第4話 トマリとリオ ~シンデレラ編~
時計の針は、十一時を少しだけ過ぎていた。
巻き戻った時間を、また初めから刻んでいる。
リオは黒い本を閉じる前に、金色の文字をもう一度読んだ。
――十二時までに、三人目の娘を舞踏会へ連れて行け。
隣で、トマリがカードを傾けた。
粗末な服を着た少女。その顔は、白いままだった。
上部で重なっていた文字が薄れ、一つの呼び名が読めるようになっていた。
《三人目の娘》。
――未完成。
「これを城まで持っていけばいいのかな」
「舞踏会があるのは王城です。まずは向かいましょう」
「でも、カードを持って行け、とは書いてないんだよな」
トマリの指が、少女の絵の手前で止まる。
「娘を連れて行け、か」
「ええ。着いたら終わり、とは限らないでしょうね」
「言い方が嫌らしい」
リオにも、その違いが引っかかっていた。
けれど、今のところ娘を連れ出す方法は、この一枚しかない。
トマリがカードをしまうのを待って、屋敷を出た。
門は開いていた。
その先に、来たときにはなかった道が伸びている。家並みをまっすぐに抜け、遠くの王城へ続いていた。
「ずいぶん親切だな」
「親切すぎますね」
トマリがリオを見た。
二人とも、それ以上は言わずに門をくぐった。
窓には灯りがあり、煙突からは煙も上がっている。
それでも、通りを歩く人はいなかった。
道端には、片方だけの靴が並んでいた。ガラスの靴、革靴、赤い布の靴。泥のついた運動靴まである。
どれも、つま先を城へ向けていた。
踏まないように道の中央へ寄ると、トマリも隣へ来た。
しばらく、二人の靴音だけが続いた。
「『灰冠都市』を書いたんだろ」
リオは顔を向けた。
「知っていたんですか」
「さすがに知ってる。読んだよ、最初のやつ」
「……そうですか」
「面白かった」
リオは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「そこは素直なんだな」
「褒めていただいたので」
「昔の作品を持ち出したら、嫌な顔をされるかと思った」
返す言葉を探しているうちに、トマリが笑った。
「少しは嫌なんだ」
「読んでくれた人に、嫌だとは言いたくありません」
トマリの笑いが止まった。
「ああ。そりゃそうか」
道の先へ目を戻し、しばらく歩いてから尋ねた。
「続編も売れたんだよな」
「ええ。その次も」
「なのに、どうしてここへ来たんだ?」
リオは本の背を、指で押さえた。
何と答えればいいのか、すぐには分からなかった。
「最初は、ただ嬉しかったんです。続きが読みたいと言われるのが」
二十四歳で発表した『灰冠都市』は、大きな成功を収めた。
出版社も読者も、その先を求めた。リオ自身、まだ書けることがあると思っていた。
「続編も、自分が書きたくて書きました」
「うん」
「その頃は、前と違うことも試していました。でも、変えたところより、前と同じところを喜ばれるんです」
前作で評判のよかった展開を入れると、安心したと言われた。
分かりにくいと評された部分を削れば、今度の方が読みやすいと言われた。
どちらの声も、無視できなかった。
「一つずつなら、よくなっているように見えました」
「実際、売れたんだろ」
「ええ」
トマリは少し首を傾げた。
リオは本の背から指を離した。
「でも、舞台も人物も変えているのに、読み終えると同じ話になるんです」
道端のガラスの靴を見た。
それまで書いた本を並べたときの、背表紙の色を思い出す。
一冊ずつは、ずいぶん違うつもりでいた。
「最初の作品を、少しずつ薄めている気がしました」
「それでも出した」
「続きを待っている人も、いましたから」
答えてから、トマリを見た。
彼は前を向いていた。
「次は変えようと思ったんです。でも、前の話を好きで読んでくれた人に、急に違うものを渡していいのか」
トマリは上着の襟を引いた。
同意する言葉は返ってこなかった。
リオも、それ以上は言わずに歩いた。
街灯を一つ過ぎてから、トマリが口を開いた。
「俺は、同じままじゃ続けられなかった」
◆
「俺の漫画、知ってる?」
「『MALIANOS-マリアノス-』。異能犯罪を捜査する刑事の話ですよね」
「読んだ?」
「途中までは」
トマリが小さく吹き出した。
「お互い、最初の方しか読んでないんだな」
リオも少し笑った。
「どこまで?」
「刑事たちが、犯人の能力と証拠の食い違いを調べていた頃です」
「じゃあ、初期だ」
「能力が分かっても、それだけでは犯人が分からない。そこが面白かった」
トマリは前を向いたまま、二、三歩進んだ。
「俺も、そこが描きたかったんだよ」
街灯の下へ入ると、トマリの顔がよく見えた。
口元に残っていた笑みが、ゆっくりと消えた。
「評判は悪くなかった。でも、単行本が伸びなくてさ。連載を続けられるか、いつも気にしてた」
「それで、戦闘を増やしたんですか」
「編集に言われた。能力があるんだから、もっと派手にぶつけたらどうだ、って」
初めは、追い詰めた犯人との戦いを長くしただけだったという。
その回の人気が上がった。次の事件では犯人の能力を強くし、主人公側にも新しい力を与えた。
「謎を解けば捕まえられる、じゃ足りなくなったんだ。解いたうえで、勝たないといけない。そのうち、捜査して分かるのが敵の弱点ばっかりになった」
