牛久保城の戦い
松平家(徳川家)による今川家への攻撃は牛久保城から始まった。
永禄4年に牛久保城の城主だった牧野成定が前線視察のために城から出ていた。しかも留守を任されていた稲垣重宗という宿老も平和ボケしていたのか城を離れていた。という悪条件が重なった。
その隙を突いて松平方に付いた牧野一族や家臣達が牛久保城内を制圧するべく城内で反乱を起こした。
絶対に落ちるだろ!という状況下だった。
真木定安「反乱者どもを城から追い出せ!」
同じく留守を任されていた真木定安を中心とした真木一族が反乱者どもに激しく抵抗した。
稲垣重宗「城に戻るぞ!全員突撃!!」
平和ボケしていて城を離れていた重宗が戻ってくるなり部下と共に城を包囲する反乱軍の中を突破して真木一族と合流することに成功する。
牧野成定「城を守れ!」
城主の牧野成定が知らせを聞いて救援に駆けつけてくる頃には反乱軍は牛久保城から追い出されていた。
あり得ないような本当の話(史実)が起きた。
松平秀康達は東三河平定のために東三河を電撃的に制圧することを企図していた。大軍で東三河に攻め寄せて一気に制圧するつもりだった。
情勢は松平方に圧倒的に有利となっていた。
桶狭間の戦いの後、今川家による尾張・三河・遠江などに対する支配体制は揺らぎに揺らいだ。
上杉景虎(謙信)による関東侵攻は依然として続いており、北条氏との間に激しく続けられていた。今川家や武田家による支援はあったものの軍神とまで言われた上杉景虎の圧倒的な強さの前に関東制圧目前とまで言われた北条氏は苦戦を強いられたのである。
さらに武田晴信(信玄)は第四次川中島の戦いをしている頃ではあったが……
既に武田家による今川領への侵攻の兆しは見え隠れしていた。特に武田家は織田家と同盟交渉を進めており、武田家は今川家との同盟を見直し始めていたからである。
尾張における今川方の城は次々と織田家により落城させられ、松平秀康は何度も今川家に救援を要請して援軍を待ったが今川義元・氏真親子は無視した。そのため松平勢内部でも今川家を見限る意見が増え始めた。
よく結果ありきの見解として『松平家は今川家を裏切るつもりだった。』というのが既定路線であるかのように語られがちであるが……
そのような事実は無い
また、そもそもとして松平家は今川家の傘下に入ってはいたものの臣下と言うほど従属していたわけでは無かった。あくまで同盟者だっただけである。不平等ではあったが松平家は今川家の家臣というには無理があった。
広義の意味での家臣ではあったが従属大名という方が正しかった。
封建制には強弱があったが……
今川家の場合
例えば遠江国では飯尾氏・井伊氏・松井氏・菅沼氏などは今川家の遠江侵略に抵抗した末に臣従しただけの外様大名であった。今川家は勢力拡大のために大きな領地を持つ領主達を倒さずに温存する傾向があったのである。そのため懐柔策として飯尾氏や井伊氏に対しては今川一門を嫁がせることで婚姻同盟を結ぶなどしていた。
三河においても同じであり、松平家に対して婚姻を結んできたのは、この政策の流れからなのである。松平家だけが特別だったわけでは無い
それでも遠江国の駿河よりの地域に対しては駿河国の家臣達つまり元からの今川家臣を移住させて統治したり、直接支配している城などがあった。
三河においても東三河に関しては今川家の支配体制は強かった。既に豊橋市には吉田城という一大拠点を築いて三河支配を実現しようとしていた。西三河では松平家に対する圧力を強めて岡崎城を接収しようとしてきた。これは本編でも城代を置かれたりしていたことからも分かる。(第25部分参照)
尾張に対しては、さらに徹底しており、第36部分で山口教継が今川家に処刑されているが……こうした行動から見て尾張国に対しての今川氏の支配は三河や遠江以上に強いものにしようという意志が感じられた。
しかし、これが裏目に出たのが『桶狭間の戦い』だったと言える。
今川家は三河・遠江の臣下達に奪った領土も分配しなかった。その割に遠征続きだったので特に遠江勢は士気が低かったのである。それが今川軍の結束を悪くしていた。
さらに『桶狭間の戦い』に負けた後は駿河の今川家臣達は馴染みの無い遠方で味方が援軍に来ない状況下で孤立するのを恐れるあまりに呆気なく城や拠点を放棄して撤退することが相次いだ。
これで西三河の勢力が動揺しないはずも無かった。
織田方に付こうとする者が出ないはずも無く!
それらを食い止めたり排除したりしたのは松平家つまり秀康達だった。
だから秀康達が西三河を支配するのは当然の成り行きだった。
西三河での敵対勢力を片付けて今川家が援軍を送ってこないことが明白で織田家が「同盟を結びたい!」と言ってきてしまっては松平家が今川家に付き従いつづける義理は無い
だから今川家との戦いを始めたのである。
しかし、この時は実は織田家とは同盟を結んでいない!!
織田家と同盟を結んでから今川家と敵対したという訳では無いことは重要である。
そこまで松平家は織田家を信用していた訳では無いのである。
西三河での動揺と同じく東三河も動揺していたし、遠江も動揺していたのでチャンスとばかりに攻め込んだにしか過ぎなかった。
牛久保城の牧野氏は一族で対立しており、半分が味方になると申し出てきたし、野田城を支配していた菅沼氏(遠江国の菅沼氏とは同族だが別枠)や西郷氏が松平方に転じる方向で話し合いが決まったというのが大きかった。
上手く行けば東三河を今川家が援軍に来る前に制圧出来るかも!!
という野心が爆発した結果の東三河侵攻であった。
だが……
まさか
これが泥沼の東三河平定戦争の始まりだとは秀康達は思いもしなかったのである。
秀康「父上(家康)は簡単に東三河を平定したと言っていたぞ!」
と秀康は叫びたかったに違い無い!!
家康は子供達に自慢したい余りに相当盛って良い話ばかりしていたが……
そのせいで秀康は大事な部分を見落としていた。
東三河も三河なのだということをである。
勇猛でヤベー奴の集団である三河武士相手に
そう簡単には戦いは上手く行かないのである。(絶望)




