螺旋階段の先に
滲み始めた光が、螺旋の先からほどけていた。
その明るさへ押し出されるように、わたしは最後の数段を踏みしめる。規則的だった足音が石に返り、湿りを含んだひんやりした空気が肌に張りつく。足首からふくらはぎへ、じわじわと重さが溜まっていき、膝の裏に細い痛みが灯る。
壁に取り付けられた持続反応術式の魔道ランタンが淡く灯り、その光が小窓から差す陽光と交わって、時の感覚を曖昧にしていた。同じ形の段を踏みしめるうちに、いまが朝なのか昼なのか、確かな境目が薄くなっていった。
手すりに軽く指先を添えると、古い石の冷たさが骨へ染みた。こびりついた粉塵が指の腹にかすかにざらつきを残し、ここをどれだけ多くの魔術師たちが行き来してきたのかを、無言のうちに語っているようだった。
靴底がわずかにきしむたび、塔の奥底から低い反響が返る。その反響は、わたしの心音と混じり合い、見えないどこかでひとつの脈を打っているみたいだ。
疲れを覚え、一息つこうと小窓へ寄る。小さな窓枠の縁には、手でなぞったような擦り傷がいくつも残っていた。
かつてここで外を眺めただろう誰かの手の跡――そんな想像が、指先に細い温度を灯す。眼下には魔術大学の複雑な建築群が幾何学的に連なり、庭園や小塔が規則正しく配置されている。
石畳の路地を行き交う人影は、ここから見ると小さな駒のようで、魔道ランタンや窓ガラスの反射が、そのひとつひとつに細やかな光を宿していた。まるで学び舎そのものが一枚の巨大な魔法陣を描いているかのようだ。
風が小窓から細く吹き込み、古い羊皮紙とインクの匂いに、遠くの薬草庫から漂ってきたのだろうか、乾いた葉の香りが混ざり合う。髪がその風に撫でられ、首筋に貼りついた汗がひやりと冷えた。塔の外に広がる冷気と、内部に溜まるわずかな温度差が、肌の上で薄い境界線を作っている。
視線を横へ流すと、白亜の王宮が視界を占める。広すぎる敷地の中央に白銀の塔が威風堂々とそびえ、太陽の光を受けてきらりと硬質な輝きを放っていた。
光は塔の側面を滑り落ち、周囲の建物の屋根や窓ガラスに反射して、細かなきらめきの連鎖を生み出している。近隣の建物とは一線を画すその光は、権威と神聖の気配をはっきり刻む。長く伸びた影までもが、そこへ収束していくように見えた。
「これが、この国の中心たる光……」
独り言が唇からこぼれる。自分でも気づかぬうちに、声はいつもより少しだけ細く、慎ましくなっていた。
喉を通るときの振動が、自分の身体ではないみたいに遠く感じられる。自分がどれほど高くまで来たのか、そして向かう場所の重みが、ようやく骨に入る。足元がふっと心許なくなり、思わず窓枠を握る指先に力がこもった。
「どうかね、ここから眺める景色は……」
老いた身に似合わず、グレイさんの息は上がっていない。子どものわたしに歩調を合わせていたのだろう。わたしよりずっと長い脚で、いくらでも先へ進めるだろうに、彼はあくまで同じ速度を保っていた。
出会いのときのふらつきは、やはり演技――そう結論づけるしかない。あの軽いよろめきも、わたしの注意を引くためだったのかもしれないと思うと、みぞおちがくすぐったく、ほんの少し悔しくもあった。
「はい、とても美しいです。ここから見る白亜の王宮は、眩しいくらいで、特に光り輝くあの白い塔を見ていると、どこか遠くの夢のように感じます……」
正直に内を述べる。言葉にしてしまうと、胃の奥にまとわりついていたもやが、少しだけ形を持つ。夢のようだと言いながら、その夢の中心に自分が引き寄せられていくような、不思議な怖さがあった。
「ふむ、正直な感想だ」
満足げに頷くと、彼は指摘も急かしもせず、穏やかに先を促した。その沈着さに、思わず敬意が湧く。誰かに評価されることに慣れていない脳が、すこし遅れてじんと熱を帯びる。わたしの内側で、まだ幼い部分と、すでに手放せない責任感とが、ぎこちなく肩を並べた。
「白銀の塔は、建国当初から存在するこの国の象徴であると同時に、ある意味一つの束縛の疵痕ともいえる……」
