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虚無のゆりかご

「本題に入る前に、まずわたしが目にしてきたものについて、お話ししたいと思います」


 その一言を口にするまで、どれほどの決意を要しただろう。舌の裏側がきゅっと痺れるように強張り、喉の奥には、小石のような沈黙が引っかかっていた。肋骨の内側では心臓が、堅い扉を内側から叩くみたいに落ち着きなく動いている。


 それでも、言葉はこぼれ出た。


 みぞおちの下で張り裂けそうに膨らむ重圧と、それでも語らずにいられないという、どうしようもない衝動。その両方に背中を押されるように、わたしはゆっくりと、肺の奥まで空気を満たす。冷えた塔の空気が気管をなぞり、身体の内側をひやりと撫でていく。


 目の前のグレイさんは、静かな光を湛えた瞳で、まっすぐわたしを見つめていた。年輪を重ねた木の幹みたいに揺るがない視線。そこには同情でも哀れみでもなく、選択を既に終えている人の静かな覚悟があった。


 その視線を受け止めた瞬間、腹の底を締めつけていた迷いが、ほんの少しだけほどける。外套の内側にこもっていたこわばった熱が、ゆっくりと息と一緒に流れ出ていくような感覚がした。


「……リーディスへと向かう旅の途中、わたしはキカロスの大森林地帯を抜けました。その途中で、公的機関から発行されている地図には存在しない場所、通称『ハムロ渓谷』と呼ばれる場所に立ち入りました」


 グレイさんの指が、茶器の縁に触れたまま止まった。


「そして、その……中心部で、わたしはあるものを目撃したのです」


 言葉にするたび、記憶が鮮やかに蘇る。濃い樹液の匂いが混じった森の湿った空気、足裏にまとわりつく黒土の感触、枝葉を揺らして滑り込んでくる冷たい風。そして、森の闇が途切れた先に口を開けていた、あの荒涼とした谷。


 陽光さえ届くのを拒むかのような深い暗がり。肌を鋭く刺す冷気、呼吸と連動するみたいに、動くたび揺れる空気の重たさ。まるで谷全体がゆっくりと呼吸しているみたいな、不穏な気配があった。


 語りながら、心臓が浅く速く跳ねる。鼓動のたびに、あのときの痛みが肋骨の裏で重ね合わせられる。血の流れる音が、耳の内側でざわざわと騒がしくなる。


 一度言葉を切り、膝の上に置いた両手のひらで乱れそうになる呼吸を静かになだめる。


「目撃した、というのは正しいのかどうか。……あれは、そこに『在った』んです。わたしの前に立ちはだかり覆いかぶさってくるようで……」


 組んだ指先が自分の脚の布地をきゅっとつまみ、細い指がわずかに震えた。指の節にこもった冷えと熱が、交互に入れ替わる。


「……同行した方の話では、そこは『魔獣の巣窟』と呼ばれるものなのだそうです。でも、わたしから見れば、あれはこの世のものとは思えない――異様な裂け目でした。いえ、そんな言葉ではとても足りません。ただ無限に広がる闇。どこまでも続く底なし沼のような……。その裂け目からは濃密な魔素が溢れ出してきて、息をすることさえ苦しくて、頭が割れるようで気持ちが悪くなりました……」


 谷の縁に立ったときの、あの匂いが鼻の奥に蘇る。湿った土と焼け焦げた何かの残り香、それに混ざる、言葉にできない刺すような匂い。肺の内側に直接触れ、吸い込むたびに喉の裏側を荒く削っていくようだった。


 語尾が自然と震える。喉の奥に重く冷たいものがこみ上げてくる。声を出そうと唇を動かすたび、その塊が少しだけ上がりかけて、また落ちていく。


 意識があの闇に呑まれそうになる恐怖――黒い水の底へ引きずり込まれるみたいに、視線が、感覚が、ひとつひとつ奪われていくあの感覚。まるで、存在ごと否定されてしまうような気配。自分という輪郭が、足元からじわじわ溶け出していくようで怖かった。


