第4話 トマリとリオ
時計は、十一時を指していた。
つい先ほどまで十一時十五分を過ぎていたはずの長針が、何事もなかったように巻き戻っている。
黒い本には、金色の文字が浮かんでいた。
――十二時までに、三人目の娘を舞踏会へ連れて行け。
トマリはカードを取り出す。
顔も、名前も、人生も失い、三人目の娘という役割だけを残した存在。
「これを城まで持っていけばいいのかな」
トマリが言った。
「舞踏会が開かれているのは王城でしょう。まずは向かうべきだと思います」
「でも、“カードを持って行け”じゃなくて、“娘を連れて行け”なんだよな」
「ええ」
「言い方が嫌らしいね」
リオも同じことを考えていた。
カードになったものを、人と呼んでいいのか。
人だったものが、カードになったのか。
あるいは初めから、この世界には役割しか存在していなかったのか。考えても答えは出ない。
二人は屋敷を出た。
閉ざされていた門は、いつの間にか開いている。
その先には、灰色の道が一本、街の向こうへ伸びていた。
来たときには存在しなかった道だった。
遠くに、夜空を切り取るような王城の尖塔が浮かんでいる。
「ずいぶん親切だな」
トマリが言った。
「親切すぎますね」
二人は王城へ向かって歩き始めた。
街は静まり返っていた。
窓に灯りがある。
煙突からは煙も上がっている。
それでも、人の姿だけがない。
道端には、片方だけの靴が落ちていた。
ガラスの靴。
革靴。
赤い布の靴。
泥に汚れた運動靴。
時代も形も違う靴が、すべて王城へつま先を向けて並んでいる。
しばらく無言で歩いた後、トマリが口を開いた。
「『灰冠都市』を書いたんだろ」
リオはトマリを見る。
「知っていたんですか」
「さすがに知ってるよ」
トマリは呆れたように笑った。
「読んだことも?」
「ある。最初のやつはね」
その答えに、リオは少しだけ意外そうな顔をした。
「面白かったよ」
「ありがとうございます」
反射的に頭を下げそうになり、リオは歩きながら小さく会釈するだけに留めた。
「素直だな」
「褒めていただいたので」
「もっと嫌そうな顔をするかと思った」
「なぜです?」
「昔の作品だけ褒められるの、嫌いそうだから」
リオは答えなかった。
トマリは、その沈黙を肯定と受け取ったらしい。
「やっぱり」
「あなたは、随分と遠慮がありませんね」
「遠慮してる時間、あと一時間もないからな」
トマリは本を開いて時計を見た。
長針はまだ、十一時を少し過ぎた位置にあった。
「続編も売れたんだろ」
「ええ」
「その次も」
「そうですね」
「何が不満だったんだ?」
問い方は軽い。だがリオには深く重い質問だった。トマリは答えを急かすことなく、前を向いて歩いている。
「最初は、求められていると思っていました」
リオは言った。
二十四歳で発表した『灰冠都市』は、大きな成功を収めた。
続編を望む声が届いた。
出版社も、読者も、その先を求めていた。
自分も、まだ書けると思った。
「続編を書きました。それも売れました」
「順風満帆じゃん」
「そう見えたと思います」
続編が売れれば、次も求められた。
同じ世界。
同じ作風。
同じ結末。
リオが書くものに、読者が何を期待しているのか。
少しずつ、分かるようになっていった。
「最初のうちは、新しいものを書こうとしていました」
だが、新しいことをすれば、前と違うと言われる。変えなければ、安心したと言われる。
評判のよかった要素を残し、理解されにくかった部分を減らした。
受け入れられた構成を使い、求められた感情へ物語を運んだ。
「前の作品より売れるものではなく、前の作品と同じように売れるものを書くようになりました」
トマリが横目でリオを見る。
「売上を上げるんじゃなくて、落とさないために?」
「そうです」
新しいものを書いて拒絶されるのが怖かった。
書きたいものを書いて失敗するよりも、求められているものを出し続ける方が安全だった。
リオらしい世界。
リオらしい人物。
リオらしい展開。
リオらしい結末。
何を置けば読者が喜び、どこで物語を動かせば評価されるのか。
いつしか、それが分かるようになっていた。
分かってしまった。
「売上は維持できました」
「成功だな」
