隣人が来る
三月の終わりだった。
昼は少しだけ暖かかったくせに、夜になるとまだ冬の顔をする。
湊は肩をすくめながら、アパートの階段を上がっていた。
残業続きで足が重い。
体力というより、気力が減っている。
こういう疲れ方をし始めると、しばらく長い。
コンビニの袋には、カップ麺と缶コーヒーだけが入っている。
いい歳して終わってるな、と自分で思う。
思うだけで、直す元気はない。
二階の廊下に知らない段ボールが置かれていた。
引っ越しだろうか、とぼんやり考える。
隣はしばらく空いていたはず。
少しうるさくなるかもしれない。
面倒だなと先に思ってしまうあたり、疲れている。
その途中、隣の部屋の前に人が立っていた。
「こんばんは」
先に声をかけられて、湊は少し驚く。
年齢のわかりにくい人だった。若く見えなくもないし、落ち着いても見える。
やわらかく笑っているのに、妙に印象に残る顔をしていた。
「……こんばんは」
「今日から隣に住みます。よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げられて、湊もつられて会釈した。
「どうも」
感じのいいひとだ。
でも感じの良すぎる人は少し苦手だ。
挨拶も済んだし、部屋に入ろう。
鍵を出そうとした時、
「あなた、そろそろ無理するのやめた方がいいですよ」
鍵が指から滑り落ちかけた。
「……は?」
心臓が一拍遅れて鳴る。
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
理解した後も、もっと分からなかった。
隣人は変わらず穏やかに笑っている。
「では、これからよろしくお願いしますね」
それだけ言って、隣の部屋へ入っていった。
扉が閉まる。
湊はしばらく廊下で固まっていた。
なんだ今の。宗教か。占いか。新手の勧誘か。
いや、勧誘にしては雑すぎる。
部屋に入って電気をつける。
六畳一間。
脱ぎっぱなしの上着。
テーブルの上の未開封の郵便物。
昨日のペットボトル。
たしかに無理はしている。目に見えて草臥れていたのかもしれない。
「だからって初対面でいうか?」
何が、感じのいいひとだ。
何故か無性に腹が立つ。
独りごとは思ったより小さな声しか出ない。
カップ麺にお湯を注ぎながら、隣の壁を見る。
物音はしない。
いるのかいないのか分からない静けさだ。
それなのに、さっきと同じ部屋には思えなかった。




