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灰色の塔

「そこの娘、ここから先は立ち入り禁止だ」


 低く響く声に、わたしは足を止めた。


 眼前には、灰色の石が積み上がった巨大な塔がそびえ立つ。鉛色の雲を突くような威容は、見上げただけで背筋を伸ばさせる。塔を囲む門は重厚な鉄――油と金属の匂いがわずかに鼻を掠め、一目で容易には越えられないと悟らせた。


 門の両脇には二人の兵士が立つ。金色の肩章が、曇った空から落ちる薄い光をかすかに跳ね返している。革と金具の擦れる音、鍛えられた体躯のわずかな重心移動、鋭い眼光――近衛兵、しかも王宮最上位の部隊だろうか。彼らの放つ緊張の気配が、門前の空気そのものを固くする。


 ひやりとした風がマントの裾をめくり、足首にまとわりつく。ここで退くわけにはいかない。舌の奥の乾きを飲み込み、小さく息を整え、顔を上げた。


「申し訳ありません。わたしはどうしても灰色の塔へ。いいえ、その先にある王立魔術大学に向かう必要があるのです」


 自分でも驚くほど冷静な声が出た。震えは、唇の内側にだけ留まってくれたようだ。だが兵士の表情は微動だにしない。むしろ一歩、こちらへ。片方が眉をわずかに吊り上げ、薄い鉄の匂いを含んだ息を吐く。


「この門を越えるには正式な許可証が必要だ」


 言い切る声が、門の鉄に触れて硬く跳ね返った。肋骨の裏側がじりじりと焦げつき、歯茎の奥に小さな棘のような痛みが刺さる。わたしは両手の指を強く握りしめ、掌に爪の感触を刻みながら、言葉をつなぐ。


「……それでも、わたしには行かねばならない理由があるんです」


 自分の声が、風に押されて少しだけ心許なく揺れる。兵士たちが、短く顔を見合わせた。鉄鎧の中で肩の筋肉がわずかに動く気配がする。説得の言葉だけで開く門ではない――それでも、立ち止まれない。


「『答えを求めるのであればそこを訪ねろ』と、ある方に紹介されました。これをご覧くだされば、理解していただけると思います」


 わたしはフィルから託された紹介状を差し出した。固く折られた封筒の角が、指先の汗を吸う。


 金属の手袋がわずかに軋む。ひとりが慎重に近づき、封蝋の匂いがふっと立つ。差し出したわたしの手元へ、彼の意識が一瞬だけ寄った。そのまなざしに、どこか人間らしい好奇の色がかすかに混ざる。


「紹介状がある? なら見せろ。真贋が取れれば、許可証扱いになる」


 押し殺した低音。隣の兵が、短く息を吐いて問いを重ねる。吐息が兜の内側で反響し、小さくこもった音になって耳に届いた。


「誰からのものか。この場所の意味を理解している者なら、軽々しく紹介状など書くはずがない」


 わたしは微かに息を飲む。胸骨の裏側がすうっと冷える。迷いは短く、のみ込んだ。


「紹介主は、魔術師フィル・ラマディ様です。本人より直接紹介状を賜り、灰色の塔を訪ねるようにとお勧めいただきました。真偽のほど、どうぞお確かめください」


 丁寧に告げた瞬間、兵士たちの顎がわずかに引かれる。兜の陰から覗く双眸が、氷のような光を帯びる。短い沈黙が落ち、みぞおちに針のような圧が刺さる。逃げない――足裏に意識を落とし、石畳のざらつきを確かめる。


 ひとりが封を確かめ、厚手の封筒を開く。紙同士の擦れ合う音が、妙に鮮明に耳に響いた。記された印を追う眉間が、一瞬だけ歪む。


「……確かに、これは王立魔術大学出身者の手による推薦状のようだ。在籍経験者しか知り得ない特殊な記号の組み合わせが署名の下に記されている。提供されたリストに記載されたパターンと……符号するな。規則上は問題ない」


