第1話 物語の塔
暗闇の中を、落ちていた。
いや、落ちているのかも分からない。
風はなく、身体に重さも感じなかった。手を伸ばしてみても、壁にも床にも触れない。
「ここは……」
自分の声が聞こえたことに、少しだけほっとした。
その直後、別の声が頭の中へ響いた。
『三度、勝利した者は、塔より解放される』
男とも女ともつかない声だった。
耳で聞いているのではない。言葉が直接、意識の中へ入ってくる。
『二度続けて敗北した者は、物語にのまれる』
「のまれる、って――」
『自ら物語へ入り、その手段を持ち帰れ』
『持ち帰った物語をもって、互いに争え』
「待ってください。誰と争うんですか」
返事はなかった。
暗闇に、白い亀裂が走った。
光が広がり、足元が抜ける。
今度こそ、身体が落下した。
リオは咄嗟に片手をついた。硬い床に掌を打ちつけ、息が詰まる。
痛みは思ったほど強くなかった。もう片方の手には、黒い本が残っていた。
顔を上げる。
重厚な木の書架が、果ての見えない高さまで伸びていた。革装丁の本が隙間なく並び、真鍮の装飾が琥珀色の照明を反射している。
床は磨かれた大理石。広間の向こうにも書架が続き、その先は淡い光の中へ溶けていた。
図書館、と口にしかけた。
「これで終わりです」
張りつめた声が、それを遮った。
広間の中央で、二人の男が向かい合っていた。
床を走る光の線。その上に浮かぶ、何枚ものカード。
一人は、四十代ほどの背の高い男だった。
姿勢を崩さず、手元の一枚に指を添えている。そばに浮かぶ黒い本には、白い文字があった。
――映画監督、カイ。
向かいの男は、それより若い。
スーツの襟が乱れ、額に汗がにじんでいた。口元は笑おうとしているようにも、歯を食いしばっているようにも見えた。
――ゲームプロデューサー、サカモト。
サカモトの前には、兵士を描いたカードが何枚も並んでいた。
カイの手元にあるのは、一枚だけ。
サカモトが最後のカードを場へ出す。
兵士たちが、一斉にカイへ迫った。
カードに描かれていたはずの人間が、歩いている。
リオは立ち上がりかけたまま、動きを止めた。
カイは何も答えず、残された一枚を裏返した。
戦場の中央に、一人の人間が現れる。
鎧も、華やかな衣装もない。押し寄せる兵士の中で、その姿はあまりに小さかった。
その人物が顔を上げた。
兵士たちが止まる。
整然と並んでいた陣形が崩れ、カードの表面に次々と亀裂が走った。
「何が――」
サカモトが手を伸ばす。
光が弾けた。
彼の前に浮かんでいたカードが、すべて床へ落ちる。
黒い本が、音を立てて閉じた。
『勝者――カイ』
サカモトは口を開いたまま、しばらく立っていた。
それから膝をつき、落ちたカードに手を伸ばした。一枚を拾おうとして、指が滑る。
カイは自分のカードを本へ戻した。
広間を出ていく途中、その視線が一度だけリオのところで止まった。
リオが会釈を返すより先に、男は書架の間へ消えていた。
少し離れた場所では、女性が口元に手を当てていた。
リオが目を向けると、彼女は手を下ろし、別の書架へ歩いていく。ほかにもいた人影が、一人、また一人と広間を離れた。
誰も、床に膝をついた男へ声をかけなかった。
◆
「立てる?」
横から差し出された手に、リオは振り向いた。
三十歳ほどの男が、腰をかがめていた。服装は整っていたが、片方の袖に白い埃がついている。
「ありがとうございます」
リオはその手を取って立ち上がった。
男は空いた手で袖を払った。
「俺もさっき、あそこに落ちた。もうちょっと普通の入口にしてほしいよな」
笑いかけられ、リオは曖昧にうなずいた。
男も返事を待たずに、中央のサカモトを見た。
「……あれ、俺たちもやるってことか」
握った手が、まだ離れていなかった。
男は気づくと、軽く振ってから放した。
「トマリ。漫画家」
「リオです。小説を書いています」
「よろしく。で、いいのかな、こういうときも」
今度は、リオも少し笑えた。
「あの」
若い女性が、数歩離れたところに立っていた。
黒い本を胸に抱き、二人の顔を見比べている。
「出口、見ませんでしたか」
「いや。そっちは?」
「見つかりません。向こうも、ずっと本棚で」
彼女は広間の奥を振り返った。
トマリが肩をすくめかけると、その前に問いが続いた。
「さっきの声は? あなたたちにも聞こえましたか」
「聞こえた。三回勝てば帰れるって」
「耳を塞いでも、聞こえていました」
女性は本を抱え直した。
「アリアです。曲と、詞を作っています」
「漫画家と小説家と、作詞作曲家か」
トマリは中央に残った男へ目を向けた。
「映画監督にゲームプロデューサー。仕事の集まりなら、もうちょい歓迎してほしいけど」
「私は、呼ばれて来たわけじゃありません」
「俺もだよ」
トマリの笑顔が消えた。
アリアは目を伏せた。
「……すみません」
「いや。俺が、変なこと言った」
リオは、自分の本を見た。
さっきの二人と同じように、表紙には名前と職業が出ている。
小説家、リオ。
何かを書けと言われたわけではない。
物語を持ち帰り、互いに争え、と言われたのだ。
中央で、サカモトがまたカードを取り落とした。
リオは黒い本を抱え直した。
「僕、聞いてみます」
何を聞くかは、歩きながら考えた。