「……あれはただの自然現象などではありません。まるで、何らかの意志を持っているかのように、闇そのものが蠢いていたんです。わたしは……意識を持っていかれそうになりました。あれは……とても怖ろしいものです」


 拳を握りしめて震えを抑える。自分の指の骨が、骨ばった掌の中で当たる感触が妙に鮮明で、現実へ引き戻してくれた。爪が掌に食い込み、じわりとした痛みが、奥底で揺れている恐怖を留める小さな杭になる。


 目の奥に浮かぶ色を、グレイさんは見逃さなかったのだろう。彼は小さく目を伏せ、長い睫毛の影が頬に落ちる。しばし沈黙を置いてから、低く重い声で言った。


「そうか。君はあれを見たのか。であれば、君が抱いている不安も恐怖も理解できよう」


 その声に込められた重さが、すべてを物語っていた。塔の空気が一瞬きゅっと引き締まり、魔道ランプの青白い光が、ほんのわずかに陰った気がした。


「……はい」


 静かにうなずく。髪先が頬に触れ、その冷たさで自分がここにいることを確かめる。あの光景を見た者が、この世にどれほどいるのか――そんなことはわたしにはわからない。それでも、グレイさんの表情が、その数が決して多くないことを教えていた。


 彼はわたしの答えを確認するように、ゆっくりと目を閉じ、石のように動かないまぶたの下で、過去の記憶を一つひとつ並べ直しているようだった。そして、言葉を紡ぐ。


「『魔獣の巣窟』とは――学術的には『虚無のゆりかご』と呼ばれる特殊な現象の結果として生み出されるものだ」


「虚無の……ゆりかご?」


 その名を口にした瞬間、みぞおちに冷たい鎖が巻きつくような感覚。言葉の響きそのものが、細い鉄の輪みたいに肋骨のまわりを締めつける。耳に響くその音が、何か禍々しいものの名残のようで、喉をきつく締め付けた。


 舌に残った茶の渋みが、一瞬で味を失う。空気さえも重くなった気がして、呼吸を整えるために小さく唇を開く。


「そうだ。虚無のゆりかご――それは突如として現れる。大地を裂き、周囲の地形ごと変容させてしまうほどの膨大な力を秘めている。そして百年以上前、一夜にしてハムロ渓谷と呼ばれる禁域が生まれた原因も、それだといわれている」


「たった一夜で……?」


 思わず膝の上で組んだ手に力がこもる。布ごしに自分の膝の硬さを感じる。その感触を確かめないと、足元の石畳ごと現実が崩れ落ちてしまいそうだった。


 信じがたい話だが、あの場に立った今となっては、否定できる根拠もない。谷を覆っていた、地図の線だけでは描ききれないあの異様な断絶を思い出すと、「一夜」という言葉さえ、決して誇張ではないように思えてくる。


 グレイさんは静かに頷き、淡々と続きを話す。彼の声の抑揚は穏やかなのに、その内容は一つずつ腹の底の柔らかいところへ突き刺さっていく。


「現在は活性度も低下しているが、出現直後には渓谷全体が、君が見たような光景に包まれていたとされる。天は黒紫の闇で覆われ、絶え間なく降る雷光が嵐のように地を走り、大気は魔素で満たされ、近寄ることすら不可能だったそうだ」


 彼の語りに喉がきゅっと痛む。まぶたの裏に、知らないはずの光景が勝手に描かれていく。黒紫の空を引き裂く稲妻の閃光、焼け焦げた土の匂い、耳を劈くような轟音。人の声さえかき消すような叫びと咆哮。


 その声の奥底には、抗いがたい自然の力を前にした人間の無力さがにじんでいた。研究者として長年向き合ってきただろう者の、諦めにも似た静かな疲労が、言葉の端々に沈殿している。


