第12話 吉法師
馬の姿は、もう見えなかった。
それでも、追う道に迷うことはなかった。
乾いた道に、蹄の跡が続いている。
先ほど吉法師の名を呼んでいた男たちも、同じ方へ歩いていた。
「僕は、あの人を追います」
リオが言うと、アリアは馬の消えた道を見た。
「私は、ほかの人の話も聞いてみる」
「別行動ですか」
「ええ。全員で同じものを見る必要はないでしょう」
カイが答えた。
すでに身体を、道の脇へ向けている。
「今度は、聞きたいことを聞けるといいですね。リオ先生」
リオが何かを返す前に、カイは歩き出した。
アリアの目が、一度だけツムギへ向いた。
ツムギは黙って、その目を見返した。
「またあとで」
アリアはそう言って、人の行き交う道の方へ向かった。
残ったツムギが、リオの隣へ来る。
「私は、こっち。一緒に行ってもいい?」
「もちろんです」
歩き始めると、ツムギは黒い本を右腕に抱え直し、すぐに左へ戻した。
「少し、ゆっくり行きましょう」
リオは歩幅を緩めた。
「馬を追いかけてるのに?」
ツムギが笑う。
「もう追いつけません。走っても同じです」
「それもそうだね」
やがて、道の先から笑い声が聞こえた。
田畑の途切れた空き地に、人だかりができている。
木につながれた馬が、尻尾で腹を叩いていた。
その向こうで、誰かが地面へ転がった。
「次だ」
少年の声だった。
二人が人の輪へ近づくと、土の上に立つ吉法師が見えた。
小袖の裾をからげ、袖も肘の上までまくっている。
向かいには、肩幅の広い若者がいた。
吉法師より頭一つ大きい。
「お前なら、俺を転がせるか」
若者は笑おうとして、口元を引きつらせた。
「吉法師様に怪我をさせては」
「させてから言え」
周囲から笑いが起きた。
若者も、今度は少しだけ笑った。
リオは人垣の隙間から、その顔を見た。
幼い。
炎の中にいた男とは、声も、体つきも違っていた。
それでも、相手を見上げる目だけは変わらない。
「おい」
すぐそばで声がした。
刀を差した男が、リオたちの前へ立っていた。
その目が、二人の服装を順に確かめる。
「何者だ。そのようななりで、どこから来た」
リオは口を開きかけた。
男の視線が、胸に抱えた黒い本へ下りる。
「それも見せよ」
伸びてきた手から、リオは思わず本を引いた。
男の顔つきが変わる。
「動くな」
腕を掴まれた。
別の男が、ツムギの行く手を塞ぐ。
「二人とも捕らえろ。何を隠しているか、調べる」
「待て」
吉法師の声が割り込んだ。
リオが顔を上げると、少年はまっすぐこちらを見ていた。
視線が、リオの靴から服へ、最後に黒い本へ動く。
少年の口元が、ゆっくりと緩んだ。
「妙ななりだな。その格好で、俺を見に来たのか」
「……はい」
「ならば、近くで見ろ」
「吉法師様、こやつらは」
「まだ縛るな。使い道がある」
吉法師はリオの前まで来ると、腕を掴んでいる男の手を指で叩いた。
男が手を放すより早く、もう輪の中を指している。
「おぬしだ。こっちへ来い」
人垣がわずかに割れた。
リオはツムギを振り返った。
彼女は掴まれてはいなかったが、男がすぐそばに立っている。
「その女は連れか」
「はい」
「そっちは木陰で待たせろ」
ツムギが、小さく頷いた。
リオは息を吐いた。
腕を放された場所を、そっと押さえる。
今度は、少年の顔から目を離せなくなっていた。
リオは輪の中へ入った。
「勝ち負けを見ておれ」
「僕が、ですか」
「ほかに誰がいる」
周りには、何人もの男がいた。
誰も口を挟まなかった。
「決まりを教えてください」
吉法師は、裸足で土を踏んだ。
「足の裏以外が先に地につけば負けだ。手でも膝でもな」
「先に触れた方ですね」
「そう言うておる」
それきり、吉法師は相手へ向き直った。
どこから来たのか。
