階段の踊り場で
翌朝、湊が部屋を出ると、階段の踊り場に人影があった。
一瞬、胸の奥が小さく身構える。
隣人だ。
紙コップを片手に、外の道路を眺めている。
朝の薄い光の中で見ると、昨夜より少しだけ普通の人に見えた。
普通に見えるだけで、安心していい相手ではない気もするが。
「おはようございます」
気づいた隣人が振り向いた。
「っおはようございます」
反射で返してから、しまったと思う。
無視してもよかった。
「今日は昨日より顔色がいいですね」
「…朝から失礼ですね」
「でも返事には元気がありますね。安心しました」
湊は眉をひそめた。
この人は、会話の終わり方が分からない。
いや、多分分かっていて崩している。
階段を降り始めると、隣人もついてきた。
二人分の足音が、古い階段に乾いた音を返す。
妙に落ち着かない。
知らない誰かと朝の数分を共にするだけで、
こんなに生活に入り込まれるものなのかと思う。
「お仕事ですか」
「見れば分かるでしょう」
「ええ。行きたくなさそうだなと」
湊は思わず足を止めた。
図々しい。でも否定できないことばかり言う。
「あんた、初対面の人にいつもそうなんですか」
「二日目なので、もう初対面ではありません」
「そういう話じゃなくて」
隣人は小さく笑った。
腹が立つ。
けれど本気で腹を立てるには、少しだけ拍子抜けする笑い方だった。
また歩き出す。
一階まであと半分程の所で、隣人が言った。
「昨日、断れなかったんでしょう」
湊の足が止まった。
「……は?」
「頼まれごとです」
心臓が嫌なふうに鳴る。
昨日の退勤前、帰ろうとしたところで仕事を押し付けられた。
相手は申し訳なさそうな顔をしていた。
だから断れなかった。
あの時、断れなかった自分に少し腹が立っていた。
その気持ちごと見抜かれた気がして、居心地が悪かった。
「何で分かるんですか」
「そういう顔してます」
「どんな顔ですか」
隣人は少し考えてから言った。
「自分だけ損してるのに、怒るほどでもないと我慢している顔です」
湊は何も答えなかった。
そんな顔してるだろうか。
けれど、してないとも言い切れなかった。
一階に着く。
朝の空気を思いっきり吸う。
この空気は嫌いじゃない。
それだけで、自分がまだ大丈夫なんだと自覚できる。
隣人はこちらに振り返り、
「いってらっしゃい」
それから思い出したかのように付け足した。
「今日は一回くらい、自分のために嫌な顔をしてもいいんですよ」
そう言って自分の部屋に帰っていく。
湊はしばらくその背中を見ていた。
「何だったんだ」
関わらない方がいい。
多分そのはずだ。
なのにその言葉だけが、妙に残った。
翌日、湊が帰宅すると隣人は廊下でしゃがみこんでいた。
「……何してるんですか」
「鍵をなくしました」
「引っ越し二日目で?」
「新生活、向いてないのかもしれません」
湊はため息をついて管理人室の場所を教えた。
隣人は立ち上がりながら笑った。
「やさしいですね」
「普通です」
「そういう人ほど、やさしいんですよ」




