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物語の塔  作者: ck
始まり
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2/17

第0話 沈黙する作者


 午前七時四十三分。


 リオは、自分が十年前に書いた言葉を、内閣総理大臣の口から聞いた。

 口へ運びかけたコーヒーを、手に持ったままテレビを見た。


『国を守るとは、すべての市民を幸福にすることではない。何を失うかを選び、その責任を引き受けることだ』


 総理はそこで一度言葉を切った。背後には国旗と、ワインレッドの幕。演台の前には無数のマイクが並び、画面下には〈国家安全保障体制のさらなる強化へ〉という字幕が流れている。


「これは、小説家リオ氏の代表作『灰冠都市』に登場する一節です」


 違う、と思った。


 文章は合っている。字幕の句読点まで、自分が書いたとおりだった。ただ、その台詞を語った男は、都市を守るために隣国との戦争を始め、最後には息子を死なせている。


 正しかったから語った言葉ではない。

 その正しさを信じた結果、何を失ったのかを示すための言葉だった。


 総理が引用を終えると、会場から拍手が起きた。


 リモコンを手に取り、テレビを消した。静かになった部屋に、冷蔵庫の低い作動音だけが残った。机の上には、昨夜から開いたままのノートパソコンがある。


 白い画面の中央で、一本の縦線が点滅していた。


 新作になるはずの原稿だった。ファイルを作成してから四か月。まだ二十八文字しかない。


 ――北方都市の冬は、今年も多くの嘘を白く覆い隠していた。


 コーヒーを一口飲んだ。もう冷めていた。

 悪い文章ではない。


 出版社に送れば、担当者は「先生らしい導入です」と言うだろう。その声まで、ありありと思い浮かんだ。批評家は円熟した筆致と書き、読者は最初の一文から引き込まれたと感想を投稿する。


 十年前にも、似た文章を書いた。

 七年前にも。

 三年前にも。


 リオは二十八文字を選択し、削除キーに指を置いた。


 スマートフォンが振動した。


 出版社からの連絡が三件、取材依頼が二件、知らない番号からの着信が一件。その下に、ニュースアプリの通知が表示されている。


〈評論家・加瀬文乃氏、作品への批判をめぐる投稿を削除〉


 若い評論家の加瀬は、リオの初期作品を高く評価したうえで、近年の作品を「多面的に見せかけながら、すべての登場人物が作者の用意した結論へ収束している」と批判していた。


