第7話 十二時の声 ~シンデレラ編~完結
拍手が、まだ耳に残っていた。
リオは柱の陰で、《三人目の娘》を見下ろした。
招待状を持つ指。色の揺れる衣装。彼女を囲む人々。
重ねた三枚のカードは、確かに娘の絵へ結びついている。
それでも、顔はない。
広間の時計を見た。
針が、十二時へ近づいていた。
この先、物語の娘は舞踏会を去る。
そして、屋敷にいる娘と同じ一人だと分かる。
まだ欠けているのは、そこだろうか。
十二時の鐘なら、どうだろう。
祝祭から去ることと、元の姿へ戻ること。その両方を、一つの出来事としてつなげられるかもしれない。
ここまで、重ねるたびに娘の絵は変わった。
方法そのものが間違っているとは思えなかった。
リオはもう一度、時計を見た。
ほかの場所を探し回る時間はない。
あの鐘を加えれば、残った空白も埋まるはずだ。
カードを本へ戻し、大広間を出た。
廊下では、靴音がよく響いた。
窓の向こうに時計塔が見える。
そこへ通じる渡り廊下を急いだところで、反対側から来る人影に気づいた。
アリアだった。
黒い服の裾に埃がつき、片方の袖には白い筋が残っている。
リオを見ると、足を止めた。
視線が上着から胸元へ、それから飾りのついた靴へ下りていく。
「……何をしているんですか」
「少し、事情がありまして」
「少しには見えません」
リオは自分の袖を見た。
大広間では気にならなかった金の刺繍が、廊下の薄明かりでも光っている。
「アリアさんこそ、どこへ?」
「鐘を探していました。あなたは、時計塔へ行くところですか」
「ええ。ちょうど、あの鐘が必要になったんです」
アリアは、来た方へ顔を向けた。
「あそこには、ありません」
「鐘が?」
「鐘も、打つためのものも。上まで行きましたが、針の裏には何もありませんでした」
窓の向こうでは、時計の針が動いている。
リオは塔を見てから、アリアへ視線を戻した。
「歯車も、振り子も?」
「ええ。部屋は空でした」
アリアは袖の白い筋を払った。
一度では落ちず、もう一度、指で擦る。
「二人と別れたあと、街でもう一度聞いたときは、城の上からでした。城へ入ると、今度は街の方から聞こえた。それで、戻って確かめてもみたんです」
「反響ではなく?」
「建物の陰へ回って聞き比べました。同じ場所の音が反射しているのなら、あんな変わり方はしません」
音を追って、行き来したのだ。
リオが招待や衣装を探している間も、アリアは街と城を歩き続けていた。
「それでも時計塔だけは、確かめておこうと思って」
「空だった」
アリアが頷く。
「なぜ、鐘が必要なんですか」
リオは本を開き、《三人目の娘》を取り出した。
「この娘を、完成させようとしています」
アリアがカードへ目を落とした。
「三人目……?」
「屋敷には、二人の娘しかいないことになっていました。でも、もう一人が暮らしていた痕跡があったんです」
リオは、トマリと屋敷で見つけたものを話した。
一人分多い食器や、煤けたエプロン。壁の中に埋められていた文章。
台所で聞いた、姿のない娘の声。
トマリが手に入れたカードには、顔も名前もなかった。
本には、ほかと色の違う文字で指示が出た。
「十二時までに、この娘を舞踏会へ連れて行け、と。トマリからは、僕が引き受けました」
「それで、その服を?」
「娘の姿が戻れば、連れていけると思いました」
招待を得たこと。
自分で姿を変え、客として大広間へ迎えられたこと。
物語を語り、喝采を受けたこと。
それらをカードにして重ねるたびに、娘の絵が変わったこと。
アリアは最後まで聞いてから、リオの上着をもう一度見た。
「その姿で拍手を受けたのは、あなたですね」
「はい。彼女は、まだ絵の中にしかいませんから。必要な体験を代わりに集めれば、一人の人物として戻せると思って」
言い終える前に、アリアが顔を上げた。
廊下の奥へ目を向け、少し待つ。
リオも振り返った。
舞踏曲が、途切れ途切れに聞こえるだけだった。
「何か、聞こえましたか」
「今は、分かりません。ただ、さっきの鐘にも、声のような音が混ざっていたんです」
「この娘の声では?」
「そこまでは言えません。言葉も聞き取れなかったので」
アリアはカードへ視線を戻した。
「この人のことも、今、知ったばかりです」
