第11話 敵は本能寺にあり
鉄砲の音がした。
一発。
少し遅れて、二発、三発と続く。
塀の向こうから男たちの声が上がった。
「御殿へ入れ!」
「上様を逃がすな!」
刀のぶつかる音。
誰かの短い悲鳴。
外では、間違いなく戦いが起きている。
それなのに、リオのいる廊下には誰もいなかった。
障子は炎に照らされ、赤く染まっている。軒先から落ちた火の粉が庭の枯れ草へ燃え移り、天井近くには煙が溜まっていた。
聞こえるのは、遠くの戦闘と、すぐそばで木が爆ぜる音だけだった。
ぱち、ぱち、と。
炎が柱を食べていく音が、妙にはっきりと響いている。
「アリアさん」
呼びかけたが、返事はない。
カイも、ツムギも見当たらなかった。
四人で同時に黒い本を置いたはずだが、別々の場所へ送られたらしい。
リオは手元の黒い本を開いた。
頁には何も書かれていなかった。
外から、再び声が上がる。
「明智の兵だ!」
その言葉で、リオはようやく自分のいる場所を理解した。
天正十年六月二日。
明智光秀が、主君の織田信長を襲った。
本能寺の変。
シンデレラは、初めから物語だった。
原典や異本、後世の翻案が混ざり合い、矛盾だらけになっていた。
だが、本能寺の変は違う。
最初にあったのは、現実の出来事だ。
明智光秀が本能寺を襲い、織田信長が死んだ。
その結末は、歴史として残っている。
だが、光秀がなぜ謀反を起こしたのかは、今も決着していない。
信長がどのように最期を迎えたのかも、分からないことが多い。
残された空白を、後世の作者たちが何度も埋めてきた。
信長は魔王にも、英雄にも、裏切りに怒る主君にも、すべてを悟って死を迎える男にもなった。
同じ出来事が、小説になり、舞台になり、映画や漫画やゲームになった。
歴史が、繰り返し物語へ作り替えられている。
この世界にいるのは、歴史上の信長なのか。
それとも、後世に描かれた無数の信長が混ざり合ったものなのか。
黒い本は何も答えなかった。
頁は白いままだった。
周囲を見回しても、外の激しさに比べ、寺の内側にいる人間はあまりにも少ない。
だが、信長は戦のために本能寺へ入ったわけではない。大軍を伴っていたわけでも、襲撃に備えて兵を集めていたわけでもなかった。
外で戦っているのは、わずかな供の者たちなのだろう。
同じ本能寺にいるはずなのに、リオの周囲だけが戦場から切り離されている。
外とは、まるで別の世界だった。
奥で柱が崩れた。
火の粉が廊下へ吹き込み、リオは袖で口元を覆った。
煙を吸えば喉が痛む。
熱も、苦しさも本物だった。
もし、この世界で死んだらどうなるのだろう。
死んだ瞬間に塔へ戻されるのか。
それとも、本当に死ぬのか。
直前に、黒い本に飲まれて消えたサカモトの姿が脳裏をよぎった。
あれが塔での死なら、この世界で命を落とした先にも、同じものが待っているのかもしれない。
物語の中で死んだ者がどうなるのか、リオは聞いていなかった。
考えても答えは出ない。
ただ、この場に留まり続ければ、自分の身体で確かめることになる。
外へ逃げるべきだった。
しかし、黒い本には指示がない。どこへ行けば塔へ戻れるのかも分からない。
そして、ここが本能寺なら、捜すべき人物は一人しかいなかった。
織田信長。
まだ生きているとしても、残された時間はわずかしかない。
リオは寺の奥へ向かって歩き出した。
進むほど炎の勢いは強くなり、人の気配は薄くなっていく。
外からは、今も銃声や怒号が聞こえる。
その音さえ、幾つかの部屋を通り過ぎるうちに遠ざかっていった。
聞こえるのは、炎が木を食べる音だけだった。
ぱち、ぱち、と。
廊下に火の粉が落ちる。
梁が軋む。
外では何人もの人間が殺し合っている。
その中心にいるはずの男の周囲だけが、異様なほど静かだった。
角を曲がった先で、開いた襖の向こうに人影が見えた。
男が一人、柱を背にして座っている。
白い小袖の袖が裂け、腕から流れた血が畳へ落ちていた。
傍らには、鞘に収まったままの刀が置かれている。
男は炎を見ていなかった。
外の戦いに耳を澄ませてもいない。
ただ、初めからリオが来ることを知っていたように、こちらへ顔を向けた。
「織田信長……ですか」
「見ぬ顔だな」
低い声だった。
息はわずかに乱れ、傷も浅くはない。
それでも、声には驚きも焦りもなかった。
見慣れない服を着た男が、黒い本を抱えて立っている。
それを不審に思う様子さえない。
外から銃声が響いた。
直後に、誰かが信長の名を叫ぶ。
信長は応えなかった。
燃え落ちた木片が、二人の間へ転がる。
信長はわずかに身体をずらしただけで、逃げ道を捜そうともしない。
敵の数も、外の様子も確かめようとしない。
まるで、もう知るべきことは何も残っていないようだった。
「ここにいれば、死にます」
