第0話 沈黙する作者
午前七時四十三分。
自分が十年前に書いた言葉を、内閣総理大臣の口から聞いた。
『国を守るとは、すべての市民を幸福にすることではない。何を失うかを選び、その責任を引き受けることだ』
テレビの中で、総理はそこで一度言葉を切った。
背後には国旗と、ワインレッドの幕。演台の前には無数のマイクが並び、画面下のテロップには
〈国家安全保障体制のさらなる強化へ〉
という字幕が流れている。
「これは、作家〓〓氏の代表作『灰冠都市』に登場する一節です」
違う、と思った。
引用された文章が違うわけではない。句読点の位置まで、確かに自分が書いたものだった。
ただ、その台詞を口にした作中の人物は、都市を守るために隣国との戦争を始め、最終的には自らの息子を死なせている。
正しかったから語った言葉ではない。
その正しさを信じた結果、何を失ったのかを示すための言葉だった。
総理は引用を終えると、会場から拍手を受けた。
リモコンを手に取り、テレビを消した。
静かになった部屋に、冷蔵庫の低い作動音だけが残った。机の上には、昨日の夜から開いたままのノートパソコンがある。
白い画面の中央で、一本の縦線が点滅していた。
新作の原稿。
正確には、新作になるはずのものだった。
ファイルを作成してから四か月が経っている。
書かれているのは、二十八文字だけ。
――北方都市の冬は、今年も多くの嘘を白く覆い隠していた。
コーヒーを一口飲み、その文章を見つめた。
悪い文章ではない。
寒さと政治的な欺瞞を一つの風景へ重ね、これから始まる都市の腐敗を予感させる。
出版社に送れば、担当者は「先生らしい導入です」と言うだろう。批評家は、円熟した筆致と書くかもしれない。読者は、最初の一文から引き込まれたと感想を投稿する。
十年前にも、似た文章を書いた。
七年前にも。
三年前にも。
〓〓は二十八文字を選択し削除キーに指を置く。
スマートフォンが振動した。
画面には出版社からの連絡が三件、取材依頼が二件、知らない番号からの着信が一件表示されている。
その下に、ニュースアプリの通知。
〈評論家・加瀬文乃氏、作品への批判をめぐる投稿を削除〉
加瀬という若い評論家についての記事だった。
彼女は自分の初期作品を高く評価したうえで、近年の作品について「多面的に見せかけながら、すべての登場人物が作者の用意した結論へ収束している」と批判していた人物だ。
記事には彼女を批判するコメントが並んでいた。
〈理解できないなら評論家を名乗るべきではない〉
〈先生の作品を政権批判に利用したいだけ〉
〈売名行為〉
〈こいつの過去の発言を掘ったら色々出てきそう〉
加瀬の所属先や家族について触れている投稿もあった。
投稿のいくつかには、自分の作品の登場人物がアイコンとして使われている。
『灰冠都市』の主人公。
権力へ抵抗し、異なる立場の者と対話し続けた青年。
その顔を掲げた人々が、批判者の勤務先へ抗議を送ろうと呼びかけていた。
SNSの投稿画面を開いて、文章を入力する。
〈私の作品を理由に、特定の個人を攻撃することはやめてください。作品への批判は、作者である私も受け止めるべきものです〉
これを投稿すれば、彼らはどう反応するだろう。加瀬への攻撃は止まるかもしれない。
だが、逆に「先生に言わせた」と、さらに彼女を責めるかもしれない。
発言の一部だけを切り取られ、政権への批判と受け取られる可能性もある。
出版社や映像会社に問い合わせが殺到する。
新作の刊行予定にも影響するだろう。
何より、作者が読者の解釈へ介入することになる。
作品を世に出した以上、どう受け取るかは読者の自由であるべきだ。
〓〓は入力した文章を削除した。
画面には、
〈いまどうしてる?〉
という薄い文字だけが残った。
◆
「十周年企画についてですが、改めて『灰冠都市』の完全版を出したいと考えています」
午後、出版社の会議室で、担当者が企画書を前へ置いた。
「未収録短編と、先生の書き下ろしエッセイを加えます。可能なら、現在の社会情勢を踏まえたコメントもいただきたいと」
「作品についての解説でしょうか」
「というより、今の時代にこの作品を読む意味ですね」
担当者は慎重に言葉を選んだ。
「先生の作品が、現政権からも非常に高く評価されていることはご存じですよね」
「ああ。今朝のニュースの」
担当者は困ったように笑った。
「宣伝部は喜んでいます。引用された箇所を帯に使えないかという話も出ています」
「やめたほうがいいと思います」
即答すると、担当者の笑顔が少し固まった。
「もちろん、先生がそうお考えなら」
「前後の文脈とは異なる使われ方ですから」
「ただ、引用自体は正確ですよ」
「そうですね」
企画書へ視線を落とした。
担当者の言うことは間違っていない。
使い方が気に入らないという理由で、作者が正しい読み方を示せば、それは別の解釈を封じることになる。
「先生から何かコメントを出しますか」
答えなかった。
「いえ、無理にとは言いません。先生はこれまでも、政治的な発言を控えてこられましたし。その姿勢自体が、作品への信頼につながっています」
信頼。
その言葉を聞きながら、今朝見た投稿を思い出していた。
「加瀬さんの記事の件は、ご存じですか」
担当者の表情が変わった。
