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変わる私とリーディスの風

 わたしたちが入ったのは、白壁と木目がやわらかく響き合う小さなレストランだった。


 青いタイルが足裏の冷えを返し、リーディス固有の文様は派手に主張せず、目の端でだけ息をしている。窓辺には細い風が流れ込み、カーテンの端がひととき揺れた。陽光は淡い金色となって、室内の静けさに溶けていく。


 席へ案内されるまでの短い距離で、思考に張りついていた事柄の固さが、ふっと緩んだのがわかった。


 ――さっきまで、聖剣だの儀式だの、心だの網だの。思考の刃先ばかりを握っていたのに、ここでは刃が要らない。


 息をしても、怒られない気がした。


 案内された窓際の席。カテリーナは椅子に身を預け、淡い笑みを宿している。指がクロスの縁を無意識になぞり、安堵の気配が滲んだ。ヴィルは椅子を引く音をほとんど残さず、ナプキンの角を一度だけ整えた。視線は一巡――それだけで、力が抜けていくのがわかる。


 テーブルには、果実の香りを含んだオイルが染みたパン。焼きたての熱が生地から立ちのぼり、煮詰めたトマトとバジルの香りがふっとかすめた。小皿のオリーブ油が陽を受けて揺れ、琥珀色のきらめきが卓の縁へこぼれた。


 フォークと皿がふれ合う音、遠くの低い会話、陶器の擦れる気配。そのすべてが静かなリズムになって、肩のこわばりをゆっくり溶かしていった。窓の外には、石畳に射す光と影。リーディスの空気が、昨日までとは微かに違う匂いを帯びている。


 ありふれた食卓のはずなのに、今日のパンはことさらに香ばしい。香りの奥に、ささやかな幸福が滲んでいる。ここだけの、誰にも奪えない変化の証。そのことに、ふと気づかされる。


 カテリーナは頬の脇に光を集めるみたいに笑っていた。自分の好きなものを語る時の声は、少しだけ早くなる。


「 あたしは世界各国の味を発掘するのが趣味なんだけどさ、リーディスの料理も好きだね。慣れ親しんだ味ってのもあるけど、こういうシンプルさと鮮やかさのバランスって、なかなか他にはないんだよ 」


 前菜のタコのマリネをひと口。オイルとレモン、塩の粒が混じり合い、海の気配がふわりと立ちのぼった。


「 悪くはないが、俺にはシンプルすぎる。もっと濃厚な味付けの方が好みだ 」


 言葉は短いのに、結論だけがきっちり置かれる。ヴィルはパンをちぎり、オイルに沈めた。無骨な手つきのまま、沈める動きだけが妙に丁寧だ。


 カテリーナは一度だけ瞬きをして、返事を探すように見せてから、何も拾わない。皿の上で次の色へ視線を移す。


「特に伝統的な南リーディスの料理はね、素材の味を楽しむのが醍醐味なのよ」


 白と赤のカプレーゼへ、当然のように話を続ける。トマトの艶が、窓の金色を薄く返した。


「やっぱり、俺はこれだな」


 ヴィルはラザニアへフォークを伸ばし、熱を抱いた層に顔を近づける。ひと口。わずかに目を見開き、グラスへ手を伸ばした。


「うん、美味いな。赤ワインにもよく合う」


 満足の色が、手元の角を丸くする。カテリーナは小さく肩をすくめ、楽しげに笑った。


「あんたって、相変わらずだねぇ」


 窓の外、市場の果物の山に陽光がきらめき、オリーブの影が石畳を渡っていく。わたしたちはそれぞれのペースでランチを楽しんだ。ヴィルの無愛想も、カテリーナの所作も、不思議なほど店の空気に溶け込んでいる。


 目の前のアランチーニ。黄金色の衣に包まれた小さなコロッケに、チーズとトマトの香りがふわりと立つ。


《《いい匂い。美鶴、早く食べてみて!》》


 茉凛の声に促され、フォークを入れる。サクッと裂ける音。割れ目の奥に、リゾットとチーズがとろけて覗いた。


 ひと口。衣はサクサクで、トマトの酸味とチーズのコクが舌を包む。


《《うっ、うっ、うまいーっ!》》


「これ、すごく美味しい……」


 感想が重なったのか、ヴィルの視線がちらりとこちらへ流れる。長く残るまなざしに、わたしはフォークを持ったまま一拍遅れた。熱が上がるのが、料理のせいなのか自分のせいなのか判別できない。


