リーディス・コンバット・ツアー②
翌日。カテリーナの強い勧めに押されるようにして、わたしたちは王都リーディスの国営公衆浴場へ足を運ぶことになった。
公衆浴場、と聞いた瞬間、前世の記憶が水面へ浮く泡みたいに、胸の奥でぱちぱち弾けた。日本の銭湯。古代ローマの壮麗な浴場。あるいは、その時代を題材にした有名漫画の断片。湯気と石造りの回廊と、桶の鳴る音まで、頭の中で勝手に混ざり合っていく。
王都は、水の都と呼ばれている。二本の大河が街を潤し、古くから整えられた上下水道が、白い石畳の下を静かに巡っているという。六つの街区それぞれに大規模な公衆浴場があり、身分を問わず市民へ開かれている。
清潔な水と湯は、ただ身体を洗うためだけのものではない。市場の埃、港の塩、労働の汗、夜を越えた疲れ。そうしたものを毎日少しずつ洗い流し、人々をまた明日へ送り出す。たぶんそれこそが、この都市の呼吸そのものなのだ。
では、大量の湯をどう沸かしているのか。
そこは現実的な疑問として、どうしても頭をよぎった。けれどリーディスは、魔獣討伐で回収される魔石を、王都へ集めて管理する仕組みを持っている。なかでも民生用途に回される低品質の熱源用魔石は、浴場や厨房、暖房設備の燃料として広く使われているらしい。豊かな水と、魔石を扱う技術。そのふたつが、この都市の清潔さと繁栄を、石畳の下から静かに支えていた。
異世界で体験する、本格的な大浴場。想像ばかりが先へ行き、好奇心と気恥ずかしさが入り混じって、指先のあたりが妙に落ち着かなかった。
「本当、どんな感じなんだろう……」
石畳の通りを歩くたび、どこからともなく澄んだ水の匂いと、湯気に乗ったハーブの爽やかさが風に混じって流れてくる。路地の向こう、白亜の建物の隙間から、白い湯気が細く立ち上っていた。
「ここか……」
目の前に現れた立派な門構えに、わたしは思わずひと息ついた。磨かれた石灰岩の壁は、装飾こそ控えめだが、長い歳月を耐えてきた深い威厳を湛えている。入口には絶え間なく人が吸い込まれ、出てくる人々の顔は、どこか一枚薄い膜を洗い落としたみたいにさっぱりしていた。
期待とわずかな緊張を胸に、一歩を踏み出す。回廊を抜けた先のエントランスは、想像していたよりずっと広かった。高い天井の円形の明かり取りからやわらかな光が降り、大理石の床に反射して、空間全体を静かに明るくしている。磨き上げられた白い石が、靴底越しに硬い響きを返した。塵ひとつ見当たらない清潔さが、この施設の格式を無言で物語っている。
喉の奥で、小さく息がほどける。
「これは……想像以上かもしれない」
壁に掲げられた案内図には、多彩な区画が描かれていた。中央には巨大な温浴槽があり、透明な湯が静かな波紋を広げているらしい。その奥には冷浴、さらに薬草を用いた蒸気浴の表示もある。
湯気の匂いに、思考がふっと緩む。
そのまま受付へ向かうと、管理人らしき中年の女性が、穏やかな笑顔で近づいてきた。
「おやおや、お嬢さん。あんた初めてかい? ここでは温浴、冷浴、そして蒸気浴が楽しめるよ。休憩エリアでは冷たいお茶や、果物なんかも用意してある。好きなところから始めておくれ」
親切な案内に頷いて礼を言おうとした、その時だった。彼女の視線がわたしの腰元で止まり、柔和だった表情がきゅっと引き締まる。
「ところであんた、その剣を持って入るつもりかい? 浴場内で帯剣はご法度だよ。刃傷沙汰は御免だからね。悪いが、ここで預からせてもらうよ」
心臓が、ひやりと冷えた。腰に帯びているのは『ローズ・クレスト』こと、白きマウザーグレイル。片時も離すわけにはいかない。
指先が柄へ吸い寄せられる。
「い、いえ! これは剣なんかじゃありませんよ!」
慌てて柄に手を添え、大げさに頭を振る。
「あー、その……田舎の親が持たせてくれた『魔除けの御守り』でして……肌身離すと呪われると言い含められているんです。……ほら、この通り抜き身を見ていただければ分かると思います」
心臓が早鐘を打つ中、わたしは慎重に鞘を引いた。現れた剣身は、昨日施したばかりの毒々しいピンク色に染まり、天井からの光を受けて安っぽくきらりと反射した。その姿は、武器というより、悪趣味な装飾品か、奇妙な儀式具に近い。
湯気の向こうで、相手の瞬きが一度止まる。
「……これは……」
女性は目を丸くし、まじまじとピンクの棒切れを凝視した。数秒の沈黙が、やけに長く感じられた。