 兜の内側でこもった声が、手順書の文面を暗唱するように落ちた。


 ほっと息をついたのもつかの間、兵士は顔を上げ、わたしの全身を不審げに見回した。ミース謹製の若緑色の髪と純白の可憐なドレス。そして腰に揺れる、ピンク色のローズクレストの鞘。その顔に浮かんだのは、魔術師を見る畏敬ではない。値踏みと呆れの色だ。


「もしかして、お前が例の噂になっている娘か?」


 低く問われ、心臓が一度だけ跳ねる。


「……まさかここへ来るとはな。一つ聞く」


 兵士の眉が、兜の奥で寄せられた。射抜くような鋭さに、口の中が乾く。わたしは強張る声帯をどうにか震わせた。


「はい……」


「お前は、魔術師なのか?」


 問われて、わたしは一瞬躊躇った。わたしの深淵の黒鶴は、魔術とは根本的に異なる力。


 ――『君は魔術師だね?』


 ふと、先日グレイと名乗る謎めいた老紳士に問われた声が過る。乾いた風が吹き抜け、マントの裾を強く叩いた。その音が、迷いを断ち切る合図になる。


「……魔術に類する力を持っている、ということだけは申し上げられます。されどわたし自身は魔術のなんたるか、基礎的な理論さえも存じません」


「基礎も理解しておらぬ者に、この場はふさわしくないはずだが」


 兵士は嘆息し、隣の同僚と顔を見合わせた。呆れたような、けれど毒気のない苦笑がそこにあった。ヴィルの言っていた「盾」が、ここで効いたのかもしれない。不審者というより、困った来訪者として扱われている。


「……そうですね。たしかにわたしはここにあっては場違いに見えるのかもしれません。ですが、わたしにとって、ここが最後の希望なんです。ここに探し求めている答えがある……そう信じています」


 言いながら、自分の声の奥底に混じる、かすかな震えを自覚する。希望と呼ぶにはあまりにも細い糸――それでも、それにすがるしかない。


 再び、二人のあいだを短い沈黙が行き来する。迷いの影がかすかに揺れた。背中を冷や汗がひと筋伝い、下着の布に吸い込まれていく。


 重い息のあと、ひとりが声の調子をわずかに和らげて言う。


「紹介状については、認めよう。我々に止める権利はない」


 張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ気がした。


「ご理解いただき、感謝いたします」


「ただし」


 釘を刺す声に、緩みかけた空気が再び凍る。鉄の手甲が、カチリと音を立てて握り直された。


「はい……」


「大学側の担当者に引き合わせるまで、監視はさせてもらう。いいな?」


 わたしはすぐに頷いた。舌の根に引っかかっていた小石が、ようやく少しだけ転がった気がする。


「それで構いません」


 奥歯を噛み、心を引き締める。――何が待つとしても。胃の底に小さく沈んでいた恐れを、薄紙で包むように押さえ込む。


 門が、鉄と石の低い悲鳴を上げて動き始めた。重さそのものの音が鼓膜に響き、張り詰めていたものが微かに震える。油の匂いを含んだ風が、すき間から一気に吹き込む。吹き込む風の湿りが、これからの道の険しさを告げた。


 門の向こう、石畳が塔へ真っ直ぐに伸びる。両脇には、季節外れの枯れた植え込みと、低い石壁。近づくほどに灰色の巨体は圧を増し、天を衝く影の下へ踏み入る瞬間、身の小ささが嫌でも知れる。肩口にのしかかる重みは、塔の影なのか、自分の覚悟の重さなのか。


「ついて来い」


 命じる声に顔を上げる。ひとりが前へ、もうひとりが後方に位置を取り、無言の監視がつく。足音と鎧の擦れる音が、石畳に規則正しいリズムを刻んだ。受け入れるほかない。


「お願いします」


 小さく頭を下げ、門を越えた。背後で再び重厚な閉鎖音。空気が一瞬震え、その振動が背骨を通って内臓にまで届く。――容易には戻れない。


 塔へ向かう道は静かだ。風音と靴底の打音のみ。左手に見える白銀の塔は、美しい白亜の壁で冬の光を弾いている。窓は極端に少なく、生活の気配がない。


 一瞬、背に細い圧が触れた気がして、わたしは襟元を軽く押さえた。けれど確かめようとしても、あるのは静まり返った石の壁だけだ。まるで美しい檻みたい――そんな思考を振り払い、前を向く。


