リーディス・コンバット・ツアー①
潮の味が、舌の先に薄く残っていた。
バルグの声に背中を押されるまま始まった「シーフード三昧の冒険」だった。
連れて行かれたのは、市場のすぐ横に設営された屋根付きのテラス席――いや、ただの木の板を並べただけの豪快な食事処だ。
潮気に、焦げと油が混ざり、白い湯気になって頬へ貼りつく。
網の上で醤油が焦げる音。鉄板でバターが跳ね、乾いた小さな弾ける音がひとつ、耳の奥へ刺さった。熱が目元に当たり、つい目を細めた。
ニンニクが鼻の奥を刺し、塩が先に来る。
椅子の脚が砂を噛んで、わたしの肩がひとつだけ上がる。
「おい店主! この海の『誇り』とやらを端から全部持ってこい! 酒もだ! 杯など要らん、樽でよこせ!」
バルグの声が落ちると、店員たちが慌ただしく動き出す。ドン、ドン、とテーブルが悲鳴を上げそうな勢いで、大皿が次々と積み上げられていった。
肘が当たるたび、木の天板が熱を返してくる。
「ちょっ、バルグ……!? 待って、いくらなんでも限度ってものが……わたしたち、二人しかいないのよ!?」
わたしの静止など、彼の耳には届かないらしい。バルグは丸太のような腕で巨大なジョッキを煽ると、豪快に口元の泡を拭った。
泡の麦の匂いが、潮気のある風に混じって鼻先をかすめる。
「ガハハハ! 何を言うか! 戦の前には腹ごしらえ、友との再会には宴! 胃袋を満たすことこそが、魂の結束を固めるのだ! いいから、食え食えェ!」
笑い声の端で、湯気が口の奥へ落ちてくる。
「あ……」
常識の尺度が違う。呆気にとられるわたしの目の前で、彼は息をつく間もなく山盛りのムール貝を平らげていく。殻を置く音が途切れず、硬質なぶつかりが小気味よいリズムになった。
息がひとつ乱れて、視線だけが皿を追いかける。
《《うわぁ……! 見て美鶴、あのイカ! タレが弾けて踊ってるよ! 絶対おいしいやつ!》》
つられてわたしも、目の前の皿に視線を落とした。炭火で炙られたイカが、黄金色のタレを纏って艶めかしく光っている。堪えきれず串を手に取り、一口噛みついた。
歯の裏へ、焼けた甘さがじゅっと貼りつく。
パツン。
歯を入れた瞬間、弾力のある身が弾け、中から熱い汁気が溢れ出した。塩気と焦げた風味、イカ本来の濃厚な甘みが、舌の上でほどけていく。
息が抜けるのに、声は出ない。
「……っ!」
言葉にならず、ただ咀嚼する。飲み込むのが惜しいほどの旨味が、身体の奥へすべり落ちていく。底のほうで、ボッと小さな火が点いた気がした。
指先が、次の串を探してしまう。
「おい、酒蒸しも追加だ! あと、イカと……ええい、ホタテは大皿で頼む! ジャンジャン焼けェ!」
バルグの声が上がるたび、卓上は湯気と殻と赤い甲羅で埋まっていく。殻付きのエビが赤く染まり、香ばしい煙を上げている。カニの脚からは透明な汁が滴り、鉄板の上でジューッとかすかな悲鳴を上げた。
視界の端が白く霞み、まつ毛の先が湿る。
《《美鶴、右! あのホタテのバター焼き、見て! 貝殻の上でスープがグツグツいってる……!》》
茉凛の声に導かれ、わたしは掌ほどもあるホタテ貝に手を伸ばした。熱気で指先がチリチリと熱い。箸で身を持ち上げると、繊維の一本一本にバター醤油が染み込み、真珠色の輝きを放っている。口に含めば、ほろりと崩れる柔らかさと共に、濃厚な海のミルクが口いっぱいに広がった。
口の中に、唾が戻る。
「……おいしい……」