歩みは崩さず、声だけが低く落ちる。その調子に、階段の冷えた石が一瞬だけ温度を変えた気がした。
「王宮にしても同じ。遠くから眺める者にはその輝きが美しく映るが、内側にいる者にとっては、それは重く厳しい現実の象徴でもある。夢を見つづける者、夢に飲み込まれる者、そしてその夢の中で己を見失う者――どの立場に立つかは、人それぞれだがね」
含みのある響き。わたしは再び窓の外へ目をやる。夢のように美しい景色――だが、その裏を彼は知っているのだ。わたしがまだ知らない重さを、彼はきっと何度も肩に乗せてきたのだろう。白銀の塔の根元に広がる中庭の、肉眼では見えない細部にまで、濃淡の記憶が入り込んでいるように思えた。
「……グレイさん。あなたは、あの場所で何か経験されたことがあるのですか?」
軽率だったかもしれない。だが彼は気を悪くせず、短く笑った。その笑いは乾いても湿ってもおらず、ただ古い引き出しをそっと開けて中身を覗き込むような、静かな響きだった。
「ま、多少なりともね。だが、私はそこに縛られることを嫌っていた。だからこそ、こうして今、君と一緒に階段を登っているのかもしれないな」
「そう、ですか……」
喉が詰まり、肋骨の裏がわずかに疼く。縛られる感覚――わたしもかつて知ったものだ。
深淵の血族が御三家の一角、柚羽家。山奥の一軒家。そこに閉じ込められていると思っていた頃の窮屈さが、ふいに蘇る。なのに今は、もっと大きな「王家」という枠が、目には見えない鎖のように足首へ絡みつこうとしているのだと気づかされる。
彼はそれ以上語らない。石の段に足音だけが規則正しく刻まれ、わたしも歩を重ねる。二人分の足音が、塔の芯へ向かう心音のように重なっていく。
視界の先の階段を見つめながら、無意識に母メイレアを思った。
王宮という場所で母は何を見て、どのように重みと向き合っていたのだろう。誇りだったのか、束縛だったのか。忌避される黒髪という運命を抱えながら――。
幼い頃、母の膝の上で髪を梳かれていた記憶が、ふっとよぎる。
優しく櫛を滑らせる指先の動き。窓の外の天気を何気なく語る穏やかな声。そのどれもが、今振り返れば、どこか遠くを見るような静けさを纏っていた。あれは、見上げるべき塔を知っていた者の目だったのかもしれない。
考えるほどに、母は遠い。わたしには王宮も白銀の塔も、ただの遠景に過ぎない。だが彼女にとっては、それが厳しい現実だったのかもしれない。そう思うと、不安が内側の奥をさざめかせる。
――聖剣資格者の選定儀式。舞台となるのは王宮。
わたしは本当に、その場所に足を踏み入れてしまっていいのだろうか――そんな問いが、階段の一段ごとに重さを増していく。
風が髪を荒く揺らし、冷気が頬を撫でる。なのに、その涼しさがいまは心地よい。この高さでしか見られない光景が、圧倒のままに視界を満たす。冷気は、頭の中で膨らみすぎた不安を少しずつ削り取っていくみたいだった。
わたしは伏せがちになりそうな視線を、遠くに逃がした。
王都リーディスの屋根が川のように連なり、その流れが王宮を中心に収束していく。街全体が王宮を支え、その輝きに包まれている錯覚。白銀の塔に陽が跳ね、その光は天へ吸い込まれていく。塔の影が街路を縫うように伸び、そこを行き交う人々の息遣いまでもが、静かな波となって寄せては返しているように感じられた。
北を望めば、穀倉地帯の広がり。畑の息づかい、柔らかな丘陵の線。さらに奥には山々が壁のように連なり、白を冠した峰が青空に凛と映えていた。遠い雪嶺から流れ込む風は、わたしたちの頬だけでなく、この国全体の血の巡りにまで触れているように思えた。
――この景色を、母も見たのだろうか。
不意にみぞおちが熱を帯びる。母が何を見て、どう感じたのかをわたしは知らない。けれど、いま目の前の景色が母にとっても特別だったなら――小さな灯が身体の芯にともる。その灯りは、まだ頼りないのに、不思議と消える気がしなかった。
