第13話 その者、うつけにつき
城の中へ入ると、吉法師を待っていた男たちが立ち上がった。
一人が頭を下げる。
その後ろでも、衣擦れの音が重なった。
「お戻りでございますか。皆、先ほどより」
「知っておる」
吉法師は足を止めなかった。
リオとツムギへ、いくつもの目が向いた。
道で二人を呼び止めた男が、何か説明しようとしている。
その声が届く前に、吉法師は廊下の奥を指した。
「リオ。こっちだ」
「吉法師様、お話だけでも先に」
「俺も、話を聞く」
男の顔から目を離し、リオは少年のあとを追った。
上がり口で靴を脱ぐのに手間取った。
紐を解いていると、頭の上から声がした。
「まだか」
「少し、待ってください」
吉法師は裸足で立っていた。
足首に、乾いた土が残っている。
隣でツムギが片方の靴を脱いだ。
身体が傾き、リオは手を伸ばしかけた。
彼女は柱に掌をつき、何でもないようにもう片方を揃えた。
「大丈夫。先に行って」
リオは残った紐を引いた。
顔を上げると、吉法師はまだそこにいた。
待ちきれないように踵を上下させながら、こちらを見ている。
◆
通された部屋で、リオは入口の近くに膝をついた。
「そこでは遠い」
吉法師が自分の前を叩く。
リオが移ると、ツムギも少し離れて腰を下ろした。
黒い本を膝から下ろし、両肩をゆっくりと落とす。
吉法師へ、濡れた布と、飲み水を入れた器が運ばれてきた。
少年は布で手を拭いながら、リオの本を顎で示した。
「それに書いてあるのか」
「いえ。これは違います」
「では、何に書いておる」
「紙に。今は、持っていませんが」
「覚えておろう」
拭き終えるより早く、布を脇へ放した。
「聞かせよ」
リオは膝の上で本を置き直した。
どこを短くすれば、途中で飽きられないか。
考えかけて、リオは口を閉じた。
シンデレラの城で、自分へ向けられた拍手が浮かんだ。
今度は、そのために話を省きたくなかった。
「どうした」
吉法師が片膝を立てた。
「長い話になります」
「長いと、つまらぬのか」
「いえ。面白いです」
言い切ってから、リオは膝の上の手を握った。
「……そう思って、書きました」
吉法師は片方の眉を上げた。
「ほう。ならば、聞こう」
廊下で、誰かが咳払いをした。
リオはそちらへ目をやった。
吉法師は見なかった。
「『灰冠都市』という物語です」
少年の指が、膝を叩くのをやめた。
「灰に覆われた都市に、一人の青年がいます」
青年の身に起きることを、リオは一つずつ話していった。
吉法師は、立てていた膝を抱え直した。
その間、口を挟まずに聞いていた。
話を進めるうちに、喉が引っかかった。
咳を押さえると、吉法師が脇の器を取った。
器は、そのままリオの前へ置かれた。
「飲め。聞こえぬ」
「ありがとうございます」
リオは両手で器を持った。
冷たい水が、喉を通った。
飲み終えるまで、吉法師は待っていた。
今度は膝も、踵も動かさなかった。
「それで?」
器を下ろすと、すぐに声が来た。
「はい。ここからなんです」
リオは口元を拭いながら、話を続けた。
青年が、逆らった相手の言葉にも耳を傾ける。
そのくだりで、吉法師は鼻を鳴らした。
「まだ聞くのか。そいつの話を」
「聞くんです。ここは、どうしても外せなくて。聞くことと、従うことは違いますから」
気づくと、リオは膝を進めていた。
吉法師の口の端が上がる。
「俺まで頷かせるつもりか」
「できれば。……いえ、まず、続きを聞いてください」
「聞いておる。さっきから、ずっとな」
少年は笑った。
リオも口元を緩め、話へ戻った。
やがて、話は、都市を守るために戦を始める男へ及んだ。
吉法師は、身体を前へ寄せた。
リオは声を落とした。
「国を守るとは、すべての市民を幸福にすることではない。何を失うかを選び、その責任を引き受けることだ」
吉法師の目が、リオを見た。
廊下の向こうで、人の足音が止まった。
「そいつは、何を失うた」
少年が言った。
リオは、膝の上の本から手を離した。
「息子です。都市を守るために戦を始めて、自分の息子を死なせます」
吉法師は、口を開かなかった。
脇に置かれた布へ手を伸ばす。
