白銀の塔と忘れられた巫女
言葉が途切れたあとも、部屋の中にはまだ、熱の名残と冷気の薄い刃が同居していた。カップの縁でほどける湯気は、さっきより静かで、どこか頼りない。
石壁に沿って這う影がわずかに揺れている。その揺れに合わせて、時間だけが少し遅くなる気がした。
精霊族。精霊の加護。掟。
耳に残った語が、湯気の匂いの奥で小さく燻り続けた。ひとつの話を聞き終えたはずなのに、別の扉の蝶番が、きい、と鳴る気配がした。
視線を上げると、グレイさんは急かすこともなく、ただ待っている。石壁に跳ね返る呼吸の間だけが、妙にくっきりと聞こえた。
膝の上で指がほどけないまま。今ここで口にしなければ、たぶんまた、わたしは自分の中へ押し戻してしまう。
冷えた皮膚の感覚で自分を確かめるように指を組み直し、そっと声を出した。
「あの……もう一つだけ、お訊ねしてもよろしいでしょうか?」
自分でも驚くほど控えめな声になっていた。話の流れを切るようで申し訳なく思いながらも、どうしても聞きたかったことが腹の底で燻っていた。湯気の匂いを吸い込んだ途端、喉の奥がかすかに熱を帯びた。
「いくらでも、いや、一つどころか、いくらでも質問してくれてかまわんよ」
グレイさんは朗らかな笑みを浮かべながら答えてくれた。その表情に、いったん肩の力が抜ける。
けれど、すぐに遠慮が戻ってくる。カップの縁に残った薄い光が揺れて、言い訳だけが先に形になりかけた。
「いえ、総長というお立場の方に、そこまで時間を取らせるなど申し訳なく……」
自分の言葉にほんの少し躊躇が混じる。場違いではないか――という思いが頭をよぎった。視線がカップの縁へ落ち、湯気の揺らぎを追ってしまう。
「言ったではないか、私は暇を持て余す老人に過ぎんと。だからこそ、君とこうして有意義な対話ができることは、この上ない喜びと言っていい」
冗談めかした調子に、思わず瞬きする。石の天井の高みで、風が小さく鳴った。こちらの息が、その音に合わせて少しだけ深くなる。
その柔らかな物腰は、こちらの恐縮ぶりを見透かしているかのようだった。
「そんな。わたしなどと……」
「君は本当に気を遣いすぎる子だな。もう少し気ままに、肩の力を抜いてみたらどうかね?」
優しく、わずかに揶揄を含んだ響き。たしかにわたしは、こういう時いつも構えてしまう。言われてすぐ変えられるものでもないのに。
指の関節が、軽く白くなる。
「すみません……」
自然と頭が下がる。吹き抜けの窓から入り込む風が冷たく、髪がかすかに揺れた。肌を撫でる感触が、静かな諦めを誘う。
そんなわたしに、グレイさんは声を立てて笑う。その笑いはどこか温かく、強張っていた心をゆるめてくれた。
胸の奥に、柔らかな波が広がった。
「では、お訊ねします」
意を決して顔を上げると、彼は穏やかに頷いて促した。
「どうぞ」
「リーディス王国の象徴ともいえる伝説。王女メービスと騎士ヴォルフの物語についてです」
「ふむ」
「あの伝説はどこまでが真実なのですか? そして、あの中に登場する泉の精霊や精霊から授かる聖剣について。もしかして、記述にはない何か特別な意味が隠されているのではないでしょうか?」
質問はひとつでは止まらず、次々と口をついて出た。言葉が先に走り、息がわずかに乱れる。
「例えば先ほど伺った精霊族の話との関連とか。それだけではなくて、王家とどんな関係があるのか、とか……いろいろと……」
まとまりを欠いた言い方に、自分でも顔が熱くなる。
――あの伝説が、わたしにも繋がっているのだとしたら。
そう思う不安と恐れが、わたしを焦らせているのだ。腹の底で、小さな棘が刺さるように疼いた。
グレイさんはそっと目を閉じ、しばし思案の沈黙を置く。部屋の空気が静かに重みを増し、湯気の輪郭だけが細く残った。
やがて、ゆっくりと目を開いた。その深い灰色の瞳がわたしを捉えた瞬間、言葉にならない温度が腹の奥に広がる。慈しみを含んだ視線が、張り詰めた緊張をほどいていく。
