真実を求める者
わたしの決意表明に、ヴィルもカテリーナも、一瞬言葉を失った。遅れて鼓動がどくん、と大きく打つ。
夜の部屋には、窓の隙間から夜気が淡く忍び込み、床に静かな冷たさを残していた。壁際の魔道ランプが低く息をして、その橙色がグラスやカトラリーの縁を細く縁取っている。さっきまで食事の名残として漂っていた香草とバターの匂いはもう薄れ、代わりに赤ワインと焚き火の焦げた匂いが、ゆっくりと空気の底に沈殿していた。
空気が微かに張り詰めている。その静けさが、わたしの言葉の重みをより浮き彫りにしているようだった。自分の声だけが場を震わせて、あとは何も動かない――そんな錯覚が、耳にしつこく残る。
最初に沈黙を破ったのは、カテリーナだった。
「ちょっと、あんた。それ本気で言ってるの? 少しは冷静になりなさいな」
いつもは軽やかで冗談めいた響きが混じる彼女の声が、この時ばかりはどこか硬く、真剣さを帯びていた。
冗談半分で流されることはない、と伝えてくるその響きに、一瞬心が揺らぎそうになる。喉がひやりと詰まり、さっきまで暖かかった紅茶の余韻が、急に遠いものになっていく。
彼女の指先でグラスがゆっくり回り、ガラス越しに揺れる葡萄酒の色が、テーブルクロスに淡い輪郭を描いた。影と重なりあって、滲んだ模様のように広がっていく。
けれどわたしは、彼女の言葉に応えることなく、ただ首を横に振った。自分の中で固めた思いを、誰にも崩されるつもりはなかったからだ。汗が布にじんわり移り、その湿り気がかえって決意の熱を確かめさせる。
カテリーナは小さくため息をつき、視線をヴィルへ送った。困惑と諦めが入り混じった表情が、やわらかな影となって壁に揺れていた。ランプの光が輪郭だけを鋭くする。
一方、ヴィルはそんな彼女を余所に、口元に薄い笑みを浮かべていた。その笑みはどこか満足げで、意外にもわたしの決意を肯定しているように見えた。火に焙られた鉄のように、静かで、それでも芯に熱を含んだ微笑みだった。
カテリーナの眉がきゅっと寄り、鋭い視線がヴィルを捉える。
「ヴィル。あんた、一応はこの子の保護者でしょ? 何か言ってやりなさいよ」
その言葉に、ヴィルは答えず一拍だけ置いた。椅子の脚が床板をわずかに擦り、静かな部屋に細い音が走る。振動が足元から伝わってきて、脚の芯が反射的にこわばる。
そして、カテリーナの方を向き、少し間を置いて答える。
「保護者だと?」
その問い返しは、まるで事実確認をするかのようで、妙に淡白だった。
「そいつは一体誰のことだ?」
その反応に、カテリーナは肩をすくめ、呆れたように息を吐く。それでも彼女の瞳には、隠しきれない心配の色が浮かんでいた。灯が揺れて見えるその奥で、細い不安の筋がほどけない。
「他に誰がいるっていうのよ。ええ?」
カテリーナの声には軽い調子を装った響きが混ざっていたが、その裏にある切実さは、二人のやり取りを見守っていたわたしにも伝わってきた。
ヴィルはその視線を受け止めながら、穏やかな口調で静かに言葉を紡ぎ出した。
「確かに俺はミツルを守り抜くと誓った。だがな、子供扱いするつもりはない。一人前の仲間として見ているつもりだ。情報を共有した上で、自分なりに考え、導き出した答えなら、俺はそれを尊重する。それが『仲間を信頼する』ってことだと思っている」
その声は冷静で揺るぎないものでありながら、不思議と温かさを感じさせた。ヴィルが普段から多くを語らない分、そのひと言ひと言には重みがあった。
テーブルに注がれたワインが、ランプの光を受けて揺れている。光が波打つたび、彼の横顔の輪郭もわずかに揺らいで見えた。
「よほどの無茶でもない限り、俺はこいつの意思と選択を、何より自由を邪魔するようなことはしない」
暖色の灯りの下で、彼の視線がまっすぐこちらに届いた。迷いのない線だった。
息の詰まりが少しだけほどける。
怖さは消えない。けれど、ひとりではないとだけ分かる。魔道暖房の低い振動が遠くで一拍途切れ、わたしの拍に重なっていった。
カテリーナはヴィルの言葉にしばし黙り込んだ。手元のグラスを持ち上げた。爪の先がガラスに触れて、きん、と鳴った。
しばらくして、彼女は軽く息を吐き出し、わたしを見た。さっきまで尖っていた空気が、ほんの少しだけほどける。
「いいかい、ミツル。あんたの気持ちはわかるし、覚悟だって評価してる。けどね。それだけじゃ乗り越えられない壁だってあるんだよ。あたしは、そいつを身に沁みて理解しているつもりだ……。だから言ってるんだよ」