 灰色の塔が迫る。古い石壁に無数の刻印。風雨に削られたそれらの線は、しかし今もなお鋭さを失っていない。素人目にも意味を孕む線と記号――ここには積み重ねた歴史と謎がある。指先でなぞってしまいたくなる衝動を、わたしはそっと指を握り直すことでやり過ごした。


 兵が足を止め、わたしに一瞥。扉の前で、わずかに空気が重くなる。


「ここから先は、王立魔術大学の管理区域だ。下手な行動を取れば、どうなるかは保証できん。周囲にどんな術式を仕掛けているかわからんからな」


 硬い忠告。言葉は険しいが、それは脅しというより、本当に「危険だからだ」と告げている声にも聞こえた。ありがたく受け取り、頷く。肺の中の空気を一度押し出し、深呼吸。扉の向こうに待つのは、希望か、それとも――


「行くぞ」


 その一言とともに、灰色の塔の中へ足を踏み入れた。


 扉が軋む。古びた金具が悲鳴を上げ、その音が石壁に何度も跳ね返る。石と油の匂いを含んだ空気が流れ出し、頬を撫でて通り過ぎる。ひと歩み――息を呑む。


 内部は外観の重苦しさに反し、異様な広がりを感じさせた。高い天井から無数の魔道ランタンが青白い光を落とし、微細に揺れる。淡い輝きが空間を脈打たせ、塔そのものが呼吸しているようだ。石の匂いに、古い紙と薬草の乾いた香りがほんのり混じる。


「これは……」


 思わず声が漏れる。自分の声ですら、ここではよく響き、すぐに細い残響に変わって消えていった。


「ここは入口に過ぎん。しばしここで待て。すぐに事務方の者が現れるはずだ」


 頷く。足元の石畳はよく磨かれていて、靴底がわずかに滑る。兵は背に回り、静かに待機する。緊張が空気に滲み出ている――彼らもまた、この場に警戒を解かない。塔の内部に足を踏み入れた瞬間から、世界が一段階、密度を増したような感覚があった。


 青白い光は天井の高さを強調し、影を複雑に踊らせる。壁の文様は装飾に留まらない。細い線が絡み合い、知らない文字と幾何学模様を組み上げている。魔術は学んだことがない。それでも、線と記号の組み合わせが術式の断片に見えた。


 ――この塔全体が、一つの巨大な魔法陣として機能しているのではないの?


 そう考えた瞬間、足元から背筋へ、細い寒気が這い上がる。静寂の底から、靴音が近づく。奥の通路の闇に薄い影が動いた。魔道ランタンの光に照らされ、その輪郭が徐々に形を取る。


「お待たせしました。事務局の窓口を担当しております、パウエルと申します」


 光の縁に現れたのは、華奢な体つきの男性。三十代後半ほど。長い銀髪を後ろで束ね、深い皺を刻むにはまだ早い額に、それでも幾筋かの疲労の影が刻まれている。濃い緑のローブの裾が、歩みのたびに静かに揺れた。端正な顔に静かな冷静、奥に鋭い光。


