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囚われの塔、解き放たれる心

「それじゃ、あたしは仕事に行ってくるわ」


 カテリーナは軽やかに背を向け、颯爽と歩き出した。朝の光が石畳に薄い膜を張り、彼女の靴音だけがその上を迷いなく跳ねていく。風に揺れた髪が背中越しに短い軌跡を描き、きらりと一瞬だけ陽を返した。


「あっ、カテリーナ!」


 呼び止めた声が、自分でも意外なくらい弾んでいた。足が一歩ぶんだけ前へ出かけて、すぐ止まる。追いかけるほどでもないのに置いていかれるのが嫌で、袖口のあたりが落ち着かない。追いかけたいのに追いかけない、その半端な距離のまま声だけが飛んだ。


「今夜はわたしが夕ご飯を作るから、寄り道しないで真っ直ぐ帰ってきてね」


 カテリーナは足を止め、振り向いた。朝の澄んだ空気の中で、彼女の笑みだけが先に柔らかく浮かぶ。


「ほう、朝飯だけじゃ飽き足らず、とうとう夕飯にまで手を出そうってわけかい」


 からかいの調子は軽いのに、言葉の端に楽しさがしっかり残っている。


「なら、そうさせてもらうとするよ。あんたが作るご飯は、飾りっ気はないけど、どこかほっとする味だ。期待してるからね」


 ひらりと手を振り、彼女はまた歩き出した。布の裾が風を含んでふわりと広がり、次の瞬間には人波の色に溶けていく。


 背中が見えなくなったあと、空だけが少し高い。耳の奥に残った靴音がゆっくり消えて、代わりに街のざわめきが戻ってきた。露店の呼び声が遠くでほどけ、湯気の匂いが鼻を掠める。朝の街は、すでに動いている。


「さて、これからどうする? 夕飯の材料を揃えるには、買い出しが必要だろう?」


 不意に低い声が上の方から響いた。ヴィルだった。陽射しが強いのに、声は落ち着いていて、日陰の温度をそのまま持っているようだ。


 わたしは彼を見上げ、短く頷く。さっきのレストランでの一拍遅れが、まだ肌のどこかに薄く残っていた。言葉にした途端に、その熱が戻ってきそうで、息だけを整える。


「うん」


 答えながら、指先で布袋の口を確かめた。結び目がきゅっと締まり、乾いた感触が手のひらに残る。これだけで、少し現実が戻る。


 旅路の中のヴィルは、いつもこんなふうに淡々としていた。危険が迫るほど、余計な言葉が減っていく。わたしが立ち止まりそうになるたび、引っ張るのではなく、先に道を作ってくれた。指示ではなく、段取りで守る人だ。


 それがいつしか、安心感に変わっていたのだと思う。


 けれどこの街に入ってから、彼の視線はときどき遠い。王家の紋が掲げられた旗が視界に入ると、目だけがそっと逸れる。腰の革帯に触れた指が、すぐ離れる。ほんの小さな癖なのに、わたしには妙に目についた。触れてはいけないところに触れかけて、黙って引っ込めるような動きだ。


 父の名が汚された夜のことを、わたしは全部は知らない。ただ、彼がここで息を浅くする理由だけは分かる気がした。石畳の照り返しが強いほど、ヴィルの影が濃く見える。その不自然さが、説明より先に背筋を薄く撫でた。陽の下なのに、輪郭だけがひとつ余計に濃い。


 だから、今日は夕飯にしようと思った。言葉より先に、温度を渡すほうが、この人には似合う。


「行こう、ヴィル」


 頬に触れた陽が熱を残し、皮膚の上で薄く光っている。彼の歩調に合わせた瞬間、内側の硬さが半拍だけほどけた。荷の重さが、やっと自分の手の中へ戻ってくる。


◇◇◇


 市場に足を踏み入れると、色と音がいちどに押し寄せた。果物の山が陽を弾き、天幕の布が風にふくらんではしぼむ。売り声が高く跳ね、笑い声がそれに絡む。熱気が薄い幕になって耳の外側に張りついた。


 焼きたてのパンの香ばしさ、熟れた果実の甘い匂い、スパイスの刺すような香り。鼻先をくすぐる匂いが次々と入れ替わり、立ち止まるたびに世界が別の味へ傾いていく。香りに押されて息が深くなるのに、人波の圧で肩が狭くなる。


 わたしたちは目についたものを少しずつ買い込んだ。布袋が重くなるほど、今日という日の輪郭がはっきりしてくる。ヴィルが一緒にいるから荷の量を数えなくていい。それがどれだけ楽か、いまさらのように分かる。袋を持ち替える指が痛む前に、彼が無言で引き取ってくれる。


「ほら、次はこれもだろ」


 ぶっきらぼうに言いながら、彼は自然に腕を伸ばしてくれる。袋の結び目を整える手つきだけが妙に丁寧で、その小さな差が安心を連れてくる。きつく締めた紐を、ほどけないように押さえ、荷が揺れない角度で持つ。そういうところが、いちいち生活に根を張っている。


