水の都の噂
季節は、ゆっくりと、けれど確実に冬の領域へと足を踏み入れている。暦の上では、もう厚手のコートに身を包んで吐く息の白さを競う時期だというのに、王都リーディスには南洋からの湿りを含んだ温い風が居座り続けていた。
朝の光が石畳の角を柔らかく削り、空気には海から運ばれた塩気が残っている。運河の水面が小さく鳴り、その音がゆるく、肌の上のぬくもりをほどいていく。道行く人々の足取りにも、冬特有の強張りや重さは見当たらない。
そんな奇妙に穏やかな小春日和の中、カテリーナが呆れたように言うには、連日王都を冒険して回るわたしは、どうやら市井のちょっとした「噂の熱源」になっているらしい。
理由は、わざわざ問うまでもない。おとぎ話の英雄・メービス王女を思わせる長い緑の髪をなびかせ、あろうことか腰には「ピンク色をした巨大な玩具の剣」を吊り下げている。そんな娘が、好奇心に輝く瞳で石畳を闊歩し、美味しそうな匂いがあれば鼻を鳴らし、困っている人がいれば後先考えずに首を突っ込むのだから、話題に上らない方が不自然というものだった。
◇◇◇
事件らしい事件といえば、確かにいくつか、記憶の底に手触りを残しているものがある。
たとえば、あの日の午後のこと。暴走した荷馬車が、逃げ遅れた子供を蹄にかける寸前だった。頭をよぎったのは「これで終わりか」という冷徹な諦念と、それ以上に熱く燃え上がった「でも、この子だけは」という、小さくて固い意地だけだ。
異能の力を使えば、馬の脚を止めることなど造作もない。けれど、王都の衆人環視の中で、そんな「異常」を晒すわけにはいかない――少なくとも、今は。
石畳を蹴り砕く蹄の音が、耳元で雷鳴のように轟いた。舞い上がる土埃が視界をセピア色に染め、馬の荒い鼻息と、積荷が軋む音が聴覚を埋め尽くす。恐怖で硬直した小さな体を、わたしは理屈よりも先に全力で抱き寄せていた。地面に転がり、擦りむいた皮膚の熱さよりも、腕の中で震える命の頼りなさだけが、今でも指先に焼き付いている。
土埃が唇に触れ、こめかみの奥で早鐘が鳴った。荷馬車は数メートル先でようやく停止し、御者が顔面蒼白で飛び降りてくる気配がした。
周囲の人々が駆け寄り、どよめきがさざ波のように広がる。腕の中の子どもは、涙をこらえた瞳でわたしを見上げ、
「ありがとう……おねえちゃん」
蚊の鳴くような声で呟いた。その瞬間、強張っていた胸の奥の氷が、じんわりと熱い湯になって溶け出した。
子どもが母親に引き取られたあと、わたしはスカートの埃を払って立ち上がる。周囲から注がれる視線――好奇と感謝、その底に薄い畏れを混ぜた熱を、皮膚の上で受け止めながら。
乱れた緑の髪と、埃の中で場違いに可愛らしく揺れるピンクのお守り剣だけが、その場の現実感を奇妙に歪めていた。
◇◇◇
あるいは、魚市場での一幕。
バルグの雇い主である仲買人が急病で倒れ、市場の機能が麻痺しかけたときのことだ。朝から吹き荒れる強い潮風に、生臭い鱗と血の臭いが混じり合い、怒号と値切りの声が渦を巻くその場所は、まるで嵐の海そのものだった。
帳簿を抱えた小僧たちが右往左往し、伝票の山が雪崩を起こし、誰もが「どうするんだ!」と叫び合う阿鼻叫喚の中――見るに見かねたわたしは、思考するより先に一歩を踏み出していた。
「ちょっと貸してください!」
そう叫ぶや否や、震える手から帳簿をひったくり、机に散乱した伝票の山を鷲掴みにする。
