第3話 三人目
扉を押し開けると、暖かな空気が流れ出した。
外の夜気とはまるで違う。
薪の焼ける匂い。煮込まれた肉と香草の匂い。蝋燭の火に温められた、古い木材の匂い。
屋敷は生きていた。
リオは敷居をまたぐ前に、一度だけ振り返った。
鉄格子の門。その向こうに続く石畳。白い壁の家々。空には、巨大な満月が浮かんでいる。
街に人影はない。それなのに、この屋敷の中からは生活の気配がした。
「どうぞ」
トマリが片手を差し出す。
「年長者から」
「三十歳に言われたくないですね」
「覚えてたんだ」
「ええ」
リオは屋敷の中へ足を踏み入れた。
床には赤い絨毯が敷かれている。正面には二階へ続く大階段。左右の壁には風景画と人物画が並び、その下で真鍮の燭台が揺れていた。
豪奢ではある。
だが、城というほどではない。
裕福な商人か、領主の屋敷といったところだろう。
トマリが扉を閉める。
その瞬間、二階から女の声が響いた。
「遅い!」
リオとトマリは、同時に階段を見上げた。
手すりの向こうから、若い女が顔を覗かせている。
髪を高く結い上げ、薄紅色のドレスを身にまとっていた。年齢は二十歳前後だろう。
「いつまで待たせるつもりなの?」
女は階段を駆け下りてくる。
その後ろから、もう一人の若い女が現れた。こちらは水色のドレスを着ている。目元や鼻の形がよく似ていた。
「ちょっと。誰、その人たち」
「知らないわよ」
薄紅色の女が、リオとトマリを交互に見る。
「仕立て屋じゃないの?」
「違うと思う」
「じゃあ、靴屋?」
「見れば分かるでしょう。靴なんて持ってないもの」
二人の視線が、リオたちの手元に落ちる。
リオは何も持っていない。
トマリも同じだ。
ただし、二人の上着の内側には、それぞれ黒い本が収められている。
「どなたですか」
二階から低い声がした。
姉妹の表情がわずかに強張る。
ゆっくりと階段を下りてきたのは、黒いドレスを着た女だった。
年齢は四十代半ばほど。細身で、背筋がまっすぐに伸びている。結い上げられた金色の髪には、一筋の乱れもなかった。
女は階段の中ほどで立ち止まる。
「今夜は客人を招いた覚えはありません」
穏やかな口調だった。
だが、歓迎する気がないことは明らかだった。
リオは軽く頭を下げる。
「突然の訪問をお詫びします。少し、お尋ねしたいことがありまして」
「尋ねたいこと?」
「こちらに、若い女性が住んでいると聞きました」
薄紅色の女が笑った。
「見れば分かるでしょう。住んでいるわよ」
水色の女も、その隣に並ぶ。
「二人もね」
リオは二人を見る。
「お二人のほかに、もう一人いませんか」
姉妹の笑顔が消えた。
薪が弾ける音がした。
「娘は、この二人だけです」
黒いドレスの女は、迷いなく答えた。
リオは、その表情を見つめる。
警戒はしている。
不快にも思っている。
だが、何かを隠しているようには見えなかった。
「使用人は?」
女の眉間に皺が寄る。
「それを聞いて、どうするのです」
「灰かぶりと呼ばれている少女を探しています」
静寂が落ちた。
三人の女は、誰も反応しなかった。
その言葉を知らないというより、耳に届かなかったような沈黙だった。
トマリが横から口を挟む。
「暖炉の灰を被ってる女の子。汚れた服で、家の仕事をしてる。そういう子、いない?」
「いません」
女は即座に答えた。
「この家に、そのような者は存在しません」
――この家に灰かぶりは存在しない。
本に記されていた言葉と、女の言葉が重なる。
「では、ガラスの靴に心当たりはありませんか」
リオが尋ねる。
薄紅色の女が吹き出した。
「ガラスの靴?」
「そんなもの、履けるわけないでしょう」
水色の女も笑う。
「割れたらどうするの?」
「血だらけになるわ」
二人の笑い声が玄関広間に響いた。
黒いドレスの女だけは笑わなかった。
「お引き取りください」
「もう一つだけ」
「お引き取りください」
声が強くなる。
その時、
ギィと音を立て階段脇の扉がひとりでに開いた。
屋敷の奥へ通じる扉だった。
だが、女たちは誰も振り返らない。
廊下に並んだ蝋燭が、一本ずつ奥へ向かって灯っていく。
