何もできない夜
帰宅したとき何時だったか覚えていなかった。
電車に乗って、駅を出て、階段を上がって、部屋に入る。
そのはずなのに途中の記憶が所々曖昧だ。
靴を脱ぐ。
鞄を床に置く。
それだけでもう何もできなかった。
電気もつけないまま、玄関に座り込む。
暗い部屋は静かだ。
静かなはずなのに、頭の中だけがうるさい。
返せていないメール。
明日の会議。
柴田に頼まれた追加資料。
洗っていない食器。
減った冷蔵庫の中身。
足りていない睡眠。
全部、今すぐどうにかしなければいけない気がした。
でも指一本すら動かしたくなかった。
ふと、右の太ももに振動が走る。
会社からの連絡だろう。
指一本動かないはずなのに、湊の手はポケットのスマホへと向かった。
会社のグループチャットだった。
『○○社について。ご相談があります。突然のことで恐縮ですが、対応可能な方、お願いします。』
誰も返事をしない。
画面を見ているだけで息が浅くなる。
このまま黙っていればいい。
そう思うのに。
自分ならできるかもしれない。
既読してしまったのに無視は申し訳ない。
その考えが反射みたいに浮かぶ。
湊はスマホを伏せた。
「もう…むりだ」
声を出した瞬間、のどの奥が熱くなる。
たかが仕事で。
そんなことで。
そう思う自分が、まだ心の中にいる。
でも、たかが仕事で
毎日壊れていくのなら、それはもう限界だった。
玄関の向こうで扉の開く音がした。
隣の部屋だ。
少しして、こちらの前で足が止まる。
「湊さん」
返事はしなかった。
「いるの、分かってます」
返事はしなかった。
「こういう日は、返事しなくていいです」
沈黙もあと袋の擦れる音が聞こえる。
「これ、ドアノブにかけておきます」
また少し間があった。
それから隣人は、いつもよりずっと静かな声で囁く。
「今日はもう、何もしなくていいんですよ」
湊は息を止めた。
「頑張れない日まで頑張らなくていいんです」
廊下だけが静まり返っている。
「何かできる日に価値があるんじゃない」
「何もできない日にも、ちゃんとあなたの価値はあります」
涙がこぼれた。
まだドアも開けていないのに。
「あなたは便利だから生きているのではないでしょう」
その言葉で、張っていたものが切れた。
役に立てるから必要とされる。
動けるから許される。
頼まれごとに応えられるからここにいていい。
どこかでずっと、そう思っていた。
「……っ」
声にならない息が漏れた。
「今日は泣くだけで十分です」
足音がゆっくり遠ざかっていく。
湊は立ち上がり、震える手でドアを開けた。
ドアノブにはビニール袋が掛かっている。
中には温かいスープとおにぎりが二つ。
誰も助けてくれないと思っていた。
助けてほしいともうまく言えなかった。
弱った自分には、助けられる価値なんてないと、
辛い人はほかにもたくさんいる、自分だけじゃないと、
ずっと思っていた。
なのに。
湊はその場に座り込み、声を殺して泣いた。
部屋は暗いままだった。
けれどその夜、
湊は初めて、自分を責めずに泣けた。




