第3話 三人目 ~シンデレラ編~
閉まった扉の音が、頭の上まで響いた。
リオは振り返った。
扉はもう動かない。
外から流れてきた冷たい灰の匂いに、別の匂いが混じり始めていた。
薪。煮込まれた肉と香草。
頬に触れる空気も、いつの間にか暖かい。
「さっきと、違うな」
トマリも鼻先を動かしていた。
正面には二階へ続く大階段があった。
赤い絨毯が敷かれ、左右の壁には絵が並んでいる。
煤けた外壁からは想像できない広間だった。
燭台の火に照らされて、階段の手すりが艶を帯びている。
二人とも、まだ敷居のすぐ内側にいた。
「こういうときは、年長者から?」
トマリが片手を前へ差し出した。
リオはその手を見る。
「僕の歳を知っているんですか」
「俺は三十。違ったら謝る」
「僕の方が年上ですけど。それで、先へ行かせるんですか」
「……じゃあ、一緒に」
トマリが手を引っ込めた。
リオも黒い本を上着の内側へ収め、隣へ出た。
「遅い!」
二階から声がした。
二人は同時に立ち止まった。
手すりの向こうに、薄紅色のドレスの女がいる。
高く結い上げた髪へ手をやり、こちらを睨んでいた。
「いつまで待たせるつもりなの?」
裾を持ち上げ、階段を下りてくる。
その後ろから、水色のドレスの女が顔を出した。
「ちょっと。誰、その人たち」
「仕立て屋じゃないの?」
薄紅色の女が、途中で足を止めた。
リオとトマリを順番に見て、眉を寄せる。
「違うの?」
「布も何も持っていないじゃない」
水色の女が、その隣へ下りてきた。
目元も、鼻の形もよく似ている。
街を歩いていた女たちのように同じ顔ではない。
姉妹なのだろうと、リオは思った。
「どなたですか」
低い声に、姉妹が顔を上げた。
黒いドレスの女が、ゆっくりと階段を下りてくる。
結い上げた金色の髪には、一筋の乱れもない。
二人の娘より上の段で止まり、リオたちを見下ろした。
「今夜は、客人を招いた覚えはありません」
「突然すみません。人を探していまして」
リオは頭を下げた。
扉が開いたから、と言い訳を足しかけて、やめる。
「こちらには、娘さんが三人いらっしゃいませんか」
薄紅色の女が、水色の女を見た。
「三人?」
「娘は、この二人だけです」
黒いドレスの女が答えた。
リオは、二人の後ろへ目を向けた。
階段の上にも、廊下にも、誰もいない。
「では、ほかに若い女性は。家の仕事をしている方でも」
「何の御用でしょう」
「灰かぶり、と呼ばれている少女を探しています」
三人とも、何も言わなかった。
薪の弾ける音だけがした。
女主人は問い返しさえしない。
今の呼び名だけが、会話から抜け落ちたようだった。
トマリが、少し身を乗り出した。
「暖炉のそばにいる女の子。服に灰がついていて、家の仕事をしてる。見たことない?」
「いません。この家に、そのような者は存在しません」
今度はすぐに返事が来た。
リオは上着の上から、本の角を押さえた。
存在しない。
同じ言い方だった。
「玄関に、ガラスの靴がありました。あれの持ち主は?」
薄紅色の女が吹き出した。
「ガラスで靴を作るの?」
「割れたらどうするの。血だらけになるわ」
二人の笑い声が広間に響く。
黒いドレスの女は笑わなかった。
「お引き取りください。舞踏会の支度がありますので」
「今夜、あるんですか」
リオが顔を上げると、薄紅色の女は笑うのをやめた。
「知らないの? 王子様が花嫁を選ぶのよ」
「街中の娘が招かれているの」
水色の女が続けた。
「もちろん、選ばれるのは私たちのどちらかだけど」
「どちらかじゃないわ。私よ」
「その髪で?」
女主人が二人を見た。
姉妹の口が止まる。
「これで、お帰りいただけますね」
その後ろで、木の軋む音がした。
階段脇の扉が、ひとりでに開いていた。
暗い廊下に、火が灯る。
一本、また一本。
蝋燭の明かりが、奥へ続いていった。
女たちは、誰も振り向かなかった。
トマリがリオの袖へ触れる。
「……あっちは、来てほしいらしい」
リオは女主人と、開いた扉を見比べた。
「行けば、怒られるでしょうね」
「たぶん。でも、もう怒ってる」
トマリが一歩、廊下へ近づいた。
女主人は、玄関の方を見たままだった。
リオも続いた。
二人が脇を通っても、誰もこちらを見なかった。
そのことが、止められるより怖かった。
廊下へ入ると、背後で扉が閉じた。
向こうから、姉妹の声が聞こえる。
「ねえ、お母様。今日の夕食は?」
「もう用意されているでしょう」
「誰が用意したの?」
返事が途切れた。
リオは扉へ振り向く。
「誰が?」
女主人の声だった。
隠すために聞き返したようには聞こえなかった。