「なるほど……」
ひと呼吸置いて、言葉が続く。
「君があの物語に興味を抱いた理由が、わかった気がするよ」
その声は穏やかで、こちらの思いを汲もうとする慎重さがあった。カップの縁を指がかすめ、微かな音が静けさに落ちる。
「メービスとヴォルフの物語、そして聖剣にまつわる伝説は、リーディスにおいて非常に大きな象徴だ。それがどれほど君に響いているのか、その理由について一つずつ答えていこう」
冷えた空気が、語りに合わせてゆっくり温度を取り戻す。遠い記憶を辿るような、懐かしい響きが混ざっていた。
「はい、お願いします」
◇◇◇
「ところで、君は伝説についてどこまで理解しているのかね?」
穏やかな口調。好奇心に、わずかな試す響きが交じる。視線が、静かに絡まる。
「はい。わたしが手にしたのは寓話……児童向けと言ってよい、平易な言葉遣いのものでした。筋立て自体はとても興味深かったのですが。ただ、表現や描写が簡素すぎて……内容については、正直なところ半信半疑といった印象を覚えました」
彼は小さく頷き、椅子にもたれるように体勢を崩す。木が低く軋み、音だけが残った。
「そうか。まあ、大まかな流れについては王家に残されている伝承と大きな差異はないが、細部にはいくつか異なる点があるがね。たとえば、メービス王女がどんな思いを抱えていたのか。そして、随行する騎士ヴォルフがその背中をどんな気持ちで見つめていたのか。実際はもっと辛く、切ない旅路だったようだね」
息を呑む。喉の奥がきゅっと狭くなる。
胸の奥に、淡い痛みが広がった。
「それは……二人が秘かに思いを通わせていた、ということですか?」
身を乗り出すと、彼はゆっくり頷いた。灰色の瞳に、遠い記憶の影が差す。
「少なくとも、王女の独白とされるわずかな記述からは、そう読み取れる。彼女は厳然と立ちはだかる身分差や、己の責務に縛られながらも、心の奥底では彼との関係をとても大切に思っていたようだ」
「なんとなくですが、わたしにはわかる気がするのです。でも……なぜその部分が物語から削られてしまったのでしょう?」
彼は目を細め、ほんの少し肩をすくめる。湯気が一筋、窓のほうへ流れていった。光の粒が、かすかに舞う。
「そうした苦悩や葛藤というものは、崇高な英雄譚には不要だと判断されたのだろう。伝説というのは、えてしてそういうものだ。必要以上に誇張され、美化され、都合の悪い部分は削ぎ落とされる。それこそ、後世の人間たちが求める、理想的な英雄像を形作るためにな」
諦念めいた色を帯びながらも、そこには深い理解があった。声の余韻が、静かに部屋を満たす。
「それにしても、グレイさんはどうしてそこまでお詳しいんですか?」
彼はふっと笑みを浮かべ、わずかに身を乗り出すと低く囁く。
「言っただろう? 長く生きている分、いろいろと物知りなだけさ。それに――王宮に収められている秘蔵の古文書を管理する役目を任されているから、という事情もある。ま、ようするに暇人の役得というわけさ」
「えっ、それでは……古文書を直接ご覧になれる立場ということですか……!」
思わず声が高くなる。心臓が跳ね、指先がカップの縁を探して迷う。息が熱く喉を駆け上がった。
彼は片手を軽く上げ、焦ったように表情を曇らせた。
「おっと、これは内密に願いたい。こんなことが知られたら、私はこっぴどく叱られてしまうだろう」
「それは困りますよね」
「まったくだ。あそこの王様は気難しくて短気だから困る。即位して五年も経つというのに、もっと悠々としていればいいものを……」
皮肉と親しみが混じる口ぶりに、つい笑みがこぼれる。多くを知りながら軽やかに語るその姿勢に、ふっと安心が落ちた。肩の力が、ゆっくり抜けていく。
「さて――その伝説とリーディス王家、そして精霊族との関係についてだが、正直に言おう」
背筋を正す。石壁が、低い声を小さく返した。空気がわずかに張り詰める。
「はい……」