「ええ。宣伝部でも把握しています」
「出版社として、何か対応は」
「現時点では静観です。先生が反応すると、かえって大きな騒ぎになる可能性がありますから」
「そうですか」
「先生が責任を感じることではありません。読者が勝手にやっていることです」
小さくうなずいた。
その答えを、待っていたような気がした。
自分以外の誰かに、責任はないと言ってほしかった。
「新作については、いかがでしょう」
担当者が話題を変えた。
「少し時間をいただいています」
「もちろんです。ただ、映像会社からも早めに概要が欲しいと言われていまして」
「まだ、お渡しできる段階ではありません」
「承知しています。先生の作品ですから、急いで質を落とすわけにはいきません」
悪意のない言葉だった。
だからこそ、胸の奥へ静かに沈んだ。
◆
出版社を出たところで、二人組の若者に声をかけられた。
「あの、〓〓先生ですよね」
大学生くらいの男女だった。
男性のほうが鞄から『灰冠都市』の文庫本を取り出した。何度も読まれたらしく、角が丸くなっている。
「この本のおかげで、政治とか社会のことを考えるようになりました」
「ありがとうございます」
「サイン、お願いできますか」
「もちろんです」
相手の名前を聞き、表紙の裏へ署名した。
女性のほうはスマートフォンを握ったまま、興奮した様子で言った。
「先生の作品って、本当に今の政権がやってることを予言してますよね」
ペンを止めた。
「予言として書いたわけではありません」
「でも、先生は分かってたんですよね。こういう社会になるって」
「社会は、似たことを繰り返しますから」
「やっぱり」
女性は納得したように笑った。
何に納得したのか、分からなかった。
「今朝、首相が先生の言葉を使っていましたけど、あれも皮肉ですよね。自分が作中の独裁者と同じだって気づいてない」
「作品の受け取り方は、人それぞれです」
いつもの言葉を返した。
それは便利な言葉だった。
相手を否定せず、自分も肯定しない。
誰の側にも立たず、誰からも完全には嫌われない。
「これからも応援しています」
「ありがとうございます」
二人が去ったあと、サインに使ったペンをしまった。
ショーウインドーのガラスに、自分の姿が映っていた。
濃紺のジャケット。
白いシャツ。
黒い髪。
穏やかで、落ち着いた顔。
〓〓は、その男をよく知っているはずだった。
何を考え、何を恐れ、なぜ黙っているのか。
けれどガラスの中の男は、視線を外すまで、何も答えなかった。
◆
夜。
再び、二十八文字だけが書かれた原稿の前に座っていた。
彼はその続きを書いた。
都市を統治する評議会。
隣国から流れ込む難民。
治安維持を名目に強化される監視。
理想を掲げながら、現実の前で妥協する政治家。
反政府組織にも、それぞれの事情を与える。
評議会側にも、正当な論理を与える。
どちらも完全には正しくない。
どちらも完全には間違っていない。
最後に主人公は、一つの答えを選ぶ。
その選択が正しかったかどうかは、読者へ委ねる。
そこまで考えて、執筆の手を止めた。
書く前から、結末まで分かっていた。
登場人物の誰が何を言うのかも分かる。
どこで読者が驚き、どこで議論が生まれ、どの台詞が引用されるかさえ想像できた。
原稿を閉じた。
部屋の棚には、自分の本が並んでいる。
初版。
文庫版。
愛蔵版。
外国語版。
映像化記念版。
同じ物語が、異なる装丁で何十冊も並んでいる。
その中央に、一冊だけ背表紙の色が違う本があった。
眉を寄せた。
見覚えがない。
飲み込まれそうな黒。
黒い背表紙。
題名も著者名もない。
出版社から届いた見本だろうか。
手に取ると、表紙は不自然なほど冷たかった。
最初のページを開く。
何も書かれていない黒。
二ページ目も、三ページ目も真っ黒だった。
たが、ヒタヒタとページをめくるたび、
部屋の音が一つずつ消えていく。
冷蔵庫の作動音。
窓の外を走る車。
壁の時計。
ドクドクと動悸がする。
最後にはそれすら消え、自分の呼吸だけが残った。
本の中央付近に、一行だけ文章があった。
――物語を傷つけた者は、その結末から逃れることができない。
〓〓は、その一文を見つめた。
紙の上に、赤くどす黒い波が広がった。
インクは文字を形作りながら、ゆっくりと次の行へ進んでいく。
――小説家、リオ。
その名を目にした瞬間、初めて自分が呼ばれた気がした。
机の上の原稿が、風もないのにめくれ始めた。
印刷された自分の小説が棚から落ち、床に散らばる。
ページの文字が紙から剝がれ、黒い粒となって宙へ浮かび上がった。
数え切れないほど書いてきた言葉が、部屋の中を埋めていく。
正義。
国家。
自由。
責任。
犠牲。
理解。
彼が何度も使い、何度も別の人物に語らせた言葉。
それらが蜷局を巻き、覆いを隠した。
――汝の罪は、物語の劣化。
リオは目を閉じなかった。
否定の言葉も口にしなかった。
床が消え、身体が暗闇へ落ちていく。
手を伸ばせば、机の端に届いたかもしれない。
声を上げれば、誰かに助けを求められたかもしれない。
けれどリオは、どちらもしなかった。
落下しながら、ほんの一瞬だけ思った。
これで終わるのなら。
それも、悪くないのかもしれない。