前世で専門的な簿記を学んだわけじゃない。だが、現金の出入りと在庫の流れを追う程度の計算なら、息をするみたいにできる。この世界の読み書き計算は、母メイレアが幼い頃から、生きるための武器としてわたしの髄に叩き込んでくれたものだ。
魚市場の男たちは、その多くが肉体労働に誇りを持つ者たちで、数字の羅列を見ただけで眉間を寄せる手合いばかり。わたしは事務所の扉を叩き閉め、荒い喧噪を木板一枚の外へ追い出した。
インクと古びた羊皮紙の匂いが充満する、薄暗い室内。蝋燭の揺らめく灯りだけが、机上の戦場を照らし出す。
羽ペンをインク壺に浸し、紙の上を走らせる。
カリカリ、カリカリ。
乾いた筆記音だけが、静寂を鋭く刻む。入荷を左、売上を右、支払いを中央へ。
一つの作業に没頭すると、わたしの意識は外界から切り離される。これは前世からの逃避癖であり、特技でもあった。
そして、剣の中にいる茉凛は、視界の端で数字だけを片づけていく。前世で「勉強は苦手」と言っていたのが嘘みたいに……。
どれだけの時間が経っただろうか。
ふと顔を上げると、事務所の入り口には、鱗まみれの屈強な男たちがずらりと並んでいた。荒くれ者たちが、だらりと腕を下げ、口を半開きにして、ただ呆然とこちらを見つめている。その光景は、まるで初めて手品を見た子供のようで――少しだけ、いや、かなり痛快な余韻が口の奥に残った。
◇◇◇
王都の中央市場で、喧嘩の仲裁に入ったこともあった。
朝から人だかりの絶えない石畳の広場は、熟れた果実とスパイスの香りが混じり合い、熱気で湯気が立つほどに沸騰していた。酒に酔った傭兵崩れの男二人が、些細な通行トラブルから取っ組み合いを始め、拳が飛び交い、木箱が砕け散る。
悲鳴を上げて逃げ惑う客たちをかき分け、わたしは飛び出した。そして、腰から抜いたピンク色の『ローズ・クレスト』を、高々と天に掲げて二人の間に割って入る。
刀身に描かれた、不器用極まりない手描きの白薔薇。どう見ても本物の武器ではない、ふざけた意匠のおもちゃ剣。けれど、緑の長い髪をなびかせ、にこにこと満面の笑みでそれを構える娘の姿は、殺気立った場にはあまりに異質で、強烈な違和感となって場を凍らせた。
一瞬、男たちの動きが止まる。荒々しい息遣いが、ぽかんとした間の抜けたものに変わる。周囲の野次馬たちからも、怒号の代わりにくすくすとした失笑が漏れ始めた。そのあまりにシュールな光景に、男たちは完全に毒気を抜かれ、振り上げた拳のやり場を失ってしまったのだ。
怪我の功名としか言いようがない。わたしは指の腹で小さく拳を握り、努めて明るく声をかけ、そそくさとその場を離れようとした。
……が、遠くから近づく甲冑の擦れる音と、
「どけ、どけ!」
という怒声。憲兵隊だ。
わたしは『ローズ・クレスト』を鞘に押し込み、緑髪を翻して路地へ滑り込んだ。
背後で響く
「待てー!」
という声を置き去りに、石畳の折れで身を隠す。そのとき耳の裏で跳ねた脈は、恐怖よりも、悪戯がうまくいったときの甘い熱に近かった。
けれど追ってくる足音は、ひとつ折れた先でふっと重さを失った。金具の擦れる音が遅れ、短い笛が二度鳴る。叫びだけは続くのに、息が荒れない。距離が詰まらない。
息を薄くして覗いた刹那、隊長格らしい男の指先で、封蝋の欠けた紙片が揺れていた。赤い蝋の割れ目から覗く綴りの端。
『ローベ……』
男はそれを畳み、手首をわずかに下げた。憲兵たちは追跡の列を整え直し、わたしのいない通りへ向けて型どおりの怒鳴り声を投げる。路地の入口は、誰ひとり覗き込まなかった。