◆
「手を貸しましょうか」
サカモトのそばで立ち止まると、男は顔を上げた。
「結構です」
拾い残したカードが、リオの足元にあった。
腰をかがめかける。
「そのままにしておいてください」
リオは手を引いた。
サカモトは自分でカードを拾い、本に戻した。床へ片手をついて立ち上がろうとしたが、一度では立てなかった。
リオはもう一度手を出しかけ、やめた。
男は息を整えてから、ようやく立った。
「新しく来た人たちですか」
「はい。リオといいます」
「トマリ。こっちはアリア。俺たち、何も分からなくて」
追いついたトマリが言った。
サカモトは三人の本を順番に見た。
「サカモトです。ゲームプロデューサーをしています」
乱れた襟を直す。
その間だけ、仕事の挨拶に戻ったようだった。
「声は聞いたでしょう」
「聞きました。でも、物語を持ち帰るというのが……。さっきのカードのことですか」
リオが尋ねると、サカモトは本を押さえたまま黙った。
やがて、アリアを見た。
「あなた方が聞いた説明を、教えてください。省略せずに」
「同じ声だったんじゃないんですか」
「同じかどうか、確認したいんです。知っていることは僕も話します」
アリアはすぐには答えなかった。
リオが、暗闇の中で聞いた言葉を順に伝えた。
三度勝てば解放される。
二度続けて負ければ、物語にのまれる。
自ら物語へ入り、手段を持ち帰る。
持ち帰った物語で、互いに争う。
「二度、続けて。そう言いましたね」
「はい」
サカモトはうなずいた。
本の表紙を押さえていた手が、少し緩んだ。
「……変わってはいないんですね」
誰にともなくつぶやき、それから本を開いた。
ページの上に、兵士が描かれていた。
ついさっき、この床を進んでいたのと同じ姿だった。今は、ただの絵に見える。
「この塔から、物語の中へ入れます。そこで人物と関わったり、物を手に入れたりする。条件を満たせば、カードとして持ち帰れる」
サカモトはページの端を持った。
指先が震え、うまくめくれない。持ち直してから続けた。
「人物だけじゃありません。物も、出来事もカードになる。それでデッキを組み、参加者同士で戦う。今、あなた方が見たように」
「この兵士たちも、物語の中にいたんですか」
「ええ」
リオはページに顔を近づけた。
サカモトが本を引いた。
「見るだけにしてください」
「……はい」
何が起きたのか、もう少し見れば分かるような気がした。
だが、本は閉じられた。
「出口は、知らないんですか」
アリアが尋ねた。
サカモトは彼女を見て、首を横に振った。
「知っていたら、とっくに帰っています」
アリアは唇を結び、書架の向こうへ目をやった。
サカモトも、閉じた本に視線を落とした。
「三勝すれば出られる。それは、全員にそう告げられた。それなら、勝てばいいんです」
「物語にのまれる方は? どうなるか分かってる?」
トマリが尋ねた。
サカモトは答えなかった。
広間の静けさが、急に気になった。
「今ので、一敗なんだよな」
トマリが続けた。
「次は負けられない、ってことか」
サカモトの顔がこわばった。
リオは、トマリとの間に言葉を差し込んだ。
「でも、二度続けて、ですよね。まだ――」
「分かっています」
サカモトの声が、広間に響いた。
「あなた方に言われなくても、次に負けられないことくらいは」
リオは口を閉じた。
励ましたつもりだった、と言えば、さらに傷つける気がした。
「……すみません」
「悪い。俺の聞き方が悪かった」
トマリも言った。
サカモトは二人を見ず、襟元へ手をやった。もう直すところはなかった。
なぜ自分たちなのか。
誰がここを作ったのか。
三度勝って帰った者は、本当にいるのか。
リオは、残っている問いを飲み込んだ。
◆
広間の中央で、低い音がした。
大理石の床に亀裂が走る。
トマリが足元を見て、後ずさった。
「おい、また落ちるのか――」
「下がって!」
アリアの声に、リオも床から離れた。
割れた床の中央から、円形の台座がせり上がってくる。
その上には、一冊の本があった。リオたちの持つものより、はるかに大きい。
古びた革の表紙には、片方のガラスの靴が金色で描かれていた。
本が、ひとりでに開いた。
夜の城。
光に満ちた舞踏会。
階段を駆け下りていく、青いドレスの少女。
ページの中央に、金色の文字が浮かび上がる。
――シンデレラ。
「……始まった」
サカモトがつぶやいた。
台座の周囲には、四つの窪みができていた。
どれも、黒い本と同じ大きさだった。
「そこに本を置いた者が、中へ入る」
サカモトは自分の本を握りしめていた。
誰も、窪みに本を置かなかった。
トマリは四つの窪みを見比べ、アリアは開かれたページを見つめている。
リオには、少女の顔がよく見えなかった。
彼は一歩、台座へ近づいた。
「入るの?」
トマリの問いに、足を止めた。
「まだ分かりません。まず、何が書かれているのか見たいんです」
自分の本を抱えたまま、もう一歩進んだ。
近くで見るページの中では、少女が階段を駆け下り続けていた。
リオは、そこに書かれた文字を探した。
舞踏会の奥で、大時計の針が動く。
短針と長針が重なった。
十二時を告げる鐘が、鳴り始めた。
第1話・終




