第5話 すべての娘への招待
「たぶん――お前が最後の相手だ」
リオは、すぐには答えなかった。
最後の相手。
それが、三勝目を懸けて戦う相手という意味なのか。あるいは、別の何かを指しているのか。
「最後、ですか」
「今やって、どっちが勝っても納得しないだろ」
「勝敗に、納得は必要ないと思います」
「そういうところだよ」
トマリは笑った。
いつもの軽い笑い方だった。
だが、視線はリオから逸らさなかった。
「今の俺たちが戦っても、たぶん何も変わらない。お前は止まったままだし、俺も変え続けたことを否定するつもりはない」
「だから、今は戦わない?」
「最後まで残った答え同士でやろうぜ」
トマリは王城へ目を向ける。
門の奥では、速度の異なる楽器が、同じ舞踏曲を奏で続けていた。
「その方が、どっちも言い訳できない」
リオは、トマリの横顔を見た。
自分が、この塔を出るまでに何を選ぶのか。
再び書くのか。
書けないままなのか。
過去へ戻ることを望み続けるのか。
まだ、何一つ分からない。
トマリも同じなのだろう。
自分の選択を引き受けているように見えて、その結論が本当に最後まで変わらないとは限らない。
今の二人が戦っても、確かに答えは出ない。
「分かりました」
リオは言った。
「共闘は、ここまでにしましょう」
「止めないんだな」
「あなたが決めたことです。それに――」
一度、言葉を切る。
「僕も、あなたと戦うのは今ではない気がします」
トマリは少しだけ目を見開いた。
それから、満足そうに笑う。
「だろ?」
上着の内側から、一枚のカードを取り出した。
《三人目の娘》。
顔も名前も人生も失い、役割だけを残した少女。
「じゃあ、これはお前が持っていけ」
差し出されたカードを、リオは見た。
「僕が?」
「城まで連れていくんだろ」
「あなたはどうするんですか」
「戻るまで、もう少し別の場所を見て回る。せっかく物語の中まで来たんだ。取れるものは取っておきたい」
いかにもトマリらしい答えだった。
リオはカードを受け取る。
指先が触れた瞬間、抱えていた黒い本がひとりでに開いた。
空白だった長方形の枠へ、カードが静かに収まる。
《三人目の娘》
――未完成。
「失敗すれば、あなたも帰れないかもしれません」
リオとトマリの黒い本には、同じ指示が示されている。
「失敗すると思ってたら渡さないよ」
トマリはあっさりと言った。
「それに、あの子をどうにかしたいのは、お前の方だろ」
理由は、それだけだった。
リオは、カードに描かれた顔のない少女を見る。
「……そうですね」
「任せた」
トマリは王城に背を向けた。
来た道とは異なる、細い路地へ視線を向ける。
「次に会った時は、手は貸さないからな」
「それでも、今ここであなたと戦うよりは、納得できます」
リオは答えた。
「勝敗に納得はいらないんじゃなかった?」
トマリが振り返る。
「あなたが必要だと言ったので」
一瞬の沈黙のあと、トマリが声を上げて笑った。
「ほんと、面倒なやつだな」
笑いながら、トマリは歩き出した。
数歩進んだところで、片手を上げる。
「短い付き合いだったな。勝手に死ぬなよ、兄弟」
リオは、すぐには返事ができなかった。
兄弟。
似たものを抱えながら、正反対の道を選んだ者。
その呼び方が正しいのか、まだ分からない。
「あなたも」
ようやく返すと、トマリは振り返らないまま手を振った。
その背中は路地の奥へ進み、やがて夜の街に紛れて見えなくなった。
あとには、崩れた舞踏曲だけが聞こえていた。
リオは黒い本を開く。
顔のない少女は、何も語らない。
最後の相手。
トマリの言葉だけが、奇妙に耳へ残っていた。
しばらく、その場に立ち尽くした。
城から、崩れた舞踏曲がひときわ大きく響く。
リオはトマリの消えた路地から目を離し、王城へ向き直った。
城門の前には、舞踏会へ向かう者たちが列を作っていた。
「招待状を」
順番が来ると、衛兵が手を差し出した。
「持っていません」
「では、通すことはできません」
門の脇には、王家の紋章が押された布告が掲げられていた。
――王子の妃を選ぶため、国中すべての娘を舞踏会へ招く。
リオは黒い本から《三人目の娘》を取り出した。
「この娘も、招かれているはずです」
衛兵はカードへ目を向けた。
「そのような者は、名簿に記されていません」
開かれた名簿には、屋敷の娘として二人の名前だけが並んでいた。
「布告には、名簿にある娘だけとは書かれていない」
リオは掲げられた文章を指す。
「すべての娘です」