◇◇◇
なんだかんだで、毎日何かしらの騒ぎを引き起こしている。おかげで最近は、行く先々で声をかけられるのが日常になりつつあった。
パン屋の店主が皺を寄せて笑う。
「おや、また来たね、お嬢ちゃん。今日は何をやらかすんだい?」
焼きたてのプレッツェルを一つ、紙袋に入れて渡してくれる。その熱さが、指先から掌へとじんわり伝う。
路地裏からは、近所の子どもたちが駆け寄ってくる。
「あ! 緑の髪のお姉ちゃんだ!」
小さな手から手渡される萎れた野花や、体温で溶けかけた飴玉。
心の奥底で、「正体を隠すべき立場なのに、こんなに目立っていいのだろうか」という警鐘が鳴る。そのたびに、胃の底に冷たい石が落ちたような不安を感じ、指先がスカートの布地を無意識に探ってしまう。
けれど、すぐに脳内で弾むような声が、その不安を蹴散らすのだ。
《《いいじゃない、美鶴! せっかくの王都なんだから、楽しまなきゃ損だよ! ほら、次はあっちの通りに行ってみよう!》》
気づけば、わたしはいつも茉凛のリードに身を任せている。彼女の尽きることのない好奇心と奔放さに、わたしはずるずると、けれど心地よく引っぱられている。通りを歩くたび、南風が髪を柔らかく揺らし、パンの香ばしい匂いや、陽だまりの温度が肌を滑っていく。
茉凛は、剣の中に囚われた存在だ。自由になる手足を持たず、わたしという器を通してしか世界を味わうことができない。だからこそ、この街歩きは、彼女にとって唯一といっていい「生」の実感であり、魂の深呼吸なのだ。
今だけは、彼女の翼を広げさせてあげたい。彼女が見たいものを見て、触れたいものに触れる。そうしている時間が、いつのまにかわたし自身の救いにもなっていることに、気づかないふりをしながら。
冬の入り口にしては、陽射しはまだ驚くほど柔らかい。通りのざわめきに耳を澄ませ、わたしは『ローズ・クレスト』の柄をそっと撫でた。冷たいはずの金属から、まるで脈打つような温もりが返ってくる気がした。
「今日もいっぱい楽しもうね、茉凛」
声にならないほど小さく告げると、石畳を蹴る足取りが、ふわりと重力を失って軽くなった。
ただ、一つだけ解せないことがある。王家にとって曰く付きの「お尋ね者」の娘で、聖剣と同じ名の剣を持ち、伝説の偶像と同じ髪色をして歩き回る。そんな危うい火遊びを、なぜ大人の二人は止めないのか。
夕食の席でわたしがその日の出来事を話すと、ヴィルもカテリーナも、楽しそうに、あるいは呆れたように相槌を打つだけだ。けれどその沈黙の合間に、ヴィルの指が一度だけ袖口へ潜り、紙片を折り直す気配があった。封蝋の欠けた硬さが、木の卓へ小さく当たる。
カテリーナは杯の縁を撫でて、目だけで笑う。笑いの形はやわらかいのに、視線の落とし所だけが妙に冷静だ。
「もっとやれ」と言わないまま背中を押す、その間合いの裏には、わたしの知らない過去の残り香と、諦めにも似た深い信頼が沈殿しているようだった。
◇◇◇ 幕間 水の都の噂 ◇◇◇
湯気は天井に薄い膜を作り、白いタイルの目地へ静かに溜まっていく。高い天井から落ちる水音が、規則正しく耳の奥を撫でていた。
公衆浴場の更衣室は、いつになく熱を含んでいる。空いた棚を探す視線がすれ違い、濡れた床が重い足音を吸い込んだ。番台に座る年配の女将は、木札を並べ直しながら、指先についた水を袖で拭った。
「最近、やけに混むねえ」
それに答えたのは、常連の女だ。手拭いを絞る音がひとつ、湯気の膜を細く裂く。