「あんなものが……あの一帯すべてに……?」


 自分でも驚くほど掠れた声が漏れる。声帯そのものが痺れているみたいに、音がうまく出てこない。想像するだけで、指の先まで血が引いていく。


 手が小さく震えた。膝の上で組んだ指がほどけ、また絡まる。心の中に、冷たい影がゆっくりと落ちていく。塔の石床の隙間にまで、あの闇が染み込んでいるのではないかと、一瞬ありもしない想像をしてしまう。


「その奥底では『虚無』と呼ばれる――未知の力が渦巻いているとされている。そして魔獣たちは、その混沌の中から生まれ出る。高密度の魔素の混沌が結晶化して魔石となり、生物の形を模倣して、地上に這い出してくる。文字通り尽きることなくね……」


「尽きることなく……」


 その言葉を反射的に繰り返すと、額にひんやりとした汗が滲む。「無限」という音が、現実離れして響くのに、グレイさんの静かな声は、それがまぎれもない事実だと告げていた。誇張も慰めも挟まない、乾いた事実だけの手触り。


 指先に残る茶器のぬくもりが、急速に現実から遠ざかっていく。塔の石壁に埋め込まれた魔道ランタンの明かりさえ、薄い膜越しのものに感じられた。


「一部の学者は、その穴を『この世ならざる世界』に繋がる、すなわち異界への門だと推測している。だが、確証は何一つない」


 その仮説は、わたし自身の考えにも通じていた。言われる前から、どこかで同じ言葉が喉の奥まで上がってきていた。


「……ですが、それが最も現実的な考えかもしれません」


 自分の声が震えていないか確かめるように、慎重に言葉を選ぶ。腹の底で一度言葉を転がしてから、唇へと押し出す。


「あれだけの地形変化が突如として起こる――では、その力がどこからもたらされたのか。通常、『無から有が生まれ出る』ことなどありえません。魔獣が尽きることなく湧き続けることからしても。だとすれば別の場所、あるいは……別の世界へ繋がっていると考えるのが妥当ではないでしょうか?」


 あの闇の向こうに何かがある、と直感してしまった瞬間の恐怖を、わたしは忘れられない。その「何か」は形を持たず、名も持たず、ただあるだけで世界を歪ませる。


「うむ、見事な考察だ……」


 グレイさんは深く頷き、その表情にはわずかな興味が浮かぶ。恐怖と好奇心が、彼の中で細い天秤のように釣り合っている。そのバランスの上に立ってきた年月の長さが、瞳の奥に刻まれているようだった。


「……君は冷静かつ論理的なものの捉え方をしていると思える。先ほど無知で未熟と言ったが、それは謙遜というものだろう」


「いいえ、そんなことはありません」


「どうしてかね?」


「……わたしはいろいろな意味で、この世の理を知らなすぎたのです。魔獣は憎むべき敵であり、滅ぼすべき存在。それしか頭になかったのですから」


 目の前で父を殺されたあの時から、わたしの怒りの矛先は魔獣だけに向けられていた。


「実際にあそこを目にするまで、魔獣の発生源について真剣に考えたことすらなかったのです」


 ――父さま……。


 視線が虚空をさまよう。


「それだけではありません。現在の文明の繁栄が魔獣によって成り立っていることも。それが国家を支えるのに不可欠な礎であることも。そして、人々の犠牲の上に、それらの循環が調和していることも。これらの矛盾した構造が隠蔽されていることも。何もかも、わたしは知らないままで……」


 口にすると、みぞおちのあたりがずきりと痛む。


 ――なにが黒髪のグロンダイルだ。何がエレダン最強の魔獣狩りだ。魔獣を憎み、倒してきた自分が、その循環の一部でしかなかった。道化もいいところじゃないか。


 知らないまま戦ってきたこれまでの日々が、急に頼りない足場の上に積み上がった瓦礫の塔みたいに思えてくる。


「ふむ……」


 短い相槌が、心の奥で小さな棘のように刺さる。その棘は痛いけれど、眠り込んでしまった感覚を無理やり起こしてくれる。


「いつどこに出現するのかすら予測もつかない、異界と繋がるかもしれない門。そんなものに、どうやって対処すればいいのでしょう。……お尋ねします、グレイさん。魔獣の発生や増殖を封じるような、何らかの手段は無いのでしょうか?」


