乾いた推測が残響する。
王家はただ捕らえるのではない。利用するのだ。だとしても、あれはわたしにとっても舞台になりうる。彼らの欺瞞を暴き、過去を追うための、唯一の壇上に。
だから――
「小細工は無し。正攻法でいく。偽りで塗り固められた儀式を、わたしの手で『真実の舞台』に変えてみせる……」
言い聞かせるように零れた声は、月のほうへ吸い込まれていく。すぐさま、それを受け止めるように、カテリーナが小さい笑い声を上げた。
「くっくっくっ。そうかい、そうきたかい。あんた今、舞台と言ったね。ははっ、こいつは愉快だ……」
彼女は口元を指で隠したまま肩を揺らし、笑いを飲み込む。蝋燭の火が睫毛に薄い影を落とし、目だけが妙に冴えていた。
「あたしは了承する。ヴィル、あんたは?」
「異論はない」
椅子の背がわずかに鳴り、すぐ静まる。ヴィルの声は淡々としているのに、鋼のような密度があった。その響きだけで、部屋の輪郭が一段はっきりした気がする。
「よし、これで方針決定だ。ま、行くなら行くで準備が必要だね」
「だろうな。誘い出すつもりなら、当然迎え撃つ用意くらいしているだろう」
戦の段取りではなく、見せるための段取りだ。だからこそ準備が要る。
地図の紙が擦れ、墨の匂いがかすかに立った。
「軍の動きはあんたの方で探っとくれ。特に魔道兵団には要注意。さすがに王宮に大量投入なんて真似はできないだろうが、念の為だ。あと、脱出ルートの策定はあんたに任せる」
「了解した」
椅子の軋みが消え、部屋にひと拍の静けさが落ちた。蝋の甘い匂いだけが、ゆっくりと戻ってくる。
「ミツル」
「はい」
名を呼ばれた瞬間、喉の奥がきゅっと細くなった。灯の色が、グラスの縁で一度だけ揺れる。
「あんたの力量は信じてるけど、無茶だけはするんじゃないよ。万が一の時はヴィルの手引きで何が何でも逃げ延びること。それが最優先だ。いいかい?」
軽口の包みに隠れた真剣さが、背筋をきゅっと締めた。わたしは唇に小さな笑みを載せ、うなずく。
「ありがとう、カテリーナ。それとヴィルも。二人がいてくれるだけで、本当に心強いわ」
「いいってことさ」
肩をすくめる彼女の明るさが、固くなった空気を少しだけ緩める。立ち上がった彼女は、くるりと振り返りながら言った。
「さて、これから忙しくなるね。会場内の配置、招待客のリスト、警備体制、タイムスケジュール、そのほか諸々の資料は纏めてある。後で渡すから、しっかり目を通しておきな」
彼女の指が地図の端を叩き、線を揃えるみたいに資料を束ねた。「攻める」ではなく、「見せる」ための段取りだという顔で。
「わかったわ」
乾いた角が卓を撫でた。紙束の重なる音が、覚悟の合図のように響く。
「肝心なのは、あんた自身の心の準備だ。なにせ『舞台』に立つのは、あんた一人なんだからね。さてと……あたしはちょっくら、酔冷ましに夜風に当たってくるわ……」
冗談めかした口調の奥に、火の芯みたいな熱が見えた。扉の向こうまで、その余韻が薄く残っている。
扉が閉じ、音が消える。続いてヴィルが腰を上げ、短く告げる。
「必要な時は呼べ。俺はいつでも動ける」
それだけを置いて、彼は振り返らなかった。その一言で十分という背中が、階段の暗がりに吸われていく。
部屋は、月の光だけを残して静まる。窓辺に落ちる淡い帯に足を踏み入れ、そっと目を閉じた。
――父さまは、いったいわたしに何を託したの?
