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物語の塔  作者: ck
リオ対レイト
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第10話 黒い本


白い文字が、二冊の黒い本から消えた。


舞台に残っていた人物たちの輪郭が薄れ、元のカードへ戻っていく。


最後まで立っていた《三人目の娘》も、リオの手の中へ静かに収まった。


対戦が終わった。


そう理解しても、すぐには身体から力が抜けなかった。


リオは自分の黒い本を見下ろす。


最後に残った十九頁。

その下には、先ほどまでなかった戦績が記されている。


《戦績 1勝0敗》


あと二勝すれば、塔から出られる。


ほんの少し前までは、そのために何をすればいいのかさえ知らなかった。


今は一つだけ、数字が増えている。


リオは本を閉じ、向かいに立つレイトを見た。

レイトも、自分の舞台から戻ったカードを拾い上げていた。


敗北を告げる文字には目も向けず、《誰でもない完成品》の表面を指でなぞっている。


「見たかったものは、見られましたか」


リオが尋ねると、レイトは顔を上げた。


「はい」


それだけ答え、視線を《三人目の娘》へ移す。


「写せないものがあることも、分かりました」


声は、対戦を申し込んできたときと変わらなかった。


悔しさも、納得も、リオには読み取れない。


「それでも、次は写します」


レイトは《誰でもない完成品》を黒い本へ戻した。


「そうですか」


ほかに、何を言えばいいのか分からなかった。


レイトも続きを求めず、背を向けた。

そのとき、すぐ隣で頁のめくれる音がした。


一冊ではない。


二冊の黒い本が、ほとんど同時に閉じられる音だった。


リオが振り向く。


薄れていく舞台を挟み、アリアとトマリが立っていた。

足元には、使用済みになったカードが何枚も散らばっている。


二人はリオたちの対戦を見ていたのではない。

同じ時間に、隣で戦っていたのだ。


宙に浮かんだ白い文字が、わずかに遅れて消えていく。


《勝者、作詞作曲家アリア》


《敗者、漫画家トマリ》


アリアは黒い本に記された戦績を確かめていた。

トマリは頭の後ろを掻き、足元のカードを拾い集める。


「あー、負けたな」


その声は、驚くほど軽かった。


「分かっているなら、もう少し気にしたらどうですか」


アリアが言う。


「気にはしてる。ただ、これでルールはだいたい分かった」


「今?」


「カードを使うたびに、自分の頁まで減るんだな。最初から飛ばしすぎた」


アリアはしばらく黙ってトマリを見た。


「サカモトさんに聞けば、戦う前に分かったことです」


「そうみたいだな」


「私は聞いたうえで、あなたと戦いました」


「うん。そこが差だった」


トマリは拾ったカードを黒い本へ戻し、表紙を閉じた。


「まあ、次に負けなきゃいい。実際にやった方が、俺は覚えやすいし」


トマリは肩を一度回し、リオを見る。


二人の視線が重なった。


何も言わないまま、トマリは口元の片側を少し上げ、顎を引いた。


リオも小さくうなずく。


それだけで、トマリは背を向けた。


「アリアさん」


立ち去ろうとしたアリアを、リオは呼び止めた。


「何?」


「シンデレラでは、ありがとうございました」


「今さらですか」


「言う余裕がなかったので」


リオは手元の《三人目の娘》を見る。


「僕が王城まで連れていくだけでは、あの娘は手を伸ばさなかったと思います」


アリアの視線も、同じカードへ落ちた。


「最後に決めたのは、あの娘です」


「……そうですね」


アリアはそれ以上何も言わず、書架の間へ歩いていった。


一人になると、塔の静けさが急に戻ってきた。


リオは近くの書架へ背を預け、その場に腰を下ろした。


黒い本を膝の上で開く。


一勝。


残りは二勝。


レイトとは、もう戦えない。

アリアも一勝し、トマリは一敗した。


次にどの物語が現れるのか。

そこへ誰が入るのか。

誰と戦い、誰とは戦わないのか。


考えなければならないことは増えたのに、頭はうまく動かなかった。


塔へ来てから、どれほどの時間が経ったのかも分からない。


名前を与えられ、罪を告げられ、物語の中へ落とされた。


存在しない娘を探し、舞踏会へ連れていき、その娘を使って人と戦った。


