捕縛命令の向こうにある真実
カテリーナが告げたその名は、見えない刃となって空気を裂き、胃の奥を深く刺し貫いた。意味より先に感覚が押し寄せ、呼吸が浅くなる。
黒髪のグロンダイル――その響きが、一瞬で過去の痛みへ引き戻す。
父を魔獣に殺された日。あの日、わたしの世界は決定的に壊れた。
泣く暇すら与えられなかった。生きる術を探すために。なにより、父が命を懸けて守った「白い剣」と「名」に込められた謎を解くために――わたしはただ彷徨い続けた。
辿り着いたエレダンは、居場所をくれなかった。魔獣がいて、わたしは憎しみを武器に生きる術を覚えた。初めは生きるためだけだったのに、いつしか別の目的がわたしを支配した。
――グロンダイル。
この名を名乗れば、何かが動く。薄い希望とも、曖昧な復讐ともつかない、それでも唯一の手掛かり。
そして、現れたのがヴィルだった。鋭い視線がわたしを射抜いた瞬間、彼はこう言った。
『お前はなぜ、グロンダイルの名を騙っている?』
今思えば、あれがすべての始まりだったのだ。
父が秘匿し続けた姓。その謎の全貌へ、今一歩ずつ近づいている――その確信だけが、わたしを前へ進ませる。
わたしは努めて明るく、気丈に、微笑みを添えて口を開く。
「まさか王宮にまで噂が届いてるなんてね。実に光栄なことだわ」
グラスの縁が唇に触れ、乾いた甘さだけが舌に残った。軽やかに聞こえるはずの声が、喉の奥でかすかに詰まる。唇の端が乾いて、言葉を継ぐまでに一拍かかった。
カテリーナは一瞥し、肩をすくめる。
「まったくだね。正直に白状するけど、あたしもヴィルから手紙が届いた時はびっくらこいたさ。四属性を兼ねる魔術師なんて聞いたこともない。普通は一属性がやっと。二属性で天才だってのに――」
蝋燭の炎が小さく揺れ、卓上の影が一瞬だけ伸びた。父を失ってから、わたしは誰にも尋ねられないままで、答え合わせの場所だけがなかった。
「でも、こいつが嘘をつくとは到底思えないんでね。それと、あんたが見せてくれた『ジョウリ』……だっけ? 実際あれを目の当たりにすれば、納得せざるをえないさ」
異国の音を口の中で転がすみたいな発音が、耳に引っかかって残る。グラスの底に残った赤が、灯りを受けてゆっくり揺れた。その波紋が静まるまで、彼女は言葉を継がなかった。
カテリーナの笑いが半拍だけ遅れ、グラスの脚に指が迷った。
「それに、こうして一緒に暮らして一緒に飯を食っていて、あんたがユベルと……」
カテリーナは一瞬言い淀んだ。視線がわずかに揺れ、テーブルの木目を辿る。グラスの脚に触れた指が、するりと離れた。言わない名だけが、木目の溝に落ちたまま動かない気がした。
「そして、メイレア王女の娘だってことがよーくわかったのさ。だからあたしはその噂も、あんたのことも全部信用してる」
率直さと信頼の色が声に宿る。その響きに、肩の強張りが少しだけほどけた。湯気の温度が戻ってきたみたいに、頬の内側がゆるむ。
「ありがとう、カテリーナ……」
礼の言葉が唇の裏で一度ほどけ、すぐ引っ込む。掠れた声。舌先が上顎に触れ、呼吸が一瞬途切れる。彼女は気さくに手を振って笑った。乾いた笑い声が、天板の上で跳ねて落ちる。
「いまさらなんだい。そんなこたぁどうだっていい。それよか、どうすんだい? 選定の儀式の目的の一つがあんたを引っ捕らえることだとしたら、行くのはまずいんじゃないか?」
軽い調子の奥に、薄い警戒が滲む。わたしは一度視線を落としてから、腹の奥に息をため、まっすぐ見返した。指の腹に、グラスの冷えが残る。
「そうね……たしかに、自ら罠に飛び込むようなものかもしれない。でも……」
吐息が喉を擦り、わずかに震える。
「でも?」
促す瞳。その真剣さに押され、わたしはあえて微笑みを形にする。口元を上げるのに、頬が少しだけ固い。
「こういう場合、行ってみるしかないんじゃないかな?」
言い切った瞬間、鼓動が速まり、足先に冷たさが伝わる。椅子の脚が床に小さく鳴り、音がすぐ消えた。
小さな溜息と、かすかな眉の影。
「まあ、いまさら話を蒸し返すつもりはないけどね。心配なのは変わりないさ」