「リーディスという国は、君にはどう映るかね?」
背から届く低い声。優しさが問いにまじる。わたしの迷いを責めるのではなく、ただ形にしてみなさい、と促してくるような響きだった。
わたしは言葉を探し、もう一度遠くへ目を戻した。風が睫毛の先を撫で、視界の端で光が滲んで揺れる。
「……息を呑むほど、という言葉しかありません。でも、同時に少し怖いような気もするのです」
「怖い?」
彼の眉がわずかに上がる。驚きというより、興味を深めたときの、学者らしいわずかな変化だった。
「はい。荘厳な王宮を中心に広がる整った町並み。南には紺碧の大海原。城壁の外は緑豊かな実りの大地。すべてが完璧に見えるけれど、この美しさの中には、その分だけ隠されたものもあるんじゃないかって……そんな気がして。わたしはまだ、それを見つけられていないのですけれど」
言葉にするうち、曖昧だった不安が形を帯びる。美しさの裏にある何か――それを知る必要があるという直感だけが、わたしをここまで連れてきた。足元の硬さよりも、その直感のほうがずっとはっきりとした現実に思えた。
「なるほど」と短く呟くと、彼は窓枠に片肘を置いた。遠くへ滑らせた眼差しに、淡い光がわずかに揺れる。
「怖いと言える君の感性は、実に豊かだ。怖さを見て、それでも美しいと言えるのは、弱さではない」
言葉の終わりが、空気に吸われる。静けさだけが、もう一度やわらかく戻ってきた。
「この景色は、ただ美しいだけの絵ではない。生きている。立つ場所が変われば、意味も姿を変える」
彼の声は穏やかで、けれど甘やかさない。窓の外の白銀が、まるで別の顔をしたまま光っている。
「世界とは決して優しくはない。人も、綺麗とは言い難い。……それでも、生きるということは美しいものだ。拾える美しさは、必ず残るものだ」
少しだけ間が落ちる。息を吸う音すら、どこか遠い。
「なに、息のできる場所を選べばいい。焦らず、無理せず――」
視線を外へ置いたまま、彼は続ける。
「一歩ずつでいい。走る日があってもいい。立ち止まる日があってもいい。噛み締めて進めば、それでいい」
最後の一言は、結論というより手渡しだった。
「何を見て、何を見つけるか。それは君自身の人生だ。君自身の手で探し出しなさい」
その言葉は、静かな道しるべのように肋骨の内側に灯る。答えを与えるのではなく、答えへ向かう道をひとつ指し示してくれる声。息を整え、広がる景色を見直す。この壮大な風景のどこかに、わたしなりの答えがある――そう信じた途端、冷たい風に吹かれながらも心は澄みわたった。
そっと目を閉じ、祈るように深く息を吸う。小さな勇気が骨の奥から湧く。まだ頼りない火種でも、掌で囲えば守れる気がした。
◇◇◇
最上階に据えられた素朴な石のテーブル席を、グレイさんが指し示す。天井は思いのほか低く、そのぶん空気の密度が濃く感じられた。どこからか、焚きしめられた乾いた木の匂いが漂い、外の冷気とは別の温度が、部屋全体をうっすらと包んでいる。
壁際には装飾のない銀盆のティーセット。銀壺は魔道コンロの上で、湯気を細く立てていた。
彼は無駄のない所作で銀壺から湯を注ぎ、茶を淹れ始めた。陶器のカップに触れる湯が微かな澄音を立て、冷たい空気に細く溶ける。湯気が立ちのぼるにつれ、硬かった空気の角が丸くなっていく。昔からここに住む者のような手つき――「総長」という肩書きが、一瞬遠のく。
「あの、お構いなく……」
遠慮が口をつくが、彼は動じない。魔道コンロに置かれた湯の静かな沸きが耳を撫でる。ちらりと視線を寄越し、軽く笑む。その笑みはやわらかいが、決して隙だらけではなく、長い年月の中で育まれた余裕が、ささやかな冗談と一緒に滲んでいた。
「気にすることはない。ここにいるときの私は、一介の老人に過ぎない。それに、これは私のわがままだ。総長といえど、この場所に個人の趣味を持ち込むなど、許されることではないのだが。……まあ、これは秘密ということで」
