選ばれる資格、選び取る決意
温かな余韻が、まだ湯気の上で揺れている。希望を探していい、幸せを掴んでいい――グレイさんの言葉が、静かに根を下ろしていく。
けれど、その光の傍らで、ひとつの問いがずっと影を落としていた。彼が語った聖剣のこと。「象徴」という言葉で括られたまま、その先が見えない。
カップの縁に残る湯気が、細く揺れて消えた。石壁に跳ね返る呼吸の間だけが、妙にくっきりと聞こえる。
わたしは膝の上で組んだ手をほどき、意を決して口を開いた。
「もうひとつだけ、気になることがあるのです。よろしいですか?」
「どうぞ」
「その聖剣なのですが、グレイさんは先程『象徴』のように仰いましたけれど、実際のところは、それ以外に何か特別な意味はあったのでしょうか?」
声がひとつ細る。ほどけた湯気が、いったん途切れた。
「たとえば、世界の脅威といえるほどの敵を討ち滅ぼすに足る――武器としての性質についてです……」
控えめにそう尋ねると、グレイさんは少し考える素振りを見せてから、静かに答えを返してきた。
「君に隠し立てするようなことはしたくない。私の知る限りのことを話そう」
言葉の真摯さに、姿勢がそっと整う。湯気に混じる茶の香が、静かに広がった。
「はい」
「魔術と古代文明を研究する立場から言えば――あれはただの剣ではない」
灰色の瞳が、遠い記憶を辿るように細められる。
「具体的にはどのようなところがですか?」
身を乗り出すと、彼は指を一本ずつ立て、声の高さを少しだけ落とした。
「まず、ロングソードに匹敵する外見に比して軽すぎること。そして、刀身から柄頭に至るまで、すべてが濁りのない純白であること。構造上の継ぎ目が一切ないこと――」
グレイさんの証言は、お披露目に参加したカテリーナからの報告と一致する。
「知らない者が見れば、木を削り出して磨き上げ、真っ白に塗った『子供向けの玩具』と誤解しかねない。……それくらい、ありえない代物だ」
ドキッとした。ローズクレストは、そうした意図を込めてピンク色を選んだのだ。腰元の剣の重みが、急に意識される。
「強度や切れ味についても検証したかったのだがね。王家の貴重な所蔵品である以上、残念ながら私の権限ではそこまでだった。試しに金槌で刀身を殴ってみたら、こっぴどく叱られたよ。『王家の秘宝に何をするか!』とね」
「なんて無茶をなさるんですか……」
思わず声が漏れる。彼は肩をすくめ、悪びれない笑みを浮かべた。
「すまんが、これが性分というものでね。それでも判明したことがある」
「と、いいますと?」
窓からの光が、白髭の縁をやわらかく際立たせた。
「刀身には、かすり傷一つついておらなかったのだよ」
驚異的な軽量性と頑強性。構造、材質、製造方法も不明。今のこの世界の科学技術ではとても解明できない。つまり――少なくとも物性だけ見れば、マウザーグレイルと同等だ。
「およそこの世のものとは思えぬ代物だ。古代――いや、神代の技術と言ったほうが近いのかもしれん。私なりに古文書を調べ上げてみたものの、手がかりらしいものは何一つ見つからなかった。残念ながら、わかるのはそこまでだ」
「よくわかりました」
声が少しだけ硬くなる。知れば知るほど、腰の剣の存在が重くなる。
「言えることは、王家が所蔵する聖剣はその謎に包まれた神秘的な特性ゆえに、存在するだけでも伝説の象徴として機能するということだ」
その言葉に、わたしは思わず息を呑んだ。最近発表された「資格者の選定」を目的とした剣――まさか、それが伝説に語られるメービス王女とヴォルフが手にした聖剣だったとは。
湯気の甘さが薄れ、口元だけが乾いた。
「たしか、『マウザーグレイル』という名前でしたね。なんだか荘厳な響きを感じます……」
「ああ、君もその名を聞いたことがあるのだな。王が何やら祭典を開こうとしているようだがね。……なんでも聖剣の資格者選定の儀式だとか? いや、いささか奇妙な企てだと、私は思っているがね」