指の付け根を拭い、布を裏返した。
「先に、そこまで話すのか」
「そこを聞かれたら、言いたくなってしまって」
「黙っておってもよかった」
「その言葉だけで、立派な人だと思ってほしくありませんでした」
吉法師が顔を上げた。
「立派だと言うてはおらぬぞ」
リオは口を閉じた。
「勝手に俺の話まで作るな」
ツムギが、リオを見た。
視線が合うと、眉をわずかに下げる。
リオは息を吐いた。
「そうですね。すみません」
吉法師は布を置いた。
「それで、その父親の話は、もう終わりか」
「いえ」
「ならば聞く。その言葉の前も後も、話せ」
リオは少年を見た。
褒めるとも、責めるとも言われていない。
ただ、続きを待たれていた。
リオは、男が戦を始める前へ話を戻した。
しばらく話して、また前へ戻った。
「そこは、さっきも聞いた」
「はい。でも、一つ抜かしていました。そこを飛ばすと、さっきの言葉が違って聞こえるので」
吉法師が小さく笑った。
「自分で書いたのであろう」
「書いたんですけどね」
リオも笑った。
その声に、自分で少し驚いた。
「あ、もう一つだけ。その男のことで、話したいところが」
「一つで済むのか」
「……二つかもしれません」
今度は吉法師が声を立てて笑った。
リオはその笑いが収まる前に、話し始めていた。
◆
戸の外に、若い男が膝をついていた。
話が途切れるのを待ち、男は口を開いた。
「吉法師様。お待ちの方々を、いかがいたしましょう」
「信盛。待たせておけ」
「すでに長くお待たせしております」
吉法師はリオを見ていた。
「続けよ」
リオは口を開きかけた。
男の手が見えた。
揃えた指の先が、畳を押している。
「ここで、一度切ります」
吉法師が眉を寄せた。
「なぜだ」
「先を急ぐと、また抜かしますから。今日は、ここまでで」
吉法師が身体を前へ寄せた。
リオは、男を見なかった。
しばらく、返事がなかった。
やがて、吉法師は鼻から短く息を吐いた。
「面倒な話だな」
「ええ。書くのも、面倒でした」
ツムギが下を向いた。
肩が小さく動いている。
吉法師も笑った。
「初めからそう申せ」
少年は立ち上がった。
男が顔を上げる。
「すぐに参る」
そう告げてから、吉法師はまたリオを見た。
「おぬしは、逃げるなよ」
「逃げません」
答えてから、リオは本の表紙を見た。
自分で決められることではない。
吉法師は、その視線を追っていた。
「それほど大事か。その本は」
「はい」
「膝からも下ろさぬ」
言われて初めて、抱え直していたことに気づいた。
吉法師が、リオの手元へ指を伸ばした。
表紙には触れず、その上で指を止める。
「今度は、おぬしの書いたものを持って来い」
リオは少年を見上げた。
「読んでくださるんですか」
「おぬしに喋らせると、途中で止まる」
笑みが、先にこぼれた。
リオは口元を手で押さえた。
「本なら、ご自分で続きを読めますね」
「そうだ。先をめくればよい」
吉法師は笑って、手を引いた。
さっきまでリオの前にいた少年が、もう戸口へ向かっている。
話を聞いている間には気にならなかった刀の鞘が、歩くたびに揺れた。
男が身を引く。
吉法師はその前を通り過ぎた。
「リオ」
廊下へ出たところで、もう一度呼んだ。
「ほかの話も、あるのであろうな」
リオが答える前に、男が深く頭を下げた。
少年の姿が、戸の向こうへ消える。
まだ、『灰冠都市』さえ聞き終えていなかった。
◆
足音が遠ざかると、ツムギは小さく息を吐いた。
リオが足を崩しかけると、ツムギが言った。
「急に動かすと、痛いよ」
自分の足首に手を添え、彼女は片足を伸ばしかけた。
次の瞬間、顔がくしゃりと歪んだ。
リオが見ると、片手を上げて制された。
「見ないで。今、ちょっと失敗したから」
リオは戸口へ顔を向けた。
しばらく二人とも動かなかった。
庭から鳥の声が聞こえた。
「楽しそうだったね」
ツムギが言った。
「吉法師ですか」
「リオさん」
膝の上で、リオの指が止まった。
「何度も、話を戻してしまいました」
「うん。戻るたび、声が変わった」
ツムギは自分の喉へ指を当てた。
