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物語の塔  作者: ck
本能寺編
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13/17

第11話 敵は本能寺にあり


鉄砲の音がした。


一発。


少し遅れて、二発、三発と続く。


塀の向こうから男たちの声が上がった。


「御殿へ入れ!」


「上様を逃がすな!」


刀のぶつかる音。

誰かの短い悲鳴。


外では、間違いなく戦いが起きている。

それなのに、リオのいる廊下には誰もいなかった。


障子は炎に照らされ、赤く染まっている。軒先から落ちた火の粉が庭の枯れ草へ燃え移り、天井近くには煙が溜まっていた。


聞こえるのは、遠くの戦闘と、すぐそばで木が爆ぜる音だけだった。


ぱち、ぱち、と。


炎が柱を食べていく音が、妙にはっきりと響いている。


「アリアさん」


呼びかけたが、返事はない。


カイも、ツムギも見当たらなかった。

四人で同時に黒い本を置いたはずだが、別々の場所へ送られたらしい。


リオは手元の黒い本を開いた。

頁には何も書かれていなかった。


外から、再び声が上がる。


「明智の兵だ!」


その言葉で、リオはようやく自分のいる場所を理解した。


 天正十年六月二日。


明智光秀が、主君の織田信長を襲った。


本能寺の変。


シンデレラは、初めから物語だった。

原典や異本、後世の翻案が混ざり合い、矛盾だらけになっていた。


だが、本能寺の変は違う。


最初にあったのは、現実の出来事だ。

明智光秀が本能寺を襲い、織田信長が死んだ。

その結末は、歴史として残っている。


だが、光秀がなぜ謀反を起こしたのかは、今も決着していない。

信長がどのように最期を迎えたのかも、分からないことが多い。


残された空白を、後世の作者たちが何度も埋めてきた。


信長は魔王にも、英雄にも、裏切りに怒る主君にも、すべてを悟って死を迎える男にもなった。

同じ出来事が、小説になり、舞台になり、映画や漫画やゲームになった。


歴史が、繰り返し物語へ作り替えられている。


この世界にいるのは、歴史上の信長なのか。

それとも、後世に描かれた無数の信長が混ざり合ったものなのか。


黒い本は何も答えなかった。


頁は白いままだった。


周囲を見回しても、外の激しさに比べ、寺の内側にいる人間はあまりにも少ない。


だが、信長は戦のために本能寺へ入ったわけではない。大軍を伴っていたわけでも、襲撃に備えて兵を集めていたわけでもなかった。


外で戦っているのは、わずかな供の者たちなのだろう。

同じ本能寺にいるはずなのに、リオの周囲だけが戦場から切り離されている。

外とは、まるで別の世界だった。


奥で柱が崩れた。


火の粉が廊下へ吹き込み、リオは袖で口元を覆った。


煙を吸えば喉が痛む。

熱も、苦しさも本物だった。


もし、この世界で死んだらどうなるのだろう。

死んだ瞬間に塔へ戻されるのか。


それとも、本当に死ぬのか。


直前に、黒い本に飲まれて消えたサカモトの姿が脳裏をよぎった。


あれが塔での死なら、この世界で命を落とした先にも、同じものが待っているのかもしれない。

物語の中で死んだ者がどうなるのか、リオは聞いていなかった。


考えても答えは出ない。


ただ、この場に留まり続ければ、自分の身体で確かめることになる。

外へ逃げるべきだった。


しかし、黒い本には指示がない。どこへ行けば塔へ戻れるのかも分からない。

そして、ここが本能寺なら、捜すべき人物は一人しかいなかった。


織田信長。


まだ生きているとしても、残された時間はわずかしかない。

リオは寺の奥へ向かって歩き出した。


進むほど炎の勢いは強くなり、人の気配は薄くなっていく。

外からは、今も銃声や怒号が聞こえる。

その音さえ、幾つかの部屋を通り過ぎるうちに遠ざかっていった。

聞こえるのは、炎が木を食べる音だけだった。


ぱち、ぱち、と。


廊下に火の粉が落ちる。


梁が軋む。


外では何人もの人間が殺し合っている。

その中心にいるはずの男の周囲だけが、異様なほど静かだった。


角を曲がった先で、開いた襖の向こうに人影が見えた。


男が一人、柱を背にして座っている。


白い小袖の袖が裂け、腕から流れた血が畳へ落ちていた。

傍らには、鞘に収まったままの刀が置かれている。


男は炎を見ていなかった。

外の戦いに耳を澄ませてもいない。


ただ、初めからリオが来ることを知っていたように、こちらへ顔を向けた。


「織田信長……ですか」


「見ぬ顔だな」


低い声だった。


息はわずかに乱れ、傷も浅くはない。

それでも、声には驚きも焦りもなかった。


見慣れない服を着た男が、黒い本を抱えて立っている。

それを不審に思う様子さえない。


外から銃声が響いた。


直後に、誰かが信長の名を叫ぶ。

信長は応えなかった。


燃え落ちた木片が、二人の間へ転がる。


信長はわずかに身体をずらしただけで、逃げ道を捜そうともしない。

敵の数も、外の様子も確かめようとしない。


まるで、もう知るべきことは何も残っていないようだった。


