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偽りの剣と勇者

 その日の夕食は、カテリーナが取材の帰りに馴染みの店で持ち帰ってきた料理で済ませることになった。


 整えられたばかりのテーブルクロスの上に、大小さまざまな陶器の皿が並べられる。蓋を開けると、湯気とともに立ち上ったのは、鼻腔を鋭く刺激する芳醇なスパイスの香りだった。


 クミン、コリアンダー、そして名前も知らない異国の香草たち。それらが複雑に絡み合い、部屋の空気を一息で塗り替えていく。東方大陸の南西部――砂と熱風の国にルーツを持つというその料理は、目にも鮮やかだった。とろりとした琥珀色の煮込み、鮮烈な赤のソースがかかった鶏肉、そして黄色く染め上げられた細長い米。


 漂う甘く鋭い香りが部屋の隅々まで満ち、ここだけ異国の夜を切り取ったような錯覚がする。わたしは思わず息を呑んだ。


「わあ……すごい。今夜はなんだか豪華ですね」


 指先でテーブルクロスの感触を確かめながら、自然と声が漏れる。実のところ、この食卓にはわたしのささやかな執念が詰まっていた。荷物と書類の山で混沌としていた居間を、少しずつ押し返して、ようやく「まともな食事」ができる場所を確保したのだ。


 糊の効いたクロスの手触りや、等間隔に揃えた椅子の位置。ほんの些細な整いなのに、呼吸がすっと戻ってくる。


 カテリーナが上機嫌でワインの栓を開けようとした、ちょうどその時だった。


 ガチャリ。


 重厚な玄関扉が開く音が響き、リビングの空気がふっと止まる。


 現れたのは、ヴィルだった。手にはラベルのないワインボトルを一本ぶら下げている。彼が入室した途端、冬の夜の冷たく乾いた空気が足元を這い、スパイスの熱気の端を冷ました気がした。


 コートの金具がかすかに鳴り、外の冷えが床へ落ちてくる。遅れて、鉄みたいな匂いが鼻先をかすめた。肩のあたりに残る硬さが、部屋の灯りに馴染まない。


 くたびれたブーツを脱ぐとき、袖の内側で何かが小さく擦れた。赤いものがちらりと覗いた気がしたけれど、視線を追うより先に、わたしはわざと瞬きを挟んだ。


 見ない。見えた気がした――その程度のまま、まぶたを落とす。


 もし確かめたら、確かめた分だけ、わたしの足元が揺らぐ気がした。彼の沈黙の正体を知ってしまったら、わたしは「自分で選んだ」と言えなくなるかもしれない。そんな怖さが、口の奥にざらりと残る。


「おや、いいタイミングじゃないか。あんたも食うだろ?」


 カテリーナの投げやりな誘いに、ヴィルは無言で顎をしゃくった。無骨な顔はいつも以上に表情を崩さず、目の下にはうっすらと濃い影が落ちている。纏っているコートには、言葉の重さだけが張りついていた。


 聞きたい言葉が喉の奥まで来て、そこで止まる。


 彼は毎日、どこで何と向き合っているのだろう。知りたい。けれど、たとえ尋ねても、満足な答えは返ってこない――そんな確信だけが、手のひらの内側に居座っている。


 ヴィルは無言で椅子を引き、わたしの向かいに腰を下ろした。手際よくコルクを抜くと、乾いたポンという音が静寂を破る。持参した赤ワインをグラスに注ぎ、深い血のような液体を光にかざした。


 一口含み、喉を鳴らしてから、彼はふとこちらを見る。グラス越しの瞳が、探るようにわたしを射抜いた。


「ずいぶんとご機嫌なようじゃないか、ミツル。王都は楽しいか?」


 低く、少しだけ乾いた声。それは皮肉にも、あるいは単なる挨拶にも取れる曖昧な響きだった。けれど、その視線の奥には、日向を歩く者に対する微かな羨望と、諦めにも似た色が混ざっているように見えた。