「ここはちゃんと聞いて、って。言葉にしなくても、分かった」
リオは、閉じた本へ目を落とした。
省かずに話すと、うまく進まなかった。
それでも、話している間は、続きを早く言いたかった。
「聞いてもらえるとは、思っていませんでした」
「ずっと、リオさんの方を見てた」
ツムギが戸口を見た。
「でも、あの人が部屋を出るときは、もう次だったね」
廊下の奥から、男の声がかすかに届いた。
低く、長い説明をしているらしかった。
吉法師の声がそれを遮った。
言葉までは聞こえない。
そのあと、男の声が少し早くなった。
ツムギはそちらへ耳を向けていた。
「私、台本を読むとき、離れた場面を並べて読むことがあるんだ」
「離れた場面?」
「笑ってるところと、怒ってるところとか。同じ人なのに、別々の人になっちゃうことがあって」
彼女は空いた畳の上へ、左右の手を置いた。
「その場だけなら、笑えるし怒れる。でも、間がつながらないと、次に声を出すとき、分からなくなる」
リオは、少年の座っていた場所を見た。
土の上で勝ったときの顔。
リオの話へ身を寄せた顔。
喜んでいるのは、嘘ではなかった。
「勝っても、話を聞いても、まだ何か欲しそうでした」
「うん。相撲のときも、今も。何をしたいのかが同じなら、私には、同じ人の声に聞こえる」
ツムギの右手が、畳から離れた。
「だから、あの最初の場面が、気になる」
リオは顔を上げた。
炎の中で、信長は座っていた。
誰かを呼びつけることも、急かすこともしなかった。
見知らぬリオを見て、笑った。
今日の少年から、あの男まで。
その間には、まだ何も見ていない年月がある。
「子どもの頃から見せてくれれば、あそこまで、ついていけるのかもしれない。でも、私たちは先に、最後を見たでしょう」
ツムギが言った。
「今も、あの顔と比べて見てる。台本だったら、書いた人が、そう見てほしくて並べたんだと思う」
リオは頷いた。
本能寺から、少年の日へ。
その順番を、自分たちが選んだわけではない。
同じ入口から入った四人が、初めは別々に、あの男と向き合わされていた。
誰かが、この順番で見せている。
「僕は、知っている歴史に、当てはめようとしていました」
リオは本を開いた。
――本能寺の変の真相を明らかにせよ
文字は変わらなかった。
「でも、ここで誰が何をしたかは、見ないと分からないですね」
「信長だから、こうするはず、って?」
「ええ。それでは、この人の話を聞いたことにならない」
リオは、文字の下の余白を見た。
起きたことを知っていても、ここにいる男の理由までは分からない。
どの出来事を選び、どこへつなぐかで、同じ歴史から違う物語が生まれる。
「ここは、誰かが書いた信長の物語なんですね」
口にすると、リオはもう一度、少年の座っていた場所を見た。
歴史で知っている名前よりも、水の器を差し出した手が、今ははっきりと思い出せた。
「続きが欲しいですね」
リオが言うと、ツムギは少し笑った。
「あの人と同じこと言ってる」
リオも笑いかけた。
けれど、吉法師は先をめくろうとした。
自分は、知っている頁を捜していた。
「カイさんにも、聞いてみたいな」
ツムギが呟いた。
「何をですか」
「最初に、あの場面を置くこと。映画を撮る人は、どう見るんだろう」
リオの指が止まった。
白い頁が、別の紙に見えた。
『灰冠都市』。
同じ題名が印刷された、映画の脚本だった。
中には、自分の知っている人物の名前があった。
だが、冒頭で、敵が取る行動が違った。
そこから先を読めば、一か所の修正では済まないことが分かった。
人物の立つ場所が変わる。
自分の書いた結末へは、そのまま戻れなくなる。
リオは、それを公開されてから知ったわけではなかった。
「リオさん?」
ツムギの声がした。
リオは本から手を離した。
指先に、紙の感触が残っている。
あのときも、こうして読んでいた。
カイが何を変えようとしているかは、見えていた。
自分は、原作者だった。
言えることがあった。
リオは、もう一度、白い頁を見た。
そのとき言わなかった言葉の方が、今も、はっきりと思い出せた。
第13話・終




