第6話 灰色の喝采 ~シンデレラ編~
城門を抜けると、磨かれた床の向こうから舞踏曲が聞こえた。
弦楽器が先へ進み、管楽器が遅れて追いかける。
曲が揃いかけるたびに、また少しずつずれていった。
リオは大広間へ向かう人々の流れから外れ、壁際で黒い本を開いた。
《三人目の娘》。
《すべての娘への招待》。
二枚を取り出し、娘の上に招待を重ねる。
リオは、指の下の絵を見つめた。
王家の紋章が淡く光った。
紙面に記されていた文字が娘の周囲を巡り、その手元へ集まっていく。
光が収まってから二枚を離すと、娘の絵の中にも、小さな招待状が残っていた。
灰に汚れた指が、その端を押さえている。
顔はない。
それでも、先ほどまでは描かれていなかったものだった。
リオは《すべての娘への招待》を本へ戻した。
娘の手元に、招待状は残っている。
「つながった」
顔のない娘は、粗末な服のまま招待状を持っていた。
廊下の先に、扉の開いた部屋があった。
青いドレス。銀色のドレス。金糸で縫い取りを施した白いドレス。
壁際には、ガラス、金、毛皮で作られた靴が、それぞれ片方ずつ並んでいる。
リオは棚の前に立った。
どの靴にも心当たりがある。
だが、ガラスを選べば、金の靴を履いた娘はどうなるのか。
どれか一つを正しい姿として与えるだけでは、この世界で混ざった物語の一つしか拾えない。
カードの娘を、ドレスの横へかざした。
粗末な服の裾は動かなかった。
ここには、袖へ通す腕も、靴を履く足もない。絵の中にいる娘へ服を差し出しても、着替えさせることはできなかった。
姿が戻るまで待っていては、何も始められない。
この娘のために服を選び、大広間へ歩いていけるのは、今は自分だけだった。
物語ごとに衣装は違っても、娘は普段と違う姿で祝祭へ迎えられる。
その出来事を、自分が代わりに経験したらどうだろう。
カードへ残せれば、招待のように娘へ結びつけられるかもしれない。
リオは姿見の前に立った。
塔へ来たときの服は、裾が埃で白くなっていた。
背中を伸ばしてみても、隣に掛けられた服とはあまりに違う。
「……気は進みませんが」
高い襟のついた上着へ、手を伸ばした。
◆
最後の留め具を掛けるのに、少し手間取った。
鏡の中には、肩幅まで変わったような男が立っている。
胸元には白い布が幾重にも重なり、袖を動かすと金色の刺繍が光った。
顔は自分のままなのに、何をしている人間なのか、見ただけでは分からない。
黒い本が震えた。
開くと、新しいカードが収まっていた。
《舞踏会の衣装》。
今、身につけている上着が描かれている。
リオはそれを娘の横に置きかけ、手を止めた。
衣装は手に入った。けれど、まだ鏡の前に立っているだけだった。
祝祭の客として、誰にも会っていない。
カードを本へ戻し、部屋を出る。
大広間の前にいた従者が、リオへ顔を向けた。
リオは招待のカードを出そうとして、本に指を掛ける。
その前に、従者は一礼した。
「どうぞ。ちょうど次の曲が始まります」
扉が開かれる。
名前も、どこから来たのかも尋ねられなかった。
リオが立ち止まっていると、従者は通り道をさらに広く空けた。
待たせてはいけない客として扱われている。
城門で一つずつ説明しなければ通れなかった自分が、上着を替えただけで。
「ありがとうございます」
大広間へ足を踏み入れた瞬間、本の中で黒い染みが広がった。
細い線が絡み合い、空白の枠を埋めていく。
《仮初の姿》。
――本来の姿を隠し、祝祭にふさわしい別人となる。
描かれている人物の顔は見えなかった。
衣装の輪郭だけが幾重にも重なっている。リオの着ている上着も、その中の一つに見えた。
扉の脇で、《三人目の娘》に重ねた。
衣装の線がほどけ、娘の身体を包んでいく。