 グラスの縁を指でなぞりながら、曖昧な笑みを作る。


「うん、楽しい……かも」


 言い切れない語尾が、湯気の中に溶ける。自分が無邪気に観光を楽しんでいる間も、彼は何かと戦っている。その対比が、胃の腑に小さな重りを落とした。


 すかさず、カテリーナが鶏肉を頬張りながら笑い飛ばした。


「はっ、いいじゃないか。楽しいことは良いことさ。若いんだ、今は存分に楽しみな。苦労なんてものは、嫌でも向こうからやってくるんだからさ」


 笑いながら言うのに、指先は器用に骨を避け、皿を汚さない。


《《気にしない気にしない。美鶴は、いつも通りでいればいいんだよ。それが今のわたしたちの役割なんだからさ》》


 茉凛の囁きが、脳内でふわりと背中を押した。彼女の声に救われ、わたしはスプーンを手に取る。


 琥珀色の煮込みを口に運ぶと、強烈なスパイスの刺激が舌の上で弾けた。ピリリとした辛さと、その奥にある濃厚な旨味。熱い塊が喉を通り過ぎると、身体の内側からカッと熱くなる。その刺激が、言葉に詰まる微妙な沈黙を埋めてくれるようだった。


「……辛い。でも、味わい深くて、とてもおいしいです」


「だろう? ここの主人はスパイスの扱いに長けててね。この調合はそうそう真似できるもんじゃない」


 カテリーナが得意げに笑う。テーブル越しに、ヴィルがまたグラスを傾け、微かな溜息を吐いた。彼は料理にはほとんど手を付けず、ただワインだけを静かに煽っている。揺れる液面を見つめる横顔は、彫像のように硬い。


 手を伸ばせば届く距離なのに、言葉だけが途中で折れる。聞こうとすれば聞けるのに、舌が先に引っ込む。


 わたしはスプーンを動かし続けた。香りが沈黙を埋めるのに任せる。あの擦れの音も、赤い欠片も、今日のところは口の奥にしまう。しまえる自分でいることが、いまは怖いのに。


 スパイスの熱気が部屋を満たし、外の冬の気配を遠ざけている。奇妙で、けれどどこか温かい「かりそめの家族」の食卓を、噛み締めるしかない夜だった。


◇◇◇


 食後の余韻が漂うリビングで、カテリーナがワイングラスを指先で揺らしていた。


 薄いガラス越しに揺れる赤は、さっきまでテーブルに並んでいた料理の色を、ぼんやりと映しては壊していく。ランプの灯りが反射し、液面がゆらりと傾くたび、壁に映る影も細く伸びては縮んだ。


 ソファに沈んだクッションはまだ人肌の温度を残していて、背を預けると布越しにじんわりと戻ってくる。片づけた後もなお薄く残るバターとハムの匂いに、赤ワインの渋い香りが重なった。窓の外からは、港町らしい潮と夜風の冷気が、ときおりカーテンの隙間を抜けて細い筋を描いていく。


 その静かな空気を破るように、カテリーナがワインをひと口含み、グラスの脚を親指で軽く押し上げた。淡く揺れた赤が瞳に映り込み、葡萄酒の色を宿した虹彩が一拍だけ深くなる。


 言い出す前に、彼女の視線が一度だけヴィルを掠めた。ヴィルは頷かない。ただ、グラスの位置をほんのわずかに整える。合図にならない合図――その程度のやり取りで、わたしは嫌でも悟ってしまう。


 これは「やれ」と言うための話ではない。選ばせるために、渡す話だ。


「さて、ミツル。あんたが気にしていた王家所蔵の聖剣についてだが、新しい情報が入ったよ。まだ公にはされていないけど、例の選定儀式実施の日取りが正式に決定したそうだ」


 背もたれに預けていた身体が、反射的に前へ滑り出す。クッションが擦れる音が、やけに大きく耳に響いた。


「本当ですか?」


 声が少し上ずっているのがわかって、喉の奥の空気を慌てて飲み下した。


「情報の出所は複数。すべて確認済みだ。抜かりはない」


 カテリーナは口の端だけで笑い、細い指を二本、軽やかに立てた。ランプの光が爪に淡く宿り、その「二」が一瞬だけ宙に残る。


「日時はちょうど二週間後。場所は王宮の大庭園。その中心の台座に聖剣が据えられて、事前に登録した者たちが順番に実物に触れることになるらしい。そして、聖剣が何らかの反応を示せば、その者が適格者として選ばれる――ま、そういう仕組みだね」


