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精霊の繭、精霊の記憶

 グレイさんは、不思議と落ち着いた表情を浮かべながら、静かに口を開いた。天井から落ちてくる、わずかに青みを帯びた光が、彼の白い髭の一本一本に柔らかな縁を描く。光がわずかに揺らぐたび、彼の存在そのものが、塔の空気と呼吸を合わせているように見えた。


「君の力とは、君の心や純粋な願いそのものを形にするもの。私にはそう感じられるのだよ。だから、私は決して不安や恐怖といったものを抱くことはない」


 柔らかな声に、わたしは思わず瞬きした。灯の揺れが壁の影をゆっくり伸び縮みさせる。


 さっきまで平静を装っていたものが、内側で小さく波立つ。言葉を返そうとした喉が、熱とも冷えともつかないまま、ふっと詰まった。


「どうして……どうしてそんなふうに言えるんですか?」


 自分でも答えの出せない力の在り処を、なぜ彼は断言できるのか。その理由が知りたかった。


 慰めであってほしくないし、同時に空虚な励ましでもあってほしくなかった。


 グレイさんは軽く頷き、湯気の立つカップに一瞬だけ目を落とす。湯面には天井の光がかすかに反射し、揺れる薄い色が、まるでどこか遠い記憶の欠片のようにきらりと光った。


 そして、再びわたしへと向き直った。


「あの日君と出会い、茶の時間を共にし、言葉を交わした。それだけで十分ではないかな」


 静かに告げられた言葉に、わたしは目を見張る。あまりにもさりげない言い方なのに、その裏に積み上げられた経験と年月の重さが、静かな圧として伝わってきた。


「そんなことで……わかるものなのですか?」


 口をついた声には、わずかな疑念が混ざっていた。あまりにも短い時間で、人が理解できるはずがない。そう思ってしまう自分がいる。


 けれど、否定しきれない部分も確かにあって、その曖昧さが余計にわたしを落ち着かなくさせる。


「わかるさ」


 彼の声音は揺るがない。まるで自明の理であるかのように、静かな確信を帯びて続く。彼の言葉が空気を撫でるたび、部屋の温度がほんの少しだけ変わるような気がした。


「君は純粋で、とてもまっすぐで、だがそれゆえに時に傷つき、ひどく悩む。ごく普通の、どこにでもいる少女に過ぎない」


「わたしが……普通……?」


 自分の声が震えたとわかった。「普通」と呼ばれることに、どうしようもない驚きを覚える。


 ――わたしなんかが、そんなわけない。こんなのまともじゃない。だって、わたしはたくさんのものを壊してきた。これからもっと……壊すかもしれない。


 心の奥から否定がもたげる。前世で背負わされた血の宿命も、この世界でまとった黒髪も、そして誰とも共有できない異能も、「普通」という言葉からは、あまりにも遠くに思えた。


 胃の奥で、何かがぎゅっと縮こまる。普通なんかじゃないと言い張りたい自分と、その言葉に救われたい自分が、狭い場所で押し合いへし合いしている。


 グレイさんは、その揺れを見抜いたように、わずかに微笑んだ。目元に刻まれた皺がやわらかく動き、その陰影は、長い旅路の果てに辿り着いた湖面のように、静かに澄んでいた。


「君は実に聡明だ。そして、ぎらつくような野心や、何者にも負けまいとする強い闘争心を持っているわけではない。それどころか、自分の力を過分なものとして捉え、常に慎重で懐疑的だ。得てして人というものは、強い力を得ると己を過信し欲に溺れていきやすいものだ。だが、君からはそうした意識は微塵も感じられない」