「名前のない者を、娘として認めることはできません」
「名前がなくても、娘であることは変わらない」
衛兵は黙った。
リオは《三人目の娘》を布告へ重ねる。
屋敷には、三人目の痕跡が残っていた。灰の上の足跡、一着多い服、一人分多い食事。
存在しなかったのではない。
名前を失ったのだ。
「なら、この招待は彼女のものでもある」
布告の文字が黒く滲んだ。
――すべての娘を舞踏会へ招く。
その一文だけが紙から浮かび上がる。
黒い文字は細い帯となり、《三人目の娘》の周囲をゆっくりと巡った。カードに描かれた少女の輪郭が、一瞬だけ濃くなる。
直後、壁に掲げられていた布告が大きく震えた。
留め具が弾け、紙が宙へ浮かぶ。
王家の紋章。舞踏会の日付。国中の娘たちへ向けられた言葉。
それらが中央へ吸い寄せられていく。
紙が折れたのではない。
縦と横の大きさを保ったまま、奥行きだけが失われていく。風に揺れていた端も、雨の染みも、紙の皺も、すべてが平らな絵へ変わった。
布告の輪郭をなぞるように黒い枠が現れ、その上部に文字が浮かぶ。
《すべての娘への招待》
最後の文字が刻まれた瞬間、硬質な音が響いた。
カードが完成した。
《三人目の娘》とは違う。
輪郭は揺らがず、薄く透けることもない。手に取ると紙より硬く、わずかな重さがあった。
表面には、王家の紋章が押された布告と、城へ続く馬車の列が描かれている。
その下には、短い文章が記されていた。
国中すべての娘を、舞踏会へ招く。
名前を持たない娘も、これを使用できる。
黒い本がひとりでに開いた。
何もなかったページに一枚分の枠が浮かび、カードを近づけると、指先から静かに離れた。
吸い込まれたのではない。
最初からそこに収まる場所があったかのように、カードは枠へ重なった。
絵も文字も、そのまま残っている。
誰かから預かったものでもない。
この物語の中でリオが見つけ、自分の手で形にした、初めてのカードだった。
あまりにもあっけなかった。
それでも、手の中には確かな重みがあった。
何かを手に入れたという実感と同時に、物語から一部を切り取ってしまったような感覚が残る。
衛兵は、カードと布告の消えた壁を交互に見た。
やがて名簿を閉じ、城門の脇へ退く。
「三人目のお嬢様と、その付き添いですね」
「はい」
「お通りください」
衛兵が手を上げると、閉ざされていた門が開いた。
リオはすぐには進まず、黒い本に収まった二枚のカードを見比べた。
《すべての娘への招待》は、一枚のカードとして完成している。
その隣にある《三人目の娘》は、いまだ顔も名前もない輪郭のままだった。
この娘は、まだシンデレラではない。
城門をくぐっても、おそらく変わりはないだろう。
「考えろ」
この世界では、異なるシンデレラが混ざり合った結果、一人の人物を成り立たせていた因果関係が、ばらばらに分解されている。
しかも中核となるシンデレラが欠けた状態で。
「欠けたシンデレラを埋める、ではなく」
ガラスの靴を与えるだけでは足りない。
なぜならガラスの靴はある一つの話におけるピースであってシンデレラを定義するものではないから。
この虐げられた娘が、この衣装をまとい、この舞踏会に現れ、この靴を残した。
それらを、一つの物語へ――
「統合する」
シンデレラを定義する一連の出来事が、一人の娘に起きたことでなければならない。
だが、人の人生を後からつなぎ合わせることなど、普通はできない。
普通なら。
リオは《すべての娘への招待》へ目を移した。
この塔では、物だけではなく、人物も出来事もカードになる。
切り離すことができるのなら、結び直すこともできるかもしれない。
《三人目の娘》を、招待された娘として城へ連れていく。彼女が姿を得て、舞踏会へ現れ、そこから去るまでを一つずつ体験させ、その出来事をカードにする。
そして最後に、舞踏会にいた娘と、屋敷にいた娘が同じ人物だと証明する何かを手に入れる。
それらをすべて、この空白へ戻す。
ばらばらになった物語を、一人の娘の人生としてつなぎ直す。
それができれば、《三人目の娘》はシンデレラになる。
リオは黒い本を閉じた。
その中には、未完成の少女と、完成した一枚の招待が収まっている。
様々な異本から本質を抜き出し、統合する。
異なる話なのに、本質的には同じ話。
まるで、自分の作ってきた作品のようだ。
「それに、あの子をどうにかしたいのは、お前の方だろ」
トマリの言葉を思い出す。
「気の利いた皮肉だ。」
静かに決意を固め、リオは開かれた城門をくぐった。




