第2話 灰かぶりのいない街 ~シンデレラ編~
鐘の余韻が、書架の高いところに残っていた。
台座の本には、まだ舞踏会が見えている。
リオは、四つの窪みの一つへ手を伸ばしかけた。
「待ってください」
サカモトが言った。
黒い本を抱えたまま、こちらを見ている。
「さっきの質問です。物語にのまれたら、どうなるか」
トマリも、アリアも振り向いた。
「死にます。二度続けて負ければ」
サカモトは一度、唇を結んだ。
「戻ってきて、やり直せるわけではありません」
リオは、伸ばしかけた手を下ろした。
先ほど、サカモトはこのすぐ横で膝をついていた。
その人が、次に負ければ死ぬ。
トマリが何か言いかけ、やめた。
サカモトは目を伏せたまま続ける。
「今、塔にいるのは七人です。同じ相手とは一度しか戦えない。誰と戦うかも、考えてください」
「……教えてくれて、ありがとうございます」
リオが言うと、サカモトは小さく頷いた。
開かれた頁の中では、少女が階段を駆け下りていた。
ここに立っていれば、戦わずに済むのかもしれない。
だが、家へ帰る道も見つからない。
リオは黒い本を置いた。
指を離すのに、少し時間がかかった。
隣でトマリが本を置く。
アリアは二人を見てから、残る窪みの一つへ進んだ。
台座の向こうにも、人影があった。
白と黒の服。黒い本を置く手。
顔へ目を上げる前に、床の感触がなくなった。
◆
足の裏に、硬い石が当たった。
リオはよろめき、片足を踏み出した。
頭上には巨大な満月がある。
夜風が頬を撫でた。
すぐそばに、アリアが立っていた。
少し離れたところで、トマリが両手を裏返している。
「……本当に、入ったんだな」
リオは周りを見た。
白い壁の家々。窓辺で揺れる花。
遠くには、いくつもの尖塔を持つ王城が見えた。
四人目の姿はなかった。
振り向いても、今来たはずの入口はない。
鐘が鳴った。
一度。
それから、二度。
塔で聞いた音に似ていた。
リオは今度こそ、どこから聞こえるのか確かめようと顔を上げた。
焼いた小麦と砂糖の匂いがする。
石畳を車輪が叩き、ドレスの裾が擦れた。
思わず道を空けると、馬車がすぐ横を通り過ぎた。
本の中にいる。
そう思わなければ、ただ知らない街へ来ただけだった。
家で手に取った黒い本は、また腕の中に戻っていた。
リオが開くと、白かった頁に文章がある。
――物語を見つけよ。
――物語に認められた者は、その一部を持ち帰ることができる。
その下には、長方形の空白が並んでいた。
サカモトが見せたカードを収める場所だろうか。
頁の隅には、小さな時計が描かれている。
十一時。
三度目の鐘が鳴った。
「どうした?」
覗き込んだトマリへ、リオは時計を示した。
「塔で見た時計は、十二時でしたよね」
「だったな」
二人は黙って、続きを数えた。
鐘は十一度で止まらず、もう一度鳴った。
最後の音が消えるころ、本の時計は十一時一分を示していた。
「一時間、ずれてる」
トマリが街の中央に立つ時計台を見上げた。
アリアもそちらを見たが、すぐに首を巡らせた。
「今の、あそこからじゃありません」
「城の方?」
「……それも違う。もっと遠い、広い場所で鳴ったように聞こえました」
もう音は残っていない。
アリアは耳元の髪を押さえ、しばらく待っていた。
「どこなのかは、分かりません」
リオにも、鐘が普通の時計と違う役目を持つのか、ただ時間が合っていないのかは分からなかった。
本を閉じると、通りを歩く人々が目に入った。
若い男女も、年老いた夫婦も、王城へ向かっている。
飾りの多いドレスや、磨かれた靴。
これから楽しいことがある人たちに見えた。
「静かすぎますね」
アリアが言った。
「こんなにいるのに、誰も話していない」
言われて、リオは耳を澄ませた。
靴音も、衣擦れもする。
だが、笑い声はなかった。
夫婦らしい二人も、並んで前を向くだけだった。
トマリが歩道の端へ寄った。
青いドレスの女性を目で追い、次に来た赤いドレスの女性を見る。
「あの二人、顔が同じだ」
赤いドレスが角を曲がった。
その後ろから、また同じ顔が現れる。
今度は膝丈のワンピースだった。
「服だけ替えてるのか」
トマリは三人目が通り過ぎても、その顔を見ていた。
リオは馬車の列へ目を移した。
金色の四輪馬車。荷馬車のような小さな車。
その後ろに、大きなカボチャが揺れている。
低いエンジン音がした。
黒塗りの自動車が、カボチャの横を抜けていった。
「車でもいいんだ、シンデレラって」
