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平和(かのじょ)を愛した魔女  作者: 井上笑子


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第一話 災いと呼ばれた少女

 その日も、わたしはヒヤリと冷たい床に座って、絵本を開いていた。

 冷たい石の床。 無機質な天井。

 読みかけの絵本が散らかり、わたしの居場所を狭めている。

 うず高く積まれた本の山の向こうには、冷徹に並ぶ鉄の格子。


 硬いベッドと、小さな洗面台。

 衝立の向こうにある、質素な便器。 薄暗い地下牢を、吊るされたランプの火が弱々しく照らしている。


 いつからか、わたしはここに居て。

 この冷たい建物こそが、わたしの世界の全てだった。

 十歳になるらしい今も、それは何ひとつ変わらない。



 外の世界を知らないわたしでも。 これが「フツウ」ではないことくらい、本当は気づいていた。

 でも。

「フツウ」になりたいなんて、外に出たいなんて、強く願うことはなかった。


 憧れたことはある。 夢見たことも。

 けれど、とうの昔に諦めてしまった。 今はただ、なんとなく息を繋いでいるだけ。

 どうせ、わたしに「ジユウ」なんてものをくれる人は、どこにもいないから。


 ふう、と。 深い、ため息を吐く。

 こういう考え事をすると、いつも胸の奥が鉛のように重くなって、息がしづらくなる。 なら、止めればいいのに。 どうして、考えてしまうんだろう。

「もしも」なんて、叶わないのに。 馬鹿みたい。



 わたしがそうして、適当に手に取った本に目を滑らせていれば。 ふと、階段を降りてくる足音が響いた。

 この重い音は、きっとあの人だ。 確か__アヤセ、と呼ばれていたはず。

 わたしに食事を運んできたり、水桶を持ってきたりする、いわばお世話役。


 アヤセは扉の前まで来ると、いつもすぐには入ってこない。

 扉の向こうで足踏みをしたり、舌を鳴らしたり。 なんで、そんなにいつも怒っているんだろう?

 わたしは膝を抱えて、小さく縮こまる。 あの音を聞くと、どうしても怖くなるから。 心を、守る準備をしなくちゃいけないから。

「チッ……」

 あ、きた。あの音。

「上も何で、こんな小さいやつを……。いや、仕方がないんだ。こいつには力がある。クッソ……」

 ボソボソと、くぐもった独り言。 よく聞き取れないけれど、怒っていることだけは伝わってくる。 なんで、そんなに怒るの? わたしはここにいるのに。 他所でやってよ……。

 怖い、という気持ちのままに、耳を塞いで音を遮る。

 体が勝手にビクビクと震えるのも。 喉からひきつれた音が出るのも。 必死に、必死に、我慢する。

 しばらくして。 扉を開ける、重苦しい鍵の音がした。 無精髭を生やした男__アヤセが入ってくる。


「おい、飯の時間だ」

 アヤセは、顰めっ面で。 わたしと一度も視線を合わせずに、そう言った。

 わたしが黙って見上げていれば、彼は大きく舌打ちをして。 手に持った盆を、床に置こうとする。


 その時。 わたしは思わず、その盆へと手を伸ばした。

 常にないわたしの行動。

 アヤセは驚いて、悲鳴を飲み込んだようだった。 反射的に、といった様子で、わたしの手を強く払った。


 ガシャン、と。

 石の部屋に、食器が揺れる鋭い音が響く。 わたしは思わず、肩をすくめた。

「……っおい! 急に動くな!」

 怒鳴り声。 何度も受けてきたはずなのに。 いつまで経っても、これだけは慣れない。

 わたしはギュッと目を瞑り、頭を抱えた。 ……けれど、次に聞こえたのは、息を呑む音だった。

 恐る恐る目を開ければ、アヤセは眉間に深いシワを寄せていた。

 唇を噛んでいる。 怒らせてしまった。余計なことをした。

 ただ__なんとなく、受け取ろうとしただけだったのに。

「ったく……。危ねえだろ。サイカ」


 サイカ。 それが、わたしの名前だった。

 サイカ、と呼ばれるたびに。

 わたしの胸は、しんと冷えていく。

 本当の名前なんて知らないから、その呼び方を拒んだこともないけれど。

 冷たく、淡々と響くその音を聞くたびに。

 わたしの胸の奥は、ざらついて__。 でも。

 それが何という感情なのか、今のわたしにはまだ分からない。


 アヤセは乱暴に息を吐き、わたしの姿を上から下まで眺める。

「……汚れたり、怪我はしてねえか」

 それは。 怒りなのか、それとも心配なのか。 判別のつかない、ひどく掠れた声だった。

 わたしは、恐る恐る首を横に振る。 それだけで、彼はまた舌を打った。

「……だったら、いい」

 そして。 盆を持ち直し、いつも通り乱雑に床に置こうとして。 一瞬だけ、躊躇ったように動きを止める。

 机も、棚もない部屋。 アヤセは部屋を見回し、結局。 飛沫の飛んだ床を、そっと自分の白衣で拭ってから、そこに盆を置いた。

 その手つきは。 いつもより、ほんの少しだけ、丁寧な気がした。

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