「商業的には」
「それ以外では?」
リオは、道端に落ちていたガラスの靴を避けた。
「同じものしか書けなくなりました」
登場人物も、舞台も、出来事も違う。
それでも、最後には同じ形へ収束する。
複数の可能性を提示しながら、自分が用意した一つの結論へと人物を運ぶ。
かつて自然に書いていたものを、意識的に再現するようになった。
「書けば書くほど、最初の作品を薄めたようなものになっていきました」
「でも、売れた」
「ええ」
「気づいても、やめなかった」
リオは少しだけ間を置いた。
「やめませんでした」
売れていたからだ。
読者に求められていたからだ。
作家としての立場を失いたくなかったからだ。
新しいものを書いて、それらを手放す勇気がなかった。
「作品を劣化させていると分かっていながら、同じものを書き続けました」
リオは黒い本を抱え直した。
「停滞することで、売上を維持したんです」
トマリは何も言わなかった。
慰めるでもなく、否定するでもない。
しばらく、二人の靴音だけが続いた。
「やっぱり、俺とは逆だな」
やがて、トマリが言った。
「あなたとは?」
「俺は、売上を上げるために変え続けた」
トマリは両手を頭の後ろで組んだ。
「俺の漫画も知ってる?」
「『MALIANOS-マリアノス-』、異能犯罪を捜査する刑事の作品ですよね」
「知ってるんだ」
「作品名くらいは」
「読んではいない?」
「途中までは」
「一番面倒な答え方するな」
トマリが笑った。
「どの辺まで?」
「異能を使った殺人事件を、刑事たちが追っていた頃です」
「じゃあ、初期の頃だ」
トマリの漫画は、初めから異能が存在する世界を舞台にしていた。
異能を利用した殺人。
常識では説明できない証拠。
能力の性質を見抜き、犯行の手順と動機を明らかにする刑事たち。
超常的な力を扱いながらも、物語の中心にあったのは事件と推理だった。
「設定は派手だけど、やってることはミステリーだった」
「ええ。異能が犯行方法であり、同時に謎でもあった」
「ちゃんと読んでるじゃん」
「途中までは、と言いました」
「途中から嫌になった?」
「嫌になったとは言っていません」
「言わなくても分かるよ」
連載開始当初、評判は悪くなかった。
だが、大きなヒットには届かなかった。
人気を維持できるかどうかの位置を行き来し、単行本の売上も伸び悩んでいた。
「編集に言われたんだ。能力があるなら、もっと派手にぶつけた方がいいって」
「異能同士の戦闘ですか」
「最初は犯人を追い詰める場面で、少し戦わせただけだった」
その回の人気が上がった。
異能を使った駆け引きが注目され、読者の反応もよかった。
次の事件では、犯人の能力をより強くした。
主人公側にも新しい力を与えた。
犯行の謎を解くだけでは倒せない敵を出した。
「戦闘を増やしたら、売上が上がった」
「それで、さらに増やした」
「そう」
事件を追う物語だったはずが、強敵を倒す物語へ変わっていった。
刑事であることよりも、誰がどれほど強い能力を持っているかが重要になった。
殺人事件は戦いを始めるためのきっかけになり、推理は敵の弱点を見つけるための手段になった。
「そのうち、事件すら起きなくなった」
トマリは軽い調子で言った。
「犯罪組織が出てきて、そいつらと戦う話になった。人気のある敵は仲間にしたし、能力が地味な登場人物には新しい力を足した」
「当初の設定と矛盾しても?」
「売れるなら変えた」
トマリは即答した。
「前に1度しか使えないって言った能力も、盛り上がるなら何度か使わせた。死んだと思われていた人物が人気なら、生きていたことにした」
「整合性より、読者の反応を優先した」
「売上を優先した」
トマリが訂正する。
「読者が喜ぶことと売れることは近い。でも、俺が最後に見てたのは数字だった」
その声に、言い訳はなかった。
「最初は、打ち切られたくなかった。次は単行本をもっと売りたくなった。その次は、看板になりたくなった」
「そのために、作品の形を変えた」
「変え続けた」
トマリは道端の小石を蹴った。
石は灰色の道を転がり、片方だけの靴に当たった。
乾いた音が鳴る。
「異能ミステリーだった漫画を、異能バトルに変えた。そっちの方が売れたから」