なぜ、そのような服を着ているのか。
何も尋ねない。
見ていなかったわけではない。
燃える本能寺でも、あの男は、同じようにリオを見ていた。
「始めてよいか」
若者が尋ねた。
リオは顔を上げる。
「はい」
二人がぶつかった。
乾いた音とともに、吉法師の身体が後ろへ押される。
若者の太い腕が、その背へ回った。
「おお」
人垣から声が上がった。
吉法師の足が土を削った。
片足が浮きかける。
若者が腰を落とし、抱え上げようとした。
その瞬間、吉法師が身体をひねった。
腕の下へ潜り込み、相手の脇を抜ける。
だが、姿勢が低すぎた。
左手が、地面についた。
ほんの一瞬だった。
その手で土を突き、吉法師は立ち上がった。
若者の背へ回り、伸びた足を払う。
大きな身体が、横倒しになった。
土埃が上がる。
「吉法師様の勝ちだ!」
誰かが叫んだ。
すぐに、周りの男たちも声を合わせた。
見事だ。
さすがだ。
あの体格の差で、よくぞ。
若者が肘をついて身体を起こす。
口を開きかけ、閉じた。
その目が、リオへ向いた。
吉法師も、こちらを見ている。
「どうした」
リオは地面を見た。
乱れた足跡の間に、小さな手の跡が残っていた。
「勝ったと申せ」
背後から、低い声がした。
先ほど呼び止めた男だった。
「もう見たであろう」
リオの指が、本の角を押さえた。
勝ったと言えば、終わる。
若者は自分で立ち上がり、吉法師は次の相手を選ぶ。
誰も困らない。
少なくとも、この輪の中で声を上げる者はいない。
「判定は、おぬしに頼んだ」
吉法師が言った。
リオは顔を上げた。
「あなたの負けです」
笑い声が途切れた。
「こちらの方が倒れる前に、左手が地面についていました」
吉法師が、自分の手を見た。
掌に土がついている。
背後の男が、一歩近づいた。
リオは動かなかった。
動けば、声まで取り消してしまいそうだった。
やがて、吉法師が笑った。
土のついた掌を、リオの目の前にかざす。
「見ておったか」
リオの横を通り、若者の前へ戻る。
「もう一度だ」
「は」
「立て。今度はつかぬ」
若者は一度、周りを見た。
それから土を払って立ち上がった。
吉法師がリオを見る。
「今度も見ておれ」
「……はい」
二人が向かい合う。
さっきよりも、長い間があった。
若者が手を伸ばす。
吉法師は、その腕を掴まなかった。
足を引き、回り込み、相手が向きを変えるのを待った。
若者の息が大きくなる。
一歩。
また一歩。
追いかける足が揃ったところで、吉法師が踏み込んだ。
肩が、若者の胸に当たる。
吉法師が小袖を引き、若者の身体が傾いた。
吉法師は潜らなかった。
両足を土に残したまま、相手を横へ振った。
若者の膝がついた。
続いて、両手が地面を叩く。
「あなたの勝ちです」
リオが告げた。
今度は誰にも急かされなかった。
歓声が上がる。
吉法師も笑った。
若者の肩を一度叩き、掴んでいた布を放す。
リオの判定に頷くと、歓声が続いているうちに若者へ向き直った。
「もう一度だ」
若者の背中が、呼吸に合わせて上下した。
「吉法師様、勝負はもう」
「今のは足が揃っていた。次はそうするな」
吉法師は、再び構えた。
ツムギは木陰から、その顔を見ていた。
まだ勝ったときの笑みが残っているのに、指先は若者に立てと促していた。
若者が片膝を立てる。
だが、立ち上がりきれず、もう一度手をついた。
「お水、先に飲ませてあげたら?」
木陰から、ツムギが言った。
声は大きくなかった。
それでも、周りの笑いが止まった。
吉法師がツムギを見る。
次に、若者を見る。
「そうか」
腰に下げていた瓢箪を外し、差し出した。
若者は両手で受け取った。
口をつけるより先に、息を吸った。
「飲んだら来い」
吉法師はそう言って、木陰へ歩いていった。