トマリが言う。
「舞台を現代に移した話なら。舞踏会が学校のパーティーになることもあります」
「ああ。あのワンピースも、そっちか」
「それに、古い話も一つではありません。母親の墓に生えた木や、鳥に助けられる娘もいる。靴が金でできている話もあります」
リオは、走り去る車の後ろにカボチャが重なるのを見た。
「別々の話が、ここでは一緒になっているのかもしれません」
「どれもシンデレラだから?」
アリアに聞かれ、リオは頷いた。
「少なくとも、今見えているものは説明できます」
「面白いな」
トマリの声に、アリアが顔を向けた。
彼は口を閉じかけ、もう一度開いた。
「誰かがわざとやったのか、直せなかったのか。気になるだろ」
アリアは、黒い本を抱え直した。
「私は、まだそこまで考えられません」
トマリは返事をせず、走り去った車の方を見た。
アリアの視線は、もう時計台へ戻っていた。
リオは、違う衣装で同じ道を行く人たちを見た。
「直すと、どれかの話が消えてしまいますね」
「そう。それで困る」
トマリがリオを見た。
「よく知ってるな。俺、一人だったら車がおかしい、で終わってた」
「読んだことがあるだけです」
「それを思い出せるのが助かるんだよ」
リオは返事に迷った。
知っている形を見つけ、そこへ当てはめる。
書けなくなる前は、何度もそれで切り抜けてきた。
褒められたのだろう。
それでも、素直に礼を言えなかった。
トマリは返事を待たず、道の先へ目を戻した。
◆
「まず、どこへ行く?」
トマリが尋ねた。
「城のほかに、娘の家も調べたいです。母親の墓があるかもしれない」
リオが答えると、アリアは時計台から視線を離した。
「私は、鐘を探します」
「一人で?」
トマリの問いに、彼女は頷いた。
「もう一度鳴れば、今度は近くで聞けるかもしれません。同じ所を三人で調べるよりは」
「じゃあ、離れる前に一つ、話していい?」
アリアは足を止めた。
トマリが二人を交互に見る。
「しばらく、俺たち同士で戦うのはやめにしないか。調べたことは教え合う。困ってたら、できる範囲で助ける。ずっと一緒にいようってわけじゃない」
「塔へ戻った後も、ですか」
リオが聞くと、トマリは頷いた。
「七人いるなら、ほかに四人いる。同じ相手とは一度きりだけど、三勝するまでに、必ず俺たちが当たるとは限らない」
リオは台座の前のサカモトを思い出した。
「その四人の誰かが二連敗すれば、もう戦えません」
「うん。それに、俺たちが負けるかもしれない。三人とも帰れるって約束はできない」
トマリは、折りかけた指を開いた。
「でも、今会ったばかりの二人を、すぐ敵だと思いたくないんだ。話せる間は、話しておきたい」
それはリオにも、ありがたい話だった。
街のどこに危険があるかも分からない。
少なくとも、後ろから襲われるかもしれない相手だと、今は思わずに済む。
「僕は、そうしたいです」
答えると、トマリの肩から少し力が抜けた。
「ありがとう」
「私は、約束できません」
アリアが言った。
トマリの顔から、笑みが消えた。
「分かった。無理には」
「でも、理由は聞いてください」
彼女は本の角へ指をかけた。
すぐには、続きが出てこなかった。
「ほかの四人なら、先に負けてもらっていいんでしょうか。あの人は、さっき一度負けたばかりなのに」
サカモトの名を言わなくても、二人には分かった。
「知らない人たちを先に選べば、私たちが助かるかもしれない。それを、三人で決めてしまうのが……私は嫌です」
トマリは口を開き、閉じた。
「そうなるな」
しばらくしてから、言った。
「俺は、帰りたい。そのために、今できそうなことを考えた。ほかの四人のことは、その後になってた」
アリアはリオを見た。
「リオさんも、それでいいと思いますか」
リオは、持っていた本へ目を落とした。
「いいとは、思えません」
言ってから、顔を上げる。
「でも、一人になるのも怖いです。分からないことが多すぎる。誰かと確かめながら進めるなら、その方を選びたい」
それは本当だった。
他の四人をどうするのかという問いには、答えていなかった。
アリアの指が、本の角から離れた。
「調べたことを話すのまで、嫌だと言っているわけじゃありません」
「うん。ありがとう」
トマリが答えた。
「ただ、誰と戦わないかは、自分で決めます」
「分かった」
今度はアリアも、小さく頷いた。
彼女は王城とは違う、時計台の方へ続く道を見た。
「私は、行きます」
「アリアさん」