「ふむ……見たところ刃もないし、確かに剣というよりはおもちゃみたいなものか。それにしても、ひどい色だねぇ」
彼女は呆れたように肩をすくめ、苦笑交じりに頷いた。
「まあ、そんな大事な『御守り』なら仕方ない。肌身離さず持っていきな。ただし、他のお客さんがびっくりするといけない。こっそり持ち込むんだよ」
胸の奥が、ゆっくりほどけていく。
「は、はい! もちろんです。ありがとうございます!」
安堵で膝から力が抜けそうになる。どうにか許可を得て、わたしは更衣室への道を急いだ。
《《なかなか大胆ね! でも、ほら、相手も納得してくれたじゃない。やっぱりわたしたちのローズ・クレストの効果はすごい!》》
頭の中で茉凛が得意げに笑う。その弾む声につられて、わたしの唇からも小さく笑みがこぼれた。
「そうだね。本当に、塗ってよかったよ」
腰にローズ・クレストを戻し、指先でその派手な柄を確かめる。立ち込める湯気の匂い。湿った石の冷たさ。
“いまここ”にわたしたちが共にいることが、肌の奥で確かになる。
更衣室は広く、清潔だった。磨かれた木製の棚と籠が整然と並び、高窓からの淡い光がモザイクタイルの上へ水のように滲んでいる。
一番奥の棚を選び、脱ぐあいだだけ、ローズ・クレストを手の届く位置へそっと置いた。
椅子に腰を下ろして靴を脱ぐと、足元からじわりと緊張が抜けていく。ドレスの袖のボタンを一つずつ外すたび、布の擦れる微かな音が耳に残った。ウエストを締めていたリボンを解くと、軽い生地が肩から滑り落ちる。汗ばんだ肌を撫でる外気の冷たさに、解放感がくっきりと輪郭を持った。
《《ほら美鶴、ぼーっとしてないで。早く入ろうよ!》》
茉凛の急かす声に苦笑しつつ、最後の布も籠へ収める。裸になった肌へ冷気が触れ、背筋がすっと伸びた。
湯に濡れないようローズ・クレストを布で包み、腕に抱える。重厚な扉を開ければ、そこは白亜の聖域だった。視界いっぱいに広がる石の大空間。中央に鎮座する巨大な円形浴槽からは、豊富な湯が溢れ出し、白い湯気を立ち上らせている。天窓から差し込む光の柱と湯気が混じり合い、きらきらと輝く白い靄が、現実の輪郭を少しだけ曖昧にしていた。
昼下がりの浴場は人影もまばらで、静けさに満ちている。温度を含んだ湿った空気が、裸足の先から全身へと伝い、ゆっくりと温みが広がっていく。
壁際の木椅子に腰をかけ、ローズ・クレストを足元の布の上へ置いた。桶に湯を汲む。使い込まれた木肌の感触と、手のひらに乗る湯の温かさ。それだけで、強張っていた肩の筋がほどけていくようだった。
そっと湯を肩へかける。
ざぶり。
広がる熱が、旅の疲れと緊張を、皮膚の表面から静かに溶かしていった。
「はぁ……」
吐息が湯気に紛れて消える。髪をまとめ直し、丁寧に体を清めてから、いよいよ中央の湯船へと足を踏み入れた。
つま先から熱が絡みつき、芯までゆっくりと温もりが浸透していく。腰まで浸かり、さらに肩まで。ふわりと身体が軽くなる。手すりに身を預け、目を閉じた。水の重さと浮力が、交互に身体を撫でていく感覚へ身を委ねる。
「生き返る……。やっぱり日本人の魂は、湯船に浸からないとほどけないように出来てるのかもね」
口をついて出た言葉に、思わず自分でくすりと笑ってしまう。
《《いい湯だねぇ。……ねえ、美鶴?》》
茉凛の声が脳裏に響く。いつもの弾むような調子ではなく、湯気に溶けるような柔らかい声音だった。
「なあに?」
《《いまさらだけどさ……こうして五感を通じて繋がってるってことが、わたしは嬉しいな》》
お湯の波紋が、胸元で静かに揺れる。
「茉凛……」
《《あなたが感じるお湯の温かさとか、肌触りとか、わたしにも全部伝わってくるんだもん。生きているって感覚を、分けてもらってる。だからさ……すごく、幸せだよ》》
喉の奥が、熱い蒸気とは別の熱で詰まる。瞼の裏がじわりと滲んだが、それは湯気のせいということにしておけた。
「わたしもだよ。こんな右も左もわからない世界に転生させられて、目を開けたら、あんなことになってて……茉凛がいなきゃ、わたしとっくに挫けてたと思う……」
しんみりとした空気が、白く輝く空間に満ちる。すると、照れ隠しのように明るい声が弾けた。
《《おっと、湿っぽい話はなしなし! せっかくの極楽なんだから! 次はあの奥の蒸気浴も試してみようよ。デトックス効果が期待できるはず!》》
