深夜のベランダ
その日の帰宅は、日付が変わる少し前だった。
終電ではない。けれど終電でないことに、何の慰めもない時間だ。
湊は音をたてないように部屋へ入り、上着を椅子に投げる。
疲れているのに、頭だけが妙に冴えていた。
こういう日は眠れない。
缶ビールでも買っておけばよかったと少し後悔しながら、ベランダを開けた。
夜風はまだ冷たい。
遠くで車の音がして
どこかの部屋でテレビの笑い声が漏れていた。
街はまだ起きているのに
自分だけ取り残されている気がする。
「こんばんは」
声がして肩が跳ねた。
隣との仕切り板の向こうから、あの声がする。
「…びっくりするんでやめてもらえます?」
「すみません。驚かせるつもりは半分くらいしか」
「半分あるんですね」
隣人が小さく笑った気配がした。
「遅かったですね」
「仕事です」
「でしょうね」
それ以上、何も聞いてこない。
その沈黙が、妙にありがたかった。
湊は手すりにもたれ、暗い空を見上げる。
星は見えなかった。
「あなた、ため息多いですよ」
「数えてるんですか」
「今日は三回目です」
「気持ち悪いな……」
「四回目になりました」
思わず湊は吹き出す。
笑ったのは久しぶりな気がした。
「なんなんですか、あんた」
「隣人ですよ」
「そういうことじゃなくて」
「難しい質問ですね」
風が抜ける。
少し間を置いて、湊は言った。
「辞めたいんです」
口にした瞬間、自分で驚いた。
誰にも言ったことがない言葉だ。
「仕事?」
「……たぶん、今の働き方全部」
隣人はすぐには答えなかった。
遠くで電車の音がする。
「辞めたい、より」
やがて静かな声が突く。
「もう続けられない、の方が近い顔してますよ」
胸の奥が、痛いところを押されたみたいに縮んだ。
反論したかった。
でも、図星に言葉は追いつかない。
「そんな顔してます?」
「ええ」
「助けてほしい人の顔です」
「あんた、人の顔見すぎ…」
湊は、震える声を隠すように絞り出す。
「ふふ…そうかもですね」
それに気づいていないのか、気づかないふりをしたのか
隣人は、遠くを見ながら微笑んだ。
夜の暗さがちょうどよかった。
見られていないと思うと、少しだけ息がしやすい。
「……別に、助けてほしいわけじゃないです」
「そうですか」
「……ただ」
言葉が続かない。
喉の奥に、うまく名前のつかないものが詰まっていた。
「一回くらい、誰か代わってくれたらって思うだけです」
しばらく、お互い沈黙が続いた。
やがてゆっくり、隣人が綴り出す。
「それ十分、助けてほしい、ですよ」
湊は目を閉じる。
風が冷たい。
でも、少しだけ泣きそうな顔をしても
今なら許される気がした。
今年の人は帰ってくるのが遅い。
足音が重い。
鍵を開ける前に一度ため息をつく。
笑うのが上手で、諦めるのも上手だ。
こういう人は時間がかかる。
春までに間に合えばいいのだけれど。