 〈見せかけながら〉という言葉を、二度読んだ。

 そこまで言うことはないだろう。記事を閉じたが、親指はまた同じ通知を押していた。


 記事には、彼女を責めるコメントが並んでいた。


〈理解できないなら評論家を名乗るべきではない〉


〈先生の作品を政権批判に利用したいだけ〉


〈売名行為〉


〈こいつの過去の発言を掘ったら色々出てきそう〉


 加瀬の所属先や家族について触れている投稿もあった。いくつかのアイコンには、自分の作品の登場人物が使われている。


 『灰冠都市』の主人公。

 権力へ抵抗し、異なる立場の者と対話し続けた青年。


 その顔を掲げた人々が、批判者の勤務先へ抗議を送ろうと呼びかけていた。


 SNSの投稿画面を開いた。


〈私の作品を理由に、特定の個人を攻撃することはやめてください〉


 読み返してから、もう一文を足した。


〈作品への批判は、作者である私も受け止めるべきものです〉


 〈受け止める〉を〈向き合う〉に直した。


 どちらにしても、加瀬の批判を認めたと受け取られるだろうか。そうなれば、今度は「先生に言わせた」と彼女が責められるかもしれない。


 二文目を消した。

 残った一文だけでは、彼女を置き去りにしたように見えた。


 削除した文章を戻した。

 攻撃を止めたいだけなのに。そう書き足しかけて、やめた。


 それだけではなかった。

 出版社や映像会社から連絡が来るだろう。新作のことを聞かれても、まだ一行しかない。


 投稿ボタンに触れかけた指を戻した。

 しばらくして、入力した文章をすべて削除した。


 画面には、〈いまどうしてる?〉という薄い文字だけが残った。


 ◆


「十周年ですから、出すならちゃんとしたものにしたいんです」


 午後、出版社の会議室で、担当者が企画書をリオの前へ押し出した。自分でも覗き込むようにして、表紙をめくる。


「未収録短編をまとめて、先生の書き下ろしエッセイも入れて。『灰冠都市』の完全版です」


「作品についての解説でしょうか」


「今の時代に、この作品を読む意味ですね」


「意味まで、僕が決めるんですか」


「いや、正解とか、そういうことじゃなくて」


 担当者は困ったように笑った。


「先生の言葉が読みたいんです。読者も、きっと。自分も読みたいですし」


 リオが企画書を見ているあいだに、担当者は次のページを開いた。


「今朝のニュースは、見ました?」


「見ました」


「朝から電話がすごいんですよ。十周年のこの時期に、あんなところで引用されるなんて。宣伝部はもう、帯の案まで――」


「帯に使うんですか」


「あ、まだ案です。まず先生に相談してから、という話で」


「やめたほうがいいと思います」


「……ですよね」


 担当者は企画書へ目を落とし、小さくうめいた。


「うわあ。これ、持ち帰るのが怖いな」


「前後の文脈とは異なる使われ方ですから」


「分かりました。それで押し返します。ただ、引用自体は正確だって、もう言われてるんですよね」


「そうですね」


 そのとおりだった。文章を直してほしいわけではない。

 では、どう使ってほしいのか。そこまで作者が決めていいのか。


「先生から何かコメントを出しますか」


 リオは答えなかった。

 担当者は開いていたペンの先を、企画書の上で止めた。


「……いえ、無理にとは言いません。先生はこれまでも政治的な発言を控えてこられましたし。その姿勢が、作品への信頼にもなっていますから」


 信頼。


 今朝見た投稿を思い出していた。


「加瀬さんの件は、ご存じですか」


「見ました。勤務先にまで抗議を送るなんて、あれはひどいですよ」


 担当者は眉を寄せ、企画書を脇へよけた。


「出版社として、何か対応は」


「社内では静観ということになっています。うちが出ると、先生があの批判を認めた、という話にもなりますし」


「僕が何か言えば、止まるかもしれません」


「止まってくれるなら、すぐにでもお願いしたいです。でも、今度は先生のところに来たらと思うと……」


 担当者が口元を指でこすった。


「すみません。先生が責任を感じることではありません。今は触らないでいただけると、正直、助かります」


「分かりました」


 担当者が息を吐いた。止めていたペンにキャップを戻す。

 その音を聞いて、リオもようやく背もたれに身体を預けた。


「それで、新作のほうは、いかがでしょう」


 担当者は脇へ置いた企画書を引き寄せた。


「少し時間をいただいています」


「もちろんです。ただ、映像会社からも、早めに概要が欲しいと言われていまして」


「まだ、お渡しできる段階ではありません」


「あ、いえ。催促するつもりでは」


「催促ですよね」


 担当者は一瞬黙り、それから笑った。


「はい。すみません」


 リオも少しだけ笑った。担当者は肩を落としたまま、企画書をそろえた。


「でも、こっちも楽しみなんです、先生の新作。急いで質を落としてほしいわけじゃないんですよ」


 四か月で二十八文字、とは言えなかった。


「ありがとうございます」


「映像会社には、こっちで何とか返しておきます」


 担当者はそう言って、企画書を鞄へしまった。


 ◆


 出版社を出たところで、二人組の若者に声をかけられた。


「あの、リオ先生ですよね」


 大学生くらいの男女だった。リオが振り向くと、声をかけた男性は隣の女性を見た。


「ほら、本当に……」


「すみません、お急ぎですか」


 女性の問いに、リオは首を振った。

 男性が鞄から『灰冠都市』の文庫本を取り出した。何度も読まれたらしく、角が丸くなっている。