「すべては一つに結びつく――と言っていいだろう」
目を見開く。言葉が胸の奥で小さく鳴った。息が、静かに止まる。
「それは本当ですか?」
「ああ、本当だとも」
瞳に迷いはない。静かな確信に、思わず息を詰めた。指先が、膝の上で絡まる。
「リーディス王家は幾度か浮き沈みはあるが、その歴史は約二千年に及ぶ最古の王族といわれている」
「二千年……!? でも、たしか王都を紹介するパンフレットには『一千年』と記されていたように思います」
「そうだね。この地に遷都されたのは、今から一千年以上前のことになる。実はそれ以前に大きな戦乱があってね。王家は一度存亡の危機に瀕したのだよ。辛うじて生き延びた直系の王族が再興したのが、現在のこの国というわけだ。ま、その歴史的事実は、王家にとって闇に葬りたい部分なのかもしれないが」
「だとしても、二千年も続く家系というのは驚きです」
喉が詰まりそうになる。二千年――想像を超える長さだ。ひとつの血筋がそれほどの時を紡いできたという事実が、どこか現実離れして聞こえる。視界が、かすかに揺らぐ。
「そして、その始祖は精霊族だった――とも伝えられている。それ故に、リーディス王家の血筋は神秘性と神格性を持つものとされ、人々から崇拝の対象となっていたそうだ」
「崇拝……」
繰り返す声に、驚きと興味がさざ波のように広がる。
胸の奥で、何かがざわめいた。
「王家の血筋には、特別な意味が込められている。精霊との深い関わりを持つからこそ、リーディスは精霊の加護を受けた国であり続ける――そう信じられてきたのだ」
耳を澄ませながら、小さな疑問が芽生える。二千年続く血脈の特徴は、今も受け継がれているのだろうか。母さまや、わたしにも――。
気づけば膝の上で手を固く握っていた。爪が、皮膚に食い込む感触。
「……それが、リーディス王家の伝説と精霊族との繋がり、というわけですね」
静かに問うと、彼はゆっくり頷く。その眼差しには、語っていない何かを含む気配があった。灰色の瞳が、深く沈む。
「実はね、それを裏付けるある隠された真実があったのだよ……」
思わず息を呑む。湯気が途切れ、部屋の冷えが一段だけ濃くなる。肌が、ぴりりと引き締まる。
「それは、いったい?」
平静を装うが、好奇心が声に微かな震えを混ぜた。心臓の鼓動が、耳元で響く。
「リーディス王家には、時代の節目節目ごとに、ある『特殊性』を持つ子供が生まれるのだ」
背筋に冷たいものが走る。息が浅くなる。
「その子供たちは、必ず『漆黒の髪と翡翠の瞳を持って生まれる女性』である、という奇妙な規則性があってね。そして――彼女たちはどこからともなく聞こえる『声』を耳にすることができた。精霊の囁きとも、あるいは……それ以上の何かとも言われている」
『声』――その言葉がみぞおちに突き刺さる。遥かな出来事でありながら、なぜか自分自身に結びつく感覚。黒髪、翡翠の瞳、そして声――それはまさに、わたし自身の姿ではないか。指先が、冷たく震える。
「だが、他の『誰にも聞こえぬ声が聞ける』というのは、常識的には理解されにくい。精神を病んでいるとしか思われなかった。結果、王家の姫として生まれながらも陽の光を浴びることすら許されず……王宮の白銀の塔の最上階に幽閉されてしまったのだそうだ」
「そんな……ひどい……」
思わず漏れる。理不尽な運命を背負った彼女たちの姿が、ありありと脳裏に浮かぶ。胸の奥が、痛く締めつけられる。
灰色の塔の窓辺から、荘厳な王宮と白銀の塔を眺めた。
まず零れたのは、息だけの声だった。――美しい、と。けれど同じ場所に、別の言葉が遅れて浮かび上がる。怖ろしい、と。二つの直感は、同じ温度を持たないまま皮膚の上で重なり、背筋を冷たい指でなぞっていった。
「彼女たちが何を見て、何を聞いていたのか――それを知る術は、もうない。記録もほとんど残されていないし、時が経つごとに存在そのものが歴史の中から消されていった」