 問いかける声には、使命感と焦燥がにじむ。喉の奥が熱くなる。ハムロ渓谷で見た傷だらけの人々、焼け落ちた街、倒れた兵たちの顔が次々と浮かんでは消えた。


 思いは抑えられなかった。自分の存在そのものが、その問いを投げかけるためにここに連れてこられたのだとさえ感じていた。


 グレイさんは目を細めて、深い吐息を漏らした。その吐息は、長い年月の重さと、積み重ねた敗北の記憶の匂いを含んでいるように感じられた。


「できると言えばできる。できないと言えばできない……」


「それはどういう意味ですか?」


 思わず問い返す。言葉の継ぎ目に生まれた、狭くて暗い隙間を、どうしても覗き込まずにはいられない。


「現象による一次的な被害はやむをえないとして、二次的な被害を抑えることはできよう。たとえば国家規模の軍勢を動員して周囲一帯を封鎖し、溢れ出してくる魔獣を堰き止めることだ」


「それだけ、ですか? それでは何の解決にもならないではありませんか」


 声が少し上擦る。自分でも感情が露わになっているのがわかって、奥歯を噛みしめる。塔室に微かな反響が生まれ、すぐに空気に吸い込まれていった。


「君の言う通りだ」


 短く認められた言葉なのに、そのあまりのあっさりとした響きに、逆に背筋が冷える。


「わたしが知りたいのはそうした対症療法みたいなものではなく、もっと根本的な……虚無のゆりかごそのものを封じ込めるような、結界や封印といった、何らかの魔術的手段の存在についてです」


 自然と、強い口調が漏れる。指先に再び力がこもる。机の縁を掴んでいたら、きっと節が真っ白になっていただろう。そうしなかったのは、ここで誰かを責めるつもりはないと、どこかで分かっていたからだ。


「残念だが、魔術的にあれをどうこうできるような、都合のいい手立ては存在しないのだよ」


 グレイさんはそこで一度深く息をついた。肩がゆっくり上下し、その動きに合わせて羅紗のローブがわずかに揺れる。


「虚無のゆりかごは、出現の瞬間に活性化の頂点に達する。その時点で、我々にできることはほとんどない。放出される膨大な魔素はもちろんのこと、発生する魔獣の数が多すぎて、近づくことすら不可能に近い」


 吹き抜けの窓から冷たい風が流れ込み、肩の上で髪がかすかに揺れる。風は塔の石壁を撫で、どこか遠くで塔鳴りのような低い音が響き、足元の石がほんのわずかに冷たさを増した。


 それは、話している内容に合わせて塔そのものが身震いしたようにも感じられた。


「規模の大小にもよるが、魔素放出の活性度が低下し安定するまでには、数ヶ月から数年を要する。そして、沈静化した後に包囲網を縮め、工兵部隊や魔導兵団を大量投入し、巣窟周囲に防壁を築き、事実を隠蔽する。それが我々にできる精一杯だ」


 わたしは無力感に俯きそうになる。視界の端で、絨毯の模様が滲んで波打ち始める。目を閉じてしまえば、そのまま何も見えない闇に滑り落ちてしまいそうで、ぎゅっと睫毛を持ち上げる。


「そんな、それしかできないだなんて……」


 声は掠れ、肩が力なく落ちる。背骨を支えていた何かが、一瞬ふっと抜けた気がして、椅子の背に頼らなければ座っていられなかった。


「魔獣の出現が記録され始めたのは数千年前とされている。研究はこの一千年あまり続いてきた。しかし――」


 グレイさんは視線を落とし、苦い表情を浮かべた。唇の端がわずかに引き結ばれ、その皺が長い歴史の重さを語っているようだ。


「――虚無のゆりかごの実態も、その先に何があるのかも、いまだ何一つ掴めていない。調査に挑んだ者のほとんどは帰らぬ人となり、かろうじて生き延びた者も精神を蝕まれた。触れることさえ叶わぬものを、どう調べろと言うのか……」