リオが呼ぶと、彼女は振り向いた。
「一人では、何かあったときに」
「二人といても、何があるかは分かりませんよ」
声はきつくなかった。
アリア自身も、通りの奥を一度確かめていた。
「音を聞くなら、少し離れた方がいいと思うんです。私は、そっちを調べてみます」
一緒にいてほしい、と言えばよかったのかもしれない。
だが、それで彼女が困った顔をするところまで、リオには想像できた。
「……分かりました」
それだけを返した。
アリアは数歩進んでから、もう一度こちらを見た。
「二人も、気をつけて。あの人たちの列には、入らない方がいいと思います」
無言の人々が、今も城へ向かっていた。
「あなたも、気をつけてください」
リオが答えた。
トマリも手を上げる。
アリアはそれを見届け、路地へ曲がった。
二人は、彼女が見えなくなるまで立っていた。
「追わなくていい?」
トマリに尋ねられ、リオは路地を見た。
「自分で調べたいと、言っていましたから」
「そうだね」
トマリはそれ以上、聞かなかった。
黒い本の時計は、十一時十五分になっていた。
リオは表紙を閉じる。
「僕たちは、家を探しましょう」
◆
城から離れるにつれ、人の姿が減った。
窓の灯りも少なくなる。
二人は煙突を見上げながら歩き、家の裏へ回れそうな道を選んだ。
やがて、石畳が土に変わった。
靴底の音が急に小さくなり、木々の擦れる音が近くなった。
「必要な場所に、ちゃんと着くものなのかな」
トマリが言う。
「物語なら、主人公は最後に着くだろ」
「僕たちが主人公かは分かりませんよ」
「そっか。途中で道を教える人かもしれない」
「教えられそうにありませんが」
「じゃあ、今は探すしかないか」
トマリが笑った。
リオも、少しだけ口元を緩めた。
木立へ入る前に、トマリがこちらを見た。
「呼び方、リオでいい?」
「はい」
「俺もトマリでいいよ。先生とか、さんとか、なくていい」
「分かりました」
言ってから、リオは一度、名前を口にしかけた。
続ける用事がなく、そのまま前を向く。
トマリも何も言わなかった。
二人で、土の道を歩いた。
風が吹くたび、葉の隙間から月が見えたり隠れたりした。
話題を探さなくていい。
黙った理由も、説明しなくていい。
リオはようやく、抱えた本を少し下げた。
木々の向こうに、煙が見えた。
トマリが足を止め、リオも止まる。
煤けた壁と、古い屋根。
庭の草は伸び放題だったが、煙突からは細く黒い煙が出ていた。
「人がいるのかな」
「火は使っているようですね」
門は半分開いていた。
トマリはその隙間を抜け、リオが来るまで待った。
二人で玄関へ進む。
扉の前に、片方だけのガラスの靴があった。
月明かりを受け、爪先が青白く光っている。
トマリがしゃがみ込み、手を伸ばしかけた。
「……これ、どう思う?」
「持ち主がいるはずです。ここに置かれている理由も、まだ分からない」
トマリは手を膝へ戻した。
「目立つよな。拾ってくれって言われてるみたいで」
「カードにはなるかもしれません。でも、見つけただけで持ち帰っていいのかは」
「先に、中の人に聞くか」
トマリが立ち上がった。
木の扉には鍵穴がある。
取っ手も、呼び鈴もなかった。
リオが戸を叩こうとしたとき、内側で音がした。
ぱらり。
紙をめくる音だった。
間を置いて、もう一枚。
二人とも、動かずに聞いた。
腕の中で、黒い本が震えた。
トマリも自分の本を取り出す。
開いた頁に、新しい文章が浮かんでいた。
――灰かぶりを探せ。
――ただし灰かぶりは存在しない。
「いないのに、探せって」
トマリは頁と扉を見比べた。
リオも、二行目を読み直した。
家を探して歩いてきた。
ここで合っていると言われたようで、少しも安心できなかった。
「入ってほしいのは、確かなようですね」
「それが一番、怪しいか」
扉の向こうで、鍵が鳴った。
古い木が軋み、ゆっくりと内側へ開いていく。
冷たい灰の匂いがした。
紙をめくる音は、もう聞こえなかった。
トマリはすぐには進まず、リオを見た。
「入る?」
リオは暗い隙間を覗いた。
誰も、姿を見せない。
「……入りましょう」
トマリが頷き、隣へ並んだ。
「じゃあ、しばらくよろしく。リオ」
名前で呼ばれると、一人で入るわけではないのだと分かった。
リオも、相手の顔を見た。
「こちらこそ。トマリ」
二人で、敷居をまたいだ。
背後で扉が閉じる。
外に残されたガラスの靴だけが、月明かりの中で静かに光っていた。
第2話・終