 王宮の大庭園。白い石畳と噴水、整えられた植え込み――以前そこで息苦しくなるほどの視線にさらされた記憶が、冷たい息と一緒にじわりと甦る。


 膝の上で指先がそっと丸まった。


「反応って……具体的にはどんな現象を指すんでしょう?」


 自分でも驚くくらい、食い気味に問いかけていた。マグカップの取っ手にかけた手が無意識に力を込め、陶器がかすかにきしむ。紅茶の名残の香りとワインの香りが混ざり、鼻の奥に重たい霞を作った。


 カテリーナは肩をすくめ、唇の片側だけで苦笑を作る。グラスの中の赤い液面が、彼女の仕草に合わせて細かく震えた。


「それがはっきりしないんだよ。説明はそれっきりさ。『剣が光る』とか、『天から声が聞こえる』とか、もっと劇的なことかもしれない……まあ、結局はこの目で見てみないことにはね」


 誇張された例え話を口にしながらも、その声にはどこか乾いた温度が混じっている。彼女は再びグラスを揺らし、静かに縁を唇へと運んだ。赤い液体がガラスの内側で薄く輪を描き、その輪が喉の動きに合わせて、するりと消える。


 その横顔を見ているうちに、口の中に残っていた夕食の温度が遠のき、舌の上が急に味気なくなった。


「……馬鹿らしい」


 自分でも予想していなかった言葉が、勝手に口から滑り出た。


「そんなの、なんの根拠もないのに。ただのお祭りみたいなものじゃないですか」


 言ってから、指先がじん、と熱を帯びる。膝の上で握りしめたスカートの生地が皺を作り、布目が皮膚に食い込んだ。


 カテリーナはグラスを離し、目を細めて深く頷いた。その頷き方は、ただ同意しているというより、もっと長く澱んだ諦めを底に沈めているように見える。


「その通り。これは『お祭り』だよ」


 軽く放たれた言葉の奥に、わずかに鋭い棘が潜んでいた。


「情報に拠れば大陸中から腕自慢の剣士や高名な魔術師が、こぞって王都に集まってくるそうだ。『我こそは勇者』って顔をしてね。それだけじゃない。今回のお祭りは、王家が国庫を傾けて総力を上げているらしい。選ばれた者には准爵位と莫大な支援が約束されるっていう噂もある。単なる名誉って話じゃ、終わらないかもしれないね……」


 国庫を傾ける――その響きが妙に生々しい。港で見かける労働者のひび割れた手や、市場で小銭を数える指が、なぜか同じ画面に浮かび、胃のあたりがきゅっと縮む。


 そこで、今まで黙っていたヴィルが静かにグラスを置いた。カチリ、と硬質な音が、テーブルを伝って指先に届く。そのわずかな響きが合図みたいに、部屋の空気が少しだけ張り詰めた。


「ミツル、カテリーナが言った言葉の意味が分かるか?」


「……どういうこと?」


 絞り出した声は、自分が思っていたより小さく頼りない。指先が落ち着きなくスカートの皺をなぞり、その動きだけが現実に繋ぎとめてくれる。


 ヴィルは深く息を吐き、理解させるように慎重に言葉を選んだ。


「お前の話では、聖剣は王家直系の血を受け継ぐ者――すなわち、メービス王女と同じ“精霊の巫女”にしか心を開かない。そうだったな?」


 あの夜の記憶が喉元へ熱を押し上げる。わたしは小さく、けれど確信を持って頷いた。


「ええ。母さまとわたしが、それを証明しているわ。そして伝説の存在であるメービスにしても、同じでしょうね。リーディス王家には『精霊の言霊を受ける巫女』の系譜がある。わたしにはそうとしか言えないわ」


 言葉にした途端、その系譜の重さが胸骨の裏へ沈んでいく。喉の奥が、その逃げられなさをよく知っている。


「つまり――」


 ヴィルは視線を外さず、さらに低く続けた。


「聖剣が本物であれ偽物であれ、資格を持つ者が触れなければ、何も起こらない。起こるはずがないんだ。……だがな、いくらなんでも、王家がその程度の理屈を知らないはずがない。彼らは聖剣を管理し続けてきた当事者なんだぞ。なのに……どうして、そんな茶番のような儀式を行うのかってことだ?」