「リオ、あれ」
トマリが目線で屋敷の奥を指す。
「ええ。彼女たちには見えていないようです」
「追い出したい人と、入ってほしい家が揉めてる」
トマリは肩をすくめた。
「つくづく矛盾だらけだ」
「舞踏会の支度がありますので」
その言葉に、リオは視線を上げた。
「今夜、舞踏会があるのですか」
「ええ」
薄紅色の女が髪に触れる。
「お城で王子様が花嫁を選ぶの」
「街中の娘が招待されているのよ」
水色の女が続ける。
「もちろん、選ばれるのは私たちのどちらかだけど」
「どちらかじゃないわ。私よ」
「その髪で?」
「何ですって?」
二人が睨み合う。
「行こう」
トマリが小声で言った。
二人は、開いた廊下の奥へ進む。
黒いドレスの女に反応はなかった。
廊下へ入ると、背後で扉が閉まった。
直後、玄関広間から姉妹の声が聞こえる。
「ねえ、お母様。今日の夕食は?」
「もう用意されているでしょう」
「誰が用意したの?」
短い沈黙。
女が答えた。
「誰が?」
心から、質問の意味が分からないという声だった。
◆
廊下の先には、食堂があった。
長いテーブルに白い布が掛けられ、銀の食器が並んでいる。大皿には焼かれた肉が載り、まだ湯気を立てていた。
トマリが入口で立ち止まる。
「四人分ある」
椅子は四脚。
皿も四枚。
杯も四つ。
「母親と娘が二人。三人分ではなくて?」
「向かいに客を座らせる並べ方じゃない」
トマリは食卓を指差す。
「こっちが母親。左右が娘。端に、もう一人」
暖炉に近い席だけ、椅子が引かれていた。
皿は置かれている。
だが、料理は盛られていない。
椅子の背には、灰色のエプロンが掛かっていた。
使い込まれ、裾には黒い煤が染みついている。
リオがエプロンに触れる。
「存在しない人間の席ですか」
トマリは、床に視線を落とした。
椅子の下から、小さな足跡が続いている。
裸足の跡だった。
足跡の中にだけ、薄く灰が積もっている。
「灰を踏んだ跡ではありませんね」
「歩いたところに、灰が残ってる」
足跡は食堂の奥にある階段へ向かっていた。
二人は跡を追った。
二階には、四つの部屋が並んでいた。
大きな部屋が一つ。
飾りの多い部屋が二つ。
物置が一つ。
足跡は、廊下の突き当たりで途切れている。
トマリは壁を見た。
それから窓を開け、外を覗き込む。
「危ないですよ」
「外から見たとき、この屋敷、もう少し横に長くなかった?」
「そうでしたか」
「そうだった」
トマリは廊下を歩幅で測り始める。
突き当たりまで進み、また戻る。
「足りない」
「何がです」
「たぶん部屋が一つ分くらい」
壁を指で叩く。
硬い音。
少し位置をずらす。
今度は、奥に空間があるような音が返ってきた。
トマリが壁へ耳を当てる。
「何か聞こえる」
リオも耳を近づける。
ぱらり。
薄い紙が擦れるような音。
ぱらり。
本のページをめくる音だった。
壁紙には、白い花が一面に描かれている。
その花の下から、裸足の爪先だけが覗いていた。
トマリが壁紙の端へ指を掛ける。
「剝がしてみるか」
「確認を取る相手もいませんね」
「じゃ、遠慮なく」
壁紙が破れる。
その下に現れたのは、漆喰でも木板でもなかった。
文字だった。
壁一面に、異なる文章が重なり合っている。
リオは、近くにあった一節を読む。
――少女は母の墓に植えた木へ願い、白い鳥から衣装を与えられた。
その文字を押し潰すように、別の文章が浮かぶ。
――老婆は杖を振り、かぼちゃを黄金の馬車へ変えた。
少し離れた場所には、
――金でできた靴。
――ガラスでできた靴。
二つの文章が、互いを消そうとするように書き換わり続けている。
「こいつはひどいな」
トマリが声を漏らした。
「一人の少女に、すべてが重なっている?」
リオは壁を見つめる。
どの文章にも、少女がいる。
だが、その名に当たる部分が塗り潰されていた。
「だから、誰だったのか分からなくなった」
リオの言葉に重なるように、一階から何かが落ちる音がした。
二人は顔を見合わせる。
「下だ」
トマリが走り出す。
玄関広間へ戻る。
継母たちの姿はない。