「ここにいれば、死にます」


リオが言うと、信長は初めて笑った。


声を上げたわけではない。

ただ、口元がわずかに歪んだ。


「おぬしには、これが終わりに見えるか」


リオは答えられなかった。


炎の中で死を待つ人間の言葉ではない。


強がりにも、諦めにも聞こえなかった。

信長は、自分が死なないと思っているわけではない。

ここで死ぬと分かっていながら、それを終わりだと思っていない。


「あなたは、どうして――」


問いを言い切るより早く、炎が消えた。


銃声も、怒号も、木の爆ぜる音もない。


信長の姿だけでなく、本能寺そのものが一瞬で失われていた。


◆


足の裏に、柔らかな土の感触が伝わる。


リオは二、三歩よろめき、咳き込んだ。


煙はない。

見上げれば、青空が広がっている。


目の前には土の道が延び、その両側に田畑が広がっていた。遠くには低い山と、城らしき建物が見える。


先ほどまでとはまるで景色が違う。


「リオ」


声のした方を振り向く。


アリアが立っていた。


少し離れた場所には、カイとツムギもいる。

三人とも、服や髪に煤がついていた。


「アリアさん」


名前を呼んだだけで、張り詰めていたものがわずかに緩んだ。


「よかった。全員いるね」


ツムギが明るい声で言った。


だが、黒い本を抱く指には力が入り、わずかに震えていた。


レイトとの対戦。

続けて行われた、サカモトとの対戦。


そして、休む間もなくこの物語へ入っている。


「ツムギさん、大丈夫ですか」


「うん。ちょっと驚いただけ」


笑顔も、声も崩れない。


「平気だよ」


アリアがわずかに眉を寄せた。


「何?」


ツムギの声が、一瞬だけくぐもって聞こえた。


「何でもない」


アリアは視線を逸らした。


「あとでちゃんと休むから。今は、何が起きたのか確認しよう」


ツムギはそう言って胸の前で両手を合わせ、三人の顔を順に見た。


「もしかして、みんな本能寺にいたの?」


「はい」


リオが答えると、アリアとカイも頷いた。


「炎の中に、信長がいました」


「私も」


ツムギも小さく息を吐いた。


「やっぱり、同じなんだ」


四人とも、本能寺へ送られていた。


炎の中で、同じ男に会っている。

それでも、互いの姿はどこにもなかった。


それぞれ別の本能寺にいたとしか思えない。


「皆さんも、信長と話したんですか」


「少しだけ」


アリアが答えた。


「聞きたいことがあった。でも、最後まで言う前にここへ飛ばされた」


「僕もです」


死を前にして、なぜあれほど落ち着いていられるのか。

その理由を尋ねようとした瞬間だった。


「私も、似たようなものかな」


ツムギが言った。


「信長さんと少し話して、それからここに飛ばされた。特別なことは何もなかったよ」


アリアの眉が、もう一度わずかに動いた。


「……今の、嘘」


「何が?」


「さっきの『平気』と、同じ音がした」


ツムギの笑顔が、ほんの少し薄くなった。


「そう聞こえたなら、話さない方がよかった…のかな」


「言いたくないなら、言わなくていい」


アリアはツムギを見た。


「全員がすべてを話す必要はない」


カイが言った。


「何が重要なのかも、まだ分からないからな」


「あなたはそもそも何も話していませんけど」


アリアがカイを見る。


「そうだな」


悪びれた様子はなかった。


「とはいえ、一度情報を整理しましょう。」


リオがその場をまとめようとする。


カイは、それを見てやれやれと言わんばかりに大げさに息を吐く。


「昔と同じですね、リオ先生。答えが出るまで、何も選ばない」


「いえ、あのときは…」


カイが改めてリオを見る。


「整理、整理、整理、今度は最後までご自分で選んでください。リオ先生」


アリアとツムギも、二人を見比べた。


その時、四人の抱えていた黒い本が一斉に震えた。


表紙がひとりでに開く。

白い頁の中央に、黒い文字が浮かび上がった。


――本能寺の変の真相を明らかにせよ


誰も、すぐには口を開かなかった。


ふと遠くから、乾いた地面を叩く音が聞こえた。


馬の蹄だった。


一騎の馬が、土煙を上げながらこちらへ向かってくる。

乗っているのは、まだ少年と呼べるほど若い男だった。


髪を高く結い、小袖を着崩している。腰には刀だけでなく、いくつもの袋や瓢箪をぶら下げていた。


少年は四人の前を通り過ぎる寸前、わずかに顔を向けた。

その視線が、リオの抱える黒い本に止まる。


だが、馬の速度を緩めることはなかった。


「吉法師様!」


遅れて追いかけてきたであろう男が、その背中へ声を上げた。


返事はない。


少年は土煙の向こうへ消えていった。


「またあんな格好で……」


別の男が、呆れたように呟く。


「仕方ねえ。あれが尾張の大うつけだ」


吉法師。


織田信長の幼名だった。


リオは、遠ざかる背中から目を離せなかった。

つい先ほど、炎の中で死を待っていた男と、



同じ目をしていた。



第11話・終

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