◆
リオは廊下で本を開いた。
文章は変わっていない。
時計だけが、十一時三十五分へ進んでいた。
街で別れてから、もう二十分経っている。
この間にアリアが何を見つけたのか、確かめる手段もなかった。
「こっち、見て」
トマリに呼ばれ、リオは本を閉じた。
廊下の先は食堂だった。
白い布を掛けた長いテーブルに、銀の食器が並んでいる。
焼かれた肉から、まだ湯気が立っていた。
「四人分ある」
トマリは椅子を指して数えた。
皿も、杯も、四つずつある。
暖炉に一番近い席だけ、椅子が引かれていた。
皿には何も盛られていない。
その背に、灰色のエプロンが掛かっている。
「客が来る支度では、なさそうですね」
リオはエプロンの端を持ち上げた。
裾の煤が指につく。
小さな破れ目が縫い直され、紐の片方だけが何度も結ばれたように細くなっていた。
これを着て、誰かが食事を作ったのだろうか。
皿を並べて、自分の椅子も引いたのだろうか。
「リオ。足元」
トマリの声に、手を離した。
椅子の下に、小さな足跡があった。
裸足の形に、灰が積もっている。
周りの床はきれいなのに、爪先の丸みまで白く残っていた。
「灰を踏んで歩いたんじゃないな」
トマリがしゃがんだ。
「歩いたところにだけ、ある」
足跡は食堂を横切り、奥の狭い階段へ向かっていた。
二人は並べず、トマリが先に上った。
一段ごとに、木が軋む。
リオは手すりを握り、すぐ前の背中を見失わないようにした。
二階の廊下には、四つの部屋があった。
大きな寝台のある部屋。
鏡や飾りの多い部屋が二つ。
最後の扉の向こうには、箱と古い家具が積まれていた。
どの部屋にも、人はいなかった。
灰の足跡はその前を通り過ぎ、突き当たりの壁で終わっている。
トマリは壁を見た。
それから、横の窓を開けて外へ身を乗り出した。
「落ちますよ」
リオは思わず、上着の背をつかんだ。
「大丈夫。……いや、念のため持ってて」
トマリは下を覗き、すぐに戻ってきた。
窓を閉めてから、廊下の長さを目で測る。
「外から見たとき、こっち側、もう少し長かったんだよ」
「そうでしたか」
「窓の位置からしても、この奥にまだ部屋があると思う」
リオが上着を離すと、トマリは壁を叩いた。
硬い音。
少しずらして、また叩く。
今度は、奥に空間があるような音が返った。
二人とも黙った。
トマリが壁へ耳を寄せる。
ぱらり。
リオにも聞こえた。
玄関の外で聞いた、紙をめくる音だった。
足跡の最後は、壁の下へ続いていた。
白い花の壁紙のすぐ手前に、爪先だけが残っている。
トマリが、壁紙の継ぎ目へ爪をかけた。
「剥がすよ」
リオは壁の向こうを聞いた。
紙をめくる音は止まらない。
「……ゆっくり、お願いします」
壁紙が裂けた。
現れたのは、木でも漆喰でもなかった。
文字だった。
一行読もうとすると、その上へ別の一行が重なる。
リオは揺れる文字を目で追った。
――少女は母の墓に植えた木へ願い、白い鳥から衣装を与えられた。
その上を、別の文章が横切る。
――老婆は杖を振り、かぼちゃを黄金の馬車へ変えた。
金でできた靴。
ガラスでできた靴。
どちらかを読んだと思うと、もう片方へ書き換わっている。
トマリは剥がした壁紙を握ったまま、手を止めていた。
「一人に、これを全部やらせるのか」
リオは文字へ顔を近づけた。
どの文にも、少女がいる。
だが、名前が入るはずのところだけ、黒く重なって読めなかった。
「街の中と、同じですね。違う話が重なっている」
「ここに住んでた子も、それで分からなくなった?」
「……そのせいかもしれません」
答えたとき、一階で何かが落ちた。
トマリが顔を上げた。
リオも壁から離れる。
音が続くか待ったが、もう何も聞こえなかった。
「下、見てくる」
「一緒に行きます」
今度はリオも、すぐ後ろを追った。
◆
食堂へ下り、先ほどの廊下を戻った。
閉じていたはずの扉は、少し開いていた。
玄関広間に、女たちの姿はない。
大階段の上から、姉妹の言い争う声だけが聞こえていた。
トマリが壁際で止まった。
肖像画の下に、額の飾りが一つ落ちている。
絵には、黒いドレスの女と二人の娘がいた。
娘たちの間に、不自然な隙間がある。
女主人の腕は、その何もないところへ伸びていた。
「こんな絵でしたか」
「入ったとき、変な並び方だなとは思った。でも」
トマリが、額へ手を伸ばした。
触れる直前に止める。
空いた場所に、薄い輪郭が浮いていた。
粗末な服。細い腕。
少女らしい形になったと思うと、髪型が薄紅色の娘と同じになる。
顔は、水色の娘へ似ていった。