 刃のような言葉が、腹の底に突き刺さる。責めるための刃ではなく、欠けたまま磨かれた刃だ。何度も折れた欠片が、机の上に静かに並べられていくみたいに、淡々とした重さだけが積み上がっていく。


 わたしは言葉を失った。舌が乾き、喉の奥で言葉が粉になって崩れていく。押し潰されそうな重さのなか、ただ立ち尽くすしかなかった。


「そんな――それでは抜本的な解決手段は……」


 声の端が震えた。自分でも幼い問いだと分かっているのに、問わずにはいられなかった。グレイさんは言葉を切り、じっとわたしの目を見つめた。その視線は奥底まで貫くようで、目を逸らせば問いそのものを投げ出してしまう気がした。


「残念ながら、結界や封印というものは――夢や願望が作り出す、おとぎ話の中だけの幻想ということだ」


「ああ……」


 最後の希望すら断ち切られた気がした。みぞおちの内側で、細い糸が切れる音がした。指先を無意識に握りしめると、爪が掌に食い込んだ。じわりとした痛みだけが、かろうじて自分が生きているという実感を繋ぎ止めていた。


 前世で触れた物語が脳裏に浮かぶ。正義が勝ち、奇跡が起こり、祈りが届いて世界を救う話。子どもの頃、それにすがるように眠りについた夜のこと。けれどここには、そんな「お約束」の救済はない。ただ、誰にも抗えない冷たい現実と、積み重なる失われた命の記録だけがある。肩から力が抜け落ちた。残ったのは、鉛のように重い疲労だけだった。


 心の奥に沈んでいく無力さ――。身体の中心に開いた小さな空洞に、冷えた空気がゆっくりと溜まっていく。


「結局、わたしたちには――」


 喉の奥で言葉が詰まる。言葉にしてしまえば、本当にそうなってしまう気がして、舌の根が抵抗する。何もできないと知りながら、それでも何かをしたいと願ってしまう。矛盾が、腹の内側でぎしぎしと軋んだ。


「――何もできないまま、嵐が過ぎるまで傍観するしかない。そういうことなんですね……」


 吐き出した声は、塔の静けさに吸い込まれて、すぐに温度を失った。さっきまで指先に残っていた茶のぬくもりが、ひやりとした風に攫われていく。カップの底に残った液面が小さく揺れ、そこに映る自分の瞳が、少し暗く見えた。


 喉元で、細く浅い呼吸だけが身の在りかを確かめる。吸い込んだ空気が冷たいのか、自分の内側が冷えているのか、その境目がよくわからない。


 ――……それでも父さまは、虚無に立ち向かおうとした。民を守りたいがために。


 心の奥のさらに奥、誰にも触れられない場所で、静かに別の声が響いた。あの人の背中、煤けた外套、血の匂いと焚き火の煙。その全部が、腹の底で小さく灯をともす。


 わたしは、その決意と行動が無駄だったとは思わない。思いたくない。たとえ結果が虚無に呑まれたのだとしても、あの人が手を伸ばした事実だけは、決して消えてほしくない。


 掌の中で握った指に力がこもり、わずかな痛みが奥底へ沈む言葉を繋ぎ止める。「なにもできない」という言葉の先に、まだ別の可能性があるかもしれないと、かすかに囁く。


 窓辺を抜けた風が、髪をかすかに揺らした。頬の横を通り過ぎる風はひんやりとしているのに、その中に微かな陽の匂いが混じっている気がする。遠くで誰かが焚いた暖炉の煙の匂いかもしれない。


 石の床からせり上がる冷えが背骨に触れ、目の奥で暗い谷がゆっくり広がっていく。ハムロ渓谷の底に広がっていた闇と同じ色をした谷が、今度は自分の内側に形成されていく。


 ただ、残酷な現実だけが、なおもここに在るのだった。


 それでも――その現実をまっすぐ見つめることからしか、きっと始められないのだと、どこかで静かに理解していた。

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