「ここのアランチーニは、どこにも真似できない味だよ。トマトの甘さもオイルの質も、全部いいからね」


 カテリーナが満足げに頷く。隠れていたハーブの香りがふっと立ち、スモーキーな余韻が喉の奥へ落ちた。


「それにしても、あんたさ……」


 彼女はフォークの背で皿の縁を一度だけ弾いた。わざとらしくはない音なのに、手の内が小さくざわつく。


「なに?」


 少し警戒しながら返すと、カテリーナは口角を上げていたずらっぽく笑う。


「最近、丸くなったね」


 脈が跳ねた。言葉の棘だけが先に刺さり、王都に来てからの油断が、ひとつずつ数えられていく気がした。


「そ、そんなに……太ったように見える……?」


 声がかすかに震えた。胃の奥が冷えていく。


「食べすぎた現実が……」


 オイルの香りが残り、口の中だけが妙に熱い。


《《ひぃ、ごめんよ美鶴……我が欲望の果てが……》》


 茉凛の声がしゅんと萎み、フォークの柄が指の間でひやりと鳴った。


 ふいに、カテリーナが小さく息を吐いた。


「あ、なんか誤解してるみたいね」


 少し焦った声音。けれど、その目がわたしの袖口に一瞬だけ触れた。拭いきれなかった跡でも見つけたのだろうか。


 けれど、彼女はそれ以上何も言わなかった。


「いや、そういうんじゃないんだよ。体型のことじゃなくてさ、表情とか雰囲気とか、角がとれたなってこと」


 はっと顔を上げる。


 言われてみれば、そうかもしれない。ここに来るまで、わたしはいつも張り詰めて、誰にも頼れなかった。気を抜けば崩れてしまいそうで、心も身体も固く閉ざしていた。その頃の自分を思い出すと、喉の奥がひりつき、声にならない笑いがこぼれかける。


「……そうかな」


 パンくずを摘まんで皿の端へ寄せる。動きがやけに丁寧になって、余計に照れくさい。


 前世の自分が遠くでこちらを見ている気がした。尖った声で人を遠ざけて、何かを守ろうと必死だったわたし。その影に、今の自分が重なり合う。


「……やっぱり、最初に比べたら全然違うよ。柔らかくなったっていうより、息ができるようになったって感じかな。うん、すごくいい」


 カテリーナは微笑む。けれど、その眼差しの奥で何かがほんの一瞬だけ止まった気がした。言いかけて、飲み込んだような。


 ――彼女は、わたしに何を見ているのだろう。


 この街も、最初は全てが未知で、慣れるまで張り詰めていた。そう思えば反論はない。むしろ、少しずつわたしを変えてくれた場所と人たちを思い、ふと表情がほどける。


「リーディスの空気みたいなものが、そうさせるのかね」


 カテリーナが窓の外を見る。オリーブの木々が風に揺れていた。


 促されるように、ヴィルがわずかに首を動かし、じっとこちらを見つめた。静かで、底の深い眼。


「だろうな」


 グラスの脚がかすかに鳴り、彼はそれを消すように止めた。


「どういう意味……?」


 自然にこぼれた問いに、ヴィルは眉をわずかに動かし、言葉少なにグラスの脚を回す。ナプキンの角が風に押され、わたしの方へ寄った。


「ここは空気が違う。吹く風が人を変えるのさ。それこそが旅の醍醐味だ」


 低い声が場の空気に溶ける。ひと言ずつがまっすぐ息の奥へ届き、目に見えない何かがそっと手渡される。


 窓の外へ視線を移す。穏やかな街並み、やわらかな風、陽。道からは笑い声、テーブルには豊かさと愛情の気配。この街の空気が、ゆっくりと呼吸を変えていくのかもしれない。


 カテリーナがヴィルを見た。その視線には、からかいとは違う何かが混じっていた。けれど彼女は何も言わず、グラスに口をつけただけだった。


「……まあ、こいつがこんなこと言うの、かなり珍しいんだけどね」


 軽い声。けれど、さっきまでの調子とは少し違う。


「剣だとか戦の話になると途端に饒舌になるけど、普段はからっきしなんだよね。不器用っていうか、堅物っていうか」


 からかう声に合わせて、カテリーナはわざと大げさに肩をすくめる。


「お前な……」


 不服そうに眉をひそめたヴィルの指先が、テーブルをとんと軽く叩いた。その仕草がますます可笑しく見えたのか、カテリーナは笑みを深めた。


「だってそうでしょ? 気の利いたセリフ一つ言えないし、口を開けば無神経なことずけずけ言うしさ――もうちょっと優しくしないと、ミツルだって愛想つかしちゃうかもよ?」


 カテリーナの笑みが、口元から先に引っ込んだ。グラスの外側を伝う水滴が一本、灯の筋を割って落ちる。


 ヴィルの手が止まった。その一瞬が、なぜか目に入る。指の節、爪の縁、オイルの艶。


 フォークの先が皿の縁に触れて、ひとつ鳴った。音が跳ねた拍子に、言葉が先に出た。


「そんなことないよ」


 言ってしまってから、自分の声の高さに気づく。急に照れくさくなり、視線を皿へ落とした。


 ――……あれ、なんで?