彼女の声は優しく、それでいて切なさを含んでいた。その言葉には彼女自身が越えてきた苦難の重みが滲んでいるようだった。遠い記憶の痛みが、一瞬だけ眉間を影にする。
「仰ることは、わかっているつもりです……。それでも、これが『真実への一番の近道』だと思うから」
わたしの返答は、決意をさらに固くするものだった。迷いが全くないわけではない。不安ももちろんある。
けれど、それでもこの道を進む覚悟だけは揺らがないと、自分に言い聞かせた。爪が皮膚に浅く食い込み、かすかな痛みが神経をはっきりさせた。
カテリーナは首を横に振った。その表情には戸惑いと諦めが混じり合っていた。やがて彼女はヴィルに視線を向け、皮肉めいた口調で言う。
「呆れた……。二人とも、揃いも揃って馬鹿じゃないのかい?」
ヴィルは答えに困ったふりもせず、いつもの落ち着いた声で応じた。肩甲骨のあたりで布が擦れ、小さな衣擦れの音がする。
「常識的に考えれば、カテリーナの言う通りだ。だが、これはある意味チャンスと捉えるべきだろう」
その一言に、カテリーナは驚きの色を浮かべ、わずかに目を見開いた。部屋の静けさが夜の深さを増し、外の風の音まで少し近くに聞こえてきた気がした。
「……ちょっと、ヴィル。けしかけてどうするんだい?」
カテリーナの問いかけに、ヴィルは短く息を吐くと、冷静な声で言葉を紡いだ。
「考えてみろ、カテリーナ。これは聖剣の真贋を明らかにする、最適かつ最短の方法だ。この茶番じみた儀式の裏に隠された思惑や真の狙いを暴くには、これ以上の好機はない。ユベルの冤罪を晴らし、名誉を取り戻す。そのきっかけになるかもしれんのだ」
その声には冷徹な現実主義が滲み出ていたが、それだけではなかった。どこか確信めいた響きが含まれている。それが余計に、カテリーナを迷わせるのだろう。彼の視線は、目の前ではなく、もっと遠くの状況図を見据えているようだった。
「……わかってるさ。それがあたしたちにとって、長年の悲願なんだからね。けど……」
カテリーナは言葉を途切れさせ、グラスが一度だけゆっくり回った。液面がランプの灯りを反射し、静かに揺れている。その表面には、小さな波紋が生まれては消え、迷いの輪郭だけを残す。
「それでも、心配するなって方が無理な話だ。この子がいくら出来すぎなくらい出来る子だからって、そんな重荷を背負わせていいものなのかい?」
彼女の声は、否定しきれない苦々しさを含んでいた。
ヴィルは彼女の言葉を一旦受け入れるように、小さく頷き、穏やかに言葉を重ねる。
「お前が心配するのもわかる。考えるまでもなく、立ちはだかるリスクは山盛りだ」
その声は静かで、どこまでも平坦だった。それでも、不思議とその奥底には重みがあった。まるで、あらゆる懸念を理解した上で、その先を見据える者のように。彼の言葉のひとつひとつが、テーブルの上に見えない駒を置いていく。
「だが、ミツルが状況に対して冷静に対処できるのであれば、この選択は決して間違いじゃない」
その言葉に、カテリーナは小さく鼻を鳴らしながらも、視線を落としてグラスの中身をじっと見つめたままだった。
「冷静に、ね……それが一番難しいのよ」
彼女は小さく笑った。でも、その笑みには明らかに引きつったものが混じっていた。
「この子の賢さも肝の据わりも、話してりゃよくわかる。けどね、子供は子供だ。決定的に場数が足りてないじゃないか」
カテリーナの口調は冗談のようで、刺のような現実味が含まれていた。それは、彼女なりの優しさと懸念が滲み出た言葉だったのだろう。口元は笑っていても、目許は笑っていない。
ヴィルはそれを聞いても表情を変えず、静かにカテリーナの言葉を受け流した。その態度が、彼の揺るぎない信念を物語っているように見えた。椅子の軋む音が短く響き、夜の静寂がそっと部屋に降りてきた。窓の外で、波の音が遠くかすかに返事をする。
「それに、どんな成果が得られようと、この子自身が危険の矢面に晒されることには変わりないんだからね」
カテリーナの言葉は、軽い口調の奥に心配と警告を滲ませていた。その視線には、どこか諦めにも似た切実な想いが込められているように感じた。彼女自身が、守り切れなかった過去の重さを思い出しているのかもしれない。
一瞬、返す言葉を探してしまう。それでも、膝の上の汗が乾く前に、息を一度大きく吸い込んだ。
「だとしても、やる価値はあると思います」
自分でも驚くほど、わたしの声は静かで力強かった。室内に残る温かな余韻が、声に重なった。言葉が広がっていくのが、自分でも分かる。