「ごめんね、ヴィル」


 軽く頭を下げると、彼は肩をすくめただけで、言葉にはしなかった。言わないまま受け取ってくれるところが、いまは心地よい。聞き返されないことで、わたしも余計な言い訳をしなくて済む。


《《今日はヴィルがいてくれて、本当に助かったね》》


 茉凛の声が、心の奥にそっと触れる。金属の薄い響きが、鼓動の裏側をなぞるように澄んでいる。


《《いつもはこんなには持てないからね。今夜は楽しみだなぁ》》


「そうね。後で茉凛には、ご指導お願いするわ」


《《おう、任されて!》》


 何気ないやり取りが続くうちに、ヴィルが少し眉をひそめてこちらを見てきた。市場の喧噪の中で、その視線だけが妙に真っすぐだ。


「ミツル、マリンは何と言っているんだ?」


 一瞬だけ言葉が詰まる。そういえば――彼にはマウザーグレイルの中に茉凛がいることを告白していた。どこまで信じているのかは分からない。けれど、否定もせず、こうして自然に受け入れてくれている。


 袋の取っ手が掌に食い込み、痛い。わたしはその感触で落ち着きを取り戻す。痛みは、嘘をつかない。


「ヴィルが荷物を持ってくれて助かるって。感謝してる、って言ってるわよ」


 彼は少しだけ微笑みを浮かべて頷いた。口元の力が抜け、目尻にかすかな皺が寄る。


「そうか。お役に立てて光栄だな、マリン」


 その言葉とともに、ヴィルの視線が腰に下げたローズ・クレスト――マウザーグレイルに寄せられる。鞘の金具が微かに鳴り、すぐに雑踏へ溶けた。硬い音が消えるのを、わたしは耳の縁で追ってしまう。


《《こちらこそ、どういたしましてヴィル。美鶴がいつもお世話になっております》》


 胸の内側で、澄んだ返事が鳴る。茉凛の温かさがそのまま伝わってきて、わたしは思わず笑みをこぼした。袋の重さも、今だけは軽い。


 市場を抜けた街路には、日差しが柔らかく差し込んでいた。石畳の継ぎ目を踏むたび、靴底に小さな振動が返ってくる。荷物の重さを気にせず歩けることが、今日いちばんの贅沢のように思えた。手が空くと、呼吸がひとつ増える。


 そのとき、ヴィルがぽつりと呟いた。


「なぁ、ミツル」


 普段の無骨な声よりも、どこか慎重さが混じっている。わたしは足を止めて振り返った。


「なぁに?」


 風が通り抜け、荷袋の紙がかさりと鳴った。返事を待つ間が、ひとつ落ちる。紙の音がやけに大きく、街の明るさが急に遠い。


「帰りに……王宮を眺めていかないか?」


「え……」


 驚きより先に、指が冷えた。袋の縁を握る力が少し強くなり、紙がまたかさりと鳴る。まだ遠いはずなのに、白いものが脳裏で先に光った。


 リーディスの王宮。母が生まれ育った場所。けれどその華やかさの中で、母は光の外側に追いやられていた、と聞いた。噂話の中にしか存在しない影のように扱われ、公の場に姿を見せることさえ叶わなかった、と。


 グレイさんが語ってくれたことが、ふいに重く蘇る。姫巫女たちが代々幽閉されてきたという白銀の塔。その最上階。小窓。呼ばれない名。


 想像だけで足裏が冷えた。石の冷たさが、まだ触れていないのに昇ってくるようだった。息を吸うと、喉の奥が細くなる。


「……やはり、怖いか……?」


 ヴィルの声にハッとして、彼を見上げる。瞳には、わたしの内側を見透かすような優しさが宿っていた。


「うん……怖くないって言ったら、さすがに嘘になるわね」


 息に混じった声が、薄く震える。けれど言えたことで、息の奥が少しだけ楽になる。言い切らないままでも、逃げはしなかった。


 それでも――選定の儀式が迫っている。網。炙り出し。あと六日。怖いからと目を逸らすのは、違う。


「でも……選定の儀式のこともあるし、下見くらいはしておかなきゃね……」


 自分で言いながら、わざと現実的な言葉を選んでいるのが分かる。足元から冷えが上がるのに、理屈だけが先に歩こうとする。そうしないと、立っていられない。


 ヴィルは短く頷いた。


「そうだな。では行こうか」


 余計な慰めはない。けれど、その短い一言が、背中を押す。歩くことだけが、いまは救いになる。


◇◇◇


 塔へ続く王宮の大庭園は、どこかひんやりとしていて、澄んだ空気に包まれている。それでも、その道を歩むわたしの足は確かだった。噴水の水音が遠くで薄く揺れ、植え込みの葉が風に触れて小さく擦れる。陽は明るいのに、石の冷えだけが足元に残っていく。