低く淡い悲哀が、彼の声の奥に沈んでいた。部屋の空気まで、それに合わせて重くなる。磨かれた床に落ちる光も、少しだけ色を失ったように見えた。
「でも……その声にはきっと何らかの意味があったのではないですか……?」
問いは、思っていたより細く出た。胸の奥で震えるものを押さえようとして、指先が窓枠の縁に触れる。石の冷たさが、爪の下まで静かに染みた。
彼は短くため息をつき、視線を遠くへ投げる。窓の外の光が、白銀の塔の表面でかすかに揺れた。
「その通りだ。そして、その悲しい宿命を変えたのが、伝説のメービス王女だったのだよ」
その名が落ちた瞬間、空気がわずかに震えた。誇らしさと切なさが、彼の表情の中でほどけずに残っている。長い年月を越えてなお、消えきらない火のように。
「メービス……」
名をなぞると、胸の奥に小さな灯がともった。
聞き覚えがないはずなのに、どこか懐かしい。喉の奥がかすかに疼き、息を吸うたび、見えない糸が内側で震えるようだった。
「彼女は、長きにわたり続いた王家の因習に抗った、ただ一人の姫だった。そう……緑の髪というのは偽装、あるいは後世の捏造だというのが私の見解だ」
彼は視線を落とし、静かに語り始めた。声の響きは、灰色の塔の部屋をゆっくり満たしていく。古い紙と石の匂いが、言葉の輪郭を少しだけ深くした。
「生まれながらに『声』を聞く力を持っていたがために、例に漏れず塔に幽閉されて育てられたが、彼女は運命をただ受け入れるだけの人物ではなかった。耳を澄ますうちに、それが単なる幻聴などではなく、もっと大きな『意思』の欠片だと理解したのだ」
「意思……?」
自然と身を乗り出す。腹の奥がざわめく。息が、浅く速くなる。
「そうだ。彼女が聞いた『声』とは、精霊族の遺した記憶、あるいは彼らの願いだったとも言われている」
慎重に選ばれた言葉が、静かに沁みる。
「彼女はその声を元に、精霊とは何であり、何を望んでいるのかを突き止めようとした。塔の中で得られるわずかな資料を漁り、声を記録に残し続けながらね」
希望の灯と、不安の影が同時に広がる。王女は孤独の塔で諦めず、精霊の声を頼りに、迫る脅威に気づいた。そして――。
指先が、卓上を軽く叩く。
「そして、最終的に――精霊の声を通じて、迫りくる未知の脅威の存在を知ったのだ。彼女は直ちに父親である時の王に、その内容を『精霊からの預言』として伝えたのだが……」
「信じてもらえなかった、のですね?」
「残念なことにね。しかし、その後彼女が告げた通り、中央大陸に留まらず世界各地に脅威が出現し、戦乱が巻き起こった。預言は現実となったのだ」
冷静な語りの奥に、歴史の重みが宿る。部屋の空気が、わずかに震える。
「事態が王女の言葉通りに進行するのを目の当たりにして、王はようやく彼女に価値を見出した。そして彼女に、精霊の意思を伝える存在としての役割を与えた。すなわち――『精霊の意思と接続し、言霊を伝える巫女』というわけだよ」
「精霊の巫女……」
呟いた瞬間、舞台で演じたメイヴィスの姿がよぎる。さらに深部では――前世のわたし自身、『深淵の巫女』としての記憶が疼く。
真実を知るたび、立ち位置が揺らぐ。新しい人生を歩むはずだったのに、内側にはなお前の生が息づいている。そんな気がしてならない。
ざわめきを抑えきれず、小さく息を吸う。その音が静寂に触れ、緊張のほどを自覚する。
――いや、囚われてはいけない。
自分に言い聞かせる。過去ではなく、いま為すべきを。視線が、静かに定まる。
「彼女がその運命をどう受け止めていたのか――それは記録に残っているのですか?」
落ち着きを装って問う。彼女を知ることが、自分を探る手がかりになる気がした。息が、ゆっくりと整う。
グレイさんは目を伏せ、少しの沈黙を置いた。何かを思い出すような気配。指先が、軽くカップを回す。
「彼女が何を思い、何を感じていたのか――それを記した記録は、ほとんど残されていない。ただ、唯一語り継がれている言葉がある」
わたしは息を詰め、その続きを待つ。心臓の音が、耳に響く。