穏やかな皮肉が、声の底に滲んでいた。
「そうですね……」
曖昧に返しながら、どう応じるべきか迷う。視線がカップの縁へ落ち、陶器の冷えだけが残った。
「どうしたのかね? 何か気になることでも?」
「はい、一つだけあります」
そう言うと、わたしはほんの少し姿勢を正した。冷えた空気が床へ沈み、静けさが濃くなる。
「わたしの推測が正しければ、ですが……あれは資格を有する者にしか、反応を示さないのではないでしょうか?」
湯気の気配が薄れ、言葉だけが先に落ちる。
「つまり、リーディス王家の血筋を引き、かつ精霊とされる存在の声を感じ取れる者――精霊の巫女の特質を持つ人物に限定される」
グレイさんは深く頷いた。灰色の瞳に、確かな肯定が宿る。
「それが正しい考え方だ」
「にもかかわらず、王家が広く門戸を開き、外部に向けて資格者を募るというのは、どうも腑に落ちなくて……」
グレイさんは、苦笑まじりに肩をすくめる。袖が擦れる音が、静けさに小さく落ちた。
「君の言う通りだよ。あまりに奇妙な話だ。いや、矛盾しているとしか言いようがない。あの剣が誰にでも選ばれるというものなら、伝説そのものが作り話だったということになるではないか。だが、民衆の誰もが君のように深い洞察を持っているわけではない」
「つまり……真実など預かり知らぬ民衆を操り鼓舞するための、政治的な演出ということでしょうか?」
彼の顔を覗き込むように問うと、グレイさんは少し目を細め、感心したように頷いた。灰色の瞳に、静かな光が宿る。
「その可能性は大いにあるだろう。ただ、さすがに王がそれだけを目的としているとは思えない。もっと別の何か……隠された意図があるのではないかと、私は見ているよ」
椅子の座面が、わずかに軋んだ。落ち着かない波が、言葉の合間をさまよう。
「それはどういう意味でしょう? わたしにはさっぱり見当がつきません」
グレイさんは目を伏せ、考え込むように沈黙を挟む。窓から差し込む光が、白い髭に柔らかな縁を描いた。
やがて、低い声で言葉が紡がれる。
「これはあくまで推測に過ぎないが――」
「ぜひ、お聞かせください」
お願いするように重ねると、彼は小さくため息をついて口を開く。
「あの聖剣は、伝説が語られ始めた頃から、王家の所蔵品として玉座の間に飾られてきた。ただの宝物のように扱われ、長きにわたり、その力を引き出せた王族はただ一人としていなかった。それゆえに、聖剣などというのは『まやかし』ではないか――そんな疑いを抱く者が、王宮内や貴族たちの間から出てきても不思議ではないだろう」
「……その疑念を晴らすために、ですか?」
「そんなところだろう。ようするに、王としては――王家の、いや、自らの権威を保ちたいのだ。そして、適当な資格者を仕立て上げて、見栄えのいい物語にする。国を鼓舞するには、それで十分だと踏んでいるのだろう。いささか浅慮な企てだと、私には思えてならないがね」
わたしはそっと息をほどいた。窓際の冷えが、言葉の隙間を通っていく。
聖剣――それが単なる伝説や象徴ではなく、現実のなかで何かの道具として利用されようとしている。その事実が、茶の香を一瞬だけ苦くする。
「聖剣の真の力が目覚めるとき――果たしてそれが資格に基づく結果なのか、それとも別の何かによるものなのか」
それは偶然ではなく、必然……。
ぽつりと漏れた呟きに、グレイさんは静かに頷いた。深い灰色の瞳に、遠い過去を映すような静けさが宿る。
だが彼は、あえて何も言い足さなかった。沈黙が、石の壁に沿ってゆっくりと這う。
「グレイさん、わたし……」
迷いを奥へ押し込み、声を震わせず続けた。
「何かね?」
穏やかな声が、覚悟を試すように響く。
「わたしは、資格者選定の儀式に参加しようと思っています」