リオは、階段の上を見た。
姉妹の声は続いている。
絵へ戻ると、顔はもう見えなかった。
「三人目……」
口にしても、誰からも返事はなかった。
「隙間だけは、残ってるんだな」
トマリが言った。
「ここに一人いないと、あの腕、変だもの」
灰が、絵の下からこぼれた。
床へ落ちても散らず、細い帯になって廊下へ流れていく。
トマリが振り向いた。
リオが頷くと、二人は灰の後を追った。
食堂を抜け、その奥の台所へ。
皿を洗う桶も、切りかけの野菜もあった。
誰かが、仕事の途中で席を外したようだった。
灰は、かまどの前で渦を巻いた。
赤い火の中へ吸い込まれていく。
炎が大きく揺れた。
ふっと、消えた。
戸口の向こうの蝋燭も、同時に消えていた。
姉妹の声が止まる。
リオは、その場から動けなかった。
隣でトマリが息をのむ。
小窓から差す月明かりに、かまどの縁だけが白く見えた。
「今夜は、舞踏会なの?」
声は、灰の中から聞こえた。
幼い子供ではない。
かといって、大人とも言い切れない声だった。
少し弾んだように聞こえた最後の音が、頼りなく消えた。
「そこに、いるんですか」
リオはかまどへ近づいた。
返事はなかった。
屈んで覗くと、灰の上に白い四角が見えた。
一枚のカードだった。
縁が黒く焦げている。
トマリが膝をついた。
「待ってください」
リオの声に、伸ばしかけた手が止まる。
「さっきまで、火が」
トマリは掌を近づけた。
しばらく置いてから、灰の端へ指先で触れる。
「熱くない。周りの灰も、もう冷えてる」
「でも、何が起きるかは分かりません」
「うん」
トマリはカードを見た。
「靴の持ち主を聞くつもりだったけど、誰も答えてくれなかった。これも、見てるだけじゃ分からない気がする」
リオもしゃがみ込んだ。
怖くないわけではないらしい。
トマリの指は、一度曲がってから伸びた。
リオは、その腕をつかめる距離にいた。
止める言葉を、もう一度出すことはできなかった。
指先がカードに触れる。
表面に、少女が浮かんだ。
粗末な服を着て、裸足で立っている。
長い髪の間で、顔だけが白かった。
その白さが、薄紅色の娘の顔へ変わった。
水色の娘。
二人の知らない顔。
やがて、また空白へ戻った。
トマリが指を離した。
自分の手を見てから、リオを見る。
「……まだ、決まってないのかな」
リオは頷きかけ、カードを見直した。
上部の名前も、幾つもの文字が重なって読めない。
「分かりません。あの絵と、同じ変わり方でした」
上着の内側で、黒い本が震えた。
リオが取り出すと、ひとりでに頁が開く。
さっきまでの文章が消え、金色の文字が現れた。
――十二時までに、三人目の娘を舞踏会へ連れて行け。
遠くで、鐘が一度鳴った。
台所の壁に掛かった時計は、十一時を指していた。
リオは本の隅を見る。
こちらの針も、十一時に戻っている。
「さっきは、三十五分でした」
トマリも自分の本を開いた。
同じ金色の文章と、時計を見比べる。
「探せって言われた子を見つけたから、また一時間になった?」
「そうかもしれません。今度は、はっきり期限が書いてあります」
十二時までに。
リオはその部分を、もう一度読んだ。
最初に鳴った鐘も、時刻を知らせるだけのものではなかったのかもしれない。
だが、失敗したらどうなるのかは、どこにも書かれていなかった。
トマリが、灰の中からカードを拾い上げた。
今度は、顔は変わらない。
焦げた縁へ指を添え、両手で持っていた。
「この子を連れて、城へ行けってことだよな」
リオは、空白の顔を見た。
姉妹の顔にもなった。
壁には、いくつもの娘の話が重なっていた。
「その前に、この少女が誰だったのか、確かめたいです」
「どこで?」
聞かれて、リオは黙った。
屋敷の女たちは、いないと言った。
ここで声を待っていても、次が聞こえるとは限らない。
トマリが、戸口の方へ顔を向けた。
「城なら、何か分かるかもしれない。舞踏会のことを、聞いてたし」
「……そうですね」
リオは本を閉じたが、立ち上がれずにいた。
「どうした?」
「扉が開いて、足跡があって。見失いそうになるたびに、次のものが出てきます」
トマリは手元のカードへ目を戻した。
「俺たちが探したことには、ならない?」
「探したと思います。でも、行く場所は全部、先に決められていたような気がする」
リオが立つと、暗い戸口が目に入った。
その先の廊下だけ、また蝋燭が灯り始めていた。
「今度は、城か」
トマリも立ち上がった。
「嫌でも、行ってみるしかないな」
リオは、腕の中の本を抱え直した。
「……それが、一番嫌なんです」
第3話・終