問いはいつも答えを得ないまま、暗がりへ沈む。それでも抱き続けるしかない。この名前を背負い、この運命を生きるために。
「そうだね。答えを欲するのであれば、行ってみなきゃ……」
先ほどよりわずかに輪郭の確かな声が、耳に返ってくる。肩甲骨の裏側に、小さな鈍痛が残った。腹の底で、見えない杭がひとつ、打ち込まれた気がする。沈むほど、立てる。
何が待っていようとも、誰かの駒として操られることを拒む。逃げずに舞台に上がらなければ、何一つ始まらない。
胸もとにマウザーグレイルを確かめる。冷たい柄の感触が、意識を現実へ引き戻した。
瞳を開ける。窓の外、青白い月が剣に反射し、きらめきを返している。その光の細い筋に、ほんの少し未来の明るさが紛れ込んでいるように思えた。
◇◇◇
二階の自室の扉を閉めると、外の気配が遠のき、静けさが満ちた。薄いカーテン越しの月明かりが、壁と天井に薄い影を描いている。わたしは深く息を吐き、それを肺の奥まで吸い直した。
ベッドの縁に腰を下ろすと、張り詰めていた肩がゆっくり解けていく。カテリーナの率直な声、ヴィルの冷静な響き――何度も頭の内側で反芻されるそれらに引かれるまま、わたしはそっと倒れ込んだ。
ふかりと沈む弾力に、遠い日の記憶がよぎる。父母と笑い合った夜。もう戻らない朝の匂い。天井を見上げながら、過去と現在の境目を探す。
腰の剣に触れた。冷たく硬い輪郭が手のひらへ移り、鼓動が落ち着いていく。白きマウザーグレイル。わたしのすべての始まりであり、終わりにも触れているかもしれない、父の形見。
滑らかな柄をゆっくり撫でる。命を懸けて守られたこの剣は、いまやわたしの運命そのものだ。柄を握る指へ、少しずつ力が戻ってくる。
「茉凛……いる?」
低く呼ぶと、あたたかい声が脳裏に灯った。
《《ん、いるよ。いつだってそばにいる。……でも、大人同士の密談にしゃしゃり出るなんて、野暮なマネはできないでしょ?》》
少し得意げなその響き。こちらを案じる気配が、ガーゼのように優しく透けている。彼女にだって言いたいことはあるはずなのに、急かさず、余計なことも言わない。ただ、わたしが言葉にするのを待っていてくれる。
「ごめんね、長い時間話し込んじゃってて」
そっと詫びると、くすりと笑う気配。
《《何言ってるの。その代わり二人っきりの時は、たーっぷりとわたしの相手をしてもらうんだから。覚悟しなさいよね?》》
思わず、口元がゆるむ。
わたしたちの対話は、絡まった糸を一本ずつほどく時間。焦らず、順に確かめていく。それが、前へ進むための呼吸になっている。
不安は、まだ消えない。それでも、この時間があれば歩ける。少しずつでも、自分の足場を固められる――そんな予感が、掌のあたりにかすかに残っていた。
静かに目を閉じ、肺の底の澱みを吐き出す。小さな呼吸音さえ、静まり返った部屋にやわらかく響いた。
「選定の儀式だけど……茉凛、あなたはどう思う?」
自分の声が、どこか他人のもののように鼓膜を叩く。胃の底に冷たい塊があって、隠した不安が波のように寄せては返す。すぐに、そのざわつきをなだめるような声が降ってくる。
《《どう思うって……もう美鶴のなかで、答えは出てるんじゃない? だったら、あたしはついて行くだけよ。どんなことがあっても、あたしがあなたを守るから》》
率直で、一点の曇りもない。
「ありがとう、茉凛。……でも、分かってるの。これはわたし自身の問題だってこと。父さまのことも、この名前のことも……自分で、向き合わなきゃ」
言葉にするたび、喉の奥がつかえていく。声にしないと形にならないのに、声にすると質量を持ってのしかかる。十二の器が感じる恐怖は、大人の理屈では止められないほど鮮烈だ。
