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物語の塔  作者: ck
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9/11

第0話 沈黙する作者

 午前七時四十三分。


自分が十年前に書いた言葉を、内閣総理大臣の口から聞いた。


『国を守るとは、すべての市民を幸福にすることではない。何を失うかを選び、その責任を引き受けることだ』


テレビの中で、総理はそこで一度言葉を切った。


背後には国旗と、ワインレッドの幕。演台の前には無数のマイクが並び、画面下のテロップには


〈国家安全保障体制のさらなる強化へ〉

という字幕が流れている。


「これは、作家〓〓氏の代表作『灰冠都市』に登場する一節です」


違う、と思った。


引用された文章が違うわけではない。句読点の位置まで、確かに自分が書いたものだった。


ただ、その台詞を口にした作中の人物は、都市を守るために隣国との戦争を始め、最終的には自らの息子を死なせている。


正しかったから語った言葉ではない。


その正しさを信じた結果、何を失ったのかを示すための言葉だった。


総理は引用を終えると、会場から拍手を受けた。


リモコンを手に取り、テレビを消した。


静かになった部屋に、冷蔵庫の低い作動音だけが残った。机の上には、昨日の夜から開いたままのノートパソコンがある。


白い画面の中央で、一本の縦線が点滅していた。


新作の原稿。


正確には、新作になるはずのものだった。

ファイルを作成してから四か月が経っている。


書かれているのは、二十八文字だけ。


 ――北方都市の冬は、今年も多くの嘘を白く覆い隠していた。

コーヒーを一口飲み、その文章を見つめた。


悪い文章ではない。


寒さと政治的な欺瞞を一つの風景へ重ね、これから始まる都市の腐敗を予感させる。


出版社に送れば、担当者は「先生らしい導入です」と言うだろう。批評家は、円熟した筆致と書くかもしれない。読者は、最初の一文から引き込まれたと感想を投稿する。


 十年前にも、似た文章を書いた。


 七年前にも。


 三年前にも。


〓〓は二十八文字を選択し削除キーに指を置く。


スマートフォンが振動した。


画面には出版社からの連絡が三件、取材依頼が二件、知らない番号からの着信が一件表示されている。


その下に、ニュースアプリの通知。


〈評論家・加瀬文乃氏、作品への批判をめぐる投稿を削除〉


加瀬という若い評論家についての記事だった。

彼女は自分の初期作品を高く評価したうえで、近年の作品について「多面的に見せかけながら、すべての登場人物が作者の用意した結論へ収束している」と批判していた人物だ。


記事には彼女を批判するコメントが並んでいた。


 〈理解できないなら評論家を名乗るべきではない〉


 〈先生の作品を政権批判に利用したいだけ〉


 〈売名行為〉


 〈こいつの過去の発言を掘ったら色々出てきそう〉


加瀬の所属先や家族について触れている投稿もあった。


投稿のいくつかには、自分の作品の登場人物がアイコンとして使われている。


『灰冠都市』の主人公。


権力へ抵抗し、異なる立場の者と対話し続けた青年。


その顔を掲げた人々が、批判者の勤務先へ抗議を送ろうと呼びかけていた。


SNSの投稿画面を開いて、文章を入力する。


〈私の作品を理由に、特定の個人を攻撃することはやめてください。作品への批判は、作者である私も受け止めるべきものです〉


これを投稿すれば、彼らはどう反応するだろう。加瀬への攻撃は止まるかもしれない。


だが、逆に「先生に言わせた」と、さらに彼女を責めるかもしれない。


発言の一部だけを切り取られ、政権への批判と受け取られる可能性もある。


出版社や映像会社に問い合わせが殺到する。


新作の刊行予定にも影響するだろう。


何より、作者が読者の解釈へ介入することになる。


作品を世に出した以上、どう受け取るかは読者の自由であるべきだ。


〓〓は入力した文章を削除した。


画面には、




〈いまどうしてる?〉



という薄い文字だけが残った。


 ◆


「十周年企画についてですが、改めて『灰冠都市』の完全版を出したいと考えています」


午後、出版社の会議室で、担当者が企画書を前へ置いた。


「未収録短編と、先生の書き下ろしエッセイを加えます。可能なら、現在の社会情勢を踏まえたコメントもいただきたいと」


「作品についての解説でしょうか」


「というより、今の時代にこの作品を読む意味ですね」


担当者は慎重に言葉を選んだ。


「先生の作品が、現政権からも非常に高く評価されていることはご存じですよね」


「ああ。今朝のニュースの」


担当者は困ったように笑った。


「宣伝部は喜んでいます。引用された箇所を帯に使えないかという話も出ています」


「やめたほうがいいと思います」


即答すると、担当者の笑顔が少し固まった。


「もちろん、先生がそうお考えなら」


「前後の文脈とは異なる使われ方ですから」


「ただ、引用自体は正確ですよ」


「そうですね」


企画書へ視線を落とした。


担当者の言うことは間違っていない。


使い方が気に入らないという理由で、作者が正しい読み方を示せば、それは別の解釈を封じることになる。


「先生から何かコメントを出しますか」


答えなかった。


「いえ、無理にとは言いません。先生はこれまでも、政治的な発言を控えてこられましたし。その姿勢自体が、作品への信頼につながっています」


信頼。


その言葉を聞きながら、今朝見た投稿を思い出していた。


「加瀬さんの記事の件は、ご存じですか」