◆
木の下には、ツムギが座っていた。
膝の上に黒い本を置き、両手を添えている。
リオと目が合うと、小さく片手を上げた。
そばに立つ男は、二人の黒い本から目を離さない。
「座れ」
リオが腰を下ろすと、吉法師もすぐ隣へ座った。
膝が触れそうな距離だった。
リオが少し身を引くと、吉法師は空いた分だけ身体を寄せた。
「なぜ、ためらった」
リオは少年を見た。
「先ほどの判定ですか」
「見えていたのであろう」
「はい」
「首を斬られると思ったか」
笑ってはいなかった。
リオは、刀を差した男の方へ目をやった。
男は木陰の外に立ち、こちらを見ている。
「少しは」
「少しか」
リオは口を閉じた。
吉法師の口元が緩む。
「では、残りは何だ」
「……みんなが、あなたの勝ちだと言っていました」
「それがどうした」
「僕までそう言えば、丸く収まると思いました」
吉法師は、掌に残っていた土を払った。
「手をついたのは、変わらぬぞ」
「ええ」
「おぬしも見た。俺も知っておる。それで勝ったことにして、何が面白い」
リオは、本の上に置いた手へ目を落とした。
「僕は、そういうことをしていました」
吉法師の手が止まる。
「勝負をするのか」
「物語を書いていました」
「物語?」
「人に読んでもらう話です」
「それで、勝ったことにしたのか」
リオは少しだけ笑った。
「そうですね」
リオは少し間を置き、続けた。
「褒めてもらいました。たくさん読まれて、続きを求められました。だから、同じような話を、何度も書きました」
「悪いことか」
「……初めは、そう思いませんでした」
「読んだ者は喜んだのだろう」
「はい」
「ならば、おぬしも喜べばよい」
簡単なことを言うようだった。
リオは膝の上で指を組んだ。
ほどいて、もう一度組み直す。
「喜んだんです。売れたと聞けば、嬉しかった。次も書いてほしいと言われれば、安心しました」
「では、何が不満だ」
若者たちの笑い声が聞こえた。
さっき倒された男が、瓢箪を持ったまま何かを話している。
リオは、その声が途切れるのを待った。
「書き終わったものを、一人で読むと、分からなくなるんです」
「何が」
「なぜ、これを書いたのか」
吉法師は黙っていた。
「最初は、書きたい人物がいました。抱えきれないものを、それでも抱えて立ち上がる人です。その人のことを、最後まで書きたかった」
自分の手を見た。
塔の舞台で崩れた英雄の姿が、短く浮かぶ。
「書き終えたときは、これを書けてよかったと思えました」
「褒められる前からか」
「はい」
「誰にも読まれずとも?」
リオはすぐには答えられなかった。
「読んでほしかったです。面白いと言ってもらいたかった。それも、最初からありました」
吉法師は、リオの顔を覗き込んだ。
「欲がないふりをするな」
「しているつもりは」
「今、しようとした」
隣で、ツムギがかすかに息を漏らした。
リオが見ると、口元へ手を当てている。
「ごめん。ちょっと、リオさんらしくて」
リオは言い返せなかった。
「リオというのか」
吉法師が尋ねた。
「はい」
「リオ。おぬしも負けたな」
少年はまた笑った。
その笑い方につられ、リオの肩から少しだけ力が抜けた。
「けれど、同じものを重ねるうちに、書けたと思うことがなくなりました」
「書いてはいたのだろう」
「書いていました。次を出せば、今度こそと思っていました」
「やめればよいとは、思わなんだか」
「思いました」
「やめたか」
リオは首を横に振った。
「やめられませんでした」
吉法師は、すぐには次を尋ねなかった。
片膝を立て、遠くの空き地を見ていた。
「俺が勝ったとき、おぬしは妙な顔をした」
「……そうでしたか」
「負けたと言うたときよりもな」
リオは、土の上に残る足跡を見た。