粗末な袖が膨らみ、裾が床へ広がった。
青く見えた布が、カードを傾けると白くなる。足元の靴も、透明なものから金色のものへ揺れた。
《仮初の姿》を離しても、娘の装いは変わらなかった。
リオは息を吐いた。
娘の顔へ、指を近づける。
そこだけは、まだ薄い灰に覆われていた。
《三人目の娘》。
――未完成。
「まだ、ここまでですからね」
自分へ言い聞かせ、本へ戻した。
大広間では、着飾った男女が杯を手に行き交っていた。
リオの横を通り過ぎた二人は、こちらを見ることもなく話を続けている。
客として入れてもらうことと、誰かの目に留まることは違った。
舞踏会へ来た娘は、王子に見初められる。
別の話では王に、あるいは祭りに集まった人々に、その姿を見つけられる。
誰が見たのかは違っても、それまで向けられなかった眼差しを受けている。
広間の奥から拍手が起きた。
楽師が壇上を下り、入れ替わりに詩人らしい男が進み出る。
短い詩を読むと、近くの客が杯を上げた。
客が、それぞれの芸を献じているらしい。
リオは人の間を抜け、壇の脇にいた男へ声を掛けた。
「物語でも、構いませんか」
「もちろんでございます。どのようなお話を?」
新しい話を考えている時間はない。
ここにいる人々を振り向かせ、最後まで聞かせられるもの。
どこを変えれば、そうなるかまで分かっている物語があった。
「『灰冠都市』という話があります」
口にした途端、喉の奥が狭くなった。
現実の世界でリオを作家にした、最初の長編だった。
「長いお話でしょうか」
男が、楽師たちの方を見た。
次の演奏までの時間を気にしているのだろう。
「短くします」
リオは答えた。
男が笑顔で道を空ける。
◆
壇上から見ると、思っていたより広かった。
近くにいる客でさえ、まだ隣の者と話している。
杯を満たす従者の足音が、リオの前を横切った。
その足音が遠ざかるのを待った。
「灰に覆われた都市に、一人の青年がいました」
前列の女が、こちらを見た。
リオはその人に聞かせるくらいの声で、次の言葉を続けた。
青年が街を歩き、自分の知っていた暮らしが失われたことに気づく。
指先で灰を払い、そこに残っていたものを確かめる。
リオは、長い説明からその動作を拾った。
女の隣にいた男も、話すのをやめた。
登場人物の名を幾つか省き、別々の章にあったやり取りを、一続きの場面へまとめる。
そのくらいなら、話は変わらない。
誰が何を失い、何を取り戻そうとしているかは、短くても伝えられた。
やがて、都市を守るために戦を始めた男の話へ差しかかった。
男は、その戦で息子を失う。
自分の決断で守られたものがあり、自分の家には戻らない者がいる。
青年は男に逆らう。それでも、男が何を守ろうとしたのかを聞く。
そこまで話せば、青年だけを正しいとは言い切れなくなる。
だが、その先を聞くためには、客にも一度立ち止まってもらわなければならない。
広間の後ろで、誰かが連れへ囁いた。
扉へ向かいかけた二人がいる。
リオは、男が戦を始めた理由を話すはずだった。
「この都市を灰に変えたのは、すべてを自分のものにしようとした、一人の男でした」
言葉は、滑らかに出た。
前列の男が顔をしかめる。
青年が誰と戦えばよいのか、すぐに伝わったのが分かった。
戦で男が息子を失ったことだけは、短く添えた。
「自分の息子が死んでも、やめなかったのか」
客の一人が、小さく言った。
隣にいた者が、その腕をつつく。
リオには聞こえた。
男が息子を失ったあとに取る行動も、それが青年に何を考えさせるかも、自分は知っている。
だが、今の客が待っている返事は、もっと短かった。
「ええ。自分の望みのためなら、誰が死んでも構わなかったのです」
リオは声を少し低くした。
「この街のことは、私が決める」