勇気を込めて告げると、彼は驚いたように目を見開いた。眉がわずかに動き、予想外だったことが伝わってくる。
「君が? なぜかね?」
問われた瞬間、内側の思いがまだ整っていないことに気づく。それでも伝えねばならない衝動に押され、無意識に腰の剣――ローズクレストの柄へと手が吸い寄せられた。
冷たい金属の感触が、奥に微かな確信を灯す。
その瞬間、グレイさんの視線がわたしの腰元へ、ほんの一瞬だけ落ちた。桃色の鞘に収まった剣。彼の瞳が微かに揺らぐ。けれどすぐに視線は戻り、何も問わなかった。
――けれど、この剣のことをいまは言うべきではない。
「わたしに精霊魔術が使えるのであれば……精霊族と繋がる血を色濃く受け継いだ巫女のように、聖剣が反応するかもしれないと思ったのです」
言い終える前に、言葉が一度だけ引っかかった。
「ただ……それは可能性の話に過ぎませんけれど」
一息で告げ、言葉を選び直す。
「これまで反応を引き出せた者はいないと言われましたが……メービス王女以降、真の意味での巫女と呼ばれる存在は現れていないのではありませんか。ある『一人』を除いて……」
――母さま……。
思いのほか落ち着いた声で言えていた。揺れを奥へ押しやり、彼を見つめる。
グレイさんの表情が、静かに凍りついた。いつもの穏やかな笑みは消え、口を開きかけては閉じる。何か重要な事実を秘めているというより――すでに知っている何かを、必死に呑み込んでいるように見えた。
「……グレイさん?」
促すように名を呼ぶ。小さく息を吸い込み、彼は眉間にわずかな皺を寄せた。
「いや……失礼。少し驚いただけだよ」
そう言いながらも、表情には薄い影が残る。瞳の揺らぎを、わたしは見逃さなかった。
それでも、彼は問わない。
母。メイレア王女はマウザーグレイルと繋がり、対話することができた。その娘であるわたしは、鏡写しのような姿形をしていて、同じように剣の中の茉凛と通じ合える。そして、精霊魔術を操れる。
――つまり、わたしは……精霊の巫女ということなの?
頭がぐらぐらしそうになる。
グレイさんは魔術大学の総長で、王族ではないはず。それでも伝説や王家の謎の一端に関わっている。ならば当然、わたしに疑問を抱く可能性は高い。
けれど、彼は一つも口にしない。
「君の考えは――そうだな、少なくとも筋が通っている。だが……」
言い淀む。湯気の匂いが薄くなり、不安だけがふくらんだ。
「何か問題があるのですか?」
思わず強い口調になる。慌てて、声の角を削った。
――聞きたい。知るべきことがあるのなら、逃したくない。
再び沈黙。空気が一段冷える。彼の視線が一瞬だけわたしを捉え、すぐ遠くへ逸れた。その仕草が、どこか痛ましい。
長い沈黙のあと、彼は深く息を吐いた。肩が小さく落ちる。何かを諦めたような、あるいは――自分に言い聞かせるような。
「ミツル」
名を呼ばれ、背筋を伸ばす。石の床の冷えが影を濃くし、呼吸だけが少し硬くなる。
「はい」
「私は止めだてすることはしない。君は聡明で、思慮深い人物だ。……だからこそ、よくよく考え導き出した選択だと、私は信じているよ」
穏やかな声。けれど、言葉の奥に押し殺した何かがある。心配でも、警告でもない。もっと古い、もっと深いところから滲み出る重さ。
「結果がどうなろうと、何も気にすることはない。君は君の望むままに動けばいい。そこにこそ、意味がある」
一見、自由を許す言葉。なのに奥に込められたものが曖昧で、視界の内側に薄い霧がかかる。
――どうして、こんな言い方を。
掴みどころはない。けれど、わたしの意思を尊重してくれたことへの感謝は確かにあった。
「……ありがとうございます」
零れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。形に整う前にこぼれたのだ。
彼は微かに頷きながら、どこか遠い目をしている。その影が、カップの底に沈んだまま残った。