「嬉しそうだったので」
「勝ったからな」
「でも、すぐに、もう一度と」
吉法師が片手を開く。
指の間から、乾いた土が落ちた。
「勝てば、気が済むと思うた」
リオは、その横顔を見た。
「済まなかったんですか」
「勝ったぞ」
吉法師は、自分の膝を叩いた。
「あいつも倒れた。おぬしも見た。さっきは負けだと言うた口で、勝ちだと言うた」
「はい」
「ならば、もっと面白くてもよいだろう」
リオは息を吸った。
声をかけようとして、止める。
吉法師が、こちらを向いた。
「何だ」
「いえ」
分かります。
そう言いかけていた。
「次は、どうなれば嬉しいんですか」
吉法師は、空き地へ目を戻した。
若者が瓢箪を仲間へ渡し、両腕をゆっくり回している。
「次も勝つ」
「勝った、そのあとは」
「やってみねば分からぬ」
少年の膝が、リオの膝に触れた。
腰を浮かせかけた吉法師は、ふとリオの顔を見て、そのまま座り直した。
「おぬしは、分かっていて書いたのか」
リオは唇を結んだ。
「途中からは、たぶん」
「それでも、次こそと?」
「はい」
吉法師が笑った。
今度は声を立てなかった。
リオも、少しだけ笑った。
木陰へ、風が通った。
汗の引いた首筋が冷たくなる。
「僕は、最初に書き終えたときのことを、何度も思い出していました」
「ならば、また書きたいものを書け」
「何もかも、失ってしまいます」
口にしてから、リオは顔を上げた。
吉法師は、こちらを見ていた。
「今あるものは惜しいか」
「……はい」
「そうか」
それだけだった。
リオは続きを待った。
責める言葉も、慰める言葉も来なかった。
吉法師は、腰から垂れた紐を指へ巻いていた。
きつく巻いて、ほどき、もう一度巻く。
「あなたは、前に戻りたいとは思わないんですか」
「負けたところへか」
「いえ。もっと、楽しかったときに」
「戻って、また同じ者に勝つのか」
リオは答えられなかった。
吉法師は紐を放した。
「あいつより強い者はおる」
若者の方へ顎を向ける。
「もう一度なら、足りるんでしょうか」
リオが尋ねると、吉法師はその顔を見た。
「おぬしも、まだやめておらぬのだろう」
本を押さえた指へ、視線が下りた。
リオは、その指を緩めなかった。
「はい」
吉法師が立ち上がった。
若者も、慌てて背筋を伸ばす。
瓢箪を持っていた男が、行くのか、と小声で尋ねた。
若者は返事をせず、足首の土を払った。
リオも腰を浮かせた。
「まだ、息が戻っていません」
吉法師が振り返る。
「見ておったのか」
「あの人も、見ていましたから」
少年は目を細めた。
そのとき、道の方から声がした。
「吉法師様! お戻りを!」
馬の手綱を持った男が、足早に近づいてくる。
「城でお待ちの方々を、これ以上は」
吉法師は舌打ちした。
「騒がしい」
小袖の裾を下ろし、若者へ顔を向ける。
「次も来い。今より動けるようにしておけ」
若者は一度だけ頭を下げた。
その背に、仲間の手が添えられた。
吉法師は、もう馬の方へ歩いている。
その途中で、振り返った。
「リオ。来い。連れもだ」
刀を差した男が、また口を開いた。
「ですが、素性も」
「馬を寄せよ」
吉法師は、男を見なかった。
手綱が届くのも待たず、リオが来るかを確かめている。
ツムギが、木の幹に手をついて立ち上がる。
リオは戻りかけ、彼女がこちらへ歩いてくるのを待った。
リオは、少年の背を見ていた。
聞きたいことは、まだあった。
だが、何から聞こうかと考える前に、吉法師の方がリオを呼んだ。
「その物語の話だ」
「……次は、リオさんなんだね」
ツムギが小さく呟いた。
リオが振り向くと、彼女は少年と空き地を見比べていた。
差し出された手綱を取り、少年は言った。
「続きは城で聞く」
第12話・終