二階のどこかから、姉妹が言い争う声だけが聞こえていた。
トマリが足を止める。
「これ」
壁に掛けられた肖像画。
黒いドレスの女と、二人の娘が並んでいる。
二人の娘の間には、不自然な隙間があった。
女主人の片腕も、誰もいない空間へ伸びている。
「最初から、こうでしたか」
「違和感はあった。でも、こういう絵なのかと思った」
空間には、薄く輪郭だけが残っていた。
「三人目の娘」
トマリが呟く。
薄かった輪郭が揺れ、粗末な服を着た少女の形になる。
次の瞬間、髪が薄紅色の娘と同じ形に変わった。
顔が水色の娘と重なる。
リオは息を止める。
「消したんじゃない」
トマリが絵を見たまま言った。
「空けてあるんだ、ここ」
「誰かを入れるために?」
輪郭は、再び見えないほどに薄くなった。
肖像画から灰がこぼれる。
灰は床へ落ちると細い帯になり、廊下へ進んでいった。
「追うよ」
灰は食堂を抜け、台所へ入る。
かまどの前で渦を巻き、そのまま火の中へ吸い込まれた。
炎が大きく揺れる。
次の瞬間、屋敷中の火が消えた。
暗闇。
二階から聞こえていた姉妹の声も止まる。
かまどの奥。
冷えた灰の中から、少女の声がした。
「今夜は、舞踏会なの?」
幼い声ではない。
だが、大人とも言い切れない。
期待しているようにも、怯えているようにも聞こえた。
「誰です」
リオが問いかける。
返事はない。
灰の中央に、一枚のカードが落ちている。
縁が黒く焦げていた。
トマリが腰を落とし、手を伸ばす。
「待ってください」
「触らないと分かんないでしょ」
「危険かもしれません」
「このまま見てても、何も分からないでしょ」
トマリの指先がカードに触れた。
表面に、粗末な服を着た少女が浮かび上がる。
裸足。
長い髪。
顔だけが白い空白になっていた。
次の瞬間、その顔が薄紅色の娘へ変わる。
水色の娘。
見知らぬ顔。
そして、再び何もない顔へ戻った。
トマリが手を離す。
「まだ、決まってないってこと?」
「そう見えます。ただ、誰でもいいという意味ではないでしょう」
カードの上部には名前が記されていた。
だが、文字が重なり合い、読むことができない。
リオの上着の内側で、黒い本がドクリと震えた。
取り出すと、ひとりでにページが開く。
これまで記されていた文章が消え、代わりに新しい文字が金色の光を帯びて浮かび上がった。
――十二時までに、三人目の娘を舞踏会へ連れて行け。
遠くで鐘が鳴った。
一度。
壁の時計は、十一時を指している。
リオは、黒い本の時計を確認した。
最後に見たとき、十一時十五分を示していた本の時計も、今は十一時に戻っていた。
「時間、巻き戻ってるな」
リオは二つの時計を見比べる。
「……あの鐘、時間を知らせていたんじゃあない」
「締め切りだった?」
「ええ。十二時までに、次の段階へ進めということです」
トマリは黒い本を覗き込んだ。
「最初の条件を満たしたから、また一時間に戻ったってことか」
「おそらく……ですが、今度は文字の色が違います」
二人の視線が、金色に浮かぶ文字へ落ちる。
「十二時までに、三人目の娘を舞踏会へ」
トマリはカードを見下ろした。
「次がゴールってことか」
「少なくとも、今はそう考えるしかありません」
リオは、顔のない少女を見つめた。
「誰かをこの少女にする前に、この少女が誰だったのかを確かめる必要があります」
「それが、カードを完成させる条件かもしれないね」
トマリがカードを拾い上げる。
今度は、顔は変わらなかった。
「どのみち、城には行くしかないな」
リオは黒い本を閉じた。
だが、すぐには答えなかった。
「……少し、出来すぎていませんか」
「何が?」
「扉が開いて、足跡が道を示して、今度は行き先まで教えてくれる」
トマリは、手にしたカードへ目を落とした。
「俺たちが見つけたっていうより、見つけさせられてる?」
「ええ。城へ向かうことも、最初から決められていたような気がします」
「でも、行かないと始まらない」
「そうですね」
リオは黒い本の表紙を見つめた。
「それが、一番嫌なところです」
――第3話・終




