やるだけやってみる
西の町外れ、第六地区の住宅街。その家は夜の静けさの中にひっそりと佇んでいた。賑やかな中心街から離れたここだけ、時間の歩幅が半分になったような空気が漂っている。
卓上のカップから、細い湯気が立ち上っていた。
「ヴィル、それまでにわたしに何かできることはないかしら? なんでもするわ」
言葉に詰まりそうな喉を、ぎゅっと内側から押さえ込むようにして、わたしは必死に訴えた。
みぞおちの奥から湧き上がる焦燥と、どうにか役に立ちたいという熱意は本物だ。なのに、声は自分でも驚くほど頼りなく揺れてしまう。カップの縁に触れていた指先が、熱と冷えの境目で落ち着きなく震えた。
それでも、ヴィルは少しだけ目元の皺を緩めただけで、すぐに首を横に振った。銀色の前髪が、ランプの光を受けてわずかに揺れる。
「それには及ばん。お前は何もする必要はない。必要な下調べは俺がやるし、情報分析と作戦立案については、カテリーナならお手の物だ」
端的で、いつものようにぶっきらぼうな返事。けれどその声の底には、わたしを遠ざけるのではなく、泥の跳ねる場所から遠ざけようとする温度が滲んでいる。
理解している。彼なりの優しさだと頭では分かっている。けれど、それをただ受け入れるだけでは、この身を焼くざわめきがどこにも行き場を見つけられない。
指先が、膝の上のスカートの布をぎゅっとつまむ。布の皺が爪に触れ、小さな痛みがじんとした。
「でも……わたしだけ何もしないだなんて、二人に申し訳なくて。ただ待っているだけだなんて、嫌だよ……」
語尾が震えた。自分が頼りない存在に思えて、どうしてももどかしい。前世からずっと、誰かに守られてばかりだった時間の感触が、冷たい水のように内側へ流れ込んでくる。何かしなければと思うほど、役割を見つけられない自分が苦しかった。
ヴィルは一瞬だけわたしを見て、面倒そうに肩をすくめる。椅子の背にもたれた背中が、きしむ木の音を一つだけ鳴らした。
「いいんだ。お前はこれまで通り“目を引くちょっと変わった女の子”で街を歩いていろ」
「え……?」
あまりに予想外の言葉に、思わず声が漏れる。肺の空気が止まり、次の瞬間、熱くなった血が頬へ一気に上った。ヴィルがこんなふうに、からかうみたいな言い方をするなんて――と目を見開くと、彼は口元に微かな笑みを浮かべた。滅多に見せない、ほんの一筋の悪戯っぽさ。
「街は今、お前の噂でもちきりだぞ? それも、とてもいい意味でな」
耳を疑うような言葉に、わたしは首を傾げる。こんなふうに「いい」と言われることには慣れていない。本当だとしても、喉の奥で苦いものと甘いものがいっしょくたになって渦を巻くばかりだ。
「そうなの? でも、いい意味ってどういうこと? むしろ、目立っていいことなんて、何もないような気がするんだけど」
けれど、ヴィルはわたしの反応を見て、軽く鼻を鳴らしながら続けた。
「いい意味だと言ったろう? 確かにミースの選択は間違っていなかったな。間違いなく、お前は人々の目に強く焼き付いた。まるで『伝説の姫巫女メービスがこの地に降り立ったみたいだ』と、そんなことを言う連中までいるらしい」
人形師ミース・フォリノール。
その名前が落ちた瞬間、指先に糸の擦れる感触が戻ってくる。あの人形師の、迷いのない目。
けれど、次に出てきた名は、もっと重かった。
メービス――。
耳の裏で鼓動が跳ねて、息がひとつ引っかかる。わたしはスカートの皺を握り直した。
みぞおちのあたりで、別の時間軸の記憶が、水面に投げ込まれた石のように静かに波紋を広げる。古くから語り継がれる精霊の泉の巫女。救世を成し遂げた英雄。その名を口にされること自体が、身に余る重荷のように感じられる。期待に応えられるほどの存在ではないのに、と。
指先が無意識に髪を撫でた。黒い束は、光の加減で深い緑味を含んで見える。異質な色。そのくせ、何度救われたか知れない色。
「そんなお前が選定の儀式に現れたとしたなら、注目を集めるに違いない。仮に王宮の連中が何か咎めるようなことを言い出したとしても、民衆の反感を買うことになる。いいか、お前という存在は既にそういう力を持っているんだ。だから心配することはない。……それが今の、お前だけの武器だ」
ヴィルの言葉が腹の底に重く落ちる。彼にとっては情勢の読みの一つにすぎないのだろう。けれど「民衆の反感を買う」と言い切られると、わたしがいつの間にか、風向きの札みたいなものに仕立てられていく気がして怖い。
たしかに、人の心を動かすのは、何も力だけじゃない。たまたま目につく色と、助けた誰かの記憶と、噂の速さだ。誰かを傷つけてしまう可能性ならいくらでも思いつくのに、それが「守りに寄る」と言われると、体の中に借り物の骨が一本差し込まれたみたいで、落ち着きがなくなる。
