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茉凜~私の導き手

 だが、どうしよう。足裏が石に吸いついたまま、膝が折れない。吸い込んだ息は喉の手前でつかえ、肺の奥だけが薄く鳴った。


 そんなわたしを見ていたヴィルが、低く静かな声で言った。


「少し間を取ろう。息を整えるんだ」


 その一言で、胸のつかえが少しだけほどけた。わたしはその場にしゃがみ込み、どうにか呼吸を鎮める。鼓動が胸郭を乱打し、熱が喉を焦がす。膝下に触れた石粉が、ひやりと皮膚へ貼りついた。


 顔を上げる。彼は冷静な表情のまま、こちらを見ていた。視線だけが揺れない。


「ところでミツル、お前は魔獣の強さをどう認識している?」


 乾いた喉を無理に開く。


「……破壊力も速さも脅威ね。けど、もっと厄介なのは本能的な狡猾さと執念深さ……そう感じるわ」


「その通りだ。では、お前ならどう戦う?」


 石粉の匂いが鼻腔へ刺さった。


「優位に立つために、まず距離を取るわ。魔術師としての強みを生かすなら、まず相手の動きを封じたいところね」


 わたしの答えに、ヴィルは顎を引く。その穏やかな眼にだけ、刃が閃いた。


「それが魔術師らしいやり方だな。だが、もし物陰に潜んだ魔獣が別の方向から不意を突いてきたら、どう対応する?」


 言葉が喉で折れた。背の内側を冷えが走り、指の腹が乾く。


 無詠唱でも、ひとつの術へ意識が寄った瞬間、背中が空く。鬱蒼たる森で四方に敵意が潜むことを思えば、焦点が合わないまま視界だけが先へ滑り、息がさらに浅くなった。


 ヴィルはわたしを見つめ、なおも言葉を紡ぐ。


「戦いは、常に予測不能な要素が付きまとう。だからこそ、瞬間ごとに身さばきが試される。確かにお前は強力な魔術師かもしれん。だが、ただ“強い”だけでは生き残れない。冷静さを保ち、瞬時の判断で動くには、膨大な修練と実戦経験が必要だ。身体に技が染み付いて、考えずとも反応できるようになるまでな」


 わたしは深くうなずき、膝に手を当てて立ち上がった。腿に遅れて力が入り、揺れていた重心がようやく真ん中へ戻る。吸い切れなかった空気が胸の奥で鳴り、ようやく吐けた。


「わかったわ、ヴィル。わたし、もう少しがんばってみる」


「うむ」


 短い肯定の声。ヴィルは間合いを取り直すように一歩身を引く。石床が、乾いた音をひとつ返した。


 その隙間へ、茉凜の声が静かに沁み込んだ。


《《美鶴、よく聞いて。次は何も考えずにいってみよう》》


 胸の芯が、きゅっと縮む。


「意味がわからない。……それでどうなるっていうの? 力量差は圧倒的よ。何か策を考えなきゃどうしようも――」


《《今の彼の話を聞いてて、考えすぎは逆効果かもしれないって思ったの。どうせ小細工したところで通じないわけでしょ? だったら、あなたの直感と身体の反応を信じてみて》》


 視線が石目へ落ちる。呼吸は戻りきらないのに、重心だけが先に静まりはじめていた。


「直感――わたしの反応って?」


《《わたしたちが出会ったときのことを思い出してみて。わたしは力を抑えられなくなったあなたに声を届けたくて、とにかく必死だった。正直言うとね、あの時わたしは何も考えてなくて、ただあなただけを求めて動いていた。それだけだったの》》


 石与瀬の海を臨む公園。制御不能な黒鶴の気配。怒りに塗れた記憶は霧の向こうにあるのに、あのとき耳に届いた呼びかけだけは、いまも心の奥でほどけないままだ。


《《たぶんだけどね、この力はもともとわたしを死なせないために用意されたものじゃないのかなって》》


 息が鳴らず、唇だけが動く。


「どういうこと?」


《《わたしは、器であるあなたを根源のいるところまで届けるための導き手で、黒鶴の安全装置だったわけよね……》》


「うん……あなたは『解呪』に欠かせない、最も重要な鍵だった……」


《《そういうこと。身も蓋もないけど、鍵に死なれちゃ困るってわけね。だからこの力は、わたしの本能に、“生きろ”って呼びかけるように働いていたんじゃないかって思うんだ》》


 腹の底がひやりと冷えた。けれど、その冷えが静かに引くのと一緒に、指先が少しだけ軽くなる。守られていたのは、誰かの優しさだけじゃなかったのかもしれない。生き延びるための仕組みとして、最初から身体の深いところへ埋め込まれていたもの。その感触だけが、遅れて腹へ落ちた。


《《だからさ、余計な考えは捨てて感じるままに動いてみようよ。そうしたら、きっとかわせる》》


 言葉は短いのに、胸の奥の張りがほどけていく。喉の奥を塞いでいたものが少しだけ下がり、肩の力がゆっくり抜けた。


「つまり、心を無にして恐れず立ち向かえ、ということか……」


《《うん、そう。物事はシンプルに。考えすぎはよくないよ》》


「わかった」


 ゆっくり息を満たし、吐くたびに余計な思考を剥いでいく。残すのは、柄の重さと、身体の真ん中を通る一本の軸だけだ。


《《がんばろう。わたしも全力であなたを支えるから》》


「ありがとう、茉凜」


 鍔の冷えが掌へ戻り、余計な言葉が抜け落ちた。


 瞼をそっと落とし、マウザーグレイルを胸元へ引き寄せる。


「おい、剣を抱えこんで何をぶつくさ言ってるんだ?」


 ヴィルの声が、鋭い現実感をもってわたしを引き戻す。


「なんでもないわ」


 唇の端を固くし、地面を踏みしめて立ち上がった。肩の力を一段落とし、揺れていた重心を静かに定める。


「では、仕切り直しだ」


 小さくうなずき、両手でマウザーグレイルを握り直す。冷たい重量感が、身体の芯まで沈み込むように伝わってきた。


 瞼を閉じる。闇が濃く、その奥で茉凜の灯がほの白く揺れる。世界は鼓動一拍に集束していった。


 鍔が、ごく小さく鳴る。その一点が、合図になる。


「お前、目を閉じたままでいいのか?」


 ヴィルの声が微かに響く。けれど耳の奥で反響は遠のき、残るのは柄の冷えだけだった。喉の乾きが薄く引き、息の出口が静かに広がった。


「ほう……。さっきとはまるで別人だ。いいだろう。お前には、俺の対魔獣戦用の基本の一つを見せてやろう」


 声が遠い。鍔の微音だけが落ちてくる。


 あとは、視界が反転する、その刹那を待つ。


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