「この本のおかげで、政治とか社会のことを考えるようになりました。あの、サイン、お願いできますか」


「もちろんです。ずいぶん読んでくれたんですね」


「すみません、汚れてて」


 男性が表紙を袖で拭こうとした。


「そのままで。こちらのほうが嬉しいです」


 差し出された本を受け取り、相手の名前を聞いた。聞き取った漢字を確かめてから、表紙の裏へ書き始める。


 女性はスマートフォンを握ったまま、男性の肩越しに身を乗り出した。


「先生、今朝のニュース、見ました? 私、腹が立っちゃって。『お前が言うな』って、テレビに言っちゃいました」


 男性が彼女の肘へ触れた。


「いきなり、その話は」


「でも、首相、自分が作中の独裁者と同じだって気づいてないじゃないですか。先生の作品って、本当に今の政権がやってることを予言してますよね」


 リオはペンを止めた。


「予言として書いたわけではありません」


「でも、先生は分かってたんですよね。こういう社会になるって」


「社会は、似たことを繰り返しますから」


「ですよね。だから、あそこで先生の言葉を使われるの、嫌だろうなって」


「あの人物を、独裁者だと思いましたか」


 女性の口が、少し開いたまま止まった。


「え。だって、戦争を始めた人ですよね。……違いました?」


 男性がリオと彼女の顔を見比べた。


「すみません。二人とも、先生に会えて、ちょっと興奮してて」


「いえ、謝らなくていいんです。ただ、僕は――」


 問い返さなければよかった。


 止めていたペンを動かした。


「正しい人を書いたつもりも、間違った人を書いたつもりもありませんでした」


「じゃあ、どういう……」


 女性は言葉を切ったが、まだリオを見ていた。

 署名の最後の一画が、少し長くなった。


「作品の受け取り方は、人それぞれです」


 少し笑ってみせた。

 女性も笑い、握っていたスマートフォンを鞄へ戻した。


「すみません、私ばっかり話して。ありがとうございます」


 男性に本を返した。署名が擦れないように、開いたまま受け取ってくれた。


「これからも応援しています。帰ったら、また読みます」


「ありがとうございます」


 二人は何度か頭を下げてから、歩き出した。男性が本を示すと、女性が顔を寄せた。声までは聞こえなかったが、二人とも笑っていた。


 リオはペンのキャップを閉めた。うまく噛み合わず、一度やり直した。

 ペンをしまおうとしたとき、ショーウインドーのガラスに自分の姿が映った。


 濃紺のジャケット。白いシャツ。黒い髪。穏やかで、落ち着いた顔。


 リオは、その男をよく知っているはずだった。

 けれどガラスの中の男は、視線を外すまで、何も答えなかった。


 ◆


 夜。


 再び、二十八文字だけが書かれた原稿の前に座っていた。

 リオはその続きを書いた。


 都市を統治する評議会。隣国から流れ込む難民。治安維持を名目に強化される監視。理想を掲げながら、現実の前で妥協する政治家。

 反政府組織にも、それぞれの事情を与える。評議会側にも、正当な論理を与える。


 どちらも完全には正しくない。

 どちらも完全には間違っていない。


 最後に主人公は、一つの答えを選ぶ。

 その選択が正しかったかどうかは、読者へ委ねる。


 そこまで考えて、執筆の手を止めた。

 結末まで分かっていた。次に誰が何を言うかも、その台詞に誰が反論するかも。


 原稿に打ち込む前から、誰の声にも覚えがあった。


 原稿を閉じた。


 部屋の棚には、自分の本が並んでいる。初版、文庫版、愛蔵版、外国語版、映像化記念版。同じ物語が、異なる装丁で何十冊も並んでいた。


 その中央に、一冊だけ背表紙の色が違う本があった。


 リオは眉を寄せた。

 見覚えがない。飲み込まれそうな黒。

 題名も著者名もなかった。


 出版社から届いた見本だろうか。


 手に取ると、表紙は不自然なほど冷たかった。


 最初のページを開く。


 何も書かれていない黒。

 二ページ目も、三ページ目も真っ黒だった。


 ページをめくるたび、部屋の音が一つずつ消えていった。


 冷蔵庫の作動音。

 窓の外を走る車。

 壁の時計。


 胸の奥で、鼓動がドクドクと鳴った。

 最後にはその音すら消え、自分の呼吸だけが残った。


 本の中央付近に、一行だけ文章があった。


 ――物語を傷つけた者は、その結末から逃れることができない。


 リオは、その一文を見つめた。


 紙の上に、赤黒い波が広がった。インクは文字を形作りながら、ゆっくりと次の行へ進んでいく。


 ――小説家、リオ。


 よく知っているはずの自分の名前が、ひどく他人のものに見えた。


 机の上の原稿が、風もないのにめくれ始めた。

 棚から自分の小説が落ち、床に散らばる。ページの文字が紙から剥がれ、黒い粒となって宙へ浮かび上がった。


 数え切れないほど書いてきた言葉が、部屋の中を埋めていく。


 正義。国家。自由。

 責任。犠牲。理解。


 何度も使い、何度も別の人物に語らせた言葉。

 それらが蜷局を巻き、リオの視界を覆った。


 ――汝の罪は、物語の劣化。


 リオは目を閉じなかった。否定の言葉も口にしなかった。


 床が消え、身体が暗闇へ落ちていく。


 手を伸ばせば、机の端に届いたかもしれない。

 声を上げれば、誰かに助けを求められたかもしれない。


 けれどリオは、どちらもしなかった。


 落下しながら、ほんの一瞬だけ思った。


 これで終わるのなら。

 それも、悪くないのかもしれない。


第0話・終

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