「『これが宿命だというなら、わたしは喜んで全うしましょう。たとえその終わりがどれほど苦しみに満ちたものだとしても、わたしは決して目を逸らさない。なぜなら、わたしはこの美しくも残酷な世界を愛しているから、そこで必死に生きようとする人々を守りたいから』」
鋭くみぞおちに刺さる。
――目を逸らさない。
響くたび、静かに問いかけられている気がした。彼女のように、わたしはこの運命とどう向き合うのか。
閉ざされた世界から、見たこともない外を美しいと言い、守ろうとした彼女。その思いがどれほど純粋で、そして切実なものだったのか。
震える指先を、石の卓上でぎゅっと握る。爪が、皮膚に食い込む痛み。
「そして、聖剣を探し求める旅に出たのですね? 騎士ヴォルフを伴って……」
抑えきれず問いを紡ぐ。旅路に込められた想いを知りたい。声が、かすかに震える。
彼は静かに頷いた。感慨が淡く浮かぶ。灰色の瞳に、柔らかな光が宿る。
「そうだ。メービスとヴォルフ――二人は精霊の導きに従い、聖剣を探し求めて幾多の試練に立ち向かった。その中で、どのように心を通わせ、関係を育んでいったのか、記録には残されていない。ただ、二人が互いをかけがえのない存在として認識していただろうことは、想像に難くない」
穏やかな語りが、彼女の姿をさらに鮮明にする。胸の奥に、温かな疼きが生まれる。
――運命と使命を、愛する人と共に背負う。
深く刻まれる言葉。
――もしわたしにも、そんな存在がいるのだとしたら――誰?
視界の奥に浮かぶのは、わたしを救い上げた白い剣の光と、その中でささやく茉凛の声。息が、静かに熱を帯びる。
「メービス王女がその旅の果てに何を見つけたのか――それは記録に残っていますか?」
おそるおそる問う。どんな答えでも、続きを知りたかった。指先が、軽く震える。
「旅の果てに彼女が何を見つけたのか――それは『聖剣』という象徴だったのだろう。だが、それ以上のものを彼女は見つけたかもしれない。それは彼女自身の中にある覚悟や、彼女が信じるものの形だ」
小さく息を呑む。これは物語の結末ではない。内側に、静かな共鳴が生まれていた。心の奥が、ゆっくり温まる。
彼女の足跡を辿れば、わたし自身の道が見つかる――そんな思いがゆっくり広がっていく。
「それは、希望……そしてその先にある、ささやかな幸せ……」
気づけば零れていた。無意識に紡いだそれは、心の底からの願いなのだろう。声が、かすかに震える。
彼は視線をこちらに戻し、灰色の瞳をやわらかく揺らす。
「そうかもしれないな。彼女の世界を救いたいという願いがどれほど壮大であれ、そこに込められた思いは、君が言うような、もっと身近で素朴なものだったのかもしれない」
穏やかな言葉が沁みる。権力でも力でもなく、彼女が求めたものがあったのなら――それは確かに、わたしとも重なる。胸の奥に、光が広がる。
――希望。そして、幸せ。
その二語が、ゆっくりと形を成す。メービスの物語が、過去の悲劇だけでなく、未来を照らす光に変わっていく。
「もし、彼女がその希望を見つけられたのだとしたら……わたしも、探していいのでしょうか?」
思った以上に小さく震えた声。それでも、一歩を望む響きがあった。息が、静かに満ちる。
「もちろんだとも」
静かで力強い返答。腹の底に、新たな決意が芽吹く。温かな波が、全身を包む。
「メービスが自らの運命を受け入れ、それを乗り越えようとしたように、君だって君の道を歩む自由がある。そして、希望を見つけることも、幸せを掴むことも、決して誰かに否定されるべきものではない。それが人というものではないかね?」
その言葉が、内側いっぱいに満ちる。
それが何であれ、わたしもいつかきっと見つけられる――そう信じられる気がした。
語りが終わった静けさの中で、わたしは揺れる小さな光を、そっと抱きしめた。部屋の空気が、優しく温度を帯び、湯気が再び静かに立ち上った。




