36 芳香蒸留水
研修の初日は無事に終わり、生徒たちは使用人が住む棟へ案内されていった。
さすがに平民を貴族向けの客室に泊まらせるわけにはいかないので、使用人たちが寝泊まりする一角にある空き部屋に宿泊の準備をしているそうだ。食事もそちらでするらしい。
「ネリーよ。どうだったかね、手ごたえは」
「思っていたより順調ですわ。やはり実践の前に仕組みを直接見せるというのは有効でした」
「今後人数を増やすなら、その時は此度の参加者が先達として教えることになるであろうからな。丈夫で廉価な蒸留器を教材として施設に常備すべきか」
丈夫で廉価、というのは別にケチっているわけではない。
俺が今日使った蒸留器などは貴族向けの贅沢品で、素材もデザインも装飾も一級品だった。
だからこそ、平民の彼らは絶対に触りたがらないだろう。
平民と貴族では、生涯で得られる財の額に天と地ほどの差がある。
貴族の持ち物を万が一傷つけたり壊したりしたら、本人だけでなく一族全員が鉱山だの娼館だのに売り飛ばされる羽目になるのではないかと怯えてしまうのだ。勿論、義父上はそんな事しないだろうけどね。
宿泊する部屋もそう。
貴族用の客間に通されても、怖くておちおち寝てなんていられない。イソップ寓話の「田舎のねずみと都会のねずみ」じゃないけど、気の休まらない環境は豪華でも辛いのだ。
「ところでレオネル令息は、庭の植物と蒸留器で何かしておったと聞いたが、それかね?」
「ええ、これです」
俺は団欒室の入り口近くに置いたワゴンを押して、二人の許へ持って行く。
ワゴンの上にあるのは芳香蒸留水が入った瓶がいくつかとグラスが三つ、マドラー、水で満たされた水差しだ。そして団欒室なのに呼び名を変えていないのは、毒見役の人がいるから。
貴族の屋敷や、飲食物を提供する大きな施設には、必ずと言っていいほど『毒探知』スキル持ちの毒見役が雇われている。
彼らは雇用主との間に「常に真実を語ります」という契約を結んでおり、これはかつて政敵に買収された者が偽証した事件があったことから始まった慣習だそうだ。
ただ、『毒探知』と言っても万能ではない。
全ての毒物を探知できるわけではなく、病原菌や古くなった油などの「スキル持ちが毒と認識できないもの」は彼らの目をすり抜けてしまう。
だからこそ、俺は伯爵家に復讐ができたし、(確定ではないとはいえ)王妃は天然痘を公爵領に持ち込めたのである。
ちなみに契約も、『契約』スキルを持つ人の仲立ちで結ぶと強制力が発生するんだとか。前世のファンタジー作品で言うところの「魔法契約」みたいな感じ。
公爵家に仕える使用人も、今日屋敷に来た人たちも、みんな秘密保持や忠誠の契約を結んでいる。
あ、俺も結んでるよ。
琴音も義父上も、そこまでしなくていいって言ってくれたけどね。疚しいことがないなら別に結んでも問題ないし、万が一俺のせいで二人に迷惑がかかるのは嫌だったし。
それに何より、俺が無害だと知っているのは前世からの付き合いである琴音と事情を知ってる義父上の二人だけで、屋敷で働く他の者たちにとっては他所から来た不審な子供でしかない。
だから契約は、俺が公爵家の絶対的な味方であると彼らに証明する手段でもあったのだ。
話が逸れた。
一通り確認して終わった毒見役が退室してから、俺は瓶の一つを手に取った。三つのグラスに少しずつ中身を入れ、水差しの水で割る。
「以前、義父上が夜会で饗する飲み物について、酒類か果実水の二択しかないと仰っていたのを思い出しまして。ハーブや花で香り付けした芳香蒸留水の飲料はどうかと。どうぞ」
甘くないノンアルコール飲料って、食事会やパーティーの席で需要あると思うんだよね。招待客の中には下戸の人や妊婦さんは勿論、お医者さんに飲酒を止められてる人もいるだろうし。
貴族は体面というかハッタリを重んじる傾向があるから、特に男性だと「甘い果実水など女子供の飲むものだ」とか何とか言って避けたりもするらしい。これは公爵家の執事さん情報。
なので、男性でも格好付けつつ香りを楽しめる第三の選択肢を用意してみたのだ。
「良い香りだ。味はないが、これは香りを楽しむものなのだな」
「そういえばレオくんは、自由研究でハーブや身の回りに生えている植物を片端から蒸留して、皆で飲み比べて食レポのようなものを作っていましたわね。確か、お酒の香り付けに使うスパイスを蒸留したものが好評でしたかしら」
言うまでもなく、「皆」の中には当然のように琴音も入っている。懐かしいな。
「ジュニパーですね。味見した姉に『これはもうモクテルじゃん』と言われたのを憶えています」
会話しながら、ハーブの種類や配合を変えたものを更にいくつか用意して提供する。あくまで味見が目的で少しずつしか作らないので、各自が飲み終わるのも早い。
「モクテルとは何だね?」
「ええと……複数の材料を混ぜて作る、酒精の入っていない飲み物です。前世には、ハーブや樽の木で香り付けをしたお酒が色々あったので」
「ふむ、面白いな。正直、植物を蒸留して出来たものは薔薇水のように女性が美容目的で顔に塗るものだという固定観念があったが……蒸留酒の割り材にしてもよさそうだ」
反応を見る限り好評のようだ。良かった。
残った芳香蒸留水は使用人の皆にも味見してもらって、感想を聞いておこうかな。新しいアイデアが出てくるかもしれないし。
「難点は、あまり日持ちがしないところですが……」
「いや、それは逆に好都合かもしれぬ」
「と、仰いますと?」
「我々が蒸留酒よりも酒精の強い酒を造るのは、人々の為だという建前がある。まずは同じ派閥の領内に小さな工場を立て、表向きはこの飲料水を作ることにするのだ。日持ちがせぬものゆえ、すぐに必要なところに届けられるように、とな」
「お父様ったら。建前なんて仰らなくても、本当に民の為になることなのですから」
義父上は、王妃への対処は全て復讐であると、どこかで考えている節があるんだよな。消毒用アルコールなんて、天然痘に限らず病気の予防に抜群の効果を齎すものだ。多くの人を救える切り札だというのに。
お読みいただき、ありがとうございました。