「最初から読んでいた人は?」
「離れた人もいたよ。別の漫画になったって」
「それでも、変えることをやめなかった」
「新しく入ってきた読者の方が多かったからな」
トマリの答えは明快だった。あまりにも明快で、リオはすぐに言葉を返せなかった。
「僕にはできません」
「だろうね」
「それまで積み上げてきた作品の形を、そこまで変えることは」
「俺には、守るほどの成功がなかったから」
トマリは前を向いたまま言った。
「異能ミステリーのままじゃ、連載が終わってたかもしれない。売れていない作品を守って、一緒に終わるつもりはなかった」
「だから、変えた」
「売れるまで変えた」
街灯が増えてきた。
その先に、王城の巨大な門が見え始めている。
炎は風もないのに揺れ、二人の影を伸ばしていた。
「俺は、売上を上げるために作品を動かし続けた」
トマリが言う。
「あんたは、売上を落とさないために作品を止め続けた」
リオは答えなかった。
「やったことは逆だ。でも、見てたものは同じだろ」
「数字ですか」
「そう」
「僕は、作品を守ろうとしていたつもりでした」
「守ったんじゃない?」
トマリはあっさりと言った。
「売上も、読者も、作家としての立場も。少なくとも、あんたが守ろうとしたものは守れた」
「その代わり、作品を劣化させました」
「俺は、作品を変質させた」
トマリが笑う。
「停滞するか、暴走するか。正反対だな」
「それでも、似ていると?」
「求められるものに応じた、んで手段を選ばなかった、そうだろ?」
リオは、その言葉を否定できなかった。
トマリは作品を変え続けた。
リオは作品を変えなかった。
だが、どちらも作品そのものより、売れるための選択を優先した。
選んだ手段が違うだけだった。
「後悔はしていないんですか」
リオは尋ねた。
「してるよ」
トマリは即答した。
「でも、売れなかった頃に戻りたいとは思わない」
その答えは、リオとは正反対だった。
「僕は、戻れるなら戻りたいと思っています」
「『灰冠都市』を書く前に?」
「……分かりません」
リオは一度、言葉を止めた。
「少なくとも、失うものを考えずに書けていた頃に」
「戻ったら、今度は違うものを書ける?」
リオは答えられなかった。
最初の成功が約束されていないとしても。
誰にも評価されないとしても。
書きたいものだけを書くことができるのか。
「俺は違う」
トマリが言った。
「最初の漫画も好きだった。でも、異能バトルになった後の漫画も、俺が描いたものだ」
「矛盾だらけでも?」
「矛盾だらけだから、自分の作品じゃないとは言えないだろ」
トマリは、自分のしたことを正しいとは言わない。だが、切り離そうともしない。
売れるために捨てたものも。
売れるために付け足したものも。
すべて、自分が選んだことだと認めている。
「あなたは強いんですね」
「強い?」
「変えてしまったものも、自分の作品だと言える」
「強いんじゃなくて、逃げ場所がないだけ」
トマリは笑った。
「途中からは、売れるのが楽しくなってた。誰かに無理やり描かされたわけじゃない。だから全部、俺のせい」
道の先で、王城の門が大きく開いた。
門の向こうには、いくつもの馬車が並んでいる。
どの馬車にも御者はいない。
それでも車輪はゆっくりと回り、招待客を待つように扉を開閉していた。
遠くから音楽が聞こえる。同じ旋律を奏でているはずなのに、楽器ごとに速度が違う。
優雅な舞踏曲が、少しずつ崩れていた。
「似ているようで、まるで違いますね」
リオが言った。
「そうだな」
トマリが答えた。
「僕は、変わらないことを選んだ」
「俺は、変わることを選んだ」
「僕は、失わないために」
「俺は、手に入れるために」
二人は再び歩き出した。
王城まで、あとわずかだった。
だが、トマリは途中で足を止めた。
リオも立ち止まり、振り返る。
「どうしました?」
トマリは王城を見上げていた。
その表情からは、いつもの軽さが消えている。
「俺たち、たぶん相性悪いな」
「今さらですか」
「今だから分かった」
トマリはリオを見る。
「なあ、リオ」
名前を呼ばれ、リオはトマリを見る。
「俺たちの共闘、やっぱり辞めにしよう」
「たぶん――お前が最後の相手だ」