担当者の表情が変わった。


「ええ。宣伝部でも把握しています」


「出版社として、何か対応は」


「現時点では静観です。先生が反応すると、かえって大きな騒ぎになる可能性がありますから」


「そうですか」


「先生が責任を感じることではありません。読者が勝手にやっていることです」


小さくうなずいた。


その答えを、待っていたような気がした。


自分以外の誰かに、責任はないと言ってほしかった。


「新作については、いかがでしょう」


担当者が話題を変えた。


「少し時間をいただいています」


「もちろんです。ただ、映像会社からも早めに概要が欲しいと言われていまして」


「まだ、お渡しできる段階ではありません」


「承知しています。先生の作品ですから、急いで質を落とすわけにはいきません」


悪意のない言葉だった。

だからこそ、胸の奥へ静かに沈んだ。



出版社を出たところで、二人組の若者に声をかけられた。


「あの、〓〓先生ですよね」


大学生くらいの男女だった。


男性のほうが鞄から『灰冠都市』の文庫本を取り出した。何度も読まれたらしく、角が丸くなっている。


「この本のおかげで、政治とか社会のことを考えるようになりました」


「ありがとうございます」


「サイン、お願いできますか」


「もちろんです」


相手の名前を聞き、表紙の裏へ署名した。


女性のほうはスマートフォンを握ったまま、興奮した様子で言った。


「先生の作品って、本当に今の政権がやってることを予言してますよね」


ペンを止めた。


「予言として書いたわけではありません」


「でも、先生は分かってたんですよね。こういう社会になるって」


「社会は、似たことを繰り返しますから」


「やっぱり」


女性は納得したように笑った。


何に納得したのか、分からなかった。


「今朝、首相が先生の言葉を使っていましたけど、あれも皮肉ですよね。自分が作中の独裁者と同じだって気づいてない」


「作品の受け取り方は、人それぞれです」


いつもの言葉を返した。


それは便利な言葉だった。


相手を否定せず、自分も肯定しない。


誰の側にも立たず、誰からも完全には嫌われない。


「これからも応援しています」


「ありがとうございます」


二人が去ったあと、サインに使ったペンをしまった。


ショーウインドーのガラスに、自分の姿が映っていた。


濃紺のジャケット。


白いシャツ。


黒い髪。


穏やかで、落ち着いた顔。


〓〓は、その男をよく知っているはずだった。


何を考え、何を恐れ、なぜ黙っているのか。


けれどガラスの中の男は、視線を外すまで、何も答えなかった。



夜。


再び、二十八文字だけが書かれた原稿の前に座っていた。


彼はその続きを書いた。


都市を統治する評議会。

隣国から流れ込む難民。

治安維持を名目に強化される監視。

理想を掲げながら、現実の前で妥協する政治家。

反政府組織にも、それぞれの事情を与える。

評議会側にも、正当な論理を与える。


どちらも完全には正しくない。


どちらも完全には間違っていない。


最後に主人公は、一つの答えを選ぶ。

その選択が正しかったかどうかは、読者へ委ねる。


そこまで考えて、執筆の手を止めた。

書く前から、結末まで分かっていた。


登場人物の誰が何を言うのかも分かる。

どこで読者が驚き、どこで議論が生まれ、どの台詞が引用されるかさえ想像できた。


原稿を閉じた。


部屋の棚には、自分の本が並んでいる。


 初版。


 文庫版。


 愛蔵版。


 外国語版。


 映像化記念版。


同じ物語が、異なる装丁で何十冊も並んでいる。


その中央に、一冊だけ背表紙の色が違う本があった。


眉を寄せた。


見覚えがない。


飲み込まれそうな黒。


黒い背表紙。


題名も著者名もない。

出版社から届いた見本だろうか。


手に取ると、表紙は不自然なほど冷たかった。


最初のページを開く。


何も書かれていない黒。

二ページ目も、三ページ目も真っ黒だった。


たが、ヒタヒタとページをめくるたび、


部屋の音が一つずつ消えていく。


冷蔵庫の作動音。


窓の外を走る車。


壁の時計。


ドクドクと動悸がする。


最後にはそれすら消え、自分の呼吸だけが残った。




本の中央付近に、一行だけ文章があった。


 ――物語を傷つけた者は、その結末から逃れることができない。

〓〓は、その一文を見つめた。


紙の上に、赤くどす黒い波が広がった。


インクは文字を形作りながら、ゆっくりと次の行へ進んでいく。


 ――小説家、リオ。

その名を目にした瞬間、初めて自分が呼ばれた気がした。


机の上の原稿が、風もないのにめくれ始めた。


印刷された自分の小説が棚から落ち、床に散らばる。


ページの文字が紙から剝がれ、黒い粒となって宙へ浮かび上がった。


数え切れないほど書いてきた言葉が、部屋の中を埋めていく。


 正義。


 国家。


 自由。


 責任。


 犠牲。


 理解。


彼が何度も使い、何度も別の人物に語らせた言葉。


それらが蜷局を巻き、覆いを隠した。


 


 ――汝の罪は、物語の劣化。




リオは目を閉じなかった。


否定の言葉も口にしなかった。


床が消え、身体が暗闇へ落ちていく。


手を伸ばせば、机の端に届いたかもしれない。


声を上げれば、誰かに助けを求められたかもしれない。


けれどリオは、どちらもしなかった。


落下しながら、ほんの一瞬だけ思った。


これで終わるのなら。

それも、悪くないのかもしれない。

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