氷の音、串焼きの煙、再会の声
朝食を終えると、カテリーナは取材と営業のために出かけていった。戸が閉まると同時に、台所に残されたのは洗い物の規則正しい水音と、焦げた乳脂の甘い余韻だけだ。濡れた皿の縁を指で辿れば、薄い油膜が体温に溶けてすべり、すぐに冷たい水に流されて消えていく。
ヴィルはと言えば、「じゃあ、行ってくる」と言い残し、場所も目的も告げず街へと繰り出していった。背中が扉の向こうへ消えてから、彼の足音が石畳に撥ねて遠のくまでの残響が、妙に長く感じられる。何を探しているのか、今のわたしにはわからない。けれど、迷いのない歩調の裏には、彼なりの確かな意味が沈んでいるのだろう。
彼はカテリーナの指示を受けて、情報を探る役割を請け負っている。わたしの知らない、かつての二人だけが共有する呼吸。その真ん中に、わたしの父がいた。昨夜の短いやり取りが、今も耳の奥にこびりついて離れない。
『俺が足で、お前は頭。昔からそうだったろう?』
その言葉に、カテリーナは満足そうに笑みを深くして返したものだ。
『ふん、その調子で頼むよ。なにせ、あんたは番犬としては最強だからね』
三人の関係がどのような形を成していたのか、今のわたしには推し量る術もない。それでも、言葉の端に残る微かな熱や、笑い方の角度、視線の落とし所が、かつて同じ場所を向いていたことを静かに示してしまう。洗い桶の水が縁に当たり、金属が小さく鳴った。その音のあとに、理由のない苦みが残る。
ユベル・グロンダイルは、盟友ともいえる二人に何も告げず置き去りにした。メイレアという一人の女性の手を引いて。そして、二人の逃避行の果てに生まれたのが、今のわたしなのだ。
カテリーナは不器用でも、他者を慮ることが出来る人だ。それでも胸の内に、言葉にできない澱が溜まっていたとしても、無意識に棘を覗かせてしまったとしても、それは決して不思議なことではない。だとしても、今のわたしに差し出せる救いなど、どこにもなかった。
ヴィルが「よせ」と言わなかった。フォークが皿に触れる音だけが続き、皿の角が静かに欠けていった。誰も言葉を足さないまま、彼だけが食べ進める。皿が減っていく速さが、返事みたいに残った。
――いろいろあるんだよね、大人って……。
台所の窓硝子に朝の光が滲み、白いタイルの目地が不自然なほど鮮明に浮かび上がる。精神の年齢だけは成人しているつもりでいたけれど、こと人間関係の機微に関しては、前世のわたしはあまりに幼すぎたのかもしれない。胃の底に、冷たい空洞がひとつ、ぽっかりと空いたような感覚が残る。
深く考えすぎないのが吉だろうか。過去を詮索して、わざわざ凪いだ水面に石を投じるのは、わたしの主義ではない。
そう自分に言い聞かせて、麻の布巾で卓を拭く。木目の溝に沿って水が細い線を引き、空気に触れて瞬く間に乾いていく。その潔い乾きが、指先に封筒の角をなぞったときのような、硬質な感触を連れてきた。
――さて、今日のわたしがやるべきことは。
開け放した窓から流れ込む潮の匂いが、鼻の奥をくすぐるように揺れている。
「茉凛、今日は魚市場でも覗いてみようか?」
室内を巡る風がわずかに温度を上げ、窓辺に置かれた空のグラスが朝日に焼けて鋭い光の束を床に落とした。
《《だねー! せっかく港町にいるんだし、シーフードを堪能しなきゃね!》》
弾むようなその声が、室内の停滞した空気を一段だけ押し上げる。湯気が消えたあとの台所に、新緑のような鮮やかな色彩が置かれた気がした。
茉凛の屈託のなさに背中を押されるように、二人で観光気分を装って魚市場へ向かうことにした。
グレイさんも話の端で、街をよく見て回るのも勉強だと言っていた。ならば、まずはこの街の味を知ることから始めるべきだ。何より、茉凛がもう我慢できないというふうに、わたしの内側でそわそわと跳ね回っている。