けれど、それは同時に、わたしに求められているものの重さを知らせてもいた。
どう振る舞うべきか。どんな顔で人々の前に立つべきか――。
精霊の泉の前に立つメービスの背中の凛とした線が、ふっと脳裏に浮かぶ。伝説の似姿を借りるのならば、安易には逃げられない。
「……本当に、本当にそれだけでいいの?」
その問いは、ヴィルに向けたというより、自分自身に向けたものだったのかもしれない。焦りをごまかすようにカップを指で回し、冷めかけた液面がかすかに揺れるのを見つめながら、かすれた声で呟く。自分の声さえ少し遠く聞こえた。
ヴィルは椅子から立ち上がり、外套を手に取る。その背中越しに、振り向きもせずに答えた。
「ああ、それだけで十分だ」
低く静かなその声は、深い夜の帳に溶けていくようだった。わたしにそう信じさせようとする確固たる響きを持ちながら、どこか、ひとりで何かを背負い込もうとする人の寂しさも感じさせた。
彼の背中が、扉へ向かうたびに徐々に遠ざかっていく。頼もしさを感じる反面、その先に見据えられているものがわたしの手から零れ落ちるような、そんな気がしてならなかった。伸ばせば届く距離のはずなのに、触れられない膜のようなものが間にある。
扉が開き、冬の気配を含んだ空気が一瞬だけ流れ込む。微かな冷気と一緒に、ヴィルの気配も外へ薄れていった。
◇◇◇
ヴィルはああ言ったけれど、ただ待っているだけなんてできない。
口の中に残る冷めた茶の味よりも、内側の空洞のほうが、ずっと気になって仕方がない。だから、わたしは意を決して、ある場所を訪ねることにした。
リーディス王立魔術大学。中央大陸随一の魔術師の総本山。
名前を思い浮かべるだけで、どこか空気の密度が変わる気がする。そこには無数の才能が集い、膨大な知識が研鑽されている。書物の匂いと薬草の匂い、魔術実験で焼けた石の匂いが幾重にも染みこんだ空間――そんな想像が脳裏をかすめ、背筋をそっと伸ばした。
街を歩いて人々の目に留まること。それは続ける。けれどその合間に、自分の手で掴めるものを探したい。
まずは、カテリーナに尋ねることにした。
彼女はデスクに向かい、忙しそうにペンを走らせている。窓際の机には書類が山のように積まれ、インク壺の金属光沢が、薄曇りの外光を淡く跳ね返していた。紙の擦れる音と、ペン先が乾いた繊維の上を滑るざらりとした音が、静かな部屋のリズムを刻んでいる。
その姿には隙がなく、独特の冷静さが漂っていた。肩にかかった髪の線も、背筋も、一本の線で未来を見通しているかのように揺るぎない。わたしが近づくと、ちらりと視線を向けただけで、理由を聞くこともなく手元の地図を放り投げて寄こす。
「ほらよ」
その素っ気ない一言とともに、地図がデスクの端で小さく跳ねた。紙が机の木目に擦れて、ささやくような音を立てる。
わたしは地図を両手で受け取り、ゆっくりと広げる。粗い紙肌の感触が指先をざらりとなぞる。細かく描かれたリーディスの都を、じっと見つめた。
迷路のように入り組んだ通り、小さな広場、そして運河の上にかかる橋の線。城塞のようにそびえる王宮の輪郭は、インクで黒々と強調され、その隣には二つの塔が、ほかの建物より少しだけ濃い色で描かれている。
「灰色の塔と白銀の塔……」
ただ名を読むだけで、息が一拍だけ浅くなる。とくに白銀の塔の輪郭は、なぜだか目が離れなかった。線が濃いせいなのか、インクが深く沈んで光を吸っているせいなのか。指先が触れかけて、わたしは咄嗟に手を引っ込めた。
何も知らないのに、知ってしまいそうな気がする。
その感覚が怖くて、わたしは視線を地図全体へ戻した。
カテリーナがペンを置き、インク壺の蓋が軽く触れ合う音がした。彼女は椅子にもたれ、地図に目をやりながら説明を始めた。
「その二本の尖塔はさ、建国当初に最初の王宮が築かれた頃から、ずっとあるって話だ」
ということは、千年以上この都を見下ろし、民衆は同じだけそれを見上げてきたのだろう。窓の外で犬が吠え、どこかの家の食器が触れ合う音がした。それでも塔の名だけが、部屋の空気をわずかに固くする。
「白銀の塔ってのはね、王族しか立ち入れない、神聖不可侵ってことになってる領域だ。謎に包まれてるって言えば聞こえはいいけど、実質ただの高貴なお飾りってとこだろうね。対して灰色の塔は、魔術師たちの巣窟だ。学問も研究も実験も、あらゆることが行われてるって話さ。今じゃ塔の周囲に校舎がぎっしり立ち並んで、一大学府って顔をしてる」
彼女は指先で地図の一部を軽く叩いた。紙越しに伝わる乾いた音が、そこだけ別の意味を持たせる。