柔らかな声にほっとしつつ、わたしは口元を引き締める。湯気の匂いが遠のき、蝋の甘さだけが残る。
「仮に最悪の事態になったとして、決してこのわたしに触れることはできない。たとえ数百、数千の兵隊が押し寄せてきても……決して誰も傷つけることなく全部跳ね除けて、堂々とこの国を出ていくまで」
静かな決意に、カテリーナは唖然とし、やがてため息交じりに呟いた。炎がいちどだけ大きく揺れ、影が壁で歪む。
「あんたねえ……」
呆れと、隠しきれない安堵が混じる。わたしは笑って肩をすくめた。
「大丈夫よ、そんなことにはならないと思うわ」
ようやく彼女の口元がゆるむ。グラスの赤が、ゆっくり落ち着いた。
「うん、まぁ……あくまで慎重に頼むよ」
真っ直ぐな視線に、わたしはしっかり頷いた。息の奥の乾きが、少しだけ和らぐ。
ふと、背後から静かな声。
「いざという時に備え、俺はいつでも脱出できるよう、スレイドを伴って待機しておこう。それでいいな?」
落ち着いて、冷静。声の奥に潜む覚悟が、背筋に直接響く。椅子の背が、少しだけ近く感じた。
「お願いね、ヴィル」
グラスの縁が指に触れ、冷えがすうっと引く。
「ああ。だが、できればそうならないことを祈る」
短く頷いた彼の目は、すでに次の一手を見据えていた。窓の外で風が木の葉を揺らし、その音だけが一瞬、部屋を満たした。
◇◇◇
話し合いは尚も続く。食卓の余韻は薄く残り、皿の香りが少しずつ遠のいていく。
「捕縛命令の背景には、単なる犯罪者の摘発じゃなく、複雑な事情が絡んでるはずだ。……ミツル、あたしの推測を聞くかい?」
紙の端が爪に触れ、かすかな擦れが音になる。わたしは頷いた。
「うん」
カテリーナは視線を落とし、地図に指を滑らせる。上質な紙の繊維が、指にわずかに引っかかった。息を一つ止め、深く吐き、語り始める。
「まず一つ目――『王家の威信』」
指が紙面に留まり、わずかに力が入る。紙がきしりと鳴った。
「リーディス王家は国家統一の象徴だ。けど……かつてユベル・グロンダイルが王女を誘拐した一件は、その威信に深い傷を残した。つまり『グロンダイル』って姓そのものが、過去のスキャンダルを再び呼び起こす危険性がある」
顔を上げ、真っ直ぐに射抜くような眼差しをこちらに向ける。蝋燭の火が揺れ、影が一段濃くなる。
「だから捕縛することで過去を断ち切り、示威する。威信を回復するためにね」
わたしは唇を噛み締める。乾いた皮膚が切れそうで、舌先が慎重になる。
「わたしのエレダンでの活動が、この事態を招いてしまった……そういうこと?」
彼女は静かな瞳でまっすぐ見つめる。優しさと、真実を告げる鋭さ。
「結果的にはね。でもミツル、あんたにはそうするしかなかった。そうだろ?」
わたしは肩の力を抜き、小さく頷く。膝の上の指を握り直し、爪が掌に食い込む。
「うん……そうじゃなかったら、わたしはヴィルと出会うこともなかったでしょうね」
ふっと、彼女の口元に笑み。火がすっと落ち着く。
「だよね。だから自分を責めないこと。これは成り行きさ。でも成り行きをどう転ばすかは自分次第。そういうことだ」
ヴィルが静かに口を開いた。椅子が僅かに軋み、音がすぐ消える。
「俺がミツルを見つけることができたのは、黒髪のグロンダイルの噂を聞きつけたからだ。彼女が名を立ててくれなければ、辿り着けなかっただろう」
低い声が、部屋の空気をわずかに変える。彼は視線を地図に落としたまま続けた。
「皮肉なもんだ。王家が恐れる名こそが、俺たちを繋いだ」
カテリーナが小さく息を吐く。グラスの底の赤が、ゆっくり揺れた。
「……そうだね。運命ってやつは、時々妙な巡り合わせを用意するもんさ」
言葉が落ちた後、しばらく誰も口を開かなかった。蝋燭の炎が揺れ、三人の影が壁の上でゆっくりと形を変える。わたしはグラスの縁を指でなぞり、冷えた感触を確かめた。
「次に二つ目――『あんたの実力』」
カテリーナは指先で机をとんと叩き、低い音を残した。
「『黒髪のグロンダイル』が名を上げ続ければ、『王家に従属しない強者』として、中央大陸の列強諸国ないし辺境に、新しい英雄像を与えちまう。王家にとっちゃ、制御しきれない存在ってのはいろいろ都合が悪い。国内でくすぶってる、反体制的な勢力に担ぎ上げられる可能性だってあるからね。それを未然に封じたがるのは当然だろう」
カテリーナは短く息を吐き、肩をすくめながらも視線は鋭さを増す。次いで、ヴィルが補足するように言った。
「実際、エレダンでは怪しい連中がミツルに接触を図ろうとしていた」
胸の奥で何かが跳ね、杯が机に触れそうになる。わたしは慌てて息を整えた。
「うそ……わたしそんなの知らないわよ?」
寝耳に水。彼は腕を組み、壁にもたれたまま、淡々と事実を並べる。
「そんなもの、お前に近づく前にのしておいたに決まっている」
言葉が落ちる音が重い。わたしは目を瞬き、視線の置き場を失う。
「あなた、わたしに黙ってそんなことをしていたの?」
蝋の匂いが濃くなる。彼は少しも誇らしげな顔をしない。
「言ったはずだ。俺は『お前を守る』と」
短く、あまりに重い言葉だった。盟友が遺した娘を守護すること。それが彼にとっての変わらぬ絶対の誓い。
――やっぱり、彼にとってわたしは守るべき対象なんだ……。
ほんとうの意味での対等な仲間には、まだ遠いのかもしれない。彼から見れば、わたしは無理して背伸びをしているだけの、十二歳の子供でしかない。
「まだ表立った動きにはなっていないが、時間の問題だったかもしれん。その意味でも、リーディスへ向かったのは正解だった」
カテリーナは眉を上げた。口元の笑いが消え、瞳だけが残る。
「なら尚更、王家が焦るのも無理はないね」
言葉を切り、彼女は真剣な瞳でわたしを見据えた。声に滲む硬さが、腹の奥に重く残る。
「でも、ただ排除するだけが狙いじゃないと思うね」
背後で木が鳴り、風が窓の縁を擦った。
「どういうこと?」
思わず首を傾げ、喉に乾きを覚える。カテリーナは口角の端をわずかに上げ、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ようするに、利用価値さ。あたしが王様なら、捕らえて無理やりにでも従属させようとするだろうね。そうすりゃあんたの力も名声も、有効に活用できるってもんだ」
息が詰まる。腹の底に、冷たい重みが落ちた。椅子の背がきしむ音が、妙に遠い。
「このわたしを、都合のいい道具に……」
低く、冷たい声になっていた。カテリーナは真摯に受け止める。視線が逸れない。
「権力ってのは、そういう判断をするもんさ。手段なんざ選ばない。これが現実だよ」
「だが、それは同時に弱みでもある」
ヴィルの声が、静かに割り込んだ。グラスが置かれる音が、短く乾く。
「利用したいということは、殺せないということだ。少なくとも、表立ってはな。それがミツルの盾になる」
カテリーナは頷いた。指が紙面を一度だけ撫で、止まる。
「そういうことだ。あんたには価値がある。だからこそ、簡単には手を出せない。そこを上手く使えれば、交渉の余地も生まれる」
淡々としながら、どこか気遣う温度。小さな間ののち、続ける。炎がいちどだけ高く伸びる。
「最後にもう一つ。誘拐事件に隠された別の真実が露呈するのを怖れてる、とかね。表に出ていない何か。もしユベルに正当性があったなら、王家にとって致命的なスキャンダルだ。だからあんたが真実に辿り着く前に捕らえたい。真実が暴かれりゃ、王家の立場は根底から揺らぐだろうからね」
背筋に冷えが走った。胸の奥の不安と、彼女の推測がぴたりと噛み合う。
「……カテリーナ、それが一番納得できる。きっと知られたらまずいことがあるはず。だって、父さまと母さまは……」
言い切る前に喉がきつく締まり、声がかすれた。
ヴィルが静かに息を吐いた。その音が、妙に重く響く。
「……俺もそう思う。カテリーナ、お前ならわかるはずだ。いつだってそうだったじゃないか。あいつが俺たちを置き去りにして、単独で動く時といったら――」
その言葉の裏に、置いていかれた夜が沈んでいる。
「あたしらにも言えないくらいの『ヤバい橋』を渡ろうとする時、だろ?」
カテリーナの声が一段低く落ち、グラスの脚が乾いた音を立てた。
「そういうことだ。何か重大な事情があったはずだ。それ以外、どう説明をつけろってんだ」
彼の声には、普段の冷静さとは違う、かすかな熱がこもっていた。拳が膝の上で握られ、関節が白く浮く。白く浮いたまま、拳はほどけなかった。
「俺は……あいつの無実を証明し、名誉を取り戻したい。それが俺のもう一つの生きる理由だ」
カテリーナはしばらく黙り、やがて穏やかに頷いた。蝋燭が静かに揺れ、影がゆっくり戻る。
「……わかってるよ、ヴィル。あんたがどれだけユベルを慕っていたか。あたしだって……」
彼女は視線を落とし、声を和らげる。
「あたしも、ヴィルも同意見さ。他にも外交や内紛……理由はいくらでも足せる。でも今はこれで十分だ」
長い息を吐き、地図から指をゆっくり離す。その仕草に、彼女なりのけじめが宿っていた。
「この命令には、いくつもの思惑が絡んでる。『捕まえる』だけじゃ終わらない。あんたがどう動くか、どう手を打つか。それ次第で、そこから先の展開は大きく変わるだろうね」
静かなのに、確かな重み。冷静な推測が、心の奥の決断を揺らす。けれど、その声に滲む優しさと覚悟が、内側に小さな火を灯した。
蝋燭の芯がぱちりと爆ぜ、炎が一瞬大きく揺れた。その光が三人の顔を照らし、すぐに元の静けさに戻る。
決めるべき時が、確実に近づいている。
カテリーナはグラスの脚に指を添えたまま、離し方を忘れたみたいに黙った。視線が一度だけわたしの手元へ落ちて、すぐに地図へ戻る。
「で、あんたは選定の儀式に対して、どう向き合うつもりだい?」
柔らかな響き。けれど芯に問う鋭さ。
どうすべきか。どう立つか。
握った拳に汗が滲む。捕縛命令、王家の策謀、父の過去――どれも鎖。だが、断たなければ進めない。
「……何があろうと行くしかないと思ってる。でも……」
搾り出した声は小さく震える。目を伏せ、正直に続ける。
「どう動けばいいか分からないのも事実。ただ……逃げ続けるだけじゃ何も変わらないってこと。それだけは分かる」
返事を待つ間が落ちる。ヴィルの椅子がわずかに鳴って止まった。止める言葉を探すみたいに、息だけが一度深くなる。
カテリーナはじっと見つめ、ふっと口元を緩めた。皮肉を脱いだ、安堵させる微笑み。
「それでいいんだよ、ミツル。分からないままでも、一歩ずつ考えながら進めばいい。誰だって最初から全部は見えてない。だからさ……自分の中の答えを探しな。どんな選択でも、あたしは否定しない」
肩の張りが、少し緩む。
「でも、一つだけ覚えておいて」
地図から指を離し、身を乗り出す。瞳の光が、まっすぐ刺さる。
「選定の儀式へ行くってことは、王家と真正面からぶつかるってことだ。それだけじゃない」
カテリーナの声がわずかに低くなる。
「詰め掛けた大勢の民衆の前で、存在を明確に示すことになる。あんたが選ぶのはただの道じゃない。こいつは命がけの覚悟が必要だ」
心臓が大きく打つ。儀式に臨む意味――震える心は、覚悟を求められている。
「覚悟、か……」
掠れた呟きは、確かに自分の耳へ戻る。腹の奥で、冷たい杭が打たれたように感じた。覚悟、という言葉が、現実の重みを持って迫ってくる。
「そう、覚悟だ。それさえ持ってりゃ十分さ。あとはどんな結果だって受け止めればいい。あんたなら、きっとできる」
彼女は背にもたれ、余裕のある仕草で空気を緩める。けれどグラスを置く音だけが、普段より慎重だった。
「どう動くか決めたら教えてよ。あたしらは何だって協力するからさ」
軽口の裏に、真剣な決意の温度があった。
ヴィルは一歩前へ出かけて、止まる。伸ばしかけた手が空を掴み、静かに下りた。
「ミツル」
ヴィルが静かに名を呼んだ。壁から背を離し、まっすぐこちらを見る。蝋燭の光が、その瞳の奥で静かに揺れている。
「時間はまだある。よく考えるといい。だが一度決めたなら、心のままに動け」
彼は一歩前に出て、わたしの目を真っ直ぐに見据えた。
「俺たちはその背中を支える。それだけは、約束する」
二人の言葉が背を押す。揺らぎはまだ残る――それでも、その揺らぎの奥に、小さな光が確かに灯っていた。
窓の外では、リーディスの夜空に星がひとつ、またひとつと瞬き始めていた。