湯気の向こうで、茶葉を測る指先が迷いなく動く。小さな匙で掬われた茶葉が銀のポットに落ちるたび、かすかな乾いた音がして、すぐに湯に包まれて消えた。誰かのために淹れる所作が、彼の生活に沈着しているのが見て取れる。おそらく、この塔を訪れた者はみな、こうして一度は彼の茶を味わってきたのだろう。
「でも、総長であるあなたがわたしのような者に……畏れ多いことです」
思わず漏らすと、彼は軽く肩をすくめた。ローブの布が擦れ、さらりとした音が静かな室内に広がる。
「地位や肩書きというものは、人を縛るためのものではないよ。それに、私が茶を淹れたところで、世界の何かが大きく変わるわけではない。時にはこうして穏やかに、誰かとお茶を楽しむ時間を持つことも大切だと思うのだ。君もいずれ、この意味がわかる日が来るだろう」
長い日々の重みを帯びた声。わたしは言葉を返すことも忘れ、ただ見つめる。湯気越しの柔和な横顔が、吹き抜ける冷気の高所を不思議なほど温かく感じさせていた。こうしてたった一杯の茶を前に座ること。それが、世界を支えるもう一つの柱なのかもしれないと思えてくる。
やがてやわらかな香りが立ちのぼる。草と花のあいだのような、どこか懐かしい匂い。グレイさんはカップをそっと差し出しながら、わたしの顔をじっと見た。
「さあ、冷えるだろう。飲みなさい」
「はい。有り難く頂戴します」
その言葉に促され、わたしはおずおずと手を伸ばし、カップを受け取った。温もりが掌にしみ、慎重にひと口――淡い甘みと仄かな苦みが広がり、固さがほどけていく。喉を通る液体の温度が、身体の内側の冷えをひと筋ずつ溶かしていった。
「……とても、美味しいです」
思わず呟くと、彼は満足げに頷いた。
「それはよかった。この茶葉は特別なものではないが、私にとっては馴染みのある銘柄でね。慣れ親しんだものには、いつも安心を覚えるものだ」
その言葉に、ふと母を思う。王宮で、母にも馴染みはあったのだろうか。朝ごとに口にしていた紅茶の香りや、好きだった菓子の味――そういった些細なものが、母にとっての帰る場所だったのかもしれない。答えのない問いを抱えたまま、もう一口。舌の上に残る余韻を確かめるように、ゆっくりと味わう。
「……君は自分で選び、ここへやってきた。そうだろう?」
「そうでしょうか? グレイさんのお言葉が背中を押してくださらなければ……」
「いいや、私はきっかけは与えたかもしれないが、それまでのことだ。ただ、心配だったのは門番の兵のことだ。彼らは融通の利かない連中だからね。普通の人なら怖れをなして引き下がるものだが、君は臆することもなく、実に堂々としていた」
不意の評価に、驚きと気恥ずかしさが喉元に広がる。背筋がむず痒くなり、カップの持ち手を持つ指先が少しだけ汗ばむ。
「見ていた……のですか?」
問うと、彼は小さく頷き、茶目っ気の光を宿す。瞳の奥に、少年のような悪戯っぽさが、一瞬だけ顔を出した。
「ああ、離れた場所からこっそりとね。君がどう振る舞うのか興味があったのさ」
少しむっとしてしまう。だがそれを正面からは出せず、目を伏せたまま言葉が滑る。
「ずいぶんと、意地が悪くていらっしゃるんですね……あっ、すみません! 口が過ぎました!」
慌てるわたしに、喉の奥で愉快そうな笑い。笑い声は大きくはないのに、カップの表面に小さな波紋を作るくらいには、空気を和らげた。
「いやいや、君の言う通りだよ。意地が悪いのは、若い頃からの変わらぬ私の性分だ」
昔の自分――意味を探りたかったが、彼は視線を遠くに置き、問いを飲み込む。彼の過去に触れるには、まだ早いのだと身体が先に察してしまった。
「それにしても、あの門番たちにはいい薬だっただろう。彼らは肩書きや権威に屈する者が多いが、君のように己の信念をもって堂々と立ち向かう姿を前にすれば、少しは考えを改めるかもしれん」
「そんな、大げさです……ただ、どうしてもここへ来なければならないと必死だっただけで……」