 胸の奥がくすぐったく熱い。パンくずを払うふりをして、視線の癖を隠した。


「ん? どんな? たとえば?」


 カテリーナの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。促すというより、確かめるような。


「……わたし、ヴィルといると楽しいよ。一緒にお酒を飲んだりするときも、たくさん話さなくても、不思議と落ち着くし。わたしが熱を出して倒れたときも、優しく看病してくれたし……それに、時々子供みたいに笑ったりするところとか、いいなって思うし……」


 言葉がつらつらと零れ、我に返って頬が熱い。視界の端で、カテリーナが目を丸くする。フォークを落としかけて、ニヤリと身を乗り出した。


「へぇ……」


 その一言に、何かを見透かしたような響きがあった。けれど、彼女はそれ以上追及しなかった。代わりに視線をヴィルへ移す。


「ねぇヴィル、あんたどう思う?」


 ヴィルが一瞬だけ動きを止める。口が開くまでの一拍、彼の肩がわずかに下がる。短い咳払いののち、そっけなく。


「別に、そんなこと言わなくていい」


「なんだよ、それ」


 カテリーナが肩をすくめる。


「普通は『ありがとな』とか、『そう思ってるのはお前だけだ』とか、そういうセリフが出るもんでしょ。まったく」


 ヴィルはため息をつき、気にしていないふう――それでも、言葉より先に視線がテーブルのこちら側へ落ちた。心のどこかが微かに揺れているのを、わたしは感じてしまう。


 小さな変化に、口元がほころぶ。見られるのが照れくさくて、もう一度パンくずを払った。


「そういうのはだな、俺の柄じゃない。それに、別にミツルに特別なことをしているつもりはない。仲間として当然のことをしているだけだ」


 無骨で、そっけない。けれど、不思議と力のある声。まっすぐな言葉が耳に落ちると、息の奥でぬくもりがじんわり広がる。


「そう言うけどねえ」


 カテリーナはフォークをくるくると回し、軽やかに言う。


「昔っからそうだけどさ、あたしから見たら、あんた結構いいところあると思うよ?」


 『昔っから』の四文字だけ、声が薄く低かった。フォークの先が皿の上で止まり、わたしは続きを待ってしまう。


 カテリーナはグラスの脚に触れては離し、また触れる。外側を伝う溶け水が細く滑り、光を切った。


 彼女はわたしとヴィルを交互に見て、言葉を口元でいったんほどく。ほどいたまま、落とさない。


 氷をひとつ鳴らした。乾いた音が、空気の隅へ逃げる。


「……まあ、それを言われて喜ぶ顔は想像つかないけどね」


 からかい半分の声に、柔らかなクッションのような優しさが混じる。


 恥ずかしさで視線を落としたまま、さっきの言葉たちが息の奥に深く残っているのを感じる。でも、それが本音だから仕方ない。「楽しいし、落ち着く」――旅路を思い返せば、その真実さは揺らがない。


 ふと、ヴィルが短く呟いた。


「……ミツルがそう思っているなら、悪い気分じゃない」


 言い終えると、彼はすぐにグラスを傾けた。縁が小さく鳴り、肩の線だけが僅かに緩む。


 素っ気なく短い――のに、低く穏やかなぬくもりが滲んでいた。ひと言が耳に触れた瞬間、心に小さな波紋が広がる。


 彼の横顔をそっと伺う。無骨で飾らない。けれど、いつもより静かで、柔らかな光が滲んでいる気がした。


「ヴィル……」


 呼びかけそうになった自分に気づき、慌てて飲み込む。代わりにフォークを取り、冷めかけたアランチーニをひと口。米粒の丸みが歯の裏でほどけた。皿に残る熱が細くほどけ、同じ風がそれを攫う。窓の木陰が、ひと呼吸ぶんだけわたしたちに頷いた。


 振り向けば言える気がして、振り向かないでおいた。

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