一つずつなら理解できる。


けれど、すべてが同じ夜に起きたことのように重なっている。

勝ったという実感さえ、まだ薄かった。


リオは次の頁をめくった。


何も書かれていない白い紙が現れる。

その先を考えるつもりだった。


けれど、文字は一つも浮かばなかった。


ほんの少し目を閉じる。


そのつもりだった。


次に目を開けたとき、黒い本を抱えたまま、リオは書架の前へ横になっていた。



◆



いつ眠ったのか、覚えていなかった。

どれほど眠っていたのかも、分からない。


リオは身体を起こし、閉じた黒い本を胸元から持ち上げた。


塔の中に、時間を確かめられるものはない。


窓もなければ、時計もない。空腹や喉の渇きさえ、現実にいたときとは違って曖昧だった。


眠る前と何も変わっていないように見える。

けれど、遠くから声が聞こえた。


誰かが、何かを叫んでいる。


リオは立ち上がった。

眠りの残る頭で声のした方角を探る。


メインホールの中央だった。


黒い本を抱え、書架の間を抜けていく。


近づくにつれて、床を打つような音が聞こえた。


一度。


続けて、もう一度。


対戦中にカードが登場するときの音だった。


誰かが戦っている。


リオがメインホールへ出た直後、最後の衝撃が床を揺らした。

中央に作られていた舞台が、光を失っていく。


一人の女性が、その上に立っていた。


ツムギだった。


閉じた黒い本を胸元に抱え、向かいに立つサカモトを見つめている。


二人の間に、白い文字が浮かび上がる。


《勝者、声優ツムギ》


《敗者、ゲームプロデューサー、サカモト》


決着だった。


リオは立ち止まった。


ツムギが勝った。


それだけなら、先ほど自分とレイトの間で起きたことと変わらない。


だが、サカモトは自分の黒い本を凝視したまま動かなかった。


開かれた頁に、新しい文字が記されていく。


《戦績 0勝2敗》


その下に、さらに一行が加わった。


《二連敗を確認しました》


サカモトの顔から、表情が消えた。


「待ってください」


誰に向けたものか分からない声だった。


「まだ、対戦できる相手はいます。組み直せば、次は――」


黒い本の頁が、ひとりでにめくれ始めた。


次第に速くなる。


白い頁が重なり、一冊の本から出ているとは思えないほどの風が巻き起こった。


サカモトは両手で表紙を押さえようとする。

だが、めくられる頁は止まらない。


「条件は二連敗です。分かっています。ですが、敗北が確定した時点について、明確な定義が――」


足元に、黒い染みが広がった。


影ではなかった。


液体にも見えない。


黒い頁が幾重にも重なり、床そのものが一冊の巨大な本へ変わっていく。


サカモトの片足が、その中へ沈んだ。


「そんな……」


初めて、声に恐怖が混じった。


サカモトは舞台へ手をつく。

だが、触れた場所まで黒い頁に変わり、指先から沈んでいく。


彼の黒い本から、何枚ものカードが飛び出した。


人物。


物。


出来事。


サカモトが物語の中で集め、効果を定め、組み上げてきたもの。


カードは宙へ舞い上がると、端から細かな文字にほどけていった。


「私のカードです」


サカモトが手を伸ばす。


「まだ調整が終わっていない。返してください。それは、私が――」


掴もうとした文字が指の間を抜け、書架の奥へ吸い込まれていく。


カードは一枚も、彼の元へ戻らなかった。


腰までが、黒い頁に沈んでいた。


サカモトは顔を上げる。


ツムギではなく、周囲に立つ者たちへ目を向けた。


トマリ。


アリア。


レイト。


そして、遅れて現れたリオ。


助けを求めているようにも見えた。


だが、何をすれば助けられるのか、誰にも分からない。


「私は、ルールどおりに――」


最後まで言葉にはならなかった。


黒い頁が閉じた。


大きな音が、メインホールに響く。

床は元の石へ戻っていた。


サカモトの姿も、黒い本も、そこにはなかった。


ただ、彼が立っていた場所に、白い紙片が一枚だけ残っている。


何も書かれていない頁だった。


それもすぐに色を失い、灰のように崩れた。


誰も声を発さなかった。


リオは、何もなくなった場所から目を離せなかった。


二連敗すれば死ぬ。


サカモトから説明を受けたとき、その言葉は聞いていた。


理解もしていたつもりだった。