ふいに、懐かしむような調子で彼が呟く。湯気の匂いがわずかに濃くなる。
「……君を街で見かけた時、すぐにその春のような柔らかな緑の髪に目を奪われてね。そして、その瞳だ――泉の底を覗くような透明な瞳に、つい引き込まれてしまった。それで……あんな茶番を仕組んでしまったのだよ」
「それは……お茶のときに話してくださった、わたしと同じ髪の色の女性のことですか? だからわたしを……?」
戸惑いながら問うと、彼は小さく肩をすくめ、苦笑した。袖が擦れる音が短く落ち、すぐ消える。
「君に近づこうとした動機――その残りの半分は……いや、ほとんどそれだけだったのかもしれない」
視線が遠くへ流れ、窓硝子の淡い光を追った。
「君を目の前にした時、まるで彼女が帰ってきてくれたかのように錯覚してしまった。――ただ、心の底から嬉しくて仕方なかった。ああ……なんと姑息で情けない老人だろうか。笑ってくれたまえ」
自嘲の滲む声が、湯気の甘さを一瞬だけ苦くする。
「そんなことはありません!」
思わず顔を上げ、強く否定していた。言葉の勢いが、自分のほうを先に驚かせる。
「わたしがその方と似ていたというのであれば、それはよかったと思います」
湯気がいったん薄くなり、グレイさんが目を見開いた。
「あなたとお会いできたことも……ここへ導いていただき、知りたかったことをたくさんお教えいただいたことも。そのご厚意に、本当にどんなに感謝しても足りません」
自分でも驚くほどまっすぐな声だった。嘘のない感謝が、内側から自然に湧いて出た。
――なんでわたし、こんなに必死になっているの?
彼はわずかに目を見開き、それから柔らかな笑みを浮かべる。目元の皺が、やわらかく動いた。
「君という子は……なんと優しいんだ。そういうところも彼女とよく似ている」
その言葉が、湯気の向こうからそっと沁みる。遠いのに、触れられたみたいに。
「そ、そうなんですか?」
静かに問い返すと、彼は一瞬、遠い記憶を振り返るような目をした。眼差しに、大切なものを想うぬくもりが宿る。
「ああ、そうだとも。ほんとうによく……」
低く穏やかな声。わずかな切なさが混じる。
「私はもう老い先短い身だ。彼女と再会することは、きっと叶わぬだろう。だが……君のような子と出会えたことで、救われたような気分だ。本当に感謝しているよ」
潤んだように見える瞳に、部屋の冷えが一瞬だけほどける。それでも、言葉にできない感覚がそっと立ち上がった。
――どうして……?
彼の言葉や表情を見ていると、長いあいだ失っていた何かを思い出しそうになる。その輪郭はまだ曖昧なのに、確かに内側で息づいている。
「わたしこそ、グレイさんに巡り会えたことを、とても嬉しく、そして光栄に思っています」
自然にこぼれた言葉に、彼は少し目を見開き、ゆっくり微笑んだ。その笑顔はどこか痛々しいほど穏やかで、温かさに満ちている。
「ありがとう。その言葉は、私には十分すぎるほどだ」
静かな声が、石の部屋の空気をやわらかく包み込む。わたしはその場で、彼の言葉と表情をただ心に刻んだ。出会いというものが、これほど内側を震わせる瞬間をもたらすのだと、初めて知った気がした。
吹き抜けの窓から、冷たい風が一筋入ってくる。灰色の石壁に沿って舞い上がった微かな塵が、差し込む光の中で銀砂のようにきらめいた。
彼の袖口の影――そこから、銀の縁取りの小さな肖像画が、一瞬だけ覗く。春の若草を思わせる柔らかな緑の髪と、泉の底を覗くような瞳を描いた、それは、どこか懐かしい面差しだった。
――なんでだろう。あたたかくて、すこしだけ痛い。
胸の奥が疼く。
彼は気づかれまいとするように、そっと袖の内へ手を引いた。その仕草は、古い記憶を撫でるように優しい。風が止み、石の部屋に静けさが舞い戻る。
わたしと彼の影が床で寄り添い、ひとつに重なって、またゆっくりと離れていった。