「船着き場を見たかい? 地方からの船で、桟橋が埋まるくらいさ。宿もどこも一杯だってね」
笑いながら言うのに、帯の端を指がもてあそぶ。濡れた布が指先に絡み、ほどけない。
「ああ、選定の儀式だったっけ? 近いって噂だね」
湯桶の縁を指でなぞっていた別の客が、動きを止めた。木がきゅっと鳴って、音が余計に目立った。
「……なのに、肝心の日取りが出ないね。大げさにお披露目なんてやっておいてさ」
言い終えた指が、無意識に帯の端をつまみ、湿った布をねじった。
番台の女将は肩をすくめるふりをして、視線だけを掲示板のほうへ投げた。白い紙が何枚も重なり、糊の匂いだけが新しい。誰かが端へ指を伸ばしかけて、すぐ引っ込めた。
「出し惜しみじゃないの? お上はいつだって、あたしらを待たせるのが好きだから」
笑い声は湯気の中へ溶けていく。けれど底のほうに沈む話題は、別の形をしていた。女将が声を少しだけ落とし、木札をカツンと裏返す。
「聞いたかい。例の、緑の髪の子」
更衣室の隅で、濡れた髪をまとめていた若い娘が手を止めた。指先から落ちた雫が、白いタイルに小さく弾ける。
「見たよ。憲兵に追われて、路地へ消えてったって」
「別に悪いことしたわけじゃないのに、どうして追われなきゃいけないんだい?」
「さあ? もしかして『メービス様の髪の色を真似るなど不敬である!』とか」
「まさか、そりゃあないよ。昔、何度か流行ったことあったじゃない?」
「でも、不思議だねえ。あんなに目立つ色なのに、捕まらない」
常連の女が、鼻で笑いかけた。けれど笑いは湯気に溶けきらず、途中で細く折れる。手拭いが強く絞られ、湿った繊維がきしんだ。入口のほうへ、視線だけが一度滑っていく。
笑って済ませたい話のはずなのに、笑い切れない硬さが残った。
「……あたし、見たんだよね」
「なにをさ?」
「憲兵の隊長がさ、持ってた紙だよ。それも、赤い封蝋の欠けたやつだった。そしたら手が下がって、全員追うのをやめた」
湯桶が床に置かれる音が、いつもより低く響いた。
「……へえ」
短い相槌だけが落ちる。それ以上は誰も口にしない。ただ、湯気の向こうに見える掲示板の紙が白く浮いていた。
『聖剣資格者の選定儀式』
文字は立派で、どこか冷たい。日付の欄だけが空白のまま、糊の乾く匂いを漂わせている。
◇◇◇
魚市場は朝から潮風が荒く、鱗と血の匂いが鼻の奥へへばりついた。濡れた木箱を引きずる音が途切れなく続き、呼び声が重なって、空気がざらついている。
「緑の子が来るとさ、帳面が静かになるんだよ」
ごつごつした手を持つ仲買人の男が笑った。笑いながらも、指先は太い麻縄の結び目を確かめるように動いている。相棒の若い衆が、魚を氷へ放り込みながら眉を寄せた。
「静かってなんだよ」
「どうしたわけか、周りから音が減るんだ。でな、あの子ときたら瞬きすらしてねぇんじゃないかってくらい、とにかく手が止まらない。あれは手品じゃない。働き方を知ってるって顔だ」
仲買人は言い終えると、顎で市場の入り口をしゃくった。荷車が列をなし、縄が木材の角で擦れて、湿った繊維の匂いがふっと立つ。布の端が潮風に叩かれ、樽の板が鈍い音を返した。広場へ向かう印が刻まれた板が、ひと束だけ混じっている。
「まだ子供だろ? ただもんじゃねぇな」
「バルグの知り合いってことは、生まれも育ちも王都ではなさそうだが」
「憲兵が巡察に来た日も、結局なにもなかった。あの娘を見かけるなり、部下どもを整列させて、何やら怒鳴って帰っただけだ。あれって……」