「ありがとう、ヴィル」


 小さな声でそう呟くと、彼は一瞬だけ肩越しにこちらを振り返った。


「何がだ?」


 その問いに、わたしはただ微笑み、何も答えなかった。彼の言葉に甘え、ただ歩き続ける。それが今のわたしには、十分すぎるほどの支えだった。靴底から伝わる冷たさが、呼吸の内側へ薄く染みる。


 塔がそびえる景色に目を向けると、その白い石壁が陽光を受けて鈍い輝きを放っていた。その荘厳さに圧倒されながらも、息がひとつ、塔の影に引っかかった気がした。足元の石畳はひんやりとしていて、影の端がこちらへ伸びている。踏み込む前から、靴底がそれを知っているようだった。まるで過去の残像が、わたしの行く手を塞ごうとしているかのようだった。


「……母さまも、この塔の上から王都の街並みを眺めていたのかな?」


 口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど小さく、そして重いものだった。塔の白さが目に刺さって、まばたきのたびに影だけが濃くなる。


 隣を歩くヴィルが、ふと足を止める。視線は塔へ向かわず、わたしの横顔に落ちたまま動かない。そこにあるのは慰めというより、積み上げた答えを確かめる沈黙だった。


 第三王女メイレア。名簿にはあるのに、誰の記憶にも姿がない。華やかな場へ出ないのではなく、出られない――そんな「いなさ」だけが、妙にしつこく残っている。


 そして、誘拐事件。盟友ユベル・グロンダイルが罪を着せられたあの件を、ヴィルは信じていない。信じたくないのではなく、信じられないのだと思う。あの人が、鎖で誰かを引きずるような真似をするはずがない、と。


 そして、わたしが語ったこと。父と母が仲睦まじい夫婦だったこと。愛し合って、わたしが生まれたこと。娘がここにいる、という事実。


 喉が一度だけ動いて、ヴィルの声が低く落ちた。


「……だろうな。同時に城壁の外の広い世界を夢見ていたに違いない。彼女はきっと自由を渇望していたはずだ。俺にはそう思える……」


 その響きは、想像というより結論に近かった。塔に視線をやらないまま、彼はわたしだけを見ている。まるで「ここにいること」が答えだと言うように。


 わたしは彼から視線をそらし、再び塔を見上げた。その威容は圧倒的で、見る者を容易に近づけさせない冷たさがある。それでも、心の奥底では、何かがそっと問いかけてくる。「それでも向き合うべきではないのか」と。陽の白さが目を刺し、影だけが深い。


「ヴィル……わたし、この塔の中に入ってみたくなるかも……」


 震える声でそう言った自分に驚いた。その想いがどこから来たのかは分からない。ただ、この塔に囚われた母の記憶に触れることが、わたし自身を知るための鍵になるような気がした。


 ヴィルの顔に一瞬だけ警戒の色が浮かぶ。それはすぐに消え、彼は短く答える。


「さすがにそれは無理だ」


 その言葉の冷静さが、逆に塔が持つ現実の厳しさを際立たせた。白い石の冷えが、さっきより近く感じる。


「どうして?」


 わたしが問いかけると、彼は塔の頂を見上げ、静かに語り始める。高い空の青が、いっそう冷たく見えた。


「王宮の大庭園は市民にも解放されているが、この塔だけは別だ。立ち入りを許されるのは王族に限られる。見てみろ、衛兵の数を――不用意に近づけば、摘み出されるのがおちだ」


 顎で示された先には、鎧をまとった衛兵たちが規則正しく立ち並び、塔の周囲を警戒しているのが見えた。その姿は、わたしたちと塔の間に絶対的な壁を築いているようだった。金属が擦れる音が風に紛れ、すぐ消える。


 わたしは小さく息を吐き、視線を地面へと落とす。塔の中に入ることができない。それは分かっている。けれど――それでもなお、この冷たい石の牢に向き合いたいという気持ちは消えなかった。石畳の継ぎ目がやけにくっきりと見えて、影がそこに薄く落ちている。


「……そう、だよね。そりゃそうだ」


 呟くように言った。言葉の先だけが冷えて、息の端に残る。


 わたしの呟きに、ヴィルが僅かに息をつくのが聞こえた。


「好奇心は結構だが、今は面倒事を避けるべきだ。その時が来るまではな」


 その低い声は、どこか穏やかで、わたしを宥めるようでもあった。わたしは彼の言葉に微笑みを浮かべる。それが自然に心に響いて、張り詰めていた何かが少しだけ和らいだ気がした。


「わかっているわ、ヴィル」


 そう答えたわたしに、彼は頷くと再び歩き始める。その背中を見つめながら、わたしは一つ深呼吸をした。怖さはまだ消えていない。それでも、彼の背中がまるで頑丈な盾のように思えた。わたしがその先へ進む勇気を持つための支え――それがヴィルだった。


 塔を見上げると、その白銀の輝きがどこか優しく見える気がした。それは彼の言葉と一緒に、わたしの心の奥深くに小さな光を灯してくれたからかもしれない。

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