彼女はいつだって、自分の欲望に純粋だ。それが時折、眩しくてたまらなくなる。彼女が「ほしい」と叫ぶから、わたしも自分の願いを、ほんの少しだけ肯定できる気がするのだ。
棚の奥にしまい込んだはずの苦さが、ふいに顔を出すことがある。だからこそ、今朝の湯気みたいなものを、指先で確かめておきたくなる。
◇◇◇
港の魚市場は、熱と匂いが渦を巻いていた。行き交う肩がぶつかり合い、すぐそばで誰かの息がかすめるたび、布地がざらりと鳴る。頭上では競りの声が飛び交い、値を告げる声、からかう笑い、負けてたまるかと張り上げられた声の熱が、湯気に紛れて押しては引いていった。
耳が、休む場所を探せない。
木箱の上で跳ねる銀色の魚。砕かれる氷の鋭い音。店先では炭火がぱちぱちと弾け、焦げの気配が頬へ触れる。氷片がぱらぱらと飛び、足首にひやりと触れてすぐに消えた。冷たい海水と焼けた脂の匂いが混ざり合い、肺の奥まで濃密な生気で満ちてくる。さっきまで眠たげだった身体の芯だけが、じわじわと起き上がっていく。
指先がおそるおそる魚の肌に触れる。パンや野菜とは違う、冷たく滑らかな感触に、指がびくりと縮こまった。鱗の並びが細かな段差になって、指の腹を逆撫でする。潮と炭の匂いが鼻の奥に貼りつき、息が細くなる。
「わあ……! こんなにたくさんの種類の魚を一度に見るのって、生まれて初めてかも」
思わず漏れた声は、周囲の喧騒にかき消されそうになる。自分の声が自分の耳まで届く前に、隣の屋台の威勢のいい掛け声に飲み込まれ、泡みたいに弾けて消えていった。
けれど、茉凛の声が内側から鼓膜を揺らす。半拍遅れて拍が跳ねた。
《《でしょでしょ? すごい迫力! ほら美鶴、あっちも見てみて!》》
促されるままショーケースの前へ顔を寄せると、透明な板が頬にひんやり返ってきた。氷の上に並べられたのは、掌ほどもある大きな二枚貝だ。殻の縁から落ちた水滴が、氷の上で弾み、じんわりと滲んでいく。
指先でそっと殻の表面に触れると、ざらりとした手触りの奥へ冷えが入り込んだ。指紋の溝まで、冷たさが細く這っていく。表面には波跡を刻んだ筋が幾重にも走り、触れているのに目のほうが先に痛むようだった。
「これ、ホタテ、かな? ……最後に食べたの、いつだろう」
自分でも驚くほどか細い声が、息の奥からこぼれた。口に出した途端、遠い夕食の光が脳裏の端をかすめ、すぐに薄くなる。
《《そういえば美鶴って、こういう場所来たことなかったっけ? だって、石与瀬に住んでたわけでしょ? あそこだって港町だったし》》
足がふと止まる。競りの声が一段引き、氷を砕く音だけが耳の奥で硬く残った。
音が遠のく。
海沿いの石与瀬の街。わたし――柚羽美鶴は深淵の呪いを解くことに失敗し、根源の策謀によって、弟・弓鶴の身体を借りて数年間を生きた。
記憶の中に窓の気配がなく、白い壁だけが乾いて残っている。消毒薬の匂いが窓枠に貼りつき、匙が皿に当たる音が小さく響いた。粥はぬるい白のまま、舌の上を流れていく。ひと噛みごとに「ごめんね」と心の中で繰り返し、奥歯が硬く鳴った。口の中が乾くたび、呼吸だけが浅くなる。温さが胃へ落ちても、口の中は乾いたままだった。
氷の音が、いまへ引き戻す。
「そうだね。でも、それどころじゃなかったしね……」
唇の端だけを持ち上げるような、乾いた笑いと一緒に言葉がこぼれる。声に出してしまえば、過去の重さまで引きずってきそうで、言葉を慎重に選ぶみたいにした。
《《そっか……そうだったよね。ごめん》》
茉凛の声がふっとしぼむ。胸のあたりの空気が一瞬きゅっと縮み、わたしは息を吸い直した。指先が紙袋の縁をゆるめ、皺が静かに鳴る。
「ううん、気にしないで。今は楽しいよ。なんたって、茉凛と一緒だしね」