《《そうね、たしかに美鶴自身の問題ではある。あたしが、ああしろこうしろなんて言えない。……でもね》》
茉凛の声が、いたずらっぽく、けれど真剣に響く。
《《一人で全部背負い込むなんて、ずるいんだからね?》》
拗ねたような、けれど慈愛を含んだ語尾。その響きに、肩に入っていた余計な力がふっと抜けた。
「……うん。でも、やっぱり怖いのは怖いよ」
小さな弱音が零れる。シーツの皺を指先でなぞりながら、わたしは自分の弱さを認めていた。隠しても無駄だ。この身体は嘘がつけない。彼女はそれを、揺れずに受け止めた。
《《そんなの当たり前じゃない。怖くていいの。それだけ、すごく大事なことなんだもの》》
瞼の裏で、ヴィルの背中が浮かんだ。隣にカテリーナの横顔。どちらも、たった数刻前まで同じ部屋にいた。
《《怖くたって進むって決めたんでしょ? なら、大丈夫。あなたは一人じゃないんだから》》
胸の奥に、小さな灯がともる。理屈より先に、じわりと広がるその熱を、今はそのまま受け取った。
「……そうだね」
目を閉じたまま、剣をそっと抱く。無機質なはずの柄が、体温を吸って少しずつ温んでいく。
《《よし! なら決まり! あの気取った舞台を、わたしたちの色に塗り替えちゃおう!》》
春の日差しのように弾む声に、思わず笑みがこぼれた。
「ほんっと、茉凛らしい。……なんだかもう、おかしいくらい安心しちゃった」
ベッドの上で息をつく。枕に沈めた後頭部に、月光のかすかな温みが届いている気がした。何が待つかは分からない。それでも。
――わたしには茉凛がいる。支えてくれる仲間がいる。それだけは、揺るがない。
《《美鶴はえらいよ》》
「どこがよ? 悩んでばかりで、一人じゃ何もできないのに」
《《それでも、ちゃんと自分の道を選べる人だってこと。だから強いってこと。……あたしは、それを一番よく知ってるから》》
笑い声の端が、ひと呼吸ぶんだけ優しく震えた。
息が、ほんの少し詰まる。自分のなのか、彼女のなのか、境が曖昧なまま、視界の端がにじんだ。姿は見えないけれど、確かにここにある。剣の中の彼女の存在が、いつもわたしを世界に繋ぎとめている。
「茉凛。いつもそばにいてくれて……本当にありがとう」
驚くほど素直な声が、自分の耳に返ってきた。これもきっと、この幼い器が言わせた言葉だ。けれど、それは間違いなくわたしの本音だった。
《《いいのいいの。あなたが頑張るときは、あたしもちゃんと頑張らなきゃって思うの。……だって、あなたはあたしの一番大切な人なんだから》》
愛おしさを孕んだ声のあとに、ほんの一拍、沈黙が落ちた。その静けさのなかに、言葉にしきれない信頼が満ちていく。
「……茉凛」
名前を呼ぶだけで、くすっと笑う気配。釣られるように、わたしも微笑む。
もう、孤独ではない。ヴィルがいる。カテリーナがいる。そして、茉凛も。
過去に囚われ、闇に震えていたわたしとは違う。だから、進もう。選定の儀式という舞台へ。
そこに待つものは容易ではない。何かを失うかもしれない。それでも――得るものもまた、きっと大きい。真実のために。母の行方のために。そして、この名前の意味を自分の手で掴むために。
わたしは彼女へ囁く。
「……茉凛。わたし、まだ全然大丈夫じゃないけど。あなたがいるから、なんとかなる気がしてる」
その瞬間、白い剣が小さく鳴いた気がした。きっと、茉凛の頷きだ。指のあいだに伝わる微かな振動が、言葉よりも雄弁な返事だった。
未来がどうなるかは分からない。けれど、ひとつだけ確かなことがある。わたしはもう一度、前を向いて進める。自分の足で、覚悟を持って。