リオが言うと、信長は初めて笑った。
声を上げたわけではない。
ただ、口元がわずかに歪んだ。
「おぬしには、これが終わりに見えるか」
リオは答えられなかった。
炎の中で死を待つ人間の言葉ではない。
強がりにも、諦めにも聞こえなかった。
信長は、自分が死なないと思っているわけではない。
ここで死ぬと分かっていながら、それを終わりだと思っていない。
「あなたは、どうして――」
問いを言い切るより早く、炎が消えた。
銃声も、怒号も、木の爆ぜる音もない。
信長の姿だけでなく、本能寺そのものが一瞬で失われていた。
◆
足の裏に、柔らかな土の感触が伝わる。
リオは二、三歩よろめき、咳き込んだ。
煙はない。
見上げれば、青空が広がっている。
目の前には土の道が延び、その両側に田畑が広がっていた。遠くには低い山と、城らしき建物が見える。
先ほどまでとはまるで景色が違う。
「リオ」
声のした方を振り向く。
アリアが立っていた。
少し離れた場所には、カイとツムギもいる。
三人とも、服や髪に煤がついていた。
「アリアさん」
名前を呼んだだけで、張り詰めていたものがわずかに緩んだ。
「よかった。全員いるね」
ツムギが明るい声で言った。
だが、黒い本を抱く指には力が入り、わずかに震えていた。
レイトとの対戦。
続けて行われた、サカモトとの対戦。
そして、休む間もなくこの物語へ入っている。
「ツムギさん、大丈夫ですか」
「うん。ちょっと驚いただけ」
笑顔も、声も崩れない。
「平気だよ」
アリアがわずかに眉を寄せた。
「何?」
ツムギの声が、一瞬だけくぐもって聞こえた。
「何でもない」
アリアは視線を逸らした。
「あとでちゃんと休むから。今は、何が起きたのか確認しよう」
ツムギはそう言って胸の前で両手を合わせ、三人の顔を順に見た。
「もしかして、みんな本能寺にいたの?」
「はい」
リオが答えると、アリアとカイも頷いた。
「炎の中に、信長がいました」
「私も」
ツムギも小さく息を吐いた。
「やっぱり、同じなんだ」
四人とも、本能寺へ送られていた。
炎の中で、同じ男に会っている。
それでも、互いの姿はどこにもなかった。
それぞれ別の本能寺にいたとしか思えない。
「皆さんも、信長と話したんですか」
「少しだけ」
アリアが答えた。
「聞きたいことがあった。でも、最後まで言う前にここへ飛ばされた」
「僕もです」
死を前にして、なぜあれほど落ち着いていられるのか。
その理由を尋ねようとした瞬間だった。
「私も、似たようなものかな」
ツムギが言った。
「信長さんと少し話して、それからここに飛ばされた。特別なことは何もなかったよ」
アリアの眉が、もう一度わずかに動いた。
「……今の、嘘」
「何が?」
「さっきの『平気』と、同じ音がした」
ツムギの笑顔が、ほんの少し薄くなった。
「そう聞こえたなら、話さない方がよかった…のかな」
「言いたくないなら、言わなくていい」
アリアはツムギを見た。
「全員がすべてを話す必要はない」
カイが言った。
「何が重要なのかも、まだ分からないからな」
「あなたはそもそも何も話していませんけど」
アリアがカイを見る。
「そうだな」
悪びれた様子はなかった。
「とはいえ、一度情報を整理しましょう。」
リオがその場をまとめようとする。
カイは、それを見てやれやれと言わんばかりに大げさに息を吐く。
「昔と同じですね、リオ先生。答えが出るまで、何も選ばない」
「いえ、あのときは…」
カイが改めてリオを見る。
「整理、整理、整理、今度は最後までご自分で選んでください。リオ先生」
アリアとツムギも、二人を見比べた。
その時、四人の抱えていた黒い本が一斉に震えた。
表紙がひとりでに開く。
白い頁の中央に、黒い文字が浮かび上がった。
――本能寺の変の真相を明らかにせよ
誰も、すぐには口を開かなかった。
ふと遠くから、乾いた地面を叩く音が聞こえた。
馬の蹄だった。
一騎の馬が、土煙を上げながらこちらへ向かってくる。
乗っているのは、まだ少年と呼べるほど若い男だった。
髪を高く結い、小袖を着崩している。腰には刀だけでなく、いくつもの袋や瓢箪をぶら下げていた。
少年は四人の前を通り過ぎる寸前、わずかに顔を向けた。
その視線が、リオの抱える黒い本に止まる。
だが、馬の速度を緩めることはなかった。
「吉法師様!」
遅れて追いかけてきたであろう男が、その背中へ声を上げた。
返事はない。
少年は土煙の向こうへ消えていった。
「またあんな格好で……」
別の男が、呆れたように呟く。
「仕方ねえ。あれが尾張の大うつけだ」
吉法師。
織田信長の幼名だった。
リオは、遠ざかる背中から目を離せなかった。
つい先ほど、炎の中で死を待っていた男と、
同じ目をしていた。
第11話・終