 湯気が細く立ち、茶の香りがいっとき鼻先を撫でた。


 その言葉は、冷たい石の空気にそっと落ちてきて、わたしの内側へ細い根を伸ばした。


 否定し続けてきた怯えが、別の名に置き換えられて差し出される。そのやさしい言い換えに、肩のあたりの力が、気づかないほど少し抜けた。


「だから、私は安心しているんだよ」


 静かな響きが、内側の絡まりをほどいていく。卓の木目に落ちた影が、ほどける糸のようにゆっくり薄くなる。


 わたしは息を吐いた。湯気が細くほどけていくのを見つめていると、体の奥の火が揺れるぶんだけ、言葉が喉の手前でいったん止まる。


 石壁の奥のどこかで木がきしみ、遅れて風の音が届いた。高窓の隙間をすべる冷気が、指先の熱をそっと奪っていく。


「お言葉、ありがとうございます。けれど――」


 声は小さく、息が混じった。


「わたし自身、まだ……自分を信じきれなくて」


 言葉を絞り出した途端、頬が遅れて熱くなる。視線を上げきれず、指先がカップの縁を探して、触れる寸前で躊躇した。


 グレイさんは静かに微笑みを深めた。


「怖くて当然だよ。力とは元来そういうものだ。だが君ならば力に飲まれるようなことはなかろう。むしろ、それを導く側に立てるはずだ」


 瞳に灯りが映り、かすかに揺れていた。


 それが本当に正しいのかは、まだわからない。けれど、その温かさが、胸の暗がりに小さな灯をともしたのは確かだった。暗闇に慣れた目でも痛くならないくらいの、手のひらで守れるほどの火が、そこにある。


「そうだ。肝心の知りたがっていた君の力の正体について、私からの見立てを示しておこう」


 低い声が石壁をすべり、ひと呼吸ぶん遅れて戻ってくる。


「既に君自身、ある程度自覚しているとは思うがね」


 わたしは身をわずかに乗り出し、頷いた。椅子の脚が絨毯を押し、沈みのぶんだけ体重の位置がずれる。


「はい、お願いします」


 茶の温度だけが、舌の上に残っていた。


「君が扱う術式とは、おそらくかつてこの世界に存在していたとされる――今は失われた幻の魔術だろう」


「魔術という表現は的確ではないが、今はそう定義させてもらう。そして、これはここだけの話だ。今のところは――」


 表情が一瞬だけ険しくなる。


「決して口外してはならない。これは君のためでもある」


「……はい」


 襟元から冷気がひやりと滑り込み、指先がわずかに固くなった。


「君が操る力は――『精霊器接続式魔術』、通称『精霊魔術』と分類されるものだろう……」


「精霊魔術……初めて耳にします」


 口にした音が、心の奥に妙な残響を残す。懐かしさと得体の知れなさが、同じ場所で擦れ合った。


「うむ。遥かな昔――古文書の分類上『古代バルファ期』と称される時期に『精霊族』と呼ばれる種族が存在したと伝えられている」


「その精霊族とは、いったいどのような種族なのですか?」


 知らない言葉が続き、息が浅くなる。


「説明しよう」


 グレイさんは一拍置き、言葉を選びながら続けた。間のあいだに、塔の高窓をなでる風の音が、かすかな紙鳴りとなって紛れ込む。


「彼ら精霊族は、自然の中に遍く存在する精霊――形を持たず、通常の人間には存在すら認識できない『意思』のようなものを感じ取れたと言われている。そして、彼らは精霊たちに寄り添い語り合うことで、さまざまな自然現象を自在に操っていたそうだ」


 わたしは息を呑む。冷たい空気が肺の奥を撫で、しんとした痛みだけが残った。


「目に見えない精霊たちと……語り合う?」


「そうだ」


 静かな声には、どこか感慨がにじむ。遥か遠い昔の景色を、彼自身が見てきたかのような響き。


「彼らの力は決して自然を傷めることなく、あくまで調和を重んじる。炎を操っても周囲の草木は焦がさず、水を操っても土壌を傷めることもない」


 ――まさか、限定された領域内での事象操作。限定事象干渉領域……?


「だから彼らの生活は自然そのものと共鳴し、静けさと豊かさに満ちていた、というわけだ」


 目を閉じれば、見たことのない景色が淡い輪郭を持ち始める。風に揺れる高原の草と、そこをすり抜ける透明な存在。それがわたしの持つ深淵の力の根源――デルワーズの因子と繋がるものなのだろうか。そんな考えが、心の裏側でそっと顔を出した。


「……わたしの力と、それが関係しているというのですか?」


 掠れた声。腹に渦巻く疑念と不安を押し込み、辛うじて絞り出す。


 グレイさんは静かに、けれど重々しく頷いた。


「ああ、その可能性は高い。魔石に依らない現象の具現化――それも詠唱無しの無遅延での発動。すなわち思考そのものが術式として直接機能する。私の目にはそう映ったがね」


 みぞおちの奥に、鋭い衝撃が走る。奥のほうで、長いあいだ蓋をしてきた箱が、かすかに鳴った気がした。


 この特異な力は、偶然でも生来の「だけ」の資質でもない。失われた根――精霊族の源流へと通じているかもしれない。そう思った瞬間、石の湿りが一層際立つ。足元から這い上がってくる冷えが、現実をくっきりと縁取っていく。


