あなたなら頼める
朝から、嫌な予感はしていた。
出社してパソコンを開いた瞬間、未読メールの多さに眩暈がした。
そのうち半分は、自分宛ではない相談だった。
湊は一つずつ開いて必要そうなものだけ返す。
本来自分の担当ではない。
けれど知っているから答えてしまう。
それで困る人が減るなら、その方が早い。
そう思う癖が、もう染みついていた。
「おはよう、湊くん」
先輩の柴田がコーヒー片手に現れる。
「この前の資料、見やすかったよ。助かった」
「ありがとうございます」
「あとさ、悪いんだけど後で少し頼っていい?」
笑顔だった。少しも悪いと思ってないだろ。
断る理由はまだ何もないのに、なぜかその時点で疲れた。
午前中は問い合わせが続いた。
別部署からの電話。
新人からの質問。
上司からの修正依頼。
その合間に、自分の仕事を進める。
集中しようとするたび、誰かに呼ばれる。
湊はそのたびに椅子を引き、声を返し、画面を切り替えた。
気づけば十一時半だった。
まだ今日の仕事を何も終えていない気がした。
昼休憩に入る頃、柴田がやってきた。
「ごめんごめん、これお願いしていい?」
渡されたのは集計表だった。
「今日中で大丈夫だから。俺この後打合せ入っちゃって」
湊は書類と自分のタスク一覧を見比べる。
午後提出の案件が二つ。
確認待ちが三件。
夕方の会議資料もある。
その他にもやるべきこと、押し付けられたことはたくさんある。
だから断っても大丈夫なはずだ。
「…今ちょっと立て込んでて」
柴田が困ったように笑う。
「そこをなんとか。湊くんなら早いし、正確だから助かるんだよな」
またその言い方だ、と思う。
頼っているようで、逃げ道を塞ぐ言い方。
期待に応えない自分の方が悪い気がしてくる。
「……わかりました」
口が勝手に答えた。
「助かる!やっぱ湊くんに言って正解だった」
柴田は用が済んだといわんばかりに去っていく。
湊はため息をつきながらコンビニのおにぎりの袋を開けた。
一口目を食べる前に電話が鳴る。
食べ終わった時には、休憩時間は残り五分だった。
午後も仕事は一向に減らなかった。
自分の案件。
柴田の集計。
確認依頼。
細かい修正。
後輩の相談。
「湊さん、これ少し見てもらえますか」
「湊君、この数字だけ確認して」
「湊、例の件、どうなった?」
呼ばれるたびに返事をする。
断るほどのことじゃない。
すぐ終わることばかりだ。
けれど、すぐ終わることだけで一日が終わっていく。
柴田に頼まれた集計表を印刷するため、湊はコピー室にいた。
部数を指定し、出てくる紙を待つ間、廊下の方から声が聞こえてきた。
「柴田さん、また湊さんに振ってたよね」
「まあ、あの人ならやるでしょ」
小さな笑い声。
「断らないもんな」
「しかも早いし。自分の仕事じゃなくてもやってくれるし」
「正直、使えるよな」
紙を揃えていた手が止まった。
悪口、というほどでもない。
責めるほど露骨じゃない。
ただ、誰も本人が聞いていない前提の声だった。
腹が立った、というより。
ああ、そう見えていたのかと思った。
少しだけ納得して、
その分だけ傷ついた。
コピー機だけが、一定の音を立てている。
湊は深く息を吸って、紙の角を揃えなおした。
席に戻ったところで、背後から声がした。
「え、まだいたの?」
柴田だった。
「いやー助かった。ありがとね」
悪気のない顔だった。
その無邪気さが、一番しんどい時もある。
「……いえ」
「湊くんってほんと頼みやすいよね」
笑いながら言われたその言葉に、
胸の奥がすっと冷えた。
頼りになる、ではなく。
頼みやすい。
便利と言い換えても、多分同じ意味だった。
「じゃ、俺帰るから。あとお願いね」
全てが他人事のような顔をして柴田は帰っていく。
フロアには自分だけが残った。
この間、隣人に言われたことを思い出す。
「今日は一回くらい、嫌な顔してもいいんですよ」
窓の外は、すっかり夜だった。
真っ暗なガラスに自分の顔がぼんやり映っている。
疲れていた。
そして少しだけ、嫌な顔をしていた。
それが思ったより悪くなかった。