 兵が近づき小声で要件を伝えると、パウエルは静かに頷いた。


「あなたは、卒業生からの紹介状をお持ちだそうですね」


 穏やかな口調の奥に、こちらを計る間があった。表情は柔らかいのに、その声の底だけが、わたしの皮膚を透かして内側を覗き込むような感覚をもたらした。


「はい、わたしの名は――」


 名乗ろうとした瞬間、彼が手を上げて制した。指先は細く、長い。爪の縁まで、無駄なく整えられている。


「名乗るのは後で結構です。紹介状は兵の方で確認済みと伺っています。後ほど控えを取ります。それよりも、あなたが何を求め、この塔へ来たのかをお聞きしたい」


 抑えた声に潜む刃。問いそのものが、すでに一つの試験のようだ。言葉を誤れば、信頼を失い、ここを追われるだろう。そう悟らせる静かな圧があった。


 わたしは深く息を吸い、肋骨の裏の渦を鎮めた。肩の力を落とし、背筋だけを真っ直ぐに保つ。できるだけ平らな声で応える。


「わたしは――答えを探し求めています。この塔の先に、それを知るための手がかりがあると伺いました」


「答え、ですか……」


 わずかに眉が上がる。その反応の中に、嘲りはなかった。ただ、慎重な興味だけが灯る。男の指が、袖口の布地を規則的に叩いた。


「具体的にはどのような?」


 言葉が詰まる。喉の奥で、いくつもの単語がぶつかり合って砕けていく。簡潔に言えればよいが、それは容易ではない。鋭い問いが、急かすように、しかし決して焦らせない速度で刺す。


 塔の奥から、紙をめくるような乾いた音がかすかに響いた。その音が、沈黙の濃度をさらに高める。


「……簡潔に申し上げるならば、まず魔石と魔術の成り立ち。そして、その奥にひた隠しにされているであろう『真理』です……」


 自分で口にしてみて、あまりに大それたことを言っているとわかる。けれど、引き返すわけにはいかない。言葉を吐き出した瞬間、みぞおちのあたりで何かが音を立ててしまったから。


 空気が、わずかに変わる。彼の眉が寄り、さらに深く探られる。穏やかな緑の双眸が、底知れない深みを増した。


「……なかなか大それたことをおっしゃいますね。失礼ながらお尋ねしますが、あなたはお何歳ですか?」


「十二歳です。……来年の春すぎには十三になります。もしかして立ち入るのに、年齢の制限でもございますでしょうか?」


「いいえ。当魔術大学にそのような規定はありません。ただ、年齢を鑑みればですが、魔術に対しそうした観点を持つ方は稀です。実に興味深い」


 皮肉にも聞こえる。息を詰めたわたしに、彼は口元をわずかに歪めて微笑み、ゆるやかに振り返る。


「ついて来なさい。この先で、話を続けるとしましょう。兵士の方、ここまでご苦労さまでした。私共はこの方を受け入れることにいたします」


 後ろ姿が青白い光に溶けていく。ローブの裾が床を擦る音が、石の上で柔らかく伸びた。


 わたしはその背を追う。一歩ごとに石の硬さが靴底を通して脛へ上がり、進む道の厳しさを告げる。背後で兵士の足音が止まり、門の方へ遠ざかっていくのが聞こえた。監視の気配だけは、まだ背中に残っている気がする。


 希望か、さらなる試練か――わからない。それでも戻らない。覚悟は、もう腹の底で固く息づいている。


 廊下の奥から、乾いた紙の匂いが流れてきた。薬草の粉が混じるのか、舌にわずかな渋みが残る。


 魔獣の核に眠る魔石。それが灯りになり、道具になり、街の息に溶ける。奪うものが支えるものにもなる矛盾を、誰も正面から触れたがらない。


 父は、そこへ指を伸ばしたのだろうか。確かなことは知らない。ただ、あの背中の痛みが、いまもわたしの足を前へ押す。答えがほしい。慰めではなく、理由がほしい。これから先も歩けるだけの、骨の形を。


 青白い光が揺れて、壁の線が一瞬だけ刃物のように光った。塔の内部がひと息つくたび、わたしの呼吸も細く整っていく。


 ――前だけを見る。


 そう言い聞かせた瞬間、靴底の音がわずかに強く鳴った。ここまで来たなら、何ひとつ無駄にできない。


 そしてわたしは誓う。どれほど残酷でも、どれほど自分が小さく見えても、歩みだけは止めない。この道は、世界の理と、自分の弱さを同じ場所で見届けるためのものなのだから。

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