 「茶番」という言葉が、背筋の内側をざわりと撫でた。


「……確かに。変だわ」


 言葉にすることで、その変さが急に輪郭を持ち、部屋の空気に重く沈んでいく。


「ああ。それでも王家は、儀式を強行するつもりらしい。結果が見えているはずの祭儀に、大勢を巻き込み、莫大な金をかける。そこには必ず、表には出せない何らかの理由があるはずだ」


 ヴィルの声が、目の前のテーブルではなく、もっと遠い場所を見て語っているように聞こえた。その想像だけで、背中にうっすらと冷えた汗が滲む。


 一見ただの“お祭り騒ぎ”に見えて、その実は腐臭を放っている――そんな不気味さが、ゆっくりと這い上がってくる。


「……なにか?」


 促すと、彼は一瞬目を伏せ、ゆっくりと上げた。瞳には推測以上の確信が、冷たい炎のように灯っている。ランプの光を受けた銀色が、薄い刃みたいに細く光った。


「俺とカテリーナの見立てだが……王家は何か別の思惑があって聖剣を公にした。あるいは、何かに焦っている」


「焦っている……何に?」


 思わず問い返すと、カテリーナが身を乗り出し、声を潜める。ワインの香りをまとった吐息が、かすかに頬へ触れた。


「それが何なのかはまだ断言できないけど、ここ最近、軍の動きが妙に騒がしいんだよ。軍事関係の物資の流通量が倍増しているし、魔導兵団の訓練も実戦さながらに激化している。国宝級に匹敵する高純度魔石の大量買い付け……正直、きな臭いね」


 列挙される言葉ひとつひとつが、乾いた薪のように耳の奥で積み上がっていく。火はまだついていないのに、山だけが確かに増えている。


「それって……まさか、戦争の準備をしているってことですか?」


 震えが声に混じるのを止められない。両手で握ったマグカップのぬるい温度が、妙に頼りなく感じられた。縁が唇に触れているのに、飲み込めない。


 カテリーナは重く息を吐き、ワインの澱を見つめるように低く答える。


「あるいは……魔獣の脅威、なんてこともあるかもしれないね」


 ――魔獣。


 その言葉が、不吉な影となって心臓に突き刺さる。ハムロ渓谷の惨状や、血と焦げた毛の匂い、崩れ落ちた石壁の感触が、一瞬で視界の裏側に蘇った。


「でも、それがどうして聖剣と結びつくんですか? リーディス軍は十分に強いでしょう? かつての西部戦線だって撃退した国ですよ?」


 食い気味に反論すると、ヴィルが冷静に応じた。感情を押し殺すほど静かな声が、かえって心をざわつかせる。


「裏を返せば――あの厄災で苦汁を舐めた国だからこそ、想定外の敵の出現を常に見据えているということだ。たとえ周辺諸国の警戒心を煽ろうとも、な。それが王家の本音かもしれん。同じ理屈で、使い手の不在で『飾り物』でしかない聖剣を何としても『使える代物に見せかける』必要がある――そう考えても不思議じゃない」


「見せかける……?」


 眉の間に小さな痛みが走る。ヴィルは頷き、厳しい眼差しで続けた。


「俺が考える筋書きはこうだ。たとえば王家が密かに勇者候補を用意し、儀式でその者が触れた瞬間、何らかの『奇跡』を演出する。魔術か、あるいは幻術を使ってな。――そうなれば?」


 カテリーナが皮肉たっぷりに肩をすくめる。グラスの中の赤が、その動きに合わせてしゃらりと揺れた。


「簡単だ。伝説の勇者の再来。民衆は歓喜する――『ついに我々の下に勇者が現れた!』とね。士気は上がり、王家の権威は盤石になる。それだけで他国への牽制になるだろうさ」


 あまりに冷静で、あまりに皮肉な答えに、言葉が消える。内側に波紋だけが広がって、どこにも行き場がない。


 ふたりの願いが何であるかを、わたしは知っている。父の名誉が戻ること。父が背負わされた汚れが、真実の側へ押し返されること。


 けれど、だからこそ――わたしを利用しない。


 その願いを叶えるために、わたしの自由を削らない。ヴィルもカテリーナも、そこだけは譲れないのだ。だから前には出ない。背中を押す言葉もしない。わたしが選ぶのを待つ。待てるだけの我慢と、万が一の尻拭いを背負う覚悟で。