それから顔を上げ、青年の返事を置く。
「これ以上、あなたのために誰かを死なせはしない」
杯を持つ手が止まった。
この会話は、書いた覚えがなかった。
だが、この場ではよく響いた。
青年が相手の言葉を聞く場面を飛ばした。
何度も揺れた決断を、今の一言で終わらせる。
別の場所で、自分の守りたいもののために動いていた人々も、青年の言葉で立ち上がったことにした。
誰が動き、誰が決めたのかが変わっていく。
リオは、そのたびに客の顔を見た。
話が止まりかけるところへ短い会話を入れ、広間の奥が静かになると声を落とした。
聞き逃したくない者が、少し身を寄せる。
久しぶりだった。
次の言葉が届くのを、こんなに近くで待たれている。
喉は乾いていた。
それでも、さっきより声が出た。
最後の場面まで来た。
かつて書いた物語では、青年が都市を救ったと言えるのか、最後まで答えは出なかった。
守られた者の目で見れば、救いだった。
失った側から同じ出来事を見れば、その一言で終えることはできなかった。
リオは広間を見渡した。
前列の女が、両手で杯を包んでいる。
青年が何を選び、どうなったのかを、待っていた。
「青年は、灰の中から立ち上がりました」
一度、間を置く。
「彼の選択が、都市を救ったのです」
そこで終えた。
音の揃わない楽器も、今は鳴っていなかった。
静けさの中で、リオは自分の呼吸を聞いた。
最初に拍手をしたのは、前列の女だった。
隣の男が続き、後ろからも手を打つ音が重なる。
話の途中で扉へ向かいかけた二人も、立ち止まってこちらを見ていた。
届いた。
そう思った瞬間、頬が緩んだ。
リオは一礼した。身体が、やり方を覚えていた。
「よいお話でした」
壇を下りると、前列にいた女が声を掛けた。
「あの青年が諦めなくて、本当によかった」
「……ありがとうございます」
もう一度、頭を下げた。
女が連れと話しながら離れていく。
その背を見送り、リオは袖の中で指を曲げた。
諦めなかった。
今、語った青年はそうだった。
だが、本の中の青年には、相手の話を聞く時間があった。
男は、息子を失っても何も感じない人間ではなかった。
ほかの人々にも、青年に言われる前から守りたいものがあった。
あの女は、聞いた物語を喜んでくれた。
そのことまで、間違いにしたくはなかった。
拍手がまだ聞こえる。
胸の奥が熱い。その熱を、嫌だと思いながら手放せなかった。
黒い本が震えた。
◆
空白のページへ、無数の黒い点が現れた。
人々の眼差しのように中央へ集まり、一枚のカードを形作っていく。
《祝祭の喝采》。
――誰にも知られぬ姿で祝祭の中心に立ち、名も知らぬ人々から称賛を受ける。
光を浴びる人物の周りに、無数の手が描かれていた。
その人物にも、客にも、顔はない。
リオは柱の陰へ移った。
上着の襟を少し緩め、《三人目の娘》を取り出す。
招待状を持ち、仮初の衣装をまとった娘。
その上へ、今得たカードを重ねた。
拍手を送る手の輪郭が、娘の周囲へ流れ込む。
暗かった背景が広がり、燭台の光と、磨かれた床が現れた。
娘はその中央に立っている。
《祝祭の喝采》を離し、絵を確かめた。
周りの人々が、娘を見ていた。
リオは顔の部分を見た。
まだ、灰がかかっていた。
《三人目の娘》。
――未完成。
カードを傾ける。
光の当たり方を変えても、そこには目も口も現れなかった。
背後で、次の演奏が始まった。
遅れた管楽器に合わせようとする弦の音が、途中でまた先へ走る。
リオは《祝祭の喝采》を本へ戻し、娘のカードを握ったまま時計を見た。
十二時まで、もう長くない。
ここまで来た。
あと一つ、つなげばいいのかもしれない。
何を足すべきか考えながら、リオは顔のない娘を見続けた。
第6話・終