「では、お尋ねします」


「うむ」


「……精霊族は今、どこにいるのですか? わたしは同じような術を扱う人に、これまで一度も出会ったことがありません」


 恐る恐る問う。唇の内側が乾き、言葉だけが先に落ちた。返答は早かったが、声の底に沈んだ翳りがある。


「そうだな。どうした理由かは定かではないが……精霊族は衰退したのか、あるいは滅亡したのか――今では伝説にのみ語られる存在だ」


「滅んだ……?」


 思わず漏れる。声が喉の途中でいったん引っかかってから、ようやく外へ押し出された。


「なぜですか? 自然と調和して生きていける種族が滅亡するだなんて……到底信じられません」


 戸惑いと反発を、彼は静かに受け止めた。湯気の向こうでまぶたが一度だけ伏せられ、戻った視線がわずかに遠い。


「もっともな感想だ。それこそが、我々にとっての最大の謎でね。いま繁栄を極める人類によって滅ぼされたのか――あるいは、追いやられる形で生活圏を狭めていったのか……原因はなお定かでない。ただ……」


 言葉が切られる。その先を、わたしは無意識に求めてしまう。沈黙が伸びるたび、心臓が一拍ずつ強く鳴った。


「ただ……なんでしょうか?」


 声がわずかに震える。彼は眉をほんの少し寄せ、慎重に続けた。


「その末裔が、今も生き続けているという話だ」


 小さな光が、心の暗がりに灯る。さっきまで冷えかけていた指先に、かすかな血の気が戻るのがわかる。


「たとえば、中央大陸北端の山岳地帯に隠れ住む『バルバロード』と呼ばれる少数部族だ。彼らが精霊族の末裔ではないかという説がある」


 その名に、記憶が鮮やかに揺れる。


 ――バルグ・キーン。


 全身が鋼のような若き戦士。初めて見たとき、巨大な斧が風を裂き、周囲に渦を巻いた。竜巻めいた旋風切り――あの一撃は鮮烈に焼き付いている。


 そしてわたしは見た。腕と背を包む薄白い光。膜のように揺らめくそれは、わたしの異能の根幹である〈場裏〉に似ていた。意識せずとも立ち上がる、あの不可思議な領域。


 目を閉じ、記憶を遡る。渓谷に吹き込む乾いた風の匂い、遠くで鳴る岩肌のきしみ、そしてその中でひときわ鮮烈に立ち上がった白い光。その光景が、いまの言葉と繋がるのだとしたら――。


「バルバロード……そこに精霊族に縁のある人たちが?」


 不安と期待が混じる声。心の内側からそっと伸ばした手が、まだ見ぬ何かの影を探るように空を切る。


「可能性はある。ただし、彼らは異邦人に対し、極度に警戒的だ。それに君の力が彼らと同質かどうかは、実地の比較検証が必要だろう」


 その言葉が、胸の奥に小さな火を宿す。揺らぎながらも、確かな熱。


 同じ種類の力を持つ誰かがいるのかもしれない。


 その可能性は、怖さと同じくらい、いや、それ以上に強い渇きとしてわたしを満たしていく。


 ――この件について、バルグに話すべきだろうか……。


 想いが形になり始めるのを感じ、わたしは視線を落とす。


 少数部族には、外からは見えない線がある。バルグが笑ってくれても、その線だけは越えられないかもしれない。石畳に落ちた自分の影が、さっきよりわずかに濃く見えた。


 グレイさんの声が続く。


「これは伝聞にすぎないが、彼らは精霊の加護を受けることで、戦闘力を飛躍的に向上させると言われている。その加護とは、魔術のように手続きを踏んで発動させるものではない。戦士の闘争心が極限にまで高められた時、肉体を通して精霊との接続が成立し、その力を得る――つまり、高度な精神集中が無意識の結びつきを生む。私はそう推測している」


「それは、意識せずとも……ですか?」


 思わず問いがこぼれる。理解の外側にあるはずなのに、不思議と遠くない。わたし自身の力の発動も、いつだって「気づけばそうなっていた」に近いからかもしれない。


「そうだ。たとえば、風の精霊の加護を受けた戦士は、瞬時に爆発的な加速を見せたり、衝撃的な爆風で敵を吹き飛ばす。彼らは超人的な肉体に加え、精霊の加護を纏い、まさに無双の戦士と化すのだ」


 バルグの怒号が渓谷を震わせたあの瞬間を思い出す。


『我が奥義、喰らうがいい。烈風(テンペスチュアス)乱舞斬(・ゲイル・ロンド)――!!』


 両手に握る斧が旋風をまとって空を切った。爆ぜた空気が竜巻になり、白い閃光が戦場を呑み込む。巨漢が目にも止まらぬ速さで回転し、閃光の輪が魔獣たちを次々と巻き込み粉砕していった。


