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封じられた名の重み

 夕陽が傾き、窓辺から射し込む柔らかな赤が台所を包む。


 橙に染まる外景を背に、わたしはぎこちない手つきで包丁を握り、まな板の上でズッキーニを丁寧に刻んだ。刃が木肌を滑る乾いた音。その向こうで、黙って立つヴィルの影が揺れる。床板の冷えがまだ足元に残り、窓辺から吹き込む風がカーテンをかすかに揺らしていた。


《《美鶴、もうちょっと厚めに切っていいよ。煮込むと縮むから》》


 茉凛の声が、胸の内側にそっと触れる。わたしは刃の角度を少し変え、輪切りの幅を広げた。


 なぜか彼は、調理の手伝いを申し出てくれた。といっても、野菜を切るでもフライパンを振るうでもない。わたしが使い終えたフライパンや鍋、ボウルを即座に洗い上げ、きれいに水気を拭って、そっと手元へ戻してくれる役目だった。金属と水の音が小気味よく重なり、洗い物が積み上がらないというだけで、肩のざわめきがひとつずつ消えていく。


《《ヴィルったらすごいね。この手際の良さ、どこで身に付けたんだろう?》》


 湯が細かく弾け、泡が消える。布巾で拭われた器が木の上へ戻されるたび、台所の呼吸が整っていった。


 ズッキーニを切り終え、鍋へ落として火にかける。彼は迷いなく蓋を手に取り、洗い場へ。湯の弾ける小さな音を背中で聞きながら、わたしは次のナスを取り出し、皮をほんの少し剥いて慎重に刃を入れた。


《《ナスは皮を全部剥かないでね。縞々に残すと崩れにくいし、彩りも綺麗だよ》》


 言われた通りに刃を動かす。紫と白の縞模様が、まな板の上に鮮やかに並んでいく。


「次はこいつを使うんだな?」


 指さされたのは、ラタトゥイユを混ぜるために準備していたガラスのボウル。わたしは軽くうなずく。


「うん、もう少ししたらね。でもその前に、スープの出汁を取る準備をしなきゃ……」


「了解だ。それまでに、洗っておく」


 低く落ち着いた声。抑揚は少ないのに、動きと視線の端々に細やかな気遣いが滲む。泡立て器も包丁も、いつの間にか清められ、元の場所へ戻っている。言葉より先に、台所の流れが止まらない。


《《なんか、息ぴったりだね。ヴィルって、料理したことあるのかな》》


「……なんだか、まるでわたしの考えていることがわかるみたい」


 こぼれた声に、彼は軽く肩をすくめ、ふっと笑う。濡れた手を布巾に一度だけ当ててから、また水へ戻した。


「動きや目を見ていれば、次に何をするかくらいわかる。戦場でも同じことだ」


《《ああ、なるほど。そっちか》》


 茉凛が納得したように小さく笑う。料理と戦場が同列に置かれるのが、いかにも彼らしい――そう思うと、なぜか妙に腹に落ちる。わたしは微笑み、まな板を横にずらした。


「じゃあ、任せるわ。信じてるから」


 返事の代わりに、洗い終えたボウルが静かに差し出される。縁についた水滴が一筋だけ光り、すぐ消えた。


 オーブンでは白身魚が香ばしく汗をかき、ラタトゥイユはとろりと色を深めていく。わたしは前だけを見て手を動かしているのに、背後では湯の音が途切れず、金属が乾いて戻ってくる。そのたび次の工程が自然に前へ出た。


「ありがとう、ヴィル。本当に助かるわ」


 素直に伝えると、彼はタオルで器を拭きながら口元をゆるめた。言いかけるより先に、目の端がわずかにほどける。


「礼を言うのは料理が出来上がってからにしてくれ。何事も、最後まで気を抜くことは許されん」


《《厳しいなあ……でも、ちょっとかっこいいかも。料理とは戦いぞ! 厨房は戦場なり!》》


 時代がかった言葉に、思わず笑いがこぼれた。張り詰めていた肩の力がふっと抜ける。わたしは包丁を握り直し、次の工程へと手を伸ばす。


◇◇◇


 カテリーナが帰ってきた頃、空はすでに夕闇に沈み、窓の外にリーディスの暮色が広がっていた。柔らかな木扉が軽い音を立て、蝶番がきゅ、と鳴って止まる。明るい声が台所まで届き、湯気が一瞬だけ揺れた。


「ただいま!」


 腹の底がきゅっと強張る。今日は初めて、一人でここまでの品数に挑んだ。けれど――茉凛の励ましと、ヴィルのさりげない助言を思い出し、深く息を吸って心を整える。


 テーブルの中央には、こんがり焼けた白身魚のオーブン焼き。ハーブの香りとオリーブオイルの艶、湯気とともに立ちのぼる熱。輪切りのレモンの鮮やかな黄が、皿に爽やかさを添える。