カップの縁に指を添えたまま応じると、彼は微笑するだけで何も足さなかった。その沈黙は、不思議と温かい。否定しないまま受け止められることが、こんなにも呼吸を楽にしてくれるとは知らなかった。
「さて、ひと息ついたところで、そろそろ話の本題に入ろうか」
立ち上がると、最上階の空気がきゅっと引き締まる。微笑を湛えた横顔から、次が雑談ではないと、本能が告げた。わたしは慌ててカップを置き、背筋を正す。掌の温もりが、緊張でわずかに震える。さっきまで喉を通っていた茶の温度が、急に遠くなった気がした。
「君がここへ来た理由、その背後にあるものを知りたくてね。もちろん、個人的な事情を詮索するつもりはない。だが、この塔にたどり着く者の多くは、自分が求める何かを手に入れたいという強い意志を抱えているものだ。君もそうなのだろう?」
遠くで風が低く唸り、間をつなぐ。わたしは小さく頷いた。ここへ来るまでに選んできた道、背を向けてきたもの、まだ答えの出ていない問い――それらが一度に喉元へ集まってきて、言葉になる前に喉の奥でつかえる。
「……はい。でも、まだ目指すべき答えが何なのか、自分でもはっきりとはわからないのです。ただ、ここへ来れば何かが見つかるかもしれないと、ただそう思って……」
言いながら耳の奥が熱を帯びる。彼は責めず、静かに頷いただけだった。その頷きには「それでいい」という許しと、「ここからだ」という期待が同時に含まれているように思えた。
「たとえ目指すべきものが明確でなかろうと、人は時に動き出さなければならない場合もある。だが、何かを得るためには、それと引き換えに何かを失う覚悟も必要になる」
目が、刃のように一瞬光る。室内の温度が肌へぴんと張りつき、心に重みが落ちる。窓の外の白い光が、急に輪郭を増して見えた。逃げ場としての眺望は消え、ただ向き合うべき現実の背景になっていく。
「ここから見える景色は確かに美しい。だが、この灰色の塔の真の役割は、その景色の向こう側を知ることにある。君が求めるものがどんな形をしているか、私にはわからない。だが、それに向き合う準備ができているかどうか、君自身が自分に問いかける必要があるだろう」
息をのむ。冷たい風の気配が背中に沁み、――ここがただ美しいだけではないと、ようやく輪郭を帯びる。ここまでの階段は、ただ景色を眺めるためだけのものではなかったのだと、今になって気づかされる。
「……わたしは無知で未熟であると自覚しています。まず、向き合う覚悟を持つために、ここに来たのかもしれません」
絞り出すと、彼は静かに微笑んだ。安心と淡い期待が重なる色。わたしの返事を、答え合わせのように受け取るのではなく、新しい問いへの入口として受け止めているようだった。
「そうか。それならば、一つだけ忠告をしよう」
椅子に座り直し、柔らかな光を背に、ゆっくりと言葉を継ぐ。言葉の輪郭を選ぶように、指先が肘掛けを一度だけ撫でた。
「この塔に登った者の多くがそうであるように、君もまた求めるものが手に入った瞬間、それが本当に自分に必要だったのか疑問に思うことがあるかもしれない。それでも、その疑問を恐れず、答えを見つけるために進み続けることだ。時には迷い、立ち止まることがあってもいい。ただ、進むことを諦めないことだ。それが、この塔を登る者に課せられる試練といえよう」
重みが肩に沈む――なのに、力が湧く。わたしはカップを両手で包み、指を温もりに沈めながら小さく頷いた。そこに残る温度は、ただのお茶の熱ではなく、さっき聞いた言葉たちの名残のようにも感じられた。
「ありがとうございます。わたし、進みます。たとえそれがどんな道であったとしても……」
吹き上がる風が髪を揺らす。塔の外を巡る冷気が、最上階の窓ガラスを薄く震わせた。その微かな震えが、むしろ前へ進めと背中を押してくる。そっと拳を握り、心に小さな決意を灯した。その灯りはまだ頼りないが、それでも、さっき見下ろした白銀の塔の光とは違う、自分だけの色を帯び始めている気がした。