ため息と一緒に漏れた言葉は、すぐに次の咀嚼音にかき消される。箸先が勝手に動き、皿の上の熱い身を追いかけてしまう。
椅子の背が肩甲骨に当たり、身体が少しだけだらしなくなる。
《《うーん、もっと食べたい!》》
唇の端に塩が残って、笑うにも拭うにも遅れる。
「待って茉凛、そっちのカニ爪もすごく立派だよ……これも食べてみたい」
ひそひそと交わす声の下で、わたしのフォークも止まらなくなっていた。普段なら躊躇するような、手掴みでカニの殻を割る感触。指先に付いたタレを舐め取る背徳感。旨味が頬の内側へ染みるたび、肩の力がほどけ、指先だけが忙しくなる。
指の腹が、殻のざらつきで赤くなる。
「どうだ、うまかろう? ここのカニ味噌は絶品だぞ!」
豪快な笑い声が、焼きガキの殻をこじ開ける金属音に重なる。バルグの手元には、すでに空になった皿の塔が三つも建っていた。
皿の縁が当たる音が、妙に高い。
「でも、さすがに食べ過ぎじゃないの!? バルグ、あなた今、バケツ一杯分の殻を出したわよ?」
わたしが目を白黒させると、彼は喉を鳴らし、殻に残った汁を啜りながら笑い飛ばした。
殻の中の塩気が、空気に跳ねる。
「がっはっはっはっ! 細かいことは気にするな! たまにはこういうのもいいだろう! 今日は再会を祝し、とことん海の幸で心も腹も満たす日だ!」
その言葉を聞いた瞬間、反論するはずの舌が重くなる。言い訳が口の奥で止まったまま、腹の熱だけが残った。
わたしの肩から、いちばん硬い力が抜けた。
「……そうね。今日くらいは、まぁ、いいかも」
わたしは小さく呟くと、再び目の前のエビに向き合った。パリパリに焼けた殻を剥く指先が、脂で光っている。熱々の身を頬張り、冷えた果実水を流し込む。噛む、飲む、その繰り返しで時間が皿の縁からこぼれていった。
口の奥を抜けた冷えが、腹の熱をいちど撫でる。
《《美鶴、あっちのタコの唐揚げも食べたい! あと、シメのパエリアも注文しておいて!》》
塩がもう一度ほしくて、舌が小さく動くのがわかる。
「了解。……店員さん、追加お願いします!」
気付けば、わたしの声も普段よりワントーン高くなっていた。周囲の喧騒と、バルグの笑い声。そして茉凛の歓声。それらが心地よい伴奏になり、わたしはただひたすらに「食べる」という行為に没頭した。
……やがて。
宴の終わりは、物理的な限界と共に訪れた。最後に何を口にしたのか――記憶が曖昧なほど、皿という皿はきれいに消え失せていた。網の上だけが、残り火で赤く灯っている。
わたしは椅子の背もたれに深く身を預け、ほう、と長く重い息を吐き出した。胃袋が物理的に主張し、皮膚が内側から張り詰めている感覚。けれど、それは不快なものではなく、満ち足りた幸福の重みだった。
潮の湿りを含んだ空気が、火照った頬の汗をさらい、ひやりと引いていく。
ふと視線を上げると、空の色が変わっている。いつの間にか陽は傾き、漁港全体が茜色と群青色の混ざり合う黄昏に包まれていた。湿った空気が、頬の熱をそっと冷ましていく。
目の前では、バルグが爪楊枝をくわえ、満足げに腹をさすっていた。その顔は夕陽を受けて赤く染まっているが、瞳だけは少年のように澄んでいる。
◇◇◇
木の匂いが、夕暮れの湿り気を吸っていた。
「あーっ、だめ……。もう、動けない……」
わたしは糸が切れた人形のように、公園のベンチへ身を投げ出した。背中に触れる木板の硬さと、じんわりとした温もりが、薄手の服越しに伝わってくる。腹の奥は心地よい熱を抱えたまま、鉛のように重い。全身の血液と力が、消化のためだけに集められているようで、指先を一本曲げるのすら億劫だった。