言い終えたあと、口の中に残る温度を確かめるみたいに、わたしは一度だけ口を閉じた。すると、胸の底で固まっていたものが、ほんの少しだけほどけていく。
《《ならよし! せっかくなんだから、今を思いっきり楽しもう!》》
潮風が市場の通りを吹き抜けていく。氷の冷気と、魚と海藻の匂いを混ぜた風が頬を撫で、胸に残っていた冷たい澱を少しずつ薄めていった。潮の粒が乾いた唇に触れ、ほんの少しだけしょっぱさを残す。
包丁を叩きつけるリズミカルな音。刃がまな板へ落ちる衝撃が、薄い木壁を伝って足裏にまで届く。焼き魚の香ばしい煙は目に染みるほど濃いのに、鼻の奥には妙に落ち着く匂いを置いていく。すべてが新しく、それでいてどこか懐かしい。台所の隅で聞いていたまな板の音や、前世の食堂のざわめきが、形を変えて肩甲骨のあたりをかすめた。
「すごい……」
呟くと、茉凛が声をひそめる。そのひそやかさが、逆に胸をくすぐった。
《《ねえ、あそこ! なんだか反則級にいい匂いがするよ?》》
煙の筋を辿ると、一角の屋台から炭火の熱気と白煙が立ち上っている。煙は潮風にあおられて薄くちぎれ、そのたび焼けた脂の甘い匂いが通りへふわりと運ばれた。網の上では串に刺さった魚が脂を滴らせている。落ちた脂が火に触れ、小さく火の粉を散らし、また静かに赤く沈んでいく。
「すみません、これ一つください」
小銭を渡し、受け取った皿はずっしりと温かい。薄い紙皿越しにも熱が指先を押し上げ、皮膚の内側にまで染み込んでくる。添えられた柑橘を搾ると、透明な滴がきらりと光り、焼けた皮の上でじゅっと弾けた。酸味が鼻腔をくすぐり、焼けた香りに混ざって、空気が一瞬だけ冴える。
熱い身を口に運ぶ。パリッとした皮の食感のあと、ふっくらとした身の旨味が舌の上に広がった。繊維がほどけるたび、閉じ込められていた汁気がゆっくりと舌の両脇へ溶けていく。
「……んぅ」
言葉にならないまま、飲み込んだ温度がみぞおちで丸く広がった。そこからじわじわと内側へ熱が上がってくる。目尻が自然と細まり、強張っていた肩の力が抜けていった。次の一口を、急がずに噛んでしまう。いつの間にか、指先が皿の縁をぎゅっと押さえている。
《《ん〜っ、おいしい! ねえ早く、もう一口! 次はもっと豪快に味わいたい!》》
茉凛のはしゃいだ声に、唇の端がゆるんだ。ふふ、と小さく笑ってしまう。潮風に吹かれながら、わたしたちは魚の温度と香りを噛み締めた。噛むたび、奥歯と骨の間にじんとした充足感が広がり、舌の裏にうっすら唾が戻ってくる。
市場の奥へ進むと、干物の並ぶ一角に、貝殻で作られた工芸品が揺れていた。糸を通された小さな貝たちが吊るされ、風を受けるたびカラカラと澄んだ音を立てる。さっきの包丁の鋭さとは違う、丸い音だった。
テント越しの朝の日差しが、貝の裏側の真珠層を虹色に光らせている。白の中にうっすらと青や桃色が溶け込み、角度を変えるたび別の色がにじんだ。陽の当たらない側の貝はひっそりと乳白色をたたえ、その控えめな光り方が、さっきまで心の奥に沈んでいたものと静かに呼応する。
《《ねえ、美鶴。あれ、かわいい!》》
硬い殻が触れ合う音が、耳の奥で小さく弾けた。
「本当だ。こういうの、飾る場所があればいいのにね」
指先で小さな巻貝を弾くと、硬質で涼やかな音が返ってくる。指に伝わる小さな震えが骨の内側まで届き、そのまま胸の中心に丸く溜まった。潮の粒、紙皿の熱、光と風の感触。それらが、空っぽだった記憶の棚にひとつずつ並べ直されていく。失ってきたはずの「普通の休日」の断片が、柔らかな音を立てて積み上がっていった。
その穏やかさを、地面に重いものを叩きつける鈍い音と、太い声が切り裂いた。
「どけどけェ! 台車なんぞ要らん! この儂に任せおけぃ!」