 その大人のやり方が、今夜は痛いほど伝わって、同時に救いにもなる。


 腰のあたりがひやりとする。鞘の中の重さが、いつもより確かにそこにあった。


 喉元までせり上がる黒い熱を、どうにか噛み殺す。


「……なにそれ。そんなもの、ただの茶番じゃないですか」


 怒りを押し殺した声が、自分でも驚くほど震えた。指先がさらに強くスカートの布を握りしめる。爪が布越しに指の腹へ食い込み、その痛みだけが、かろうじてわたしを現実へ繋ぎ止めていた。


 ヴィルは終始冷静に、感情を抑えるように低く言う。


「だが、嘘で固めた茶番でも、貫き通せば民衆にとっては現実になる」


 その冷徹さが、かえって刺さる。


「奇跡を目の当たりにした民衆は、決してそれを疑わない。それこそがプロパガンダ。権力者の常套手段さ。……あたしは昔、情報部にいたからね。その片棒を担いだことは山ほどある。……だからこそ、よくわかるんだ」


 カテリーナの告白めいた言葉が、決定打になった。彼女の指が、何度も言葉を選び、すり替えてきたのだろうと思うと、息が浅くなる。


 ぷつん、と。どこかで糸が切れた。


「ふざけるなっ!」


 叫びは上ずり、部屋の空気がびりびりと震える。グラスの液面が小さく揺れ、ランプの炎が一瞬だけ細くしぼんだ。


 腰の剣が、妙に重い。触れなくても、そこにある。そこにいて、黙って見ている。


 カテリーナが少し驚いた顔でわたしを見た。グラスを持つ手が空中で止まり、瞳には困惑の色が浮かんでいる。彼女の戸惑いは、言葉にならない震えに共鳴しているみたいだった。


 対照的に、ヴィルは微動だにせず、わたしの怒りを淡々と受け止める。動かぬ壁のような沈着さが、内側で燃え上がる火を逆に煽った。


「お前の気持ちは分かるつもりだ――」


 低く、諭すような穏やかな声。その穏やかさが、今はかえって耳障りに感じてしまう。


「――だが、俺たちは現実ってものを見据える必要がある。綺麗事だけでは生き残れないってことさ」


 正論だ。痛いほどの正論。それでも、落ちない。落ちてたまるか。


 息を整える。喉を通る空気が熱を帯びているのに、指先だけは冷たいままだ。握りしめた拳の中で、爪が皮膚に食い込む痛みが、冷静さを少しだけ戻してくれる。


 顔を上げる。ヴィルの、射抜くような瞳をまっすぐに見据えた。そこに映る自分の顔が、思った以上に強張っている。


「わかったわ」


 声は静かで、冷たく澄んでいた。自分で聞きながら、その色に、もう引き返さないと決めた何かが混じっているのがわかる。


「……わたし、聖剣の資格者選定の儀式に参加する」


 宣言した瞬間、内側で揺れていたものが、確かな輪郭を持って固まった。心臓の鼓動がひとつ、はっきりと強く打ち、それに続く拍が、さっきまでとは違うリズムで全身を巡っていく。


 周囲がどう見ようと構わない。無謀だと言われても構わない。


 ヴィルもカテリーナも、目を見開いてわたしを凝視している。ワインの赤とランプの光が混ざり合ったその視線を、わたしはきっぱりと受け止めた。


 決めたのは、わたしだ。二人はそれを奪わない。


 その代わり、きっと背中側で泥を被る。もし転べば、腕を掴んで引き上げるのではなく、転びきる前に地面を変える。そういう種類の守り方をする。


 腰にある剣が、わずかに体温を返している気がした。決意の熱が血の中を走り、冷たかった指先がじんわりと戻ってくる。握った拳の中の痛みさえ、いまは確かな脈動みたいに感じられた。


 ヴィルは何も言わず、グラスの底を指で押さえたまま視線を出入口へ一度だけ走らせた。カテリーナは笑いもせずに、卓の端へ紙を一枚重ねる。陶器に触れた硬い縁が、小さく鳴った。


 わたしはその音を受け取り、目を伏せた。

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