湯の縁で、指先がふっと浮く。
「そうだね、せっかくだから全部楽しんでいこうか」
十分に身体が温まったところで、わたしたちは蒸気浴の部屋へと向かった。厚い木の扉を開けると、濃厚な蒸気が一気に頬を包み込む。ミントに似た清涼感のあるハーブの香りが、肺の奥までしみわたった。
木のベンチに腰かける。天井から吊るされた乾燥ハーブの束が、蒸気の中で淡く揺れている。深く息を吸えば、体の内側まで洗われていくようだった。すぐに汗がじんわりと滲み出し、肌を伝い落ちる。芯から余分なものが抜けていく感覚。
「いい香り……」
言葉の後ろで、蒸気が喉へゆっくり沈む。
《《なんだかお肌もツルツルになりそう! これは女子力アップ間違いなしだね》》
笑いそうになって、鼻先だけがくすぐったい。
「もう、茉凛ったら……そんなのどうだっていいから」
ふっと笑い、香りの波に身をゆだねる。茉凛の明るい声の奥に、どこか儚い光を感じて、胸が少しだけ揺れた。
前世のわたしたちは、あまりに不器用だった。弓鶴という男の子の身体に閉じ込められ、茉凛と向き合うことに、いつも迷いがついて回った。
いま思えば、あの頃のわたしは絶望の底でどこか欠けていた。解呪のことだけが頭の中で回り続け、眠りに落ちても手順の数を心の中でなぞってしまう。ただそれに取り憑かれた亡霊みたいに、息をすることさえ後回しにしていた気がする。
茉凛に対して、依存とも恋愛ともつかないまま好意を抱いていた。けれど、その思いは時に鋭い痛みになった。伸ばしかけた指先を引っ込めるたび、彼女に対する罪悪感が見えない壁となって立ちはだかる。触れたくても触れられない距離だけが、掌の内側に薄く残り続けた。
――でも、いまは違う。
言葉を交わさなくても、同じ温度の中にいる。笑い声の端まで、遅れずに届く。その事実だけで、胸の奥がほどけていく。
蒸気浴で火照った体を冷ますため、最後に冷浴の区画へ向かった。透き通った水に足先を入れると、鋭い冷気が走り、心臓がきゅっと縮む。
肩が反射で上がって、息が一拍遅れる。
「……っ、少し、冷たすぎるかな」
思わず肩をすくめたが、その刺激さえも今は愛おしい。火照りが瞬時に鎮まり、肌が引き締まる感覚。意識が鮮明になり、世界の色が戻ってくる。
湯上がりは、休憩エリアでハーブティーをいただくことにした。窓際の席に座り、湯気の立つガラスのカップを両手で包む。カモミールと柑橘系の香りが鼻先をくすぐり、掌に残るやわらかな熱が指先を温めていく。
《《贅沢な時間だねぇ。こんな日があってもいいよね》》
喉の奥で、短い笑いがほどける。
「うん、本当にリフレッシュできた。カテリーナさんに感謝しなきゃ」
窓の外には、午後の穏やかな陽射しが降り注いでいる。湯気と陽光の余韻が、心と体を静かに癒やしていくのを感じながら、わたしは深く息を吐いた。
カップの縁に唇を寄せると、甘い匂いが一瞬だけ頬をくすぐる。
「また来ようね、茉凛」
《《もちろん! 次はフルーツ牛乳的なものも探してみようよ!》》
思わず肩が揺れて、笑いが漏れそうになる。
「この世界に、そんなのあるわけないでしょ」
《《探せばきっとあるって。なかったら、作ればいいんじゃない?》》
返事より先に、舌が温いまま動く。
「うーん、めんどくさいから却下」
そんな他愛ないやり取りを胸の内で交わし、わたしはゆっくりと立ち上がった。更衣室へ戻り、着替えを始める。
ふと、鏡に映った自分の腹部に視線が止まった。
下腹部のあたり。白い肌の上に、赤黒いしみが浮かんでいる。
旅の初めから気づいていた腹の痣だ。どこで打った覚えもないのに、ここ数日で色が濃くなっている気がする。輪郭の定まらない曲線。意味を持たない幾何学模様。幼い子どもがクレヨンで殴り書きしたようにも、何かの呪印のようにも見える、不思議で不気味な模様だった。
指先でそっと触れてみる。痛みはない。熱もない。ただ、そこにあるだけ。
鏡の中の自分が、息をするのを忘れたみたいに見えた。
《《美鶴? ……その痣、やっぱり気になる? 色が、少し濃くなってるような……》》
茉凛の心配そうな声に、わたしは慌てて服を被せた。
「ううん、なんでもない。……ただの、気のせいだよ」
そう答えて微笑んでみせたが、胸の奥には冷たいものが残った。ぬるい湯気のなか、ひとしずくの黒い不安が、心の底へ静かに沈んでいった。