リオは頷いた。
鐘を足すことばかり考え、音を追ってきたアリアの話まで、自分の考えに結びつけようとしていた。
「その娘は、舞踏会へ行きたがっているんですか」
「シンデレラなら、そこへ行くはずです」
答えてから、リオは娘の顔を見た。
「……でも、この娘がそう言ったわけではありません」
「屋敷では、何と言っていたんですか」
「今夜は、舞踏会なの、と」
「それに、何と答えたんですか」
リオは口を開き、閉じた。
台所には誰もいなかった。
残された声を聞いたのだと思った。今夜、舞踏会があると答えることは、考えなかった。
「答えていません」
アリアは責めなかった。
カードの絵を見たまま、しばらく黙っていた。
「今も、その返事を待っているのかもしれませんね」
「ですが、まだ顔も声も戻っていない。まずは、完成させなければ」
窓が震えた。
二人は同時に顔を上げた。
一度。
低い鐘の音が、廊下を満たした。
リオの手の中で、娘のカードが震える。
光っていた衣装の縁から、灰がこぼれた。
二度。
リオの袖が裂けた。
布の切れ端は床へ着く前に崩れ、細かい灰になって散った。
三度。
大広間から、歪んだ音楽が聞こえた。
伸びた弦の音に、人々の声が重なる。
リオは黒い本を開いた。
鐘をカードにする。まだ、足せるものがある。
空いている枠へ指を掛けた。
「待って」
アリアが言った。
「今、混ざりました」
四度。
カードの中で、娘の衣装が灰色へ変わっていく。
リオは本から目を上げた。
アリアは窓にも時計塔にも向かず、その場で耳を澄ませていた。
五度。
娘を囲んでいた人々の手が、絵の中からほどけた。
明るかった大広間が暗くなり、華やかな装いだけが浮かび上がる。
自分が与えたものが、消えていく。
その下にある娘の顔は、見えないままだった。
六度。
「少し、静かに」
アリアが目を閉じた。
リオは、開きかけた口を閉じる。
鐘の余韻が床を伝ってきた。
身体の内側まで揺れている。
そのほかには、リオには何も聞き分けられなかった。
七度。
「今夜は……」
アリアの唇が動いた。
聞こえたものを確かめるように、ゆっくりと。
八度。
「今夜は、舞踏会なの?」
目を閉じたまま、アリアが続けた。
「そう言っています」
リオは息を止めた。
自分の耳に届いたのは、アリアが伝えてくれた言葉だった。
だが、覚えている。
屋敷の台所で、誰もいない灰の前に立って聞いた、あの問いだった。
あそこに残された、過去の声だと思っていた。
それが、まだ続いている。
屋敷から離れたここでも、娘は舞踏会のことを尋ねていた。
リオは本を閉じた。
何があれば、舞踏会へ行けるのか。
衣装も、靴も、称賛も、答えなら幾つも浮かぶ。
どれも、読んだことのあるシンデレラのものだった。
九度。
カードを、両手で持ち直した。
「今夜は、舞踏会です」
まず、答えた。
それから、扉の方を見た。
「あなたは、そこへ行きたいですか」
返事はなかった。
リオは待った。
鐘を収めるはずだった本を、脇へ抱えたまま。
十度。
カードの表面から、灰があふれた。
床へ落ちた灰が、風もないのに巻き上がる。
細い腕。裸足の足。色の定まらない髪。
リオの前に、少女が立っていた。
カードの中と同じ、華美な衣装をまとっている。
顔には、まだ目も口も見えない。
それでも、こちらを向いているのが分かった。
「分からない」
声は、すぐ目の前から聞こえた。
言葉のあとに、小さく息を吸う音がした。
アリアが目を開け、少女の方を見た。
「でも、見てみたい」
少女が、舞踏会場へ顔を向ける。
開いた扉の向こうでは、まだ音楽が鳴っていた。
「私も、そこにいていいの?」
リオは手元を見た。
カードは残っている。
描かれた招待状を、少女の指が押さえていた。
すべての娘へ。
城門の前で、そう言ったのは自分だった。
「ええ。これは、あなたの招待状です」
十一度。
少女の衣装が崩れた。
宝石が灰になり、刺繍がほどける。
光る裾が消えて、煤に汚れた灰色の服が残った。
少女は、自分の袖を見た。
裾にも触れ、それから大広間へ顔を戻した。
誰も、彼女を呼んでいなかった。
美しい服も、迎える拍手もない。
リオはカードを左手に持ち、右手を差し出した。
「一緒に行きましょう」
少女は、その手を見た。