「ここが灰色の塔の入り口。王宮側の門を越えて進めばすぐ見つかる。でも、あんたみたいな普通の人間が立ち入れる場所じゃない。許可証が必要だってこと、忘れるんじゃないよ」
その指摘に、わたしは地図を握りしめたまましばらく考え込んだ。紙の角が少しだけ折れ曲がり、その感触が生々しく指先に残る。
王立魔術大学という大陸最高峰の知識の宝庫に、どれだけ準備不足で飛び込もうとしているのか、自覚はしている。わたしは別に、正式な魔術師として修めた経歴があるわけでもない。
けれど、だからこそ、そこにしかない答えがある気がしてならない。誰かに用意された道筋ではなく、自分で選ぶ道の先に。
「大丈夫です。魔術大学出身の魔術師から正式な紹介状をもらっていますから。それがあれば、きっと通れるはずです」
胸元の内ポケットへそっと手をやる。しっかりとした紙の感触が、布越しにも伝わってくる。風の魔術師フィル・ラマディ。彼の几帳面さと、魔術に対するひたむきな姿勢を思い出す。受け取ったときに感じた責任の重さと、わずかな誇らしさが、改めて胸に蘇った。
カテリーナの顔に一瞬驚きが浮かび、それからすぐに肩をすくめた。椅子の背に身体を預ける動きは、半分呆れ、半分感心しているように見える。
「そうかい。そりゃあ心強いね。でも、道筋が見えたって、実際に通れるかどうかは別の話さ。覚悟があるなら、やるだけやってみな」
その言い方は少し乱暴に聞こえるのに、不思議と背中をそっと押す力を持っている。わたしは地図を胸の前で丁寧に畳み、深く礼をして、感謝の言葉を口にした。
「ありがとう、カテリーナさん。あなたのおかげで、前へ進む勇気が湧きました」
言いながら、自分の声が少し明るくなっているのに気づく。焦げた紙とインクの匂いが満ちたこの部屋の空気が、さっきよりも少しだけ澄んで感じられた。
彼女は視線を落とし、軽く微笑んだ。それから、ちょっとからかうように言葉を足す。
「それとね……いい加減あたしに敬語使うのやめてくれないかい。あんた、ヴィルにはずいぶん砕けた態度なのに、あたしに対してはいつもよそよそしい。正直、気味が悪いったらないよ」
言葉が喉で絡まり、わたしは瞬きをひとつ遅らせた。口を開けば、整えた距離が音を立てて崩れそうで、息を吸うだけで胸の奥がかすかに痛む。
年上だから。助けてもらってばかりだから。そんな理由はすぐ思いつく。けれどそれだけじゃない。彼女の軽い調子の奥には、いつも何かの切れ味が隠れていて、踏み込み方を誤れば自分の足場が崩れる気がしていた。わたしはそれを、うまく言葉にできないまま、敬語という薄い膜で守ってきたのだと思う。
「は、はい。すみませんでした」
カテリーナは笑みを浮かべながら首を傾げた。琥珀色の瞳が、ほんの少しだけほどける。
「まあ、そのぎこちないところも嫌いじゃないけどさ。対等に話すほうが、気楽だと思うよ」
彼女の言葉に、肋骨の奥がじんわりと温かくなった気がした。遠慮を一枚はがしても、嫌われない場所があること。そのこと自体が、思っていた以上に心強い。
「……わかったわ、カテリーナ。これからはそうする」
そう答えた声は、自分でも驚くほど小さく、不器用に聞こえた。けれどその小ささの中に、少しだけ肩の力が抜けた感覚があった。
「それでいい」
カテリーナは満足げに頷き、再びペンを手に取る。紙の上でペン先が走る音が、いつもの日常へと部屋を戻していく。
外に出ると、冷たい風が頬を撫で、空は灰色に曇っていた。
扉の外へ出ると、第六地区の静けさがそのまま肌に触れた。庭のハーブが湿りを含んだ風に揺れ、葉の匂いが短く鼻先をかすめる。遠くで犬が吠え、近くの窓から食器の触れ合う音が返ってきた。ここだけ時間の歩幅が半分のまま、まだ夜の帳に引っかかっている。
石畳の隙間は昼の湿りを抱え、踏みしめるたび靴底が薄い水膜をきゅ、と鳴らした。歩を進めるにつれて、匂いの層が少しずつ変わっていく。焼きたてのパンの香り、遠くの屋台から漂うスパイス、馬車の油と金具の匂い。人々の行き交いが増えるほど、それらが混ざり合い、この街の「生きている」温度になっていく。
道を行き交う人々の気配の中、わたしは地図をしっかりと胸に抱えた。紙の端が外套越しに肌へ触れ、ひんやりとした感触を残す。白銀の塔と灰色の塔――そのどちらかに、あるいはその両方に、わたしが求める答えが眠っているはずだ。
カテリーナの「やるだけやってみな」という言葉を反芻しながら、わたしは小さく息を吐いた。白い吐息がすぐに風へ溶けていく。冷たい風の中で、心だけは不思議と熱を帯びていた。その熱は、まだ小さな灯火にすぎないかもしれない。
それでも、確かにわたし自身の意思で灯した火だと思えた。