続きは潮風が持っていった。代わりに遠くで、巡回兵の口上が聞こえる。
響く声は訓練されていて、鼓膜の外側だけを叩いて通り過ぎる。
――選定の儀は、近々国王陛下の御前にて執り行われる。我らの任務は……
近々、と兵は叫ぶ。けれど具体的な日は言わない。魚の血ではない、焦燥に似た湿り気が舌の裏に残り、若い衆が小さく唾を飲み込んだ。
◇◇◇
石畳の路地に、子どもが三人いた。
棒切れを腰に差し、緑の布を髪に結んでいる。布は古いカーテンの端切れで、縁がほつれていた。桃色に塗られた棒は乾ききらず、塗料の甘い匂いが鼻を刺す。
「見てて。わたし、緑の髪のおねえちゃん」
少女は背筋を伸ばし、棒を握り直す。
「おねえちゃんは、剣をこうするんだよ」
棒が高く掲げられ、真似事の笑顔が日向の明るさに混じった。そこへ、あわてて窓を開けた母親の声が飛ぶ。
「こら。路地で遊ぶんじゃないよ。人が増えてるんだから、転ぶよ」
「平気。おねえちゃんは強いんだもん。憲兵さんだって捕まえられないんだから」
母親はサンダルをつっかけて飛び出してくると、少女の結び目へ迷いなく指を伸ばした。
「……それで済むのが、怖いんだよ」
言いながら、髪の布をきゅっと結び直した。指先は優しいのに、結び目だけが固い。
通りの向こうを、見慣れない旅装の集団が過ぎていく。帯びた剣が石畳に硬い影を落とし、影の端が人の足に踏まれてすぐ薄れた。
◇◇◇
パン屋の前は昼前になると列が伸びる。焼けた麦の匂いが、石畳に薄く落ちていった。
紙袋が擦れる音と、小銭の触れ合う音が、眠気を追い払うみたいに軽い。列の後ろの男は、身なりは良いのに靴底が擦り減っている。待ち方が少しだけ堅い。
「そういや昨日さ、市場の外れで緑の子を見かけたよ。子供たちと遊んでた」
前に並んでいた買い物客の女が、振り返らずに応じ。
「そうだったね。埃だらけで、それでも笑ってた」
「笑える子は強いよな」
男が呟くと、女が小さく頷いた。頷きの速さが、最の街の息と似ている。
「聖剣のお披露目で騒ぎになったかと思えば、今やあの子の噂でもちきりだ。王都も話題に事欠かないな」
「あたしらにとっちゃ、聖剣なんざどうだっていい話さ。パンの温もりの方ありがたいね」
言い終えた途端、女は口をつぐんだ。ちょうどそのとき、巡回兵が通りを横切る。軍靴の音が揃いすぎていて、日常の雑音から浮いている。
掲示板の前で、誰かが新しい紙を貼ろうとしていた。人々は立ち止まり、息を詰めて見守る。けれど貼られたのは「市場の通行規制」の知らせだけだった。
「なんだ、また規制かい?」
「肝心の儀式の日取りはまだだろ?」
落胆の溜息が漏れ、その隙間を南風がすり抜ける。糊の匂いが薄まり、代わりに焼きたての香りが戻ってきた。
誰かが通りの向こうを見た。
緑の髪が風に揺れて、桃色の鞘が日暮れの光を拾う。あまりに目立つのに、どこか危うい細さがある。人々は口々に名前を呼ばない。呼べば、彼女が遠くへ行ってしまいそうで。
代わりに、息を合わせるみたいに笑った。
「緑の子だ」
「はは、また何かやらかすのか?」
その笑いは街の側の合図だった。誰が決めたわけでもない。けれど気づけば、雑踏で溢れかえる通りの空気が、彼女のために少しだけ道を空けている。
掲示板の空白は白いまま残り、糊の匂いだけが新しい。運河の水面が風でさざめき、いつもより近くで音を立てていた。誰も日取りを言わないのに、街の息だけが先に速くなっていく。