「なるほど……その強さ、よく理解できます」


 爆ぜた風の白さがまぶたの裏で揺れ、次の瞬間、湯気の匂いが鼻先へ戻ってきた。喉の奥がひりつく。あれは技巧の派手さではなく、何かに繋がった瞬間の暴力だったのだと、遅れて理解が追いつく。


「物取りを追いかけようとした時の君も、そうだったね」


 グレイさんの言葉に、記憶が鮮やかに蘇る。頬を打った風の冷たさ、踏み込んだ足裏に返ってきた大地の反発、刃が空気を裂いたときの、あの一瞬の静寂。


 あの瞬間、何かがわたしを突き動かし、その流れに身を乗せただけ。意図せず、しかし確実に力が立ち上がった。精霊の加護に似た何か、と言い換えればこの世界では穏やかだ。


 けれど、わたしの中で先に立ち上がるのは、別の語だった。


 ――精霊子。限定事象干渉領域。〈場裏〉。


 唇に乗せれば、ここではただの奇妙な音になる。だから喉の奥へ押し戻し、前世の経験のほうで、あの刹那を冷たく切り分け直す。何が流れて、どこが開いて、何が代行したのか。


 わたしは、そうやって生き残ってきた。


「他にもある。地の精霊の加護を受けた者は、大地を踏みしめるだけで足元を震わせ、敵を揺るがす。地の魔術に近いが、もっと本能的だ。バルバロードにとって精霊との繋がりは誇りであり、神聖な存在から力を授かることこそ、戦士としての最大の誉れなのだ」


 落ち着いた語りから、彼らへの畏敬が伝わる。雪嶺の向こうで燃え続ける篝火のような、しんとした強さ。だが、その先はさらに深い。


「そして、彼らには古代より伝えられる一つの絶対の掟がある」


「掟……ですか?」


 思わず身を乗り出す。椅子の軋みが小さな音となって足元からにじみ、耳の奥でその響きが長く残った。


「それはな、『来たるべき時に備え、鍛錬を怠るな』というものだ」


「来たるべき時とは? それは一体、何を意味するのでしょうか?」


 自分でも気づかず、驚きが混じる。言葉の輪郭だけが目の前に浮かび上がり、その中身だけが霧に隠されている。そんな心もとなさ。


「そこまでは定かではない。その掟というのも、実のところ彼らの伝承の一節に過ぎないのだ。しかも原典については、バルバロードの三氏族それぞれが厳重に秘匿しているものでな。ただ言えることは、彼らは何よりもその掟を第一として、日々過酷な修練と研鑽を重ねている、ということだ」


「……絶対の掟……」


 自然とこぼれた言葉。驚きと、少しの感嘆が滲む。毎日を生き延びることで手一杯だった自分の過去が、思わず比較対象として浮かぶ。


「すごいですね……。そんな根拠も曖昧な言い伝えを信じて、鍛錬を続けるだなんて、わたしには――」


 そこまで言いかけて、わたしは息を詰めた。


 ――血の呪縛。


 前世で背負っていた「深淵の血族」という宿命。自ら選ばずして背負わされた使命。縛られて生きるしかなかった日々の記憶が、鮮やかに浮かぶ。


 あの頃のわたしは、抗う術もなく、流されるように「そうあらねばならない場所」に押し込められていた。


 ――彼らは違う。きっと、わたしなんかとは違うはず。


 そう思おうとして、はたと息が詰まる。宿命を抱え、それでも受け入れて生きる姿が、なぜか自分と重なる。悲しみなのか、共感なのか。判然としない感情がじわりと広がる。


 わたしはそっと唇を噛んだ。


「……ミツル?」


 遠くから呼ぶような声に、現実へと引き戻される。名前を呼ばれた瞬間、塔の空気がふっと輪郭を取り戻した気がした。顔を上げると、彼はじっとこちらを見ていた。その瞳には、温かさと鋭さが同居している。


「すみません、わたしったら、また考え事を……」


 曖昧に微笑む。うまく形にならない笑みのままでも、彼の表情がわずかに和らいだのを見て、少しだけ救われた気がする。けれど、腹のざわめきはまだ消えない。


 それでも――今、ここで向き合うべきものから目を逸らさないと決めた自分だけは、確かにわたしの内側で、静かに息をしていた。

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