トマリが道端を見た。
小石を蹴りかけた足を、靴の列の手前で止める。
「事件を起こして、捜査して、ってやってる間に、早く戦わせたくなるんだよ。そっちの回の方が数字がいいから」
トマリは小石をまたいだ。
「刑事なのにさ。事件、調べてないんだよ」
リオは、読み進めなくなった頃のことを思い出した。
能力を使った犯行の謎よりも、次に現れる敵の強さが大きく扱われるようになっていた。
「人気の敵は仲間にした。地味な能力には、新しい使い方を足した。それでまた売れたから、もっとやった」
「それまでの設定と、合わなくても?」
「合わなくても」
トマリの声が少し低くなった。
「一度しか使えないって描いた力を、また使わせた。死んだと思われていたやつも、人気があれば生きてたことにした」
リオはトマリを見た。
口を開く前に、トマリが続けた。
「前と違うって言われたよ。でも、生きててよかったって声も来た。そっちを読んで、次も描いた」
リオは口を閉じた。
トマリの指が、上着の縫い目をつまんでいた。
「最初は、打ち切られたくなかっただけなんだ」
少し経ってから、トマリが言った。
「売れたら、もう少し上へ行けると思った。看板にもなりたかったしな。今週は上がった、次は何位だって、そればっかり見てた」
リオは黒い本を持ち直した。
「僕には、そこまでは変えられません」
「だろうね」
「積み上げてきたものを、途中から別の形にするのは」
「俺には、守ってれば売れる形がなかったから」
言い終えたトマリが、リオを見た。
「売れていれば、何でも守れるわけではありません」
トマリは答えなかった。
リオも、言葉を足さなかった。
トマリの歩調が速くなった。
リオは追いつこうとせず、少し後ろを歩いた。
灯りの増えた通りの向こうへ、城門の上端が見えてきた。
「俺の話、読まなくなったのは、つまらなくなったから?」
唐突に聞かれて、リオはトマリを見た。
「別の話を読んでいる気がしたからです」
トマリは前を向いた。
リオは、その横顔へ続けた。
「初めに好きになったところが、見つからなくなった」
「……そっか」
少し遅れて返事があった。
「ただ、その後を読まずに、最後まで悪く言うつもりはありません」
「読んでから言ってくれるの?」
「そのときは、遠慮しません」
「もう十分してないよ」
トマリが笑ったので、リオも口元を緩めた。
◆
城へ近づくにつれ、音楽が聞こえ始めた。
同じ舞踏曲を奏でているはずなのに、弦と笛の速さが合っていない。
先へ進んだ旋律を、別の楽器が追いかけていた。
「捜査してた頃の話、覚えてるやつがいたんだな」
トマリが言った。
リオを見ることなく、道の先へ目を向けている。
「いたじゃありませんか。ここに」
「うん」
トマリの歩調が、少し緩んだ。
リオは隣へ追いついた。
「でも、売れなかった頃に戻りたいとは思わないんだよな」
「僕は、戻れるなら戻りたいです」
「『灰冠都市』を書く前に?」
リオはすぐに答えられなかった。
あれを書かなかった自分を、うまく思い浮かべられない。
「失うものを考えずに、書けていた頃に」
「書いたものは、どうする?」
本を抱える腕に、少し力が入った。
トマリは、答えを待たずに続けた。
「途中からの漫画を、なかったことにするのは嫌なんだ」
トマリは、自分の本のある辺りへ手を当てた。
「最初の漫画は好きだよ。でも、バトルになってからも俺が描いた。あれを好きだって言ってくれた人もいる」
「矛盾だらけでも、自分の作品だと?」
「そこで俺のじゃないって言ったら、誰のせいにするんだよ」
リオは返事をしなかった。
「売れたのは嬉しかったよ。それまで読んでなかったやつが、面白いって言ってくれたんだから」
リオは、初めて続編の増刷を知らされた日のことを思い出した。
そのときのメールは、消さずに残している。
「……それは、僕も嬉しかったです」
トマリが一度こちらを見た。
何も言わず、また前を向いた。
リオも、続きは話さなかった。
城門が大きく開いた。
内側に並ぶ馬車には、御者がいなかった。それでも車輪はゆっくりと動き、扉が開閉している。
入口の衛兵が客を通すと、門はまた閉じた。
別の客が招待状らしい紙を差し出し、次に開くのを待っていた。
リオがそちらへ歩きかけると、トマリの足音が止まった。
「どうしました?」
振り返ると、トマリは城ではなく、脇へ伸びる細い路地を見ていた。
奥に一つ、灯りのついた窓がある。
屋敷からここまで、そういう家の前を幾つも通り過ぎてきた。
「俺たち、たぶん相性悪いな」
「今さらですか」
「今、よく分かった」
トマリは笑ったが、すぐにリオへ向き直った。
「でも、この先お前が何を選ぶのかは、見てみたい」
リオは少し考えた。
ここへ来た時には、この男とそんな話をするとは思っていなかった。
「僕も、あなたが何を描くのか、気になります」
「また途中で読むのをやめるかもよ」
「それは、読んでから決めます」
トマリの口元が緩んだ。
上着の内側へ手をやったまま、リオを見ている。
「なあ、リオ」
「はい」
「俺たちの共闘、やっぱりやめにしよう」
リオは、上着の内側へ伸びたその手を見た。
「たぶん――お前が最後の相手だ」
第4話・終