すぐには取らなかった。
リオの靴の先で、床に細い亀裂が走った。
思わず、指に力が入る。
伸ばしてつかめば、少女の腕に届く距離だった。
そのまま、待った。
少女の指が動く。
自分から手を伸ばし、リオの手に重ねた。
冷たい指先が、一本ずつ握ってくる。
リオは、そっと握り返した。
かすかな震えが掌へ伝わり、視界が滲んだ。
一度瞬きをして、少女の手を見た。
左手のカードが、光った。
揺れていた輪郭が止まり、顔を覆っていた灰が消える。
誰かに似ているわけではない、初めて見る少女の顔だった。
上部には、一つの名が残っていた。
《三人目の娘》。
リオは、その文字を見た。
名前は変わらなかった。
少女が手を引いた。
リオは顔を上げ、一緒に歩き出した。
床が鳴るたびに、足の裏へ振動が来る。
少女の歩幅に合わせて、リオも足を運んだ。
扉が近づく。
中を見ようとして、少女の顔が少し前へ出た。
扉の前で、少女が止まった。
握っていた指が、ゆっくり離れる。
リオは手を下ろした。
少女は、開いた場所を見ていた。
煤のついた服の裾が、膝のあたりで揺れた。
やがて、一歩を踏み出す。
自分の足で、舞踏会場へ入っていった。
十二度。
最後の鐘が鳴った。
リオの脇で、黒い本が開いた。
――十二時までに、三人目の娘を舞踏会へ連れて行け。
色の違う文字が、端から崩れていく。
黒い粒となり、白いページの上から消えた。
達成を告げる言葉も、新しい指示もなかった。
天井が崩れた。
石の音はせず、灰だけが広間へ降り注ぐ。
人々の姿がほどけ、音楽が途切れた。
窓の向こうで、王城を囲んでいた街が黒く沈んでいく。
少女は広間の中央に立っていた。
消えていく景色を、見ている。
最後に、こちらを振り返った。
その顔には、もう空白がなかった。
リオの足元が沈んだ。
少女の姿も、扉も、灰に覆われて見えなくなった。
◆
目を開けると、リオは巨大書庫の床に立っていた。
果ての見えない書架。
高い天井と、中央の台座。
物語へ入る前と同じ、塔のメインホールだった。
袖を見る。
金の刺繍はなく、塔へ来たときの服に戻っていた。
隣でアリアが身体を起こした。
自分の本を開き、ページの間に指を置いている。
少し離れたところには、トマリがいた。
リオも、黒い本を開いた。
招待や衣装、仮初の姿、喝采。得たカードは、それぞれの枠に残っている。
その中から、《三人目の娘》を取り出した。
灰色の服を着た少女が、舞踏会場へ踏み出す姿が描かれていた。
もう、顔は揺れなかった。
手を取られた右の掌を、リオは見た。
まだ、指の触れたところが分かる気がした。
トマリが近づき、カードを覗いた。
「できたんだ」
「ええ」
トマリは、少女の顔をしばらく見ていた。
それから、短く息を吐く。
「そっか」
預けたカードを返せとは言わなかった。
リオも、ここまでのことをうまく話せる気がしなかった。
「それが、この物語を終わらせたカードですか」
背後から声がした。
リオが振り向くと、灰色の髪をした青年が立っていた。
白と黒を基調とした服。
整った顔をしているのに、少し目を離せば細部を思い出せなくなりそうだった。
青年の視線は、リオの手元へ向いている。
カード全体というより、少女の顔を見ていた。
「ええ。あなたも、今、戻ったんですか」
青年が頷いた。
リオは、メインホールに戻った者たちを見回した。
自分と、アリアと、トマリ。それから、この青年。
四人。
シンデレラの本を囲んでいた窪みも、四つだった。
最後の一つに黒い本を置いたのが、この青年なのだろう。
トマリとは街から行動を共にし、アリアとも王城で再会した。
だが、この青年には、あの物語の中で一度も会わなかった。
どこにいたのだろう。
何を見て、何を持ち帰ったのか。
リオが尋ねる前に、青年が口を開いた。
「そのカードを使うところが見たいです」
平坦な声だった。
「使うところ、ですか」
「はい」
初めて、青年の目がリオの顔へ向いた。
「僕と戦ってください」
わずかな間を置き、続ける。
「小説家、リオさん」
青年が、閉じた黒い本を持ち上げた。
表紙に、白い文字が浮かんでいる。
――絵師、レイト。
リオはその名を読み、手の中の《三人目の娘》を握り直した。
第7話・終