だが、知っていることと、目の前で人が消えることは、まるで違った。


さっきまでここにいた人間が、跡形もなく塔に飲み込まれた。


残された身体もない。


持っていたカードさえ、物語へ回収された。


最初から存在していなかったかのように。


「何があったんですか」


ようやく出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「寝てたのか」


トマリが言った。


いつもの軽さはなかった。


リオがうなずくと、トマリは閉じた黒い本を片手に持ち、舞台へ視線を戻した。


「この前の対戦が終わったあと、新しい物語が開いた」


「新しい物語?」


「ドン・キホーテ」


答えたのはアリアだった。

サカモトが消えた場所を見たまま、言葉を続ける。


「レイト、ツムギ、サカモト、トマリ。その四人が入って、少し前に帰ってきました」


リオが眠っている間に、一つの物語が始まり、終わっていた。


どれほどの時間が経ったのか。


何が起きたのか。


尋ねたいことはいくつも浮かんだが、今はそのどれも口にできなかった。


「帰還したあと、レイトがツムギに対戦を申し込みました」


アリアが言う。


「勝ったのはレイトです」


少し離れた場所に、レイトが立っていた。


表情は変わらない。


対戦の結果にも、その後に起きたことにも、どんな感情を抱いているのか読み取れなかった。


「サカモトは、その決着を待っていた」


トマリの声が低くなる。


「負けた直後のツムギなら勝てると思ったんだろ。すぐに対戦を要求した」


リオはツムギを見る。


レイトとの対戦で頁を失い、続けてサカモトと戦った。


消耗していたのは、間違いなくツムギの方だった。


「それでも、ツムギが勝ったんですね」


「ああ」


トマリは短く答えた。


ツムギは閉じた黒い本を抱えたまま、サカモトが消えた場所を見下ろしている。


「サカモトさんは、カイとの対戦ですでに一度負けていました」


アリアが言う。


「だから、今ので二連敗です」


「分かっています」


リオは答えた。


分かっていた。


サカモト自身も、誰より分かっていたはずだ。


負ければ死ぬ。


その状況で、敗北直後のツムギを狙った。


生き残るための選択だった。


卑怯だと責める気にはなれなかった。


だからといって、納得もできなかった。


塔では、あれが間違いだったという結果だけが残る。


「これが、二連敗か」


トマリが呟いた。

黒い本を握る指に、わずかに力が入っている。


シンデレラから帰還した直後、トマリは敗北を気にしていないように見えた。


次に負けなければいい。


そう言っていた。


その「次」が何を意味するのかを、今、初めて目の前に突きつけられた。


トマリはしばらく黙っていた。


やがて、誰とも目を合わせないまま背を向ける。


「トマリ」


アリアが呼んだ。


トマリは立ち止まらなかった。


片手を上げることも、振り返ることもなく、書架の間へ消えていく。


残されたアリアは、その背中を呆然と見送った。


リオも動けなかった。


ツムギは黒い本を抱え、レイトは離れた場所に立っている。


誰も、サカモトが消えた場所へ近づこうとはしない。


それまでメインホールに七人いた。


今は、六人になった。


その事実だけが、空いた場所にはっきりと残っていた。


低い音が響いた。


最初は、塔のどこかで書架が軋んだのだと思った。

だが、音は次第に大きくなり、足元まで震わせる。


メインホール中央の床に亀裂が走った。


サカモトを飲み込んだ場所の、すぐ近くだった。


リオとアリアが同時に顔を上げる。


割れた床の下から、円形の台座がせり上がってくる。


「こんなときに……」


アリアが呟いた。


台座の上には、巨大な本が置かれていた。


焦げたように黒ずんだ表紙。


その中央には、炎に包まれた寺院の輪郭が、焼き印のように刻まれている。


本が開いた。


夜だった。


闇の中で、いくつもの松明が揺れている。


甲冑をまとった兵たちが寺を取り囲み、幾重もの鬨の声が重なっていた。


火の粉が空へ舞い上がる。


燃え広がる堂内で、一人の男が振り返った。


その姿が炎に隠れた瞬間、頁の中央に白い文字が浮かび上がる。


――本能寺の変。




第10話・終



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