びりびりと空気が震え、胃の腑にまで低い響きが届く。足元の木箱の縁がわずかに揺れ、氷のかけらがかたかたと鳴った。
振り返った視線の先――人混みが割れた中心に、その男がいた。
陽に焼けた褐色の肌。岩のように隆起した筋肉。天を突くモヒカン頭。肩から腕にかけて浮かび上がる筋が、持ち上げた木箱の重さをまるで気にしていない。巨大な木箱を軽々と抱え上げた大男が、周囲の視線を一身に浴びながら豪快に笑っていた。
《《あのシルエット……バルグだよね!? 絶対そうだって!》》
氷がかたんと鳴り、息が遅れて戻ってくる。
「……間違いない。本当に、バルグだ」
その姿を認めた瞬間、息がすうっとほどけた。肩先から力が抜けていく。ハムロ渓谷の記憶が蘇る。荒れた風と土埃の匂い。背中越しに聞こえた笑い声。あの頼もしい背中と、呆れるほどの明るさ。
わたしは無意識に手元の紙袋をぎゅっと握りしめていた。紙袋の角が指の腹に食い込み、かすかな痛みが走る。その痛みが、いまの手触りを教えてくれる。
バルグが木箱をドスンと下ろし、腰に手を当ててまた笑う。木箱の中の魚たちが一斉に跳ね、その音が氷と木板に反響して広がった。近くの魚屋の手が止まり、だれかが笑いを噛み殺す気配がする。その揺れの中心に彼が立っていて、わたしの足が自然に前へ出た。
「声、かけてみようか?」
胸の奥で、息がいったん小さく止まる。
《《もちろん! 早く行こう! 絶対面白いことになるって!》》
茉凛のわくわくした期待が伝染してくる。鼓動がそのテンポに合わせて少し早くなる。わたしは息を吸い込み、魚と潮と炭の匂いで満ちた空気を肺の底まで送り込んでから、人混みをかき分けて歩き出した。
肩が何度も誰かに触れ、そのたび軽い謝罪が飛び交う。足元の石畳にはところどころ濡れた跡が残り、靴底がしんなりとした感触を返してきた。
「ねぇ、バルグ? あなた、こんなところで何してるの?」
その背中に声をかけると、大きな影がゆっくり振り返る。動きに合わせて木箱がごとりと鳴り、周囲の氷がざらざらと滑り落ちた。目が合った瞬間、太陽の下でくしゃりと満面の笑みが弾ける。目尻の皺まで巻き込んだ、飾り気のない笑顔だった。
「ぬおっ!? ミ、ミツルではないか! おおお、ようやくリーディスに着いたか! いやはや、首を長くして待っておったぞ!」
その大声が頭上から降り注ぎ、鼓膜を直接叩くようだった。周囲のざわめきが一瞬止まり、近くの子どもが驚いて小魚を取り落とす。雑踏が少しだけ後ろへ下がり、バルグの圧倒的な体温と声量だけが前へ出てくる。
見上げる首筋が少し痛い。その距離感が、かえって心地よかった。息が軽くなる。
「あなた、泳げないのに漁師になるって言ってたけど……まさかこんなところにいたなんてね。驚いたわ」
苦笑混じりに言うと、バルグはまた腹の底から高らかに笑った。
ワッハッハ、という声が石畳を揺らし、靴底から膝へと振動が伝わってくる。周囲の店主たちが「やかましいぞ、バルグ!」と口では文句を言いながらも、どこか楽しそうに笑っている。
肩越しに跳ねた光が、木箱の濡れた縁で一瞬きらめいた。側面には見慣れぬ港の印が焼き印で刻まれ、この町の名前を静かに主張している。
「漁師だと? いやいや、今の天職は『重いものなら儂に任せろ』だ! ガハハ、これでもこの市場では一番頼りにされているのだぞ!」
誇らしげに胸を張ると、肩の筋肉が盛り上がった。近くの魚屋の親父が「そりゃそうだ、バルグがいなきゃ朝の荷上げが間に合わん」と笑い、別の店の女将が「でもその声で客を驚かせるのは勘弁しておくれ」と肩をすくめてみせる。
市場の喧噪は背中で揺れ、陽がまぶたの裏まで届く。潮の匂いが、息の先でやわらぐ。
ここにいる。
それだけで、胸の奥で小さな貝殻が触れ合うような、澄んだ音が鳴った気がした。