ここまで食べた記憶は、途中から幸福な霞の中だ。普段なら石橋を叩いて壊すほど慎重なわたしが、ここまで自制を手放すなんて。
――でも、今日は特別。
バルグの勢いと、茉凛のはしゃぐ声に背中を押され、張り詰めていた心の紐がぷつりとほどけた。息が深く落ちて、渇きがいつの間にか消えている。重たい腹の底で、熱だけが静かに丸くなっていた。
夕暮れの潮混じりの空気が、頬の熱をゆっくり冷ます。遠くから聞こえる波音が、満ち足りた腹の底にゆっくりと響いた。空には薄いオレンジの名残が滲み、目を閉じると、さっきまでの喧騒が舌に残る塩味と一緒に反芻される。
こんな破天荒な自分に少し驚く。けれど、嫌ではない。むしろ、くすぐったいような満足感が込み上げてくる。
水場の蛇口から噴き出す水を、そのまま手で受けてがぶ飲みする音が聞こえた。
「どうだミツル、リーディスは楽しかろう? ん?」
わたしはベンチに横たわったまま、首だけを動かしてその光景を見る。あれだけ胃袋に詰め込んだ直後に、さらに水をたらふく流し込むなんて。この男の身体構造は、いったいどうなっているのだろう。
水滴が石に落ちる音が、妙に大きい。
《《……さすがじゃバルグよ。この儂の常識の範疇を、はるかに超越しておる。そなたの胃はブラックホールか何かで出来ておるのか……?》》
茉凛の声には、呆れと、それを通り越した感心が混じっていた。
思わず口端が緩む。前世の記憶――鳴海沢洸人とのデート勝負で、特大うな重を二つ平らげて彼をドン引きさせた、あの健啖家の茉凛でさえ白旗を上げているのだ。バルグは次元が違う。食い競べの言葉の外で、ただ食べ、ただ笑っている。
笑うと、みぞおちがずしりと返事をする。
「バルグが異次元すぎるだけで、茉凛の感覚も十分おかしいからね。食べてるのはわたしなんだから、ちょっとは考えてほしい……」
自分への弁解みたいに小さく呟くと、水を飲み終えた彼が、陽を浴びる獣のように勢いよく顔を上げた。濡れた褐色の肌に水滴がきらりと跳ね、夕陽を受けて輝く。白い歯がにっと覗いた。
影が伸びて、足元の砂を濃くする。
「がっはっはっ! ここの海の幸を堪能せずして、リーディスに来たとは言えんからな! ミツルも今日で、ようやくこの街に認められたぞ!」
その言葉には、何の裏表もない無邪気な誇らしさがあった。肩のあたりの力が抜けたまま戻らず、返す言葉が遅れてしまう。
まぶたの裏が、甘く重くなる。
「認められたのは嬉しいけど……これ以上は無理よ。もう一歩も歩けない」
息の端で、潮の匂いがふっと笑う。
《《同感じゃ。次はもう少し控えめで頼むぞ、バルグ……。儂はもうついていけぬ。ぐふっ……》》
潮の気配が漂う空気が、バルグの豪快な笑い声をさらい、夕暮れの港に溶かしていく。
本当は、彼に訊きたいことがいくつもあったはずだ。どうしてここにいるのか、これからどうするのか。戦技――『烈風乱舞斬』が見せた、場裏と類似するような煌めき……。
けれど今は、お腹が苦しくて、そして温かい。思考の輪郭が甘く溶け出し、言葉よりも先に、抗いがたい満腹の眠気がまぶたを重くしていった。
バルグの豪快さに巻き込まれ、理性もマナーも放り出して貪った一日。こんなに無防備に、ただ本能のまま笑い合ったのはいつ以来だろう。満腹の気だるさと共に、胸の奥に温かい灯火が残る。
それは消化されることのない、確かな絆だった。