「父さまと母さま……二人の血を受け継ぐわたしが動かなければ、白きマウザーグレイルの名が、ただのお飾りにされてしまう。それだけは嫌なんです。それに、たとえ偽物だと判明したとしても、集まった人たちの前で『これは偽物です』とか『王家は嘘をついている』とか、そんな宣言をするつもりはありません。真実を確かめること、それが何より大切だと思うから……」
口にしながら、自分でもその言葉の輪郭を、ゆっくりとなぞっていく。怒りや悔しさだけではなく、「確かめたい」という純粋な欲求が、静かに形を持っていくのが分かった。
その言葉を紡ぎ終えたとき、カテリーナの表情が一瞬だけ変わった。ほんの少し目を丸くし、わたしを見つめる瞳には驚きと僅かな感心が混じっていたように思えた。長いまつ毛が、ランプの光を受けて小さく揺れる。
そして、ふっと柔らかく微笑む。
「ほんと、あんたを見てると不思議な気分になるよ。子供なんだか大人なんだか、よくわからん」
カテリーナはそう言いながら、呆れたように肩をすくめる。それでも、その声にはどこか安心したような温かさが滲んでいた。部屋の硬さが、少しだけほどけた気がした。
ヴィルがその場の静けさを破るように、低い声で口を開く。
「それでいい。リスクを織り込んだ上で冷静に考え、判断を下し、動く。それこそが、この場面で求められる覚悟だ」
彼の言葉には期待が込められていて、同時にわたしを試すような感覚もあった。視線が、ひとつ段差を上がるように、わたしの顔の高さへとすっと抜けていく。
「そして、俺たちは支援に徹し、万が一に備える。これがベストな布陣であり、最善手だ。こいつは昔と同じだ。違うか?」
その声には揺るぎない自信と信頼が宿っていた。彼の言う「最善手」の中に、自分の居場所が明確に組み込まれている――そのことが、心のどこかをじんわりと温める。
カテリーナは視線を横にそらしながら、小さく息を吐き出した。吐息が白くならない室内の温度が、妙にありがたく感じられる。
「たしかにね。ユベルが手で、あたしが頭。あんたは足。いいさ、ユベルの娘がやるってんだ、こっちも腹を括るまでだ。ただし、無理は禁物だからね。わかったかい?」
「もちろんです。いざとなれば、いつでも撤退するつもりです。そのための力が、わたしにはあるのですから」
自分の声が少しだけ落ち着いて響く。指先に残るテーブルクロスの感触が、心の奥の緊張をそっとなだめてくれる。
「まったく……この強情な性格、誰に似たんだかって話だ」
わたしは『父さま』と言いかけて飲み込み、ヴィルの笑いが一拍遅れて落ち、カテリーナの指がグラスの縁に残った。
「だろう?」
ヴィルがわずかに口元を緩める。
「これが俺たちがよく知る、『グロンダイル』と名のつく者に流れる気質。まさに、血の証明というわけさ」
「ほんとに。どうやら、あたしたちはこの腐れ縁からは逃れられそうにないみたいだね。困ったもんだ」
「ははっ、違いない」
二人がそう言って笑い合う。
彼らのやりとりはどこか軽妙で、それでいて言葉の奥底に、長い年月の重みと深い絆がにじんでいた。
それがわたしを包み込むようで、言いようのない安心感が心に灯るのを覚えた。固まっていた層が、ぱきぱきと静かにひび割れていく。
笑い声が収まると、部屋の中にゆるやかな静寂が戻る。窓の向こうで、港町の遠い波音と、どこかの酒場から漏れてくる賑わいが、かすかなざわめきとなって届いていた。その音が、この家の中の温もりを、いっそう際立たせる。
――ありがとうね、茉凛。選んだ道を信じることができるのは、いつだってそばにあなたがいてくれるからよ。
心の中でそっと囁くと、茉凛の静かで優しい気配が、夜の部屋のあたたかい湯気のように、奥へそっと広がっていく。
腰のマウザーグレイルの位置を意識すると、そこからじんわりと心地よい熱が伝わってくるような気がした。剣の中で眠る彼女が、「大丈夫」と微笑んでくれている――そんな錯覚じみた感覚が、今は何よりの支えだった。
窓辺のカーテンが、夜の風にほんの少し揺れる。薄布越しの夜の青さと、室内の橙色の光が静かに混ざり合い、その狭間で、これから踏み出す一歩の重さと、確かな温かさを、わたしは改めて抱きしめた。
ヴィルが椅子を引く。床板が短く鳴り、外套の布が肩で擦れる。彼はそれ以上、何も言わないまま立ち上がった。
その背中が扉へ向かうのを見た瞬間、わたしの中の熱が置き去りになりそうで、息を吸った。