 隣には、リーディス風ラタトゥイユ。深紅のトマト、鮮緑のズッキーニ、濃紫のナス――大きめに切った野菜が崩れず形を留め、艶やかに煮含められている。《《大きく切ったほうが煮崩れしにくいよ》》という、茉凛の助言の賜物だ。


 スープ皿には透きとおるブイヨン。ほのかなガーリックが香り、刻んだ野菜が金の肌に控えめな彩りを落とす。スプーンの柄に残る温もりが、手のひらへじんわり返ってくる。


 籠の中には焼きたての平焼きパン。薄い焼き色が光を受け、微かにハーブの匂いを含む。《《これならミツルにもできるよ!》》と茉凛が笑った声を思い出し、頬がゆるんだ。


「へえ……」


 カテリーナが足を止め、並ぶ皿をひとつずつ見渡す。驚きと、少しの感心が瞳に差す。


「これ、ほんとに全部あんたが作ったの?」


 わたしは胸を少し張り、うなずく。


「ヴィルの助けもあったけど、ほとんど自分でやったよ」


「へーっ、あいつが手伝ったの? 珍しいこともあるもんだ。雹でも降ってくるんじゃないか?」


「もっとも、洗い物だけだけどね。でも、それがすごく助かったの」


「洗い物? あいつがかい?」


 カテリーナは眉を上げ、ヴィルを振り返る。笑いながら腰を下ろす彼女の背後から、当の本人が現れた。手には陶器の酒瓶。瓶肌が灯りを受けて鈍く光る。


「戦場における後方支援は基本だろう」


「またそれか……台所と戦場を一緒にするんじゃないよ」


 呆れた声に、わたしは思わず吹き出した。笑いが落ちるたび、食卓の空気が少しずつ柔らかくなる。


「戦いの次は祝杯だ。となれば、これがなければ始まらんだろ?」


 軽く瓶を振り、わたしたちの間に立って器用に栓を抜く。乾いた音がして、果実の香りがふわりと立った。


「あんた……まさかあたしの秘蔵の酒に手を出したんじゃないでしょうね?」


 半ば呆れた声に、彼は喉の奥で笑う。


「馬鹿を言うな。お前の小言を聞きながら朝まで過ごすなんてまっぴら御免だ。せっかくミツルが心を込めて作った料理なんだ。祝いの酒ぐらい自前で用意するさ」


 カテリーナのグラスへ、続けてわたしのグラスへ。濃い赤が静かに注がれ、縁に小さな波が立ってすぐ静まる。


「少し強めかもしれないが、少しなら飲めるだろう? ほら、今日は祝いだ」


「……一杯だけなら」


 控えめに答えると、彼はグラスを掲げて穏やかに笑った。灯の色が瞳の奥で揺れる。


「よく頑張った、ミツル。その努力に敬意を表して――今日の成功と、これからのさらなる一歩に、乾杯だ」


 澄んだ音が触れ合い、テーブルの上に小さく反響する。まっすぐな瞳に、穏やかな誇らしさと期待が灯っていた。


 わたしはグラスを持ち、並ぶ皿をもう一度見つめる。ここまで来た達成感と、二人の笑顔のぬくもり――この時間が続けばいい、と胸が満たされる。


 カテリーナは注がれた酒を口に含み、顔をほころばせた。


「……さすがはヴィルだね。酒に関しちゃ文句のつけようがない」


 白身魚へフォークが伸び、ひと切れ。噛みしめるように味わい、彼女は小さく頷く。


「いいわね、これ。柑橘の香りがさりげなく効いていて、ちょうどいいアクセントになってるわ」


 背筋の張りがふっと解ける。カテリーナは続けてラタトゥイユをひと口。


「おお、これもいけるわ」


 その笑みに、わたしは内心で小さく拳を握った。


「野菜、大きく切ったほうがいいって教わったの。崩れてないでしょ?」


 カテリーナはラタトゥイユを口に運びながら、ひと呼吸ぶんだけ黙った。視線がわたしの手元に落ちて、すぐ皿へ戻る。笑っているのに、声の芯だけが少し低い。


「ああ、なるほどね。煮込みすぎると溶けちまうもんな、こういうのは。誰に習ったんだい?」


 問いの形は軽い。けれど、音に出していない名だけが、皿の縁に残っている気がした。


 わたしは一瞬だけ言葉を探し、曖昧に笑う。


「……ちょっと、詳しい人に」


 言えばいいのに、と思う。嘘でもいいから、母と。でも、いまそれを口にしたら、彼女の笑いが欠けてしまう気がして。


 ――なぜだろう。嘘でもいいから、母――と言えばよかったのに。


「ふうん?」


 カテリーナは深追いせず、スープへ匙を伸ばした。匙が器の底に触れる小さな音がして、湯気がゆっくりほどける。


 この夕餉は一人では辿り着けなかった。茉凛とヴィル、カテリーナ――みんながいて、今、温かい食卓を囲んでいる。感謝が腹の底でじんわり広がり、口元が自然とほころぶ。


「さあ、みんな。どんどん食べてね」


 声をかけると、ヴィルは杯を軽く揺らして微笑み、カテリーナはフォークを掲げて応えた。穏やかな夜の窓の向こうには、リーディスの星々がやさしく瞬いている。


◇◇◇


 片付けを終え、二人が腰を落ち着けたテーブルへ向かう。部屋の片隅に、晩餐の余韻がわずかに残る。空いた皿にはまだ魚とハーブの香りが微かに漂い、木の天板には温もりがじんわりと染み込んでいた。


 広げられた地図――王宮の配置図だ。紙の端が手に触れ、かすかな擦れが音になる。


 気づいたカテリーナが微笑む。張り詰めた空気に、柔らかな温度が差す。


「どうしたの? 選定の儀式に向けた作戦会議?」


 問うと、彼女は肩をすくめた。グラスの底に残った赤が揺れ、光が薄く歪む。


「ごめんね、せっかく美味しいディナーをいただいたばかりなのに。どうしても、仕入れた情報を整理しておきたくてさ」


「情報? 何か特別な動きでもあったの?」


 表情がわずかに引き締まる。ヴィルもグラスを置き、視線を寄せた。陶器が木へ触れる音が、短く乾く。


「ああ、少し気になることがね」


 カテリーナの声が低く落ちる。地図の上を細い指が滑り、紙がさらりと鳴った。


「資格者選定の儀式には王族をはじめ、リーディス全土から貴族や地方領主、有力商家なんかが多数集まる予定だそうだ。まぁ、ここまでは予想通り。気になるのは、ここ数日で越境してくる冒険者やハンターが増えてるってこと。たぶん儀式目当てなんだろうけどね」


「うーん……そこまでして出向くほどのこと?」


「ま、何らかの旨味があるんだろうさ。情報ってのは金になる。どこぞの国から依頼を受けた間者まがいな連中も紛れてるだろうよ」


「スパイ……」


「ま、大国リーディスとしちゃ、その程度一向に気にしないだろうけどね。むしろ剣の勇者をこれ以上ないほど大々的に宣伝できるとなれば、王家の権威は一気に高まる。集まった連中によって噂は一気に大陸中に広まるって寸法さ。……つまり選定の儀式ってのは、力を誇示する絶好の場ってわけ」


 言葉が机の上を滑っていくあいだ、わたしの視線は地図の線に吸われた。細い黒が幾重にも重なり、出口のない迷路みたいに見えてくる。


「なるほどね」


「でも、なんだかつまらない理由に思えるけど」


「そりゃまあ、政治の話だからね。大抵そんなもんさ」


 カテリーナは軽く笑って、グラスの脚を指で一度だけ弾いた。乾いた音がして、余韻がすぐ消える。


「で、ここからが一番気になる話なんだけど」


 声の高さが変わる。空気が少しだけ硬くなるのが分かった。


「軍の情報部の知り合いから聞いた話だ」


 ヴィルが黙っているのが、逆に重い。肩の線が微かに張り、目だけが地図から外れない。


「王宮の上層部は、ある人物の到来を待ち望んでいるらしい。そして、軍に対して『その者を見つけ次第、捕縛せよ』……そんな命令を下したそうだ」


「それって……どんな人物なの? 何か特別な理由が……?」


 言い終えた瞬間、手元のグラスに結露が増えていることに気づく。ガラスが冷え、離したくなるのに離せない。


「特別、ね。ああ、きっと特別な存在だろうよ。少なくとも、奴らにとってはね」


「教えて、カテリーナ。その人物の名前を」


 わたしの声が自分の耳に少し硬く響き、喉の奥が乾いた。カテリーナは一瞬だけ目を細め、遠い闇を探るように沈黙した。


「じゃあ、言おうか」


「お願い……」


 グラスの雫が冷たく張りつき、木卓の温度だけが遠のいた。皿の残り香が、急に薄く感じる。


「捕縛対象の人物とは……『黒髪のグロンダイル』。北方辺境エレダンを席巻した若き天才魔術師。わずか半年で、最強の呼び名をほしいままにした魔獣狩りだ」


 耳の奥で鼓動が一拍遅れ、静かな響きに変わった。名は声のかたちを離れ、胸の底へ